小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

都会の水



ふと気がついてみると私はむしょうにトイレに行きたかった。
 ああ・・・はやくはやく・・・心持ち足早にトイレに向かう。
ところが途中で同僚Aに会う。
気さくなAは、ニコニコしながら、
 『どこ行くの~?』と声をかけてきた。
それからどんと気安く背中をたたく。
 ああ~っ。やめてくれ。刺激を与えないでくれ。
私の頬は高潮し汗をかきながら、それでも必死に笑顔を浮かべる。
 『ん~ちょっとね。』
トイレに行くなどといえば、Aは自分も行くといいかねない。

どうして女同士というのは一緒にトイレに行きたがるのだろうか?
女同士の連れションには言葉では言い表せないコミュニケーションがある。
まさに臭い仲というのか、そこで友情が深まることだってままあるのだ。
だから『一緒にトイレに行こう』という言葉は裏を返せば、
『仲良くしよう。』という隠語である事もある。
でも今の自分は女であるという事を呪わずにはいられない。
男同士の付き合いなら、
 『やべ!もよおしちまった。』
 『なんだよ。行ってこいや大か?』
 『生まれそうだぜ~げらげらげら♪』
なんて会話を恥ずかしげもなく堂々と繰り広げられるだろうに。
そう・・・このとき私のお腹は激しく暴れまわっていたのだ。

Aを振り切ってようやくトイレに着く。
トイレのドアを開けるとしめた!他に人がいない。
これで落ち着いて出せる。
私は手前の個室に入った。今時珍しく和式だ。
下っ腹に入れていた力を抜くと気持ちよく物が出て行く。
ペーパーをカラカラと巻きあげ手早くふいた。
それから水を流すレバーをおすと、汚水は綺麗に流れていった。
だが私は、もう一度レバーをおす。
いつもの癖で大のときは二度押すことにしている。
水資源の無駄遣いだろうが、そうすることでなんとなく、悪臭まではやく消えるような気がするからだ。
すると水は足元ではなく頭の上から降りそそいだ。

驚いて見上げるとなぜかそこにはシャワーが設置してある。
私はあわてて隅に逃げたが、そこは狭い個室の中。
私のスーツはあちこち濡れてしまう。
幸い黒っぽい厚手の服だから透けるような事はないが、
ぐずぐずしていれば、まるでぬれ雑巾のようないでたちになることは間違いない。
だが、不幸にも私が張り付いているのとは、ま反対にトイレのドアがある。
それにこのいつまでも止まる気配がないシャワーを、このままにしていっていいものだろうか?
個室の外には先ほどと違って何人かの人の気配がする。
そこへ服を着たままずぶぬれになった人間が躍り出れば、どんなにあきれ返られるだろう。
私の心は激しく乱れた。

前の会社から転職して、ようやく職場の雰囲気にも慣れ始めた。
同僚とも親しく(社交辞令でなく)なりつつある。
背中越しにひそひそと噂を立てられる変人扱いだけはかんべんして欲しい。
このシャワーを止められるか否かに私の職場ライフがかかっているのだ。
コネもない貧乏人の田舎出の私がやっと掴んだ職場だ。
前の会社・・・運送会社の事務とは名ばかりの肉体労働とは違う。
小さいとはいえ商社の電話受付だ。セールスレディという都会的な横文字の職種だ。

私は覚悟を決めた。
まず服を脱ぎそれを濡れないように隅の小さな棚に置く。
それから濡れるのもかまわず、和式便器をまたいで仁王立ちになる。
シャワーから出てくる水は、いつの間にか水量を増している。
下の便器はとっくに溢れていてぼこぼこと音を立てている。
トイレのドアはぴっちりしていて、外には水が漏れていないようだ。
少しずつ床に水がたまり始めた。
私はまず先ほど押したトイレのレバーを思いっきり手前に引き戻してみた。
カクカクと頼りない手ごたえばかりで、引いたレバーは手を離すととたんに、かくんとうなだれた。
その時死んだおじいちゃんの声が聞こえた気がした。
 『壊れた機械はたたけば直りおる。』
たたきはしなかったが、私はレバーを足で思いっきり踏みつけた。
レバーはがくっという感じで床から90度の位置で止まった。
ありえない角度だ。
通常は床と水平位置、押されてもせいぜい30度ぐらいしか曲がらないはずだ。
シャワーの水量はますます上がって、肌に当たるとまるで殴られるようだ。
水は私の膝に届くくらいになった。
私は必死でシャワー口を塞ごうと試みた。
駄目だ。この水圧では長くは塞げない。手首が折れそうだ。
よく見るとシャワーは別に固定されているわけでなく、フックにかかっているだけだった。

 何だ。私もつくづくあわてていたんだな。
水はもう私の腰の辺りまで来ていた。
水圧でドアがミシミシと音を立てていた。
ドアに耳を当てると話し声が聞こえた。
 『経理のH部長ってなんとなく嫌らしくない?』
 『わかるわかる・・・女子のお化粧とか嫌にチャックしていてさ~君にはオレンジの口紅の方が似合うよ。とか。』
 『セクハラ親父じゃん?』
 『もしかして、自分もしてみたいとか~。』
キャラキャラという笑い声。
それがとても遠いものに聞こえる。

私はシャワーヘッドをどうにか掴んだ。
個室は高い位置の上部は開いていて隣の個室とつながっている。
ヘッドを隣の個室に投げ込むつもりだった。
隣に人が入っていないのは気配でわかる。
私は暴れるシャワーヘッドを耳の後ろに構えた。
水は私の顔の下まで来ていて、水中で時々私の足は浮き上がった。
時々パンプスのヒールが便器に当たるたびコツコツと水中で響く。
私は思いっきり息を吸い込んだ。
 今だ!!
まさに投げようとした瞬間シャワーヘッドが吹っ飛んだ。
あまりの水圧に負け壊れてしまった。
そしてそのシャワーヘッドは見事に私の後頭部に直撃したのだった。

薄れていく意識の中、
私は冷たい水が一気に肺に流れ込んでくるのを感じた。
苦しくはなかった。
なんだかふわふわと定まらぬ意識の中。
 『これが都会の職場か。』とおもった。
都会の冷たい水の中でおぼれていきながら、
Aと友だちになれるかなと思った。

      ・・・end








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