全30件 (30件中 1-30件目)
1
(チュウ) 心無いコメントは断りなく削除しますので、ご注意を。<離婚調停の実態> 「宣戦布告」はしたものの、私に当てがあるわけではなかった。飛び込みで裁判所近くの法律事務所を訪ねてみたが、法外の弁護士料金に驚いた。「日本弁護士協会」の協定料金によれば、先ず手付金が50万円。弁護料金が350万円から500万円。そして成功報酬が事件の額に応じて決まるとのこと。離婚の調停は「事件」なのだ。私は対応した若い弁護士に言った。「それでは老後の生活が出来ません」。 そう言って法律事務所を飛び出たものの、私に名案があるわけでもなかった。さて、困った。一体どうしたものか。そこで頭に浮かんだのが大学時代のクラスメート。彼は私より6歳ほど年長で、裁判所の調停員をしている。離婚関係ではないので直接的な指示はしてもらえないが、いざと言う時のために心当たりのある弁護士の話をし、調停には弁護士無しで私自身が立ち会うことになった。だが、これが誤りの元だった。 8月に入ってから、相手からの訴状が届いた。第1回の調停は8月下旬。この間に前妻は「年金分割」の詳細を調査していた。そして裁判所から届いた訴状の趣旨を読んで、私は驚愕してしまった。そこには前妻側の主張が一方的に書かれており、しかもそれらの大半は事実と異なる内容だった。これなら私にも反論出来るだろう。なぜなら調停は今回が2回目で、最初の時の経験が生きると私は甘く考えていたのだ。 そこで私は反論の論拠を事細かく記した。これなら先方の弁護士も考えざるを得ないし、男女2人の調停員の心証も違うはず。その目論見は当たった。最初の調停で、いきなり自宅は私に無償で譲るとの意見が先方の弁護士からだ出された。「これは幸先が良いぞ」。調子に乗った私は2回目の調停に、前妻側の主張の矛盾を突く資料を出した。それが結果的に前妻の感情を爆発させる結果になった。 一旦そうなると、前妻の主張はさらに矛盾だらけになる。その綻びを繕うため、前妻側は私の名義の財産を全て明らかにするよう求めて来た。だが前妻は結婚以来家計の全てを掌理しており、実情はかなり正確に把握していた。一方私の方は前妻側の財産をほとんど把握していない。前妻はかなり以前から自分名義の預貯金等は全て自分のものと主張し、通帳などを一切私に見せることがなかったのだ。 一体これほど不合理な調停があるだろうか。片方は相手の懐具合を知らないが、もう一方は全てお見通しなのだ。それに加えて前妻のお金に対する異常な執着心が、さらなる猜疑心を呼んで冷静な調停にならないのだ。前妻側の弁護士は困り果てて、「解決金」を出すよう私に迫って来た。本来謂れのない離婚の訴えなので、私の方から慰謝料を請求出来る可能性が高いのだが、法律の知識が乏しい私がその請求をするには無理があったのだろう。<続く> 今日の写真は寄せ集め。下の4枚は昨日行われた所属走友会のお花見と、その帰り道で撮った風景。うち3枚は、すっかり葉桜となったソメイヨシノ。普段の10倍ほどのアルコールを摂取した私は、帰宅してから自宅の庭で転倒し、右肩を強打してしまった。今も激痛に耐えてキーを叩いている。そんな訳で今日の更新はいつもより遅れた。またブログ友へのコメントも遅くなることをお断りしておきたい。
2017.04.30
コメント(14)
<前妻が描く離婚へのシナリオ> 「実家へ離婚すると言って来たよ」。前妻が私にそう言ったのは、昨年の3月下旬。私の実家にも出向き、同じように話したと前妻。私は驚いた。実家に行くことは聞いていた。春のお彼岸だったので、てっきり両親の墓に線香を上げに行ったのだとばかり思っていたのだ。続いて前妻は言う。「子供達にも手紙を書いたから」。これも離婚に関してのようだ。 「何だ何だ、これは」。私は内心うろたえた。前年の夏以来「家庭内別居」が続いていたことは確かだ。だが、離婚について夫婦が話し合ったことはない。それがいきなりの急展開。これ前年8月の親友との相談の結果、彼女が出した結論だったのだろう。それを明らかにしたのは、今後1年間で離婚へのゴーサインを確実なものにしようとしたのだと思う。 離婚までの猶予期間は1年間。ただし「既成事実」だけは作って置くと言うのが前妻の「作戦」なのだ。つまりこう言うことだ。彼女の職場は70歳の年度末で勤務の終了となる。それまで働いて得た収入は自分のものと言う論理だ。私が現役の頃はそのサラリーでやりくりし、辞職後は私の年金で生計を立て、自分の収入はすべて自分名義の財産として来た前妻。その「最終章」が残り1年になったと言う訳だ。 そんなシナリオに載せられるのは厭だが、このままズルズルと夫婦生活を続けるよりはマシかも知れない。だがやはり気分は良くない。4月末には私にとってさらにショッキングな「宣告」が前妻からなされた。何と四国の娘一家と同居するため家を新築し、その費用の半分を自分が負担したと言うのだ。「これは裁判になるよ」。私は彼女にそう告げた。 本来夫婦の共有財産であるべきものを、勝手に使用するなど許される訳はない。それをそんな風には考えない前妻の身勝手な論理に、猛烈に腹が立った。元々彼女が論理的な思考が出来ない人だとは知っていたが、こんな常識すらないことに、今更ながら驚愕した私だった。「お母さんはお母さんの弁護士を立てて争いなさい。自分も弁護士を立てるから」。それが宣戦布告の開始だった。<続く> 今日の写真のテーマは自室の窓。これまでも何度この映像をブログに載せたことだろう。自分の鬱屈した気持ちを表すには、ちょうど良い素材。まあそんな感じで私はシャッターを切っていたのだ。
2017.04.29
コメント(10)
