全291件 (291件中 201-250件目)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 講道館柔道を興す。東京高等師範学校長。明治の末に、天神山に別荘を構える。甥の柳宗悦(やなぎむねよし)を我孫子へ招く。IOC委員となり、1940(昭和15)年開催のオリンピックを東京に誘致するが、戦争で中止。白山に嘉納後楽農園を開く。 講道館柔道の創始者であり、教育者でもあった嘉納治五郎が1911〈明治44)年に設けた別荘跡地です。 嘉納は、我孫子に甥の柳宗悦を招き、それによって我孫子には文人たちが集うようになりました。 また、白山一丁目付近に広大な土地を購入し、嘉納後楽農園を開きました。
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 子の神大黒天への入口。 寛政元(1789)年建立。子の神大黒天の参道「子の神道」の分岐点を示す。※ 子ノ神道標(従是子神道)
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 江戸時代、小熊家は我孫子宿の問屋兼名主。1831(天保2)年建築で茅葺屋根の母屋。1665(寛文5)年以来の我孫子宿の人別帳、年貢などの古文書を保存。湖畔吟社の句会会場だった。敷地内は非公開。
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 県公式HPより 我孫子市寿1丁目、旧水戸街道沿いに我孫子本陣跡の碑がある。また近くに茅葺き屋敷の脇本陣跡(非公開)がある。 江戸時代に整備された街道のうち、江戸と水戸を繋ぐ水戸街道の宿場の一つとして我孫子は大変栄えました。宿場には一般の旅行者が泊まる旅籠や位の高い武士が泊まる本陣などが立ち並んでいました。
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 柔道家で教育者の嘉納治五郎は1911(明治44)年に我孫子市緑に別荘を設けた。理想の学園を作る構想を持ち、白山1丁目付近に大規模な土地を取得するが、学園の設置はうまくいかず、その場所に嘉納後楽農園と呼ばれる農園を作った。 1938(昭和13)年嘉納の死後農園は売却されますが、後にこの場所が我孫子の初期の分譲住宅地になり、多くの人が我孫子に移り住みました。〈嘉納後楽農園跡:千葉県我孫子市白山〉
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 飯泉喜雄氏は「鉄道なくして町の発展無し」と信じ駅誘致に奔走資材を投じて駅用地を無償提供し明治29年我孫子駅開設に成功した。 さらに我孫子町千葉県議会議員をつとめ地域の発展に尽力した。 以来この町は成田線の開通生糸工場進出白樺派文人の往来など発展の道をたどる。氏は激務と心労のため38歳で病没した。 私たちは氏の先見の明と奉仕の精神に満腔の謝意を捧げ今こそ町を愛する精神を奮い起こそう。 平成15年5月 飯泉喜雄顕彰碑建設の会 協力者 壱千参百余名 日本鉄道会社に我孫子駅用地を無償提供して土浦線(現JR常磐線)を誘致した。明治29(1896)年12月開通。 この顕彰碑は開通時に投入された蒸気機関車6600型を模した。※ けやきプラザ※ 手賀沼方面※ 取手方面※ 柏方面
2019年12月21日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】 安産の仏様
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】※ 旧増林村の煉瓦工場のレンガ
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】 旧葛飾郡 松伏領 川藤村・新方領増森村
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】 旧葛飾郡 松伏領 川藤村
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】 昔の国境(武蔵国と下総国)になっていました。 旧埼玉郡新方領増森村と旧葛飾郡二郷半領須賀村 そういえば、子どもの頃は、竹林があって、自転車で通っていました。※ せきの渡し跡・古利根川の跡※ 対岸※ 古利根川の跡
2019年12月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月30日(土)】※ 旧水戸佐倉道石標※ 右 旧水戸佐倉道、左 旧日光街道※ 旧水戸佐倉道※ 旧日光街道
2019年11月30日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月30日(土)】 ※ 旧日光街道(宿場町通り)〈旧日光街道(宿場町通り):東京都足立区千住〉
