小説 こにゃん日記

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人魚姫(act.4)



しっとりと濡れて、びろうどのような感触の草を踏んで庭に出る。
その上を、美祐は器用に、車椅子を漕いで行く。
私は後ろから追いつくと、後ろからぎごちなく押してやった。
中庭からぐるりと回りこむようにして、館の端まで歩く。
その下は、えぐれたように切り立つ崖になっているはずだ。
美祐はその崖に車輪を向けた。
月が明るいとはいえ、灯もないのに危ないとも思ったが、美祐があまりにも自信ありげに、物慣れた様子で向うので、私は止める言葉もかけぬまま、なんだか夢の中を進むかのように美祐に付き従った。

美祐は突然前のめりになり、バッタリと車椅子から転げ落ちた。
私の心臓は、止まったに違いない。
なぜなら、美祐が崖下に落ちると一瞬思ったからだ。
あわてて、助けおこそうとして気がついた。
美祐は、腹ばいになるようにして、崖の下をまさぐっている。
何をしているんだ?
私も、そろそろと暗闇の中を覗き込んだ。
真っ暗な空間に体が吸い込まれてしまいそうだ。
よく見ると、崖に沿って階段が掘られているのが見えた。
目を凝らすと、どうやら下に向って長く長く続いているらしい。
まさか、海まで続いているわけじゃないよな?
私は車でここまで上がって来た距離を考えた。

美祐は、半身だけひねるようにして起き上がると、私のほうへ手を差し伸べた。
私は、その腕の下を潜らせるようにして、美祐を抱き上げようとした。
だが美祐は、いやいやをするように、握り締めた両手で私の腕を払うのだ。
『どうしたの?どこか痛くしたのかい?』
美祐の白い両手が、ふわりと、花のように私の目の前でほころびた。
そこには、つやつやと光る。
あるいは緻密な彫刻のような、さまざまな種類の貝殻があった。

月虹貝、玉響貝、水雲貝。
白桃貝、結晶貝、砂白貝。

『こんなところに宝物を隠しているの?風に飛ばされてしまうよ。』
美祐は、まじめな顔をして、ふるふると首をふる。
そして、美祐は崖のほうを振り向き、私の目の前で、またあの不思議な音楽を歌いだしたのだ。

高く澄んで鳥のように、あるいは低く唸る海鳴りのように。
ぼんやりと光る霧の中に、美祐の歌が波紋のように広がっていく。
美祐は暗い闇の底に向って歌っている。

 ざっぱああぁん!

私は激しく飛沫を上げる波音を聞いたように思った。
周りに漂う霧が、密度を増し、潮の様に大きく押し寄せる。
キラキラと光をはらんではじける飛沫。
私はいつの間にか海の只中にいた。
あたり一面水の世界だ。

美祐!美祐は?!
私は自分の起こったことの不条理さに戸惑うよりも、手の触れるほどの位置にいた美祐の姿を捜し求めるのに必死だった。
私がいるのはこれは水中か?
息は苦しくないが、ゆらゆらと、ただ私は漂うばかりだ。
『コッチヨ』
私は誰かの声を聞いた気がした。
美祐?美祐なのか?

すいと身軽に私の前に現れた少女。
私の手を取った少女。
それは美祐とは違う。
それでいて、どこか懐かしい顔をした人魚だった。


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