<夏の苦しみ・冬の苦しみ> (チュウ)心無いコメントは断りなく削除しますのでご注意を。 あれは2年前の夏のこと。7月末の夕食時に前妻と口論になった。私の肘が肘掛椅子の「肘掛」の部分に触れたと彼女が怒った。肘掛だもの、肘が触れるのなんて当たり前じゃないか。それも歳を取ったらなおさらのことだ。私はこう反論した。「そんなことよりも、お母さんがトイレの水を流さないことと、窓から花を捨てるのは変だよ」と。彼女は言った。「そんなことは小さなことだ」と。 前妻はトイレの使用後に水を流さない。それは節約のためらしい。さすがに大の時は流すが、小の後でも次に使う私はあまり気持ちが良いものではない。私も流さないことはある。それは真夜中のトイレ時で、階下で寝ている前妻が目を覚まさぬよう、朝に流すようにしている。おまけに前妻はトイレの貯水タンクの水を調節して、満杯にならない装置をつけた。そんなことをすると大が配管の途中で止まることもあるのだ。 花を窓から捨てる心境はどうなのだろう。花瓶の水を窓から捨てるついでに花も捨てる。それを拾って裏庭のゴミの集積所に持って行くのはたいてい私。前妻が運ぶのは50回に1回もないだろう。その日まで愛でていた花を窓から捨てる。私にはその気持ちが全く理解出来ない。生ごみが入ったポリ袋や空き缶の類を、外にいる私の足元に放って来ることも多かった。つまりそれを私が片づけろと言う無言の指示なのだ。 私はそれだけ言うと、怒って2階の自室に戻った。翌日から前妻と食事を共にすることはなくなった。翌月つまり8月に入ると私の体調が急激に悪化した。不整脈の大きな発作が発生したのだ。目まい、動悸、息切れ、物の二重視、それに胃のもたつきまで加わった。まるで高山病のような症状。と言っても私は高山病の経験はないのだが。 前妻は高校時代からの親友を自宅に呼んで相談した。その会話が台所にいる私にも聞こえた。「私は最後まで面倒みたよ」と友人。だがそれに対する前妻の返事はなかった。恐らく前妻としては、私のそんな症状を目の当たりにして、看病する気には到底ならなかったのだろう。友人は私のことまで心配してくれたようだが、前妻の意思の固さを知って、親切な弁護士を紹介したようだ。 その年の12月。私はようやく不整脈の手術を受けることが出来た。恐らく手術待ちの患者が大勢いたのだろう。それに私は3度目の手術なので、初回の患者を優先したのかも知れない。今回もカテーテルによるアブレーション手術で、執刀医は前回と異なる若いドクター。不整脈の「震源地」を5か所見つけ出し、焼き切るのに6時間かかったと後で聞いた。私は麻酔により眠って意識がないのだ。 前妻が病院に来たのは翌日のこと。それも写真を1枚撮って、直ぐに帰って行った。写真は孫との「ライン」用。つまり看病ではなく、言ってみれば冷やかしかアリバイ工作みたいなものだ。そんな風に、前妻は私の苦しみも知らず、どんな手術の後遺症が起きる可能性があるのも知らない。そして「死」に対する恐怖心が異常だと私は感じた。だが、前妻の異常な感覚は「死」だけではなかった。<続く> 今日の写真のテーマも我が家の花。上から順に、ワスレナグサ、ボケ、スミレ、ハナニラ、クリスマスローズ、スイセン。ただし一番下のアケビだけは隣家のものだ。
2017.04.28
コメント(16)
<チュウ> 心無いコメントは断りなく削除しますのでご注意を。 「熟年離婚」。この大きなテーマをどう書いたら良いのだろう。ひょっとして何も語らず、じっと私の胸の中に収めて置いた方が良いのかも知れない。一時はそう考えていた。だが自分の子供すら離婚の実態を知らないまま。そしてこのブログを読むこともないだろう。それでも自分としては書いて置きたい。自分の人生の「けじめ」として、どうしても。 書く内容は精査していない。項目も立てず、シナリオもない。文体が途中で変わるかも知れないし、繰り返し同じ話が出る可能性もある。そして読者の役立つ情報には決してならないだろう。「へえ~っ、世の中にはこんな馬鹿な夫婦がいるものだ」。そんな酷評が聞こえて来ても構わない。だってそれが私が辿って来た道なのだから。まあ弁解はそれぐらいにして、話を進めよう。 3月末の家庭裁判所の最終裁定から約1か月が経った。そして前妻が家を出てから、早くも1週間が経った。結婚後まる48年が過ぎて、まさかこんな結末になるとは思いもよらなかったが、心のどこかではこのことを予測し、諦めもあったのは事実だ。前妻と付き合い始めたのは彼女が20歳になる前だったので、ちょうど半世紀に亘って人生を共にしたことになる。考えればとてつもなく長い歳月だ。 前妻は3月まで仕事をしていた。70歳の年度末が定年なので、そのギリギリまで働いたわけだ。引っ越しの準備のためと言う名目で、4月一杯はこの家に居候することを調停の場で許した。だが月末を待たず彼女は出て行った。前日の夜、ご近所に出向いて引っ越しの挨拶をしたようだ。それで翌日私は引っ越しがいつなのかを彼女に尋ねた。返事は「その日の午後2時」。全ては彼女の計画通りだった。 当日の夜は市内の友人宅へ泊めてもらったようだ。その夜、私は四国の長女に電話した。ごく簡単に「お母さんは今日家を出た」と。幾つか気になっていたことを娘に尋ねたが、どうも口調がおかしい。何か強い不満を私に抱いているような口ぶり。そして「お父さんには関係ない」とバッサリ。「それって親子の縁を切るってこと?」と聞いたら「そうだ」との返事。この母にしてこの娘あり。それにしてもねえ。 前妻は娘たち家族と一緒に暮らすため、1年ほど前から四国に家を新築していた。その資金の幾ばくかを妻が提供することも聞いた。夫には無断で、その日のために着々と準備を重ねていたわけだ。「これは裁判になるよ」。話を聞いた私は前妻にそう告げた。離婚の協議前にそこまで準備し、しかも夫婦共有の財産を既に勝手に使ってしまうとは、一体どんな神経なのだろう。絶句と絶望とが私を待っていた。<続く> 本日の写真は我が家の花。上からチューリップ、シバザクラ、イカリソウ、ツリガネズイセン、ハナズオウです。
2017.04.27
コメント(10)