2019年11月30日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月30日(土)】 ※ 公式HPより 千住四丁目の元地漉紙問屋横山家 宿場町として賑わった千住には、日光街道沿いに多くの商家が建ち並んでいました。また、江戸時代に門前町が形成された西新井大師総持寺近辺や、大正期にバス路線が通じた本木新道などにも商店が多くできました。 中でも、漉返紙の問屋であった横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は江戸時代の代表的な商家建築です。商家の店先は街道に面し、土間と帳場(ミセ)が商売の場所となります。土間は荷物の置き場になり、帳場は接客をする場所となります。帳場の奥は家族や従業員の住居、商品や生活用具を保存する蔵の出入口に続いています。敷地は街道に面する間口に対して奥行きが長くなっています。屋敷の裏手が、貸家や町人の住居となっていました。※ 足立区登録有形民俗文化財 横山家住宅〈足立区登録有形民俗文化財 横山家住宅:東京都足立区千住〉
2019年11月30日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月30日(土)】 皇居近くの大手町、内堀通りで発見。※ 東京市内最初の並木
2019年11月30日
コメント(0)
【参拝日:2019(令和元)年11月30日(土)】 ※ 東京都指定旧跡 将門首塚〈東京都指定旧跡 将門首塚:東京都千代田区大手町1-2-1〉
2019年11月30日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月30日(土)】 ※ 公式HPより 千住宿本陣、市郎兵衛の屋敷跡地は、旧道三丁目の南西側角地である。そこにこの標石が立てられている。 宿泊施設には、本陣・脇本陣・平旅小屋(ひらはたごや)・食売旅籠屋(めしうりはたごや)等の区別があった。それぞれ格式が異なり、宿泊客にも相違がみられ、中でも本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していた。 千住宿の本陣は、初期は二軒あった。享保19年(1734)の宿内伝馬図によると、三丁目市郎兵衛と四丁目嘉左衛門に本陣の肩書がある。しかし、四丁目分はいつか消滅し、今日記録に残っているのは、市郎兵衛一軒だけである。 市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物であった。 市郎兵衛は、千住・草加・越谷・粕壁(春日部)・杉戸の五宿本陣の総代を勤めたといわれている。※ 千住宿本陣跡〈千住宿本陣跡:東京都足立区千住3-33〉
2019年11月30日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年11月16日(土)】※ 市公式HPより 三河屋本店は、明治33年創業の酒店で、現在の建物は昭和2年に建てられました。伝統的な出桁(だしげた)造りの店構えは、若宮大路の沿道でひときわ目を引く存在です。敷地の奥にある蔵や商品の運搬に使うトロッコなど、昔ながらの商文化が大切にまもられています。 三河屋本店は、鎌倉の戦前の商店建築を代表するものとして貴重な建物です。※ 鎌倉ビール(3本箱入り)(1,850円)〈三河屋本店:神奈川県鎌倉市雪ノ下1-9-23〉
2019年11月16日
コメント(0)
【撮影日:2019(令和元)年10月19日(土)】 むかしの小学校の鐘
2019年10月19日
コメント(0)
【見た日:2019(令和元)年9月15日(日)】※ 記念物100年展〈越谷市立図書館:埼玉県越谷市東越谷4-9-1〉
2019年09月15日
コメント(0)
【見た日:2019(令和元)年8月31日(土)】※ 草加町元標※ 旧日光街道※ 草加宿の路地※ 草加町道路元標〈草加町元標:埼玉県草加市住吉〉
2019年08月31日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年8月27日(火)】※ 市公式HPより 縄文時代中期後半から晩期中ごろ(およそ4000年前から3000年前)にかけての土器片や石器、住居跡などが発見されました。 貝塚の形態は南関東地方に良く見られる馬蹄形貝塚の典型例です。現在は史跡公園になっていて、周辺の住宅地はこの貝塚の名前を使い「山崎貝塚町」という地名になっています。 昭和51年に国の『史跡』として指定されました。〈史跡 山崎貝塚:千葉県野田市山崎貝塚町26-4ほか〉
2019年08月27日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年8月18日(日)】※ 越谷市文化財講演会「東武鉄道開業120周年記念『東武鉄道と越谷』〈越谷市北部市民会館:埼玉県越谷市恩間181番地1〉
2019年08月18日
コメント(0)
【参拝日:2019(令和元)年7月29日(月)】〈亀戸香取神社:東京都江東区亀戸3-57-22〉
2019年07月29日
コメント(0)
【拝受日:2019(令和元)年7月7日(日)】「鬼門守護」とあるのは「つなぎの龍」の彫刻が社殿の鬼門(北東)の方角を守っているとのこと。早速職場の鬼門に掛けて魔除けにしました。※ つなぎの龍(左甚五郎作) その昔、秩父観音霊場札所十五番である少林寺の近くの天ヶ池に住みついた龍があばれた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができていたことから、この彫り物の龍を鎖で繋ぎ止めたところ、その後、龍は現れなくなったという不思議な伝説が伝わっています。この彫刻こそ、伝説に語られた「つなぎの龍」の姿です。つなぎの龍の彫刻も、名工 左甚五郎が社殿彫刻に施したものと思われます。
2019年07月07日
コメント(0)
