小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

クロノス



駅の階段を小走りに駆け上がる。
何でよりにもよって、タイトなミニスカートなんて穿いてきたんだろう。
地下鉄の構内にカツカツと響き渡るヒールの音。
サラリーマンやOL、学生達の間を縫うように、肩で舵を取り競歩の速さで抜ける。
これで今月に入って何回目だったっけ。
奈津美は半泣きになりながら、自分の遅刻の回数を数えた。

奈津美は学生時代から成績優秀だった。
体も健康で性格も明るく友人も多い。
ただ、とんでもなく寝ぼすけなことが欠点だった。
それでも1年前まではましだった。
何時までも起きてこない奈津美を、あきれながらも起こしてくれる母がいたからだ。
だが、突然の事故で母が亡くなってからは、誰も奈津美を起こしてくれるものはいなくなった。

表に出ると、目の前には信号機の赤。
ここで待って渡るべきか、この先の信号まで走り抜けるべきか。
ここから会社までは、高速の下の道をほとんど一直線で徒歩20分だ。
ただ会社のあるのは道路の向こう岸。
この道は交通量が多く、なかなか信号が変わらない。
うまく渡らないとそれだけ時間のロスがあるのだ。
一瞬迷ったが、奈津美は待つ事にする。
いらいらと小刻みにヒールのかかとを鳴らす。
頭の中で数を数えだす。
その数が100を越えると、奈津美の頭は沸騰しそうになった。
なぜ?なぜ?なぜ?どうしてこんな思いをするのか?
『昨日朝までカラオケしちゃってさ~。もう眠くて・・・。』
そう笑う同僚の顔が浮かんで思わず心の中で殴りつける。
由紀子はそういいながらもきちんと定時に出勤している。
当然、遅刻だらけの奈津美より上司の受けもいい。
朝礼のたびに、訓示を垂れる上司の視線が、奈津美の上から動かない。
『時間が守れないものは、職場に対してそれだけ不利益を生む存在だ。』
同僚のひそひそ声、かすかな笑い声。
(仕事は私のほうがずっと出来る。)
奈津美はそう思った。
(やっぱりフレックス・タイムの会社に転職すべきかしら。)
そういう考えもないではない。
だがこの就職難のご時世、今の会社よりやりがいがあり、給料も良いところに勤められるだろうか。

ようやく信号が変わり、奈津美はつんのめる速さで道を渡った。
信号を渡ったところで直角に左に曲がる。
あとは真っ直ぐに行けばいいだけだ。
奈津美の足はもはや走りに近い。
高速の下は、あちらこちらに浮浪者のダンボールハウスがある。
だが、浮浪者の姿はない。
奈津美も意外に思ったのだが、彼らの朝は人が思うよりずっと早いのだ。
(私は浮浪者にもなれそうもない。)
奈津美は惨めな気分だった。
道の脇に続く花壇は花が少なく、なぜか猫の墓が並んでいる。
ここは浮浪者と捨て猫が、寄り添って生き、死んでいく道だ。
(だが私には頼るべき人がない。)
母が毎朝起こしてくれてたときは当然のように思っていた。
(21にもなって、こんなことで泣けるものか。)
走ると風が目に入りすうすうとしみた。

しばらくすると花壇に『クロの巣』と言う文字が見える。
もっこりと盛り上がった土に挿されたそれは墓標だろう。
クロという名の猫の墓なのだろう。
巣と書いたのはシャレのつもりか墓という字を間違えたのか?
いずれにせよこの墓標の前で、ようやく会社まで半分といったところだ。
奈津美は荒い息をつき、ちらりと腕時計を見る。
あと5分だ。
会社の玄関に入ってタイムカードを押すまでは階段を駆け上がって1分弱。
ああ・・・もう間に合わない。
それともぎりぎりで行けるだろうか。
奈津美は滴る汗をふきもせず、もはや見栄もなく、陸上選手のように猛ダッシュをかけようとした。
そのとたん足にがくっといういやな感じを受ける。
体が前のめりに倒れていく。
奈津美の足元から飛んだ折れたヒールが、くるくるとすごいスピードで『クロの巣』に当たった。
奈津美は目の前いっぱいにコンクリートが広がるのを感じて目を閉じた。