「寺を巡る」。こんなタイトルを付けたけど、わざわざお寺に行った訳ではなく、御朱印を集めた訳でもない。いずれも別の用件で行った先に、たまたまお寺があったと言うだけの話だ。それでも何か所か重なれば、案外ブログテーマになるかも。そう思ってこんなタイトルにした。まあ気軽に写真を眺めてもらえたら嬉しい。 3月20日。春分の日。春の彼岸なので、久しぶりに両親の墓参りをした。このお寺は霊園に向かう途中にある。まるで竜宮城のような山門の形が珍しくて、思わずシャッターを切った。場所は青葉区北山。この北山地区は政宗が寺院を集中させた場所で、京都の北山五山に因んで「北山」と呼ばれるようになった。伊達家は禅宗を専らとしており、この地区も大部分が禅宗の寺だ。山門の扁額には「三千大仙門」とある。 4月2日。「仙台市野草園」へ行った。我が家から一番近いルートが、この大年寺の山門を潜って石段を登る道。そんな訳で、この時もお寺詣りが主目的ではなかった。所在地は太白区根岸。 山門の扁額に「東桑法窟」とある。「東桑」は日本のこと。また「法窟」は仏法を極める場所の意味。つまり「この寺は日本の仏法修行の中心地」と言う、気宇壮大な理想を掲げた訳だ。なお松島の瑞巌寺の扁額にも同じ言葉が刻まれている。共に伊達家の菩提寺であり、同じ扁額なのにも頷ける。 山門の裏側から市内を見下ろしている。この山門のある場所は山の途中で結構高さがあり、眺めは良い方だろう。なお、昨年この付近に野生の熊が出没し、養蜂家の蜂の巣箱を壊し、蜜を舐めて行ったようだ。 大年寺山頂に向かう石段。かつては山頂に巨大な寺があったため、この参道が造られた。今は伊達家の廟所が残されている。この長くて急な階段を、女性のランナーが駆け上って行くのが見える。ここはランナーがトレーニングのために利用することが多い。私のような老人は歩いて登るだけで息が切れ、途中で何度も休む必要があるのだが。 境内の一角に、こんな石造物がある。「神」は判読出来るが、その上の文字が注連縄に隠れて良く見えない。恐らくは「大」だと思うのだが、ひょっとして「水」かも知れない。ともかく神仏混交時代の名残ではある。日本列島では、仏教も神道も仲良く付き合っていた時代が長かったのだ。 大年寺山頂には伊達家の廟所がある。仙台伊達藩初代藩祖から第三代までの廟所は青葉区霊屋下の経ヶ峰にあるが、手狭になったためそれ以降はここに埋葬されている。廟所への立ち入りは禁止されているが、土地の方に尋ねたら、裏道を行けば入れるとのこと。これは廟所正門の扉に刻まれた伊達家の紋の一つで「竹に雀紋」。 よ~し。折角の機会だ。今日は中に入って見よう。どこが「秘密の入り口」か少し迷ったものの、何とか抜け道を発見。経ケ峰の廟所のように霊廟はなく、歴代の藩主と正室の墓石が並んでいただけだった。やはり政宗とその孫までの威光は凄かったのだろう。これは廟所正門の装飾。気のせいか「鬼の顔」のようにも見えたのだが。 これは野草園の園内で発見した僧侶の墓。僧侶の墓はほとんどがこの形が一般的だ。シンプルこの上ないし、僧侶の身分も分かって良いのかも知れない。 上のお墓の傍にあった説明板。大年寺の塔頭(脇寺)の一つ「大千院」がこの場所にあった由。僧侶はきっとこの塔頭大千院の住職だったのだろう。それにしても江戸時代には20もの塔頭が、この山頂にあったと言うのは凄い。それを維持するだけの力が伊達家にあった訳だから。 4月16日。マウンテンバイクに乗って、東日本大震災の津波被災地巡りをした際にたまたま立ち寄った「落合観音堂」。住所は太白区四郎丸。その「四郎丸」の地名が気になる。ひょっとして誰かの出城でもあったのだろうか。🌸 この観音堂は江戸初期に、伊達家の家臣である佐々氏が建立したもの。すると今日紹介する3つの寺は、いずれも伊達家と縁があったことになる。藩祖政宗公は神仏を篤く敬った人で、幼名も「梵天丸」と名付けられたほど。政宗の領地が移動するごとに、寺や神社も領主に伴って移動したそうだ。 斜め前から見た「落合観音堂」の本殿。屋根は茅葺き(かやぶき)であることが分かる。軒先に掲げられた絵馬がいかにも古そうだ。 風雨に晒されて絵馬の色はほとんど剥落しているが、何が描かれているかは判明している由。 本堂前で鎮座する狛犬。左が阿形(あぎょう)で、右が吽(うんぎょう)形。2つ合わせて阿吽。 本堂前の白椿は結構な大木だった。5つ上の写真🌸を参照されたい。 境内の鐘楼と銀杏の樹。この銀杏が創建以来のものだとすれば、樹齢は約400年になるが、どうもそこまでは行かない感じだ。 地元の方に勧められて観に行った、四郎丸の桜並木。 結局この日は被災地巡りだけでなく、お花見も兼ねてしまったようだ。
2017.04.26
コメント(14)
<風と戦う そして自転車の旅を終えて・・> 荒浜から再び県道10号線に出て、そのまま道なりに北上すると、やがて七北田(ななきた)川へぶつかる。そこから川の右岸を左折しようとしたのだが、何と通行止め。仕方なく高砂橋を渡り、右岸を西に向かった。 <七北田川と高砂橋> しかしその先の自転車道は、次の高砂大橋の下を潜るようだ。何の迷いもなく自転車道を行った。これがこの先混乱する元になる。私は高砂大橋が仙台東部道路だと気づいてなかったのだ。そのまま直行して次の橋を左折し、「東部道路」へ行こうとした。やがて東部道路への進入路の表示があったが、それも無視して直行。これで二重に間違ってしまった。 <全面ガラス張りのビル> 広い道だからと安心して私はペダルを漕いだ。しかし「六丁の目」付近でおかしいと気づき、歩いていた人に「国道4号線バイパスがここで良いか」確認した。似たような広い道と風景に騙されていたようだ。結果的に私が選んだルートは、さほど遠回りにもならずに済んだようだ。 だが、少し前から私はもう一つのことで苦しんでいた。それは猛烈な南風の逆風。風に逆らう自転車ほど辛いものはない。ついに膝周辺の筋肉が痙攣して来た。最も弱い部分が激しい運動に耐え切れなくなったのだ。