【訪問日 2019(令和元)年6月29日(土)】※ 日光道中 粕壁宿 脇本陣
2019年06月29日
コメント(0)
【訪問日 2019(令和元)年6月29日(土)】 ※ 春日部市郷土資料館記念講演会「春日部の史跡と考古資料」〈春日部市郷土資料館:埼玉県春日部市粕壁東3-2-15(教育センター内1階)〉
2019年06月29日
コメント(0)
【訪問日 2019(令和元)年6月27日(木)】※ 公式HPより 1903年(明治36年)、ライト兄弟が「フライヤー1号」で世界最初の動力飛行に成功し、以降欧米における航空技術は急速に実用化され始めました。わが国でもこの動きに刺激されて、航空技術を研究するための臨時軍用気球研究会が1909年(明治42年)7月に創設されました。研究会の最初の事業は、飛行場用地を選定することであり、候補地として所沢、大田原、宇都宮付近、小田原、下志津原が選考の対象地となりました。当時、気球隊が駐屯していた東京府中野町から鉄道の便が良かったこと、地形や気候が気球に適していたことの理由により、所沢が選定されました。 1911年(明治44年)4月1日、臨時軍用気球研究会所沢試験場が開設され、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と格納庫、気象観測所を備えたわが国最初の飛行場が誕生しました。当初は「アンリ・ファルマン」「ハンス・グラーデ」「ブレリオ」「ライト」の4機が備えられているだけでした。 同年4月5日から15日まで所沢飛行場最初の演習飛行が行われ、演習初日の早朝、徳川好敏陸軍大尉の操縦するアンリ・ファルマン機が高度10メートル、飛行距離800メートル、飛行時間1分20秒を記録し、これがわが国最初の飛行場での初飛行となりました。 その後、新しい飛行記録が次々と誕生しました。また、日本最初の国産軍用機である「会式一号機」をはじめ初期の飛行機や飛行船の製作、当時のパイロットの訓練等全て所沢飛行場で行われ、1945年(昭和20年)の終戦を迎えるまで、所沢は日本の航空技術の発達に多大の貢献を果たしました。 この歴史的な経緯により所沢は「日本の航空発祥の地」と言われています。 終戦後、飛行場は米軍の占領下にありましたが、住民の強い返還運動により1982年(昭和57年)までに基地の約7割が返還されました。一方、所沢を航空発祥の地として永く後世に伝えるため、航空資料の調査収集も始まり、1990年(平成2年)11月、埼玉県立の所沢航空発祥記念館の建設に着手、1993年(平成5年)4月3日、開館を迎えました。 現在、飛行場跡は「県営所沢航空記念公園」として開放され、航空をテーマとした博物館である当記念館は、公園のシンボル的施設として地域の方々を含め来館者に広く親しまれています。〈県営所沢航空記念公園:埼玉県所沢市並木1-13〉
2019年06月27日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年5月15日(水)】 門扉には上野戦争の際の弾痕が今でも残っています。※ 重要文化財 東叡山輪王寺 旧本坊表門(通称 黒門)〈東叡山輪王寺:東京都台東区上野公園14-5〉
2019年05月15日
コメント(0)
【訪問日:2019(令和元)年5月5日(日・子供の日)】 昔のメインストリートだったらしい。※ 旧国道51号
2019年05月05日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年4月23日(火)】※ 火の玉不動(左)とお女郎地蔵(右)〈火の玉不動とお女郎地蔵:埼玉県さいたま市大宮区北袋〉
2019年04月23日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年4月23日(火)】※ 三菱鉱業株式会社 工業研究所 門柱〈三菱鉱業株式会社 工業研究所 門柱:埼玉県さいたま市大宮区北袋1丁目〉
2019年04月23日
コメント(0)
【参拝日:2019(平成31)年4月6日(土)】 うちの自治会館にある石仏です。※ 石仏
2019年04月06日
コメント(0)
【参拝日:2019(平成31)年4月6日(土)】 うちの自治会館にある観音様です。※ 観音様
2019年04月06日
コメント(0)
【見た日:2019(平成31)年3月24日(日)】※ 日支事変二周年記念碑(威風四海)〈日支事変二周年記念碑(威風四海):埼玉県越谷市大沢四丁目〉
2019年03月24日
コメント(0)
【参拝日:2019(平成31)年3月24日(日)】※ 南 こしがや※ 北 のじま いわつき※ 東 志めきり まくり かすかべ〈越ヶ谷天嶽寺:埼玉県越谷市越ヶ谷2549〉
2019年03月24日
コメント(0)
【参加日:2019(平成31)年3月16日(土)】
2019年03月16日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年3月12日(火)】
2019年03月12日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年3月11日(月)】※ 越谷市指定 天然記念物 有瀧家のタブノキ〈越谷市指定 天然記念物 有瀧家のタブノキ:埼玉県越谷市中町8-26〉
2019年03月11日
コメント(0)