奈津美は何時までたっても、体が固いコンクリートに投げ出される感覚が起こらないので、おずおずと目を開いた。
『おはよう!』
奈津美の肩がぽんと叩かれる。
同僚の由紀子が目の前のタイムカードをがしゃんと押した。
『早くしないと遅れるよ~。』
由紀子はそのまま更衣室に入っていく。
奈津美は、タイムカードの時計がたっぷり1分間を回ってから、あわててカードを押し込んだ。
がちゃん!・・・間に合った。
急いで更衣室で服を着替え部署に向う。
『奈津美~今日は間に合ったね。』
由紀子が笑いかける。
『お前らいつもそうだよな。』
斉藤があきれたように言う。
『ああ~ん。もぉ~斉藤さんてば、私遅刻なんてしませんよお。』
『部長が来るちょうど1分前に、毎朝出勤するのって才能かもな。』
由紀子と斉藤のじゃれあいを見ながら、ぼんやりと奈津美は考えた。
(私はあんまり急いで走ったから、貧血でも起こしたのだろうか?
それで変な幻覚を見て?)
履いていた靴を見下ろしてみる。
ヒールは折れた気配もない。
奈津美は一日中上の空で仕事をした。

それからというもの、時々奈津美は、あの墓標の前から瞬間的に会社のタイムカードの前に移動するときがあった。
毎日というわけじゃない。
遅刻しそうですごく切羽詰ったとき、無我夢中で会社に着くことを願ったときだけそれは起きるのだ。
奈津美は遅刻をしなくなった。
奈津美は明るさを取り戻した。
仕事も今までより、ぐっとやりがいがあるように感じられるようになった。
奈津美をだらしない若いOLと嫌っていた上司も、
『最近がんばってるな。』と声をかけてくれるようになった。

奈津美は久しぶりにすっきり目覚め、余裕を持って会社に向うことができた。
私には特別な能力がある。
その気持ちが、奈津美の精神を変えたのかもしれない。
『クロの巣』の前を通りかかる。
今日は奈津美は手に花を持っていた。
もしかしたら、このお墓のおかげかもしれない。
いろいろと試してみたが、奈津美が『飛べる』のは、このお墓の前だけだった。
奈津美が慈しむように、墓標のドロをハンカチで拭き花を捧げていると、誰もいないと思っていた隣のダンボールハウスから、一人の浮浪者がのっそりと現れた。
灰色のもつれた長い髪とごましおの無精ひげに覆われた顔。
奈津美は思わずたじろいだが、
『このお墓はあなたが立てたんですか?』と丁寧に聞いてみた。
『こりゃ。クロノスだよ。』
浮浪者の息は酒臭かった。
『オレはさんざん働いて、それなのに会社からリストラだとあっさり捨てられたんだ。』
浮浪者は奈津美をじろじろと見た。
『オレはいつも時間に追われていた。ちっとものんびりする暇もなかった。
だからな。オレの時間をここに埋めちまったんだ。』
『クロノス』ってなんなのか、どういった力が働いているのかはわからないが、どうやらこの浮浪者の時間を奈津美が使っているらしい。
奈津美は浮浪者にお礼をいおうと思ったが、どう説明したらいいかわからなかった。
それにもしこの浮浪者が、自分が埋めた時間を奈津美が使っていることを知ったらどうするかもわからなかった。
奈津美は何も言わず、少し頭を下げてそのまま立ち去った。
その奈津美の後姿を浮浪者は何時までもじっと見詰めていた。

奈津美は時々『クロノス』の浮浪者に、パンの差し入れをするようになった。
といっても、直接浮浪者に渡すわけではない。
奈津美の出勤時間には、誰もいないようだし、直接会話するのも嫌だった。
出勤途中『飛ぶ』前に、ダンボールハウスの前に投げ入れておく。
帰宅途中に見ると、いつのまにかパンは消えている。
あれ以来『クロノス』の浮浪者の姿を見ることはなかった。
奈津美はなんとなく犬か猫をこっそり飼っているような気分になった。
(いや、恩人なのだからそれも失礼よね。
ご利益のある神様にお賽銭を投げ入れているのかな?)
奈津美は思わず笑いがこみ上げてきて、クックと鳩のように声を漏らした。