さて、困った。どうしようか。 ここは「遠見塚古墳」。東北で第5位の大きさを誇る前方後円墳だ。迷うことなく休憩することにした。公園にはソメイヨシノが咲き、グループでお花見している人たちもいた。墳丘上では子供達や家族連れが遊んでいる。実に長閑な風景。津波の被災地の悲惨な光景とは好対照だ。 古墳前の陸橋に登り、少し上から前方後円墳を観察してみた。ここは高校生だった頃、一時叔父の家に居候した辺り。当時は一面の畑が広がり、人家は疎らだった。そして耕した畑の土の表面で、土器の破片が簡単に見つかった。赤い土を焼いた土器だったが、私はここできれいに磨いた滑石製の「紡錘車」を見つけたこともある。布を織る際に糸が撚(よ)れないようにするためのシンプルな道具だ。 厳しい戦いはその後も続いた。強風もさることながら、徐々に登り坂になるからだ。風と登りのダブルパンチ。これが結構膝に来るし、前傾姿勢を保つため手に体重が掛かって痛みが出るようになる。帰宅したのは3時ごろ。結局この日は45kmをマウンテンバイクで走り、6時間かかっての鎮魂の旅になった。 紹介しなかったが、これは最初に休憩した、太白区四郎丸で見たソメイヨシノの桜並木。急いでいたため、この並木が作られた謂れは知らないままだ。 <慰霊の塔> 次に訪れた名取市閖上地区では復興が徐々に進み、嵩上げした地盤の上に高層住宅が建設されているのを確認した。また朝市がかなり盛況だったことを知った。その一方で慰霊の塔が建てられ、日和山山頂の慰霊碑にお参りする人を見た。 <閖上大橋の上から名取川河口を望む> 閖上大橋を渡った仙台市藤塚地区の貞山堀近くに標高15mの「避難の丘」が築かれ、津波の際の逃げ場所として整備されていた。またサイクリングロードが半分だけ出来、広くて平らな防災用の道路に生まれ変わっていた。 <荒浜慈聖観音像> 若林区荒浜(深沼)地区では、仙台市の「震災遺構」第1号に指定された荒浜小学校校舎を観た。同校は今年の春に廃校となった。かつての集落があった付近には「慈聖観音像」や「慰霊の鐘」や若いアーティストが制作した「偽バス停」を観た。いずれも津波で亡くなられた方への鎮魂と、永遠に故郷を失った人たちの心を癒す作品だった。 また新たに出来た防波堤にも登って、その大きさや頑丈さを自分の目で確かめた。さらにこの自転車での旅を通じて、復興工事の現状を確認することが出来た。体調が心配だったが、何とか実行出来て良かったし、それなりの成果はあったと思う。 出来ればこの後もまた被災地を訪れ、自分の目で被害の状況や復興の度合いを確認したい。そして今度は短かい距離でも自分の足で周囲を走ってみたい。果たしてその夢が実現出来るかどうかは、今後の精進次第。何とか頑張りたいね。さて読者の皆さん、応援どうもありがとうございました!!<完>
2017.04.25
コメント(6)
<荒浜(深沼)の復興と海> これが「北貞山運河(貞山堀)」の災害復旧工事の概要図。工期は今年の10月末くらいまでだと記憶している。東日本大震災の津波で貞山堀に近接する集落は全て壊滅した。その教訓から次の災害に向けて、内陸側の護岸をかなり高めに築くようだ。 むろん工事現場には、関係者以外は立ち入り禁止。私が訪れたのは日曜日だったせいか、周囲には工事の人も全く見当たらなかった。 そしてこれが復興工事の現状。まだ工事の途中なので、実に殺伐としたもの。右手が内陸部だが、まだ護岸は最大値にまでは達してないようだ。それにしても防風林の疎らなことには驚く。それにも増して、一軒の家も見当たらないことにもっと驚かされる。 これが橋にはめ込まれていた銘板。左は貞山堀で、「運河」となっているのは新しい表記だ。右は橋の銘板で「深沼橋」とある。「荒浜」と「深沼」の二通りの呼び方があるが、どちらが古くてどちらが新しいかまでは分からない。 左は新しく築かれた防波堤。高さが何mあるかは不明だが、最低でも8mはあるはずだ。右は注意書きを記した看板。ここは元々海水浴場があった。仙台市内で唯一の海水浴場だった。だがここもご多分に漏れず、海水浴場としての機能は回復されていない。浜辺の直ぐ傍が津波にさらわれて急に深くなっている可能性があるのかも知れない。ただ男女別のトイレだけは設置してあった。 新防波堤を乗り越えると、目の前にこんな風景が展開する。広い砂浜に流木が見える。その向こうが太平洋。直接荒波が打ち寄せるため、少し沖合に波消しブロックが積んである。かつての海水浴場は、波消しブロックの内側だ。 目をやると、波打ち際で遊ぶ親子の姿。あれだけ大きな災害があったのに、そして巨大な津波に襲われて集落全体が壊滅したと言うのに、わずか6年が過ぎただけでこんな平和な光景が目の前に展開する。まるで何事も無かったように、静かな波が押し寄せているではないか。 砂浜に誰かが描いた「荒浜💛リメンバー」の文字が見えた。 恐らくは元の住民が描いたのではないだろうか。永遠に住むことが出来なくなった荒浜集落。だが、海岸は昔のように穏やかだ。そのギャップがとてつもなく虚しく、そして哀しい。 空はその哀しみを知っている。海もその哀しみを知っている。そして浜辺もそうなのだ。 まさかとは思うけど、あの流木って津波が運んで来た瓦礫じゃないだろうね。いや、それは違うと思うよ。瓦礫はほとんど取り除いたはずだからね。新しい防波堤の上では、ムール貝が1個太陽に照らされて干からびていた。 これが新しい防波堤の上。まるで広い道路ではないか。思わずマウンテンバイクをここまで運んで、防波堤の上を走ってみたくなったのさ。だが私は思い直したんだよね。何故って、「防波堤はバイクなどの車両の通行禁止」と書かれた注意書きがあったことを思い出したのさ。道路交通法では自転車だって「車両」にはいるんだよね。 「さ~て、そろそろ帰るとするか」。私は浜辺に別れを告げた。良かったね。気になっていた被災地を訪ねることが出来て。それは本当のことだ。この日は名取市閖上地区を先ず訪れ、それから北上して仙台市若林区へ入り、新しくなったサイクリングロードを約半分だけマウンテンバイクで走り、さらに七北田川にぶつかるまで北行し、そこから自宅へと戻って来た。だが、そこから新たな苦しみが私を待っていた。<続く>
