小説 こにゃん日記

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人魚姫(act.2)



『美祐?』
私と少女の目が一瞬交差した。
少女の体が窓から傾ぎ、白い両腕がゆるゆると、私に向って伸ばされた。
 落ちる!
私も思わず、少女に向って腕を伸ばす。
その時、少女の肩を掴み、窓の向こうに引き戻した手があった。
『兄さん!?』
窓から一瞬覗いたのは、彫りの深い端正な、私が誰よりも懐かしく思う顔だった。

招き入れられた館の中で、兄は諦めともつかぬ、疲れたような顔で私を見た。
『それで・・・どうしたんだ?』
私は虚を突かれたような気分になった。
『どうしたって?
どうかしているのは兄さんじゃないですか!』
『ああ・・・。』
『そりゃ・・・義姉さんが亡くなってショックだったのは解ります。
でも、病院だってあんなやめ方をして・・・医局の人たちも、僕だって、どれほど心配したことか。』
『そうか・・・。』
向かい合ったソファーに、深く体を沈め、うつむいた額に手の甲を当てた兄は、私の顔を見ようとはしなかった。
私の目の前には、やや伸びた兄の白銀混じりの髪が垂れ下がる。
あれから10年もたつというのに、兄はまだ義姉の死から立ち直ってはいないのだ。
その時、私の中に生まれた感情は、兄に対する憎しみだった。
それほどショックだったのか?
義姉の死が、あの女の死が?

『美祐は・・・。』
私がその名を口にすると、兄の肩がびくりと揺れた。
『美祐は、大きくなりましたね。
さっき見かけて驚きました。
まるで義姉さんそっくりだ。』
実際はちらりと見ただけだし、義姉に似ているかなんて解らなかった。
兄は初めて顔を上げた。
『そうか、あれに似ているのか。』
少し呆然としたようなつぶやき。
『まあ。霧の中だから、はっきり見えたわけじゃないですが・・・。』
『あれに会いたいのか?』
私の言葉を遮るように、兄は立ち上がった。
『え・・・。』
私は美祐に会いたいなんて思ったことはない。
別れたときは5歳の幼女だったし。
私はもともと子供は嫌いだった。

兄は唐突にドアを開けた。
すると、そこにいたのは車椅子の少女。
『また覗いていたのか。』
兄の言葉のきつい調子に、私は思わず眉をひそめた。
だが少女は気にした様子も、心を動かされた様子もなく、まるで自動人形のように、無表情に父親を押しのけて私の前に進み出た。
その時私が感じた落ち着かない気分は、障害者を目の前にした健常人の後ろめたさだろうか?
それとも、久しぶりに姪に会った世間の叔父というものは、みんなこんな気分を持つものだろうか?
あるいは、少女の持つ雰囲気が、私にある不安を感じさせたのか。

私は絡む喉から、出来るだけ自然な調子で声を出した。
『やあ。美祐ちゃん。
僕のこと誰だか解る?』
覚えているわけはない。
最後にあったのは、まだ美祐が5歳のときだ。
だが美祐は、こくりと頷くではないか。
『ふ~ん。物覚えがいいんだね。』
美祐は、ふるふると頭を振る。
『写真を見たんだ。』
兄が苦笑いをしながら私に言った。
『兄さん。僕の写真持ってたんだ。』
私はじわりと心が緩むのを感じた。
『全部。何もかも置きざりにして、いっちゃったんだと思ってた。』
私の口調が自分でもおかしいほど、10年前のあの頃に戻っていた。

親子ほど年の離れた兄。
幼い頃に両親を失った私にとっては、親であり、尊敬する師でもあり、誰よりも優れた憧れの存在だった。
『貴方って救いようのないブラコンね。』
当時のガールフレンドに、ため息と共に何度となく言われた言葉。
マザコンだのシスコンならともかく、自分の兄貴を尊敬して何が悪い。
私は開き直って、何時までも兄貴離れをしなかった。
兄も、そんな私を甘やかしてくれた。
他人には興味のない兄が、私にだけは心を開いてくれる。
そんな優越感も私にはあった。
だから、突然兄が、婚約者を家に連れてきたときは、私は愚かしい、子供っぽい独占欲に駆られたのだった。
もちろん表面上は、私は気の優しい優等生の仮面を身につけ、兄の婚約者に対峙したけれど。

隙なく、ブランドのスーツを身に纏った彼女は、都会的で垢抜けて、美しく俗物だった。
将来の教授の妻にふさわしい女。
『初めまして祐樹さん。』
『祐樹。こちらは美弥さんだ。
神無月教授のお嬢さんだよ。』
美弥と呼ばれた女は、微笑みながらも兄を軽く睨み付ける。
『いやだわそんな紹介の仕方なんて。
上司の娘じゃなくって、ちゃんと貴方の婚約者として紹介して欲しいわ。』
兄の僅かに上気した顔。
そのあと、私は美弥に、学校の成績の事だとか、将来の進路の事だとか、付き合っている女の子の事とか、根掘り葉掘り聞かれた気がする。
『祐樹さんがしっかりしていて安心したわ。
お兄さんが心配することなんて全然ないじゃない。
貴方もいい加減、弟離れしなきゃね。
祐樹さんに、呆れられてしまうわよ。』
それは暗に、兄と美弥の築く家庭から、私を締め出す言葉であり、もはや兄は自分の所有物であるという宣言のように聞こえた。

ひんやりとした手が、そっと私の手を取り、私は、はっと過去の幻想から解き放たれた。
美祐の手が私に触れていた。
私は改めて美祐の顔を見た。
義姉に似ているなんて、私もよく言ったものだ。
いかにも現代的な都会の女だった義姉。
美祐は古風な、それでいて、どこか異国の血でも混じっているような、不思議な風貌をしていた。
義姉にも、そして兄にすら似ていない。
黒々とした艶のある大きな瞳。
血のように赤い唇。
白い小さな顔は人形のようだった。
その美しさも、その血の通わぬ陶器のような冷たさも。
私は義姉に似ていないことで、なんとなく美祐の存在に親しみを覚えた。
『美祐ちゃんは、恥ずかしがりやなのかな?
さっきから何にもしゃべらないね。』
『その子は、言葉をしゃべれない。』
兄の言った意味を理解しかねて、私はただ、馬鹿のように少女に微笑みかけていた。


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