車のライトがフラッシュのように流れていく。
今日は少し遅くなったから、この道はちょっと怖かった。
大通りだし、道の反対には店も連なってるし。
そうは思うけど、変な猟奇な事件も起こる物騒な世の中だ。
偏見といわれようが、浮浪者の住まいが立ち並ぶ道は怖い。
でも、奈津美は今日もこの道を通って帰る。
気になっている事がある。
2~3日前から、ダンボール前のパンが置きっぱなしになっているのだ。
(引っ越したのかしら。)
奈津美が覗いてみると、そこには誰もいなかったが、丸めた毛布、ふちのかけた茶碗や柄の半分取れた鍋、古びたラジオが置きっぱなしになっていた。
(今日もパンが置きっぱなしになっているようだったら、もう置いてくるのはやめよう。)
実を言うと、パンを買うのも面倒になっている。
奈津美が『クロノス』の手前まで来ると、作業服を着た男達が、ダンボールハウスを取り壊しているのが見えた。
都の清掃員のようだ。
『ここに住んでいた人はどうしたんですか?』
奈津美は思い切って声をかけてみた。
清掃員はいぶかしげに奈津美を見た。
『あんた、知り合いかい?』
奈津美はあわてて首を振った。
(知り合い?知り合いだろうか?)
でも奈津美は浮浪者の名前すら知らない。
(それに、浮浪者の知り合いなんて・・・恥ずかしい。)
奈津美は思った。
『死んだんだよ。』
清掃員の一人が言った。
『あんまり面倒かけないおとなしい人だったな。
ここんとこ急にすごく老け込んで、まだ若かったのに老人みたいになって・・・まあこんな生活だからね。
どこか体でも悪くしてたんだろう。』
奈津美は思わず、
(時間をくれる人がいなくなったら、私はどうなるの!)
と心の中で叫んだ。
それから、そんな風に思った自分に赤面した。

それからも『クロノス』の前から、奈津美は『飛ぶ』ことができた。
心配していた分だけほっとして、なんだか腹ただしい気分で、わざとその力を使わなければいけない時間に家を出たりした。
春が過ぎ、やがて夏になった。
奈津美は最近、妙に体が疲れているのを感じていた。
『夏ばてかな。』
まだ初夏だというのに、今年の暑さは体にこたえた。
だからと言ってエアコンの効いた部屋で涼むと、すぐおなかを壊したり、夏風邪をひいたりした。
ひいた風邪はぐずぐずと何時までも治らなかった。
日に焼けた肌は乾燥し皺になり唇はひび割れた。
ある日、奈津美は自分の顔を鏡で見て愕然とした。
これではまるで老婆ではないか!
奈津美はあわてて医者を訪ねた。
奈津美の体から血を抜き、心音を聞き、さまざまな検査をした医者はいった。
『理由わかりませんが、急激な老化現象です。』
21歳の奈津美の体は60歳の体力しか残されてなかった。
奈津美は大学病院に入院する事になった。
そこでもさまざまな検査をされたが、結局原因はわからなかった。
だが、会社を休んで休養をとったのが良かったのだろうか。
奈津美の体は持ち直してきたように見えた。
かさかさの皮膚にも少し艶が戻ってきたようだ。
しばらくすると、しぼんでいた頬もふっくらと若々しく膨らんできた。
奈津美は2週間後に退院した。

しばらくぶりの会社だというのに、また遅刻をしてしまった。
奈津美はいつものごとく『クロノス』の前で『飛んだ』
そのとたん胸部に激しい痛みを覚える。
奈津美は喘ぐように空気を吸い込むと、必死で暗闇の中を飛んでいた。
闇の中でふと、あの浮浪者の姿を見たような気がした。

会社のタイムカードの前で、倒れている奈津美が発見されて、すぐに救急車が呼ばれた。
だが、奈津美は、病院にたどり着く前に息を引き取ってしまった。
『心臓麻痺です。』
医者の声に遺族は声もなく泣き崩れた。
亡くなった奈津美は、まるで80を越えた老婆のような顔をしていた。






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