2017.04.24
コメント(12)
<荒浜(深沼)の壊滅と鎮魂> 朝9時家を出発し、東日本大震災の津波によって被害を受けた集落をマウンテンバイクで訪ねている。名取市閖上(ゆりあげ)から北上し、仙台市若林区の藤塚、井土浜を通過し、荒浜(深沼)までやって来た。これらの地区では助かった人もいるが、居住地はことごとく津波で破壊され、流されてしまった。かつての集落を知る身には、到底信じられない想いがする。その理由は簡単。人の姿が全く見えないからだ。 荒浜小学校はあの時の津波で大きな被害を受け、仙台市によって「震災遺構第1号」に指定された。校舎内に侵入した瓦礫はその後除去され、今はその面影がない。しかし校舎内は破壊されたままだ。海に近くて極めて危険なことと、大きな震災被害で人口が急減したため、学校を維持するのが困難になった。校舎の壁には生徒たちが書いた「ありがとう荒浜小学校」の文字。もうここで学ぶことは不可能になってしまった。 津波で流された屋敷跡。残った基礎部分も大きく破壊され、津波のエネルギーの大きさを思い知らされる。 サイクリングロードの両側の防風林が、あの津波でこんなに疎らになってしまった。かつては鬱蒼とした松林が連なっていたのだ。それが新しい防波堤が見えるほどなぎ倒され、流されてしまったのだ。あの美しい景観が戻るまでに、一体後どれくらいの歳月を要するのだろう。 これが防風林の残骸。津波に流されなかった松も、長い間海水に浸かったことで枯死し、根元から伐採されてしまったのだ。浜辺との境界に立つ、新防波堤の高さが実感出来よう。 遠くからでも目に付く石像と塔がある。近寄って見ると「東日本大震災慰霊之塔」の文字。そしてその背後には新しくて立派な観音像が立っていた。 荒浜(深沼)は、江戸時代から続く半農半漁の集落。仙台市内に勤務するサラリーマンなどは助かったが、地元で起居する住民の大半が津波の犠牲となった。目の前の浜辺から押し寄せた津波は、「貞山堀」で一段とパワーアップし、内陸へ3km近くも侵入した。ここは全くの沖積平野で、逃げるにも逃げる場所がないのだ。あの荒浜小学校の3階以上に逃げた人だけが助かったようだ。 立像の銘を見たら「荒浜慈聖観音」と刻まれていた。「あらはまじしょうかんのん」とでも読むのだろうか。 隣同士、仲良く暮らしていた荒浜の住民たち。荒浜小学校の運動会では集落を4つに分け、対抗させる競技種目があったそうだ。そんな行事を通じて、地区の親睦と連帯が強まって行ったのだろう。 だが、かつての賑わいも笑い声も今は全く聞こえず、風の音が通り過ぎるだけ。慈聖観音は集落があった辺りを静かに見下ろしていた。 撮影している私が主役になってしまったが、これは震災の犠牲者の碑銘。石がまだ新しく、その表面がピカピカしているために反射してしまったのだ。罰当たりで申し訳ありませんね。合掌。 これはゴルゴタの丘に立つ十字架ではなく、深沼海水浴場の前に立つ慰霊の鐘。いや、裏面に廻って名前を確認したのだが、どこにも名前は刻まれてなかった。 だから「慰霊の鐘」は便宜上私がつけた名前だ。まるで翼を広げた羽のようではないか。亡くなった集落の方々は、きっとあの青い空の彼方、天国に向かって旅立って行ったのだろう。 名取市閖上地区の「日和山」も、今ではすっかり慰霊の丘になった感があったが、ここ荒浜(深沼)も、亡くなられた集落の方々に対する想いが強いのだろう。 名前のないモニュメント。そしてシンプルな形と素材。その単純さこそが、尊い命を落とした死者に対する深い悼みの気持ちのように感じられた。 綱を引っ張って鐘を鳴らした。「カ~ン」と言う高く澄み切った音だった。それが青い空に吸い込まれて行った。多くの魂よ、無事天国に届け。私の鳴らした鐘の音よ、無事天国に届け。爽やかな風が私の頬を叩いて行った。うんうん。どうやら鐘の音は届いたようだ。 さて、かつての荒浜集落の中に、こんなバス停が幾つか置かれてある。全く無人と化した集落になぜこのようなバス停がと、大抵の人が不思議に思うだろう。 種明かしがこれ。このバス停は、仙台市に住む若い女性アーティストが作ったもの。「本物」でない証拠として、時刻表の下部にはこんな言葉が書かれている。これは芸術作品。かつての集落が懐かしくてたまらない住民のことを伝え聞いたアーティストが、何かお手伝いしたくてこのようなものを作り、かつてのバス停に置いたのだ。 話には続きがあり、「偽バス停」の噂を聞いた仙台市交通局が今年の春にたった1便だけ、臨時のバスを出した。それを知った地元の方が大勢バスに乗って、故郷を訪れたのだそうだ。私はそれを夕方のニュースで知った。「美談は新たな美談を生む」。お堅い役所の人も、たまには粋な計らいをすることがあると言う見本みたいな「本当の話」だ。<続く>
2017.04.23
コメント(8)