【見た日:2019(平成31)年3月2日(土)】※ 公式HPより 世界平和を訴えようと市民が一丸となって働きかけ、1996年世界遺産への登録が実現しました。原爆や戦争の悲惨さ、平和の尊さを学ぶために原爆ドームや周辺の慰霊碑、記念館などを観賞してみましょう。 〈原爆ドーム:広島県広島市中区大手町 1-10〉
2019年03月02日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年2月2日(土)】 日本初の電動式エレベーターがあり、「浅草十二階」「十二階」と呼ばれていました。※ このへんかなぁ
2019年02月02日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月14日(祝・月)】※ 不動明王像付き道標※ これより大相模の不動道※ 庚申塔〈石仏:埼玉県越谷市蒲生1-5-1路傍〉
2019年01月14日
コメント(0)
【訪問日:2019(平成31)年1月14日(祝・月)】※ 越谷市公式HPより 蒲生一丁目のもとの日光街道(現在の蒲生茶屋通り)のわきに、鳥のようなかっぱのような、なんとも不思議な形の石の塔が建っています。この地いきの人はこれを「ぎょうだいさま」とよび、わしの神様だと言っています。 さて、なぜこのような不思議なものが建てられたのでしょうか。 これができたのは、今から250年ほど前の江戸時代の宝暦7年(1757年)のことです。これには、「砂利道供養(じゃりみちくよう)」ときざまれていて、この年に、もとの日光街道の大きな修理があり、修理の完成を記念して蒲生の人びとが建てたものでした。そして、道を歩く村びとや旅びとの道中安全(旅の安全)を願って“わらじ”を供えてお祈りしたといいます。 () d 道中安全を願う心が、なにか人間にはない力を持っているものとして「ぎょうだいさま」をつくりあげたのでしょうか。「ぎょうだいさま」は今日も、道ゆく人びとを静に見守っています。〈ぎょうだいさま:埼玉県越谷市蒲生一丁目 旧日光街道(現在の蒲生茶屋通り)〉
2019年01月14日
コメント(0)
【参拝日:2019(平成31)年1月2日(水)】 我が家の敷地内にあります。 明治44年建立。 七福神の弁財天?※ 弁財天 七福神の中で、唯一の女神で、元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となった。 日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた。その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神へとなった。 知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれている。
2019年01月02日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年12月18日(火)】〈大川戸 八幡神社:埼玉県松伏町大川戸2517〉
2018年12月18日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年12月9日(日)】 たぶん、このあたり※ 堂山貝塚〈堂山貝塚:千葉県野田市谷津〉
2018年12月09日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年12月8日(土)】 河畔砂丘と自然堤防だった東越谷砂丘(東福寺境内) 市内で最も標高が高いです(9.7m)〈東越谷砂丘:埼玉県越谷市東越谷1-12-21 東福寺境内〉
2018年12月08日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年11月24日(土)】※ 公式HPより 江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番において警固させました。江戸の入り口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまででした。第一京浜の線路側に石垣が残されています。伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。寛政12(1800)4月19日55歳の時。地図は忠敬が74歳で死んだ3年後、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。この地図を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放となったのがシーボルトです。
2018年11月24日
コメント(0)
【訪問日:2018(平成30)年11月24日(土)】※ 公式HPより 赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。 現在も曹渓寺に眠っています。泉岳寺にある間新六の供養簿は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。また、いわゆる47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります(明和4年(1767年)9月建立)したがって泉岳寺の墓碑は48あります。 ※ 大石良雄(内蔵助)墓※ 大石良金(主税)墓
2018年11月24日
コメント(0)
全291件 (291件中 201-250件目)