2007.5.11. 神奈川への想い。




ネットから遠ざかって・・早1週間が経ちました。
沢山書きたい事があった様な・・・
思い返して久しぶりに紙に書いてみました。(、、ら、漢字が出て来ない(汗)でした。)




5月11日 金曜日。
待っていた日の朝を眠れないまま迎えました。
この数日、あまり眠れませんでした。

行きの飛行機は、千葉上空あたりから物凄い揺れ。
数十分がとても長く感じられました。
駅に着くと、:強風の為、運行に遅れがありました:と書かれた張り紙がしてありました。
風が強かったのですね。

まずはホテルに荷物を置き、自由が丘まで行きました。
そこで、昼食。
なかなか美味しいパスタを食べました。
・・・これから逢いに行くのに、、ニンニクがぁ!でしたが(汗)
だんな様とぷらぷら歩き周ったけど、、意外と見たい、入りたいお店も無く、、
時間を潰すには持て余しました。
あまり早く行っても・・と、、私の気持ちが落ち着くのを黙って待っていてくれた様です。

そこから武蔵小杉まで。。
若かりし頃、主人が住んでいたところです。
私の気持ちを察して、すぐにはバスに乗らず、一度駅前でティータイム。
過呼吸になるのでは?と、思うくらいため息ばかり。。

いざ!電話をして「これから向かいます。」と、バスに乗りました。
バスの中でもため息ばかりの私を横で笑ってました。

バス停に母が迎えに来ていました。
バスの中から、ひと目で「この人だ!」と思いました。
43年ぶり?・・?・・最後に私を見て40年?
長い長い時を経て、巡り会うことが出来ました。

育ての母が亡くなり、3回忌が過ぎた頃から探していました。
どんな親だろうが、育てて貰ったには変わりなく、、会うのは悪いと思っていました。

生後9ヶ月の私を置いて出て行った母・・。
3歳の時に離婚が成立して、私は今の両親の養女になった様です。
実の父のことは多くは語りません。
結婚、離婚、不倫を繰り返し、定職も持たない・・父の弟。
この先、会う機会があっても、この人が父親じゃ無くて良かったと思う人です。

色々な経緯は書き留めませんが、、
母は最後に私に会いに来て、何も覚えていない私に・・諦めの気持ちで函館を離れたそうです。
そして、今のご主人とめぐり合い再婚。
妹が出来ました。
神奈川には住んでいないので、今回は会えませんでしたが、いつか会いに行きます。


思うことは・・・
母の暮らしが、普通よりも、やや裕福で、
一戸建ての竹林のある高台の家に住み、きちんとした生活をしていてくれたことが・・良かった。。
言ってる意味は・・(自分がわかれば、それでいいです。)

ご主人には、結婚する時に置いて来た娘がいること・・話したそうです。
ずっと胸が張り、乳を絞って・・辛かったと、、話していたそうです。

思っていた以上に、ご主人が気を遣って下さったことに感謝します。
家に着いた時も、玄関から覗き出て待っていてくれたことが嬉しかったです。
自分の家に帰って来る気持ちで、いつでも来る様に言って下さいました。

そして・・
「本当に、この人のことを恨んでいないのか?」と聞かれました。
私は不思議なことに、育ての親に育ててやった、と言われて暮らして来たのに、、
恨む。ということばは一度も浮かんだことがありませんでした。
「多分、育てのご両親に良くして貰っていたんだろう。」と言われました。
確かに・・父は、幼い頃は猫っ可愛がりな人でした。
思春期になるまでは、、そうだったと思います。
母は、全くと言っていいほど、母性というものの無い人でした。
父とは逆に大人に近づくに連れ、女同士という関係になって行った様な気がします。




我が家は、私の他にも9歳上の従姉が両親と離れ一緒に暮らしていました。
可哀相な子だと思い、私を扱っていたと大人になってから聞きました。
祖父母には、孫には変わりないので普通に可愛がって貰っていたと思います。


生みの母と、私。
性格が似ていました。
気が強い割りに・・すぐ、ぺちゃぺちゃとなる弱虫で・・
母がなかなか台所へ行ったり来たりで席に着かず、
台所から出て来ず、、そんな行動を見ていてだんな様が「そっくりだ。」と・・
そう、感じたそう。実際、私も思いました。