<サイクリングロードを走る ~名取市閖上地区から仙台市へ~> 再び名取川まで戻る。これが川の中でシジミ漁をしてる人たちだ。奥が疎らな防風林。震災前は鬱蒼とした松林が連なっていたのだが。 県道10号線。「閖上大橋」の上から名取川の河口を観る。右手は先ほど訪れた名取市閖上地区。この橋を渡り切ると仙台市若林区藤塚地区だ。 藤塚地区には一軒の家も見えない。東日本大震災の津波で、全てが押し流されてしまったのだ。県道10号線を横切ってサイクリングロード方面に向かう。問題はこのサイクリングロードが全て開通しているかどうかだ。 こんな人工の丘が出来ていた。「避難の丘」と呼び、海抜は15mあるらしい。まだ芝生がしっかり根付いていない。東日本大震災の津波の高さはこの周辺では9m近かったから、15mあれば助かると思うのだが、「引き波」で土が流されないかが心配だ。 「避難の丘」からサイクリングロード方面を観る。これなら自転車で走っても大丈夫と思ったのだが、良く見ると道路と橋の間に段差がある。これでは危険で無理だと諦めた。 こちらは名取川河口を通して閖上地区が見える。一番手前の広い道が、新しいサイクリングロード。その向こうの川みたいなのが、貞山堀。その向こうが干潟でその先に砂浜と海が見える。ほとんど平らな地形が津波での被害を大きなものにしたのだ。のんびり景色を眺めている前を、自転車族が1人通って行った。自信に満ちた行動だ。これは全線通じているのかな?よ~し、じゃあ俺も行って見ようか。 震災前のサイクリングロードは貞山堀に沿った静かな道で、道幅も狭くて表面は凸凹、そして松の木陰の涼しい道だった。それが津波でまるきり風景が変わり、海側の干潟がすっかり見えるようになっていた。 これが新しく作られたサイクリングロード。自転車道と言うよりも、車が通れる広く平らな立派な道路に変わっていた。しかしどこまで工事が進んでいるかは分からない。さっきの自転車族は引き返して来ない。ふ~む。どこまで行ったのだろう? 手前は貞山堀。その向こうが干潟。そして海岸沿いの白い構築物が新しく建造された防波堤だ。高さは8mはあるだろう。そして海岸とほぼ平行に走る県道10号線も8mほど嵩上げ工事をするし、その内陸側の「仙台東部道路」も高さが6mほどあり、この3つの防波堤、道路2本の法面で津波から人命を守ろうと計画され、目下復興工事が進んでいる。 防風林が津波で流されたため、仙台市内が遠望出来る。震災前はとても考えられなかったことだ。春霞の中にうっすらと見えるのが標高1172mの泉ヶ岳だ。間もなくサイクリングロードが切れるのか、地元の小父さんが自転車に乗ってやって来た。小父さんに10号線に抜ける道があるか尋ねた。あると聞いて安心し、さらに前進。先ほどのサイクリストが戻って来た。やはりすぐ先で行き止まりだ。 地元の人に聞いて、県道10号線への砂利道を走る。こんな時はロードレーサーではなく、マウンテンバイクの強さが有難い。県道10号線沿いでも、至る所で嵩上げ工事が進んでいる。海から近いこの地区では、藤塚、井土浜、荒浜(深沼)の3つの集落が津波で全滅している。 ここでは橋が架かり、立体交差になっている。現在の10号線はいずれ土に埋まり、新しい県道10号線が嵩上げされて完成するはずだ。この道を七北田川にぶつかるまで北上する。通行する車が多く、歩道も凸凹だが、さほど危険ではない。背中から吹く風に押されて、ペダルは快調だ。 右手前方に大きな建物が見えて来た。あれは荒浜小学校だ。あそこにもぜひ寄って見よう。遠目には立派に見えるのだが、実は仙台市によって東日本大震災の「震災遺構」に指定されている建物なのだ。 小学校の前まで行くと、標識と看板が立っていた。あの津波で2階部分まで浸水し、学校に逃げ込んだ住民は、屋上からヘリコプターで救出されたと聞いた。この荒浜小学校は結局使用出来なくなり、最寄りの「東七郷小学校」を間借りして開校したのだがそれにも限界があり、今年の3月末でついに廃校となった経緯がある。 これが荒浜小学校の全景。小学校も無くなったが、集落の荒浜(深沼)も全ての家が流され、住民はここからかなり離れた仮設住宅へと止む無く移動した。子供も大人も全てが故郷を失ったのが、ここ荒浜(深沼)なのだ。<続く>
2017.04.22
コメント(12)
<「閖上朝市」そして復興に向けて・・・> 日和山から朝市の会場へと向かう。本当は順番が逆なのだが、その方がストーリーの展開から好ましいと思って入れ替えたのだ。たくさんの車が次々に私を追い抜いて行く。へえ~っ。今日は日曜日なので朝市があることは分かっていたが、まさかこれほどの賑わいとはねえ。 大震災の前、ここ名取市閖上地区は日曜日の朝市が名物だった。お客の目当ては、この新鮮な魚介類。まあ全部がここで獲れる訳ではないが、直接自分の目で確かめながら買うのが楽しみなのだろう。駐車場には溢れるほどの車が停まっていた。へえ。これじゃあ震災前よりも賑わってるねえ。それが私の正直な感想だった。 商品は魚介類だけとは限らない。近隣の農家が持参した産地直送の野菜や花きも名物のうち。値段も安く、大量に仕入れて行く客。手には大きな袋が幾つもぶら下がっている。 店舗も買い物客もかつてに比べて大幅に増えている。買い物を楽しむだけでなく、きっと閖上地区の復興を応援する気持ちも強いのだろう。 魚屋さんの店頭では、買った魚介類を早速焼いて食べる人も。へい、いらっしゃい。焼き立ては美味しいよ。お客さん!! ここからは閖上地区の復興の様子を紹介しよう。正面に見える防風林は、津波でほとんど流された。その向こうに新しく築かれた防波堤が見える。高さは8mはあるだろう。これは震災時に出た大量の瓦礫を再利用するなどして構築された。震災後は海岸に瓦礫を処理する臨時の工場がずらりと並んでいた。 松が生えている辺りに、かつて「名取市サイクルスポーツセンター」があった。1月にはここを会場に、フルマラソンが開催されたのだが、施設は全て津波がさらって行った。大型クレーンがあるのは復興工事中の港湾部だろう。今は対岸へ向かう橋の手すりも壊れたままだ。 貞山堀では、新しい橋の架橋工事が進んでいた。道路も付け替えて、これまでよりもかなり広げるようだ。 居住地区の安全性を確保するため、かなりの高さまで盛り土工事が進められている。 土盛りの上に建設された高層の住宅。これで「東日本大震災」クラスの津波からは守れるとの計算だ。 遅まきながら着々と復興工事が進む、名取市閖上地区 既に生産を開始した、海岸部の水産加工工場群。居住区は少し離れた高台にある。 無人の街に掲げられた「エール」。閖上頑張れ~っ!! 日和山神社の仮宮前には、こんな絵馬も。 閖上地区の復興を願って発行されている『閖上復興だより』。避難した住民たちが再びこの地に戻れるのは、果たしていつになるのだろう。 日和山山頂から閖上の復興を見守る「閖上桜」の白い花。<続く>
