古代のロマンをたずねてpart.2

古代のロマンをたずねてpart.2

交野天神社(樟葉の宮)





交野天神社は、継体天皇(25代天皇武烈天皇で皇統が断絶しそうになり、ものすごく遠縁であるが越前から迎えられ天皇となった)が即位した樟葉宮があったとされる伝承地です。



交野天神社



樟葉宮の名は『日本書紀』にはありますが、『古事記』にはないようです。



特に跡が発見されたわけではなく樟葉宮の存在は全く伝承の域を出ませんが、現在交野天神社境内の東北にある貴船神社(祭神 高おかみ神)の建っているところが宮跡と伝えられています。



樟葉の宮




継体天皇というのは大変興味深い天皇です。
普通は天皇というのは父からとか兄からなどから引き継ぐことが多いのですが、この継体天皇は応神天皇の5世の孫(孫のひ孫)という遠さです。



先の25代武烈(ぶれつ)大王には子どもがなく、お世継ぎをどうするかが問題となったのでした。



そこで、大和の重鎮である大伴金村大連(おおとものかなむらおおむらじ)や物部麁鹿火大連(もののべのあらかいおおむらじ)や許勢男人大臣(こせのおひとおおおみ)らが協議をはりました。



最初は丹波国の倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したのですが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまいました。



というのも、当時は天皇を継ぐために肉親同士で血で血を洗うような殺し合いがあったので、天皇の候補になっただけで殺されてしまうなどということもよくあったようだからです。



そこで、「ご子孫を調べ選んでみると賢者は男大迹王だけらしい」となり、標しの旗と御輿(みこし)を備え越の国の三国へお迎えを出したのでした。


男大迹王が即位できた理由の一つに、国内に様々なネットワークを有していたことが挙げられるでしょう。


伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた大豪族・尾張連草香(おわりのむらじくさか)からは目子(めのこ)媛をめとっています。


また、軍事用の馬を飼った集団で牧(牧場)を抱えた豪族であり、当時、軍事関係の最先端にいたといわれる河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)にもつながりがあり、有力な情報を得ていたといいます。


 また、『日本書紀』によると58歳というかなり高齢の即位ということになりますが、、勾(まがりの)大兄(おおえ)皇子(後の安閑(あんかん)大王)、桧隈高田(ひのくまのたかた)皇子(後の宣化(せんか)大王)と二人の息子たちが40歳を過ぎた年齢となっており、後継ぎとして頼もしい存在になっていたことも理由の一つであったのではともいわれています。


継体天皇はある意味、時代の変わり目の天皇であったのかもしれませんね。


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