みんなが想像する様な、抱き合って涙、涙の対面では有りませんでした。
テレビの様な感じは無く、
淡々と時が流れて行きました。

何が好きかわからないから・・と、沢山のご馳走を用意していてくれました。
今まで何にもしてやれなくて・ごめんね。と。
胸がいっぱいであまり食べられなく(帰りにラーメン食べてホテルに帰ったくらい。。)

私は、今。自分は幸せだということを伝えました。

半身不随になった育ての母に付き添う為に、自分で働いて行った学校も辞めて帰って来た時・・
(自分が親になって、思うことは・・落ち着いたら学校に戻るように言うだろうなぁ。とか。)
20歳そこそこで下の世話をして、ずっと病院に寝袋で寝泊りしていた時・・
ある程度良くなって家で生活出来る様になり、電車でストーブを付けに通った時・・
そんな矢先に、今度は父が大手術。
家から実家。病院へと通った日々・・娘たちに寂しい想いをさせてしまった時・・
離婚して、いつになったら面倒看に帰って来るんだと言われた時・・
他にも、沢山のあんな時、こんな時が・・未だに続いてはいるけれど。。
それは、だんな様や娘達が支えてくれて、、わかってくれてるから、、話す必要も無く。。

とにかく~、今はだんな様や娘達に恵まれて、幸せだと伝えました。

幸せって・・誰かから見て幸せそう・・では無く、、
自分が幸せって思ってるといいんだって思います。
相手に不平不満を言っていては逃げて行ってしまう・・かな。。

これからの自分も幸せだと感じながら暮らして行けたらいいな。
何も無く、過ごして来られたならば・・尚更いいでしょうね。
ま、色々な事があってこそ、人生だわん。




恨んでなんか無いよ。
あなたが幸せに暮らしていてくれたこと。良かったと思います。
そして、生んでくれたことに、感謝しています。

帰り際、、あまりにご主人がしつこく言うので(笑)
母を抱きしめました。
涙が出ました。ね。やっぱり;;

帰り道、バス停までご主人が送って下さいました。
バスが来るまでの間、3人で暫く話しました。
ずっと悔やんで生きて来た母が、きっと今夜はぐっすりと眠れるだろう。と。
いつでも泊まりに来る様に何度も、何度も言われました。
あの人の娘ということは、僕の娘でも有る、と・・。
良い人で、本当に良かった。
結局、バスは来ず・・寒い夜の中、タクシーが来るまで体が冷えてしまいました。


こっそりと、帰り際、母から指輪を貰いました。
大切に使おうと思っています。

空白を埋めることは無理だけれど、少しずつ、、少しでも歩み寄って行ければいい。
会いたくなったら会いに来ればいいと、方向音痴な私に
一生懸命、道順を教えるだんな様。
それもまたあり難かったです。
口は悪いけど(一生慣れないと言いつつ・・)本当は優しい人なのでしょう。

娘達にも、私が土日留守をすると実家の父のところへ食事を届けに行って貰わなければなりません。
それでも「ママ。いつでも行っておいで。」と、ライブにも行かせて貰っています。
家族の愛に沢山支えられて生きていると感じられた日々でした。

幸せなんでしょう。ね。・・色々有るけれど・・。





帰って来て電話をすると、
何やら孫達に上げたいものがあると。
大きなダンボールにぎっしりとバックやアクセサリーが入っていました。
そして、私には母がしていた指輪とパールのネックレスが入っていました。
使って欲しい。と。・・また、今まで何にもしてやれなかったから・・と・・
発泡スチロールにはお野菜が。
だんな様が好きだ、美味しいと食べたササゲ。
私が美味しいと言って食べた竹の子や山菜がぎっしり入っていました。


また、逢いに行きます。
少しずつ、距離が埋まればいい。
もう、年だから・・って。言うけれど・・。


母は、私や主人が想像していた以上に若々しく綺麗な人でした。
妹も私の存在はずっと聞かされていた様で、会える日を楽しみにしていてくれます。
ひとりっ子の私に妹・・会える日を楽しみにしています。
実の父の方には弟も妹もいるんだけど・・いとこ以上他人未満。もう20年以上会っていません。
弟とは仲良しな従弟同士でした。
でも、父親が許せず東京に行ったきり、どこにいるのかもわかりません。
私の結婚式にも父親と会うのが嫌だと出席してくれませんでした。


いつか、わかり合える日が来ればいい。寂しいけど。。




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