2017.04.21
コメント(14)
<名取市閖上(ゆりあげ)地区の津波被害と鎮魂> マウンテンバイクに乗って名取市の閖上(ゆりあげ)地区へ来ている。ここは「東日本大震災」の津波で、大きな被害が出た港町。江戸時代から城下町仙台へ新鮮な魚介類を提供する重要な役割を持ち、震災前まで海岸にはズラリと水産物加工の工場が並んでいた地。その街が津波に飲み込まれ、壊滅状態となっていた。ようやく復興計画が立てられ、街は今再建に向けて必死だ。 <震災前の閖上地区> 写真左の河口が名取川。正面の海は太平洋。小さな漁港の下に見える運河が、藩祖伊達政宗が掘削した「貞山堀」で、北は北上川河口(石巻市)から南は阿武隈川河口(亘理町)まで繋がる内堀で、太平洋の荒波を避けて藩内の余剰米を港に集め、三十五反船で江戸まで運び巨利を得た。またこの港町は、仙台市のベッドタウンでもあり、高校の同級生5名ほどがこの町からバスで通学していた。 <震災直後の閖上地区> 東日本大震災の津波により、壊滅した街。海岸の工場は鉄筋コンクリート造りのため残ったが、民家は建物の基礎部分しか残っていない。死者は600名以上。 <海まで続く瓦礫の山> <瓦礫が残る日和山の石段> 日和山は標高6.2mで、海と天候状況を確認するため築かれた人工の山。津波はこの山のさらに2.6m上に達し、頂上の神社は流されて土台しか残っていない。左側の松は海水に浸かりながら、奇跡的に生き延び、今もこの場所にある。 <震災直後の日和山山頂から内陸部方面を見た図> 津波で破壊された神社の基礎部分(左)や、海水の塩分で枯れた樹(右)。左手の松が生き残ったもの。閖上の市街地はほとんどが津波に流されて基礎部分しか残っておらず、奥羽山脈の方まで丸見え状態だ。 <津波に破壊されながら残った建物> これは今回私がデジカメで撮影した建物で、周囲には荒れ地が広がる。鉄骨造りの建物は辛うじて残ったが、1階部分の入り口と左側の壁が津波で破壊された。いずれは取り壊され、再建されるのだろう。 <東日本大震災受難碑(手前)と日和山(奥)> 多くの人命が失われたこの地に、亡くなられた方々の鎮魂を願って建てられた受難碑。あの日から6年と1か月の月日が流れた。 鎮魂の祈念碑。形は閖上(ゆりあげ)の「Y」と、再生する若芽を表したのだろうか。真っ白い像が、悲しみを増幅する。青い空にぽっかり浮かんだ白い雲。どうぞ安らかにお眠りください。 <日和山への石段とスイセン> 石段の現状。災害当時に流れ着いた瓦礫は全て取り除かれ、石段の両脇には慰霊のための花が植えられている。今はスイセンが咲いていた。 <山頂の慰霊碑上部(左)と下部(右)> <日和山山頂の閖上桜と荒れ果てた市街地> 標高6.2mの山頂に鎮魂のため植えられた「閖上桜」が白い花を咲かせていた。その若木が、今はすっかり荒れ果てた閖上の市街地を見下ろしている。 <閖上桜>震災後、私がここを訪れたのは今度で3度目。「閖上桜」が頂上に植えられていることは知っていたが、花を観たのは初めてだった。真っ白い花は亡くなられた方の魂を慰めるには相応しい色だ。2本のうち北側の樹は幹が枯死していた。だが根元から生え出た2本の「ひこばえ」が立派に成長し、花を咲かせている。まさに「死と再生」に相応しい光景だった。 <仮設の祠に手を合わせる参拝客> 私が頂上の石碑前で軽い食事を摂っている時に、下から宮司が上がって来た。そして黙って仮宮を掃除し始めた。私があんまり長い間頂上にいたため、怪しい人物だと警戒してやって来たのだろう。中国の女性2人が沖縄、大阪、京都、奈良などで寺社に油を撒いた事件があったばかり。でも私のように目立つ服装で犯罪を犯す人間は、普通いないと思うのだがねえ。思わず苦笑した私だった。<続く> <日和山石段脇のスイセン>
2017.04.20
コメント(10)
決行するなら明日だ。そう思って準備をした。天気は良い。体調もまあまあ。疲れも体の痛みもあるが、50kmのサイクリングなら、何とかなるはず。そう信じて眠りに就いた。眠ったのは5時間半くらい。朝食はしっかり食べ、菓子パン、バナナ、飴3個、デジカメ、飲み物などを確認。 上下ともバイク用の服装にしたが、その下にロングタイツと長袖Tシャツを着た。これは風対策。手袋はメッシュのバイク用。念のためにヘルメットも被った。今日はこれから海へ向かう。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県下の街の復興具合を確かめる旅。それは今年の自分の課題であり、今日はその第一歩なのだ。距離は50kmと計算したが、帰宅後に測定したら45kmちょっとだった。 途中コンビニで3個のお握りを買いリュックへ。たどたどしい日本語を話す中国人のお嫁さん。その一生懸命さが可愛い。ザル川に沿って下り、名取川へ出る。これはザル川の土手。9時過ぎと言うのに、早くも花見客が集まっていた。きっと付近の町内の方だろう。いかにも長閑な風景だ。 名取川に架かる太白大橋の上から川上を観る。春霞の中にぼんやりと見える白い山が大東岳(1366m)だ。私は二口峠を越えて、山形の山寺まで走ったことが3回あった。距離は53km。あの麓を通る楽しいコースだ。 これが橋の上から見た名取川の下流方面。この右手の堤防沿いに海まで行く。今年川の水が多いのは、雪解けが早いせいだろう。何せ2月頃から水嵩が増えていたのだ。土手の道は車が少なくてスムーズ。旧4号線を越え、4号線のバイパスも越え、海へとまっしぐら。 太白区四郎丸の「落合観音堂」で休憩したのは、ちらっと桜が見えたから。トイレを済ませ、水を飲み、境内を散策。堂宇は江戸時代に伊達家の家臣である佐々某が建立した由。地元の人が、もっときれいな桜並木があると言うので、歩いて見に行く。確かに15,6本ほどのソメイヨシノが満開だった。寺の境内と桜並木についてはまたの機会に紹介し、今日は先を急ごう。 行燈松 風は右手、つまり南側から吹いて来る。緩い下りの上東に向かうため全く気にならない。河口が近づくと、川の中に何人かの人が見えた。きっとシジミ漁をしているのだろう。前方に20本ほど背の高い松が見える。藩政時代、浜名湖周辺から取り寄せた種を植えて育てた行燈(あんどん)松。松の右手に仙台から閖上(ゆりあげ)に向かう街道が通っており、この松は防風のために植えられたもの。樹高は30mほどか。 行燈松の南側で、新しい道路と宅地が造成されていた。この辺りは東日本大震災の津波で大きな被害があり、大勢の方が亡くなった。仙台市の隣の名取市閖上地区。この港町で入院中だった私の従兄も、津波に飲まれて死んだ。重機がある辺りにはたくさんの流された車が重なり、泥田状態。そんな中で大勢の自衛隊員と警察官が捜索活動をして姿が、今も鮮明に蘇る。 閖上は仙台藩の魚場(いさば)つまり重要な漁港で、毎朝取れた新鮮な魚介が仙台城下へと運ばれていた。またここには政宗公が開いた運河が通り、米の集散地でもあった。そんな重要な機能を持つ古い街も、海辺のために津波で壊滅した。その恐怖を忘れられない旧住民が、市の復興計画に長年賛成出来ずにいたのだ。 それがようやくまとまり、海岸には海産物を扱う工場と、6m以上嵩上げをした地盤の上に高層の住宅を建てることで安全を図ることになったようだ。人々の恐怖の残像はなかなかぬぐい切れないのだろう。<続く>
2017.04.19
コメント(14)
恐らく絵の好きな人で、ルノワールの名前を知らない人はいないだろう。いや、たとえ好きでなくとも一度くらいは名前を聞いたことはあるだろう。中学校の美術の授業で習うはずだしね。 アルベール・アンドレ作『ルノワールの肖像』1912年頃。62.5×46.5 油彩。ルノワールはこの時78歳頃。死の7年ほど前だが、いかにも真面目そうな風貌だ。 オーギュスト・ルノワール(1841~1919)はフランスを代表する印象派の巨匠。彼の絵は美しい色彩と柔らかな表現で高い人気を集める。彼は「幸福な主題こそが幸福な絵画を生み出す」と言う信念に基づいて制作に取り組んだ。このため画面の隅々にまで幸福感に満たされ、描かれた人物がにこやかで楽し気に見える作品が多い原因とされている。これが多くの人々に愛され続ける理由だ。 先日宮城県美術館で開催された『ルノワール展』を観た。国内外の美術館や個人が所蔵する54点を公開するもので、さる地方紙の創刊120周年記念事業の一環。館内での撮影は不可のため、チケット、看板及び新聞による紹介記事から写真を使わせてもらった。なお掲載は作品の制作年次順とした。 *『小さな桟敷席』1873~74 (32~33歳頃) 27.7×20.7 油彩 *『バレリーナ』1874 (33歳頃) 142.5×94.5 油彩。 バレー衣装を身に付けた少女のバレリーナが、「アン・ドウール」の姿勢を取るために体を半回転させた瞬間を描いた。 *『ヴィクトル・ショケ夫人』 1875(34歳頃) 75.0×60.0 油彩。 *『ポール・ムニエの肖像』 1877頃 (36歳頃) 46.0×38.0 油彩。 どういう訳か絵が左右逆になっているのに途中で気づき、大慌てで写真を逆転させた。 ここまでは表情も色合いも硬くて、あまりルノワールらしく感じないね。 *『ボート』 1878年頃(37歳頃) 54.5×65.5 油彩。 *『マントノンの郊外』 1888(47歳頃) 54.8×65.5 油彩。 *『雛菊を持つ少女』 1889(48歳頃) 65.1×54.0 油彩。 このころになると、彼の特徴である明るさや暖かさが感じられるようになりますね。 *『二人の浴女』 1918~19(77歳~78歳頃) 41.8×38.0 油彩。 これが80歳近い老人の作品とは、到底思えない色彩とタッチですね。それはルノワールが心身共に健康で、誠実な人生を過ごして来たからではないでしょうか。輝くような肌。ふくよかな体型。それらはきっとルノワールの理想像だったのでしょう。 さて、私はルノワールを「ルノアール」と書く癖があります。今回もそんな風に表記した箇所が相当あり、慌てて修正した次第です。また写真は新聞からの転載だったため、紙質の関係でどうしても本来の色が再現出来ません。いずれも小さな作品でしたが、やはり「本物」は違いますね。 なお当日は宮城県美術館の『コレクション展示」も観ました。同館のコレクション中、量的な関係から常設展に出せないものを、時々入れ替えるのです。今回初めて観覧した作品もあって楽しめました。 また、他館の特別展などのパンフレットを観るのもこんな時です。東北歴史博物館の『特別展 世界遺産ラスコー展』もこの時に知りました。5月の連休にでも出かけて見る積りです。 帰路、仙台市博物館にも寄って見ましたが、残念ながら常設展のみ。青葉城天守台の中にある「青葉城資料展示館」に初めて入館しましたが、CG画像を観ながらつい眠ってしまいました。話題作りのため一度入って見たのですが、まあ学芸員もいない施設では、あんなものでしょうね。
2017.04.18
コメント(10)
🌸 今年のソメイヨシノを観に、M公園に行きます。ここは仙台市内でも有数の桜の名所。園内には30種類もの桜が咲くとされ、花期が長いために花見客もいろいろと楽しめるのが良いですね。我が家からは1.5kmほどの距離で、歩いて行くとちょうど良い運動になるんですよね。 ほらね。ここがM公園。平日なのに、たくさんの人が来ているでしょ。この日はどこかの施設の方が、職員の方に引率されてお花見に来ておられましたよ。 今咲いているのがソメイヨシノです。私は色があまりはっきりしていないので、あまり好きではないのですが、きっと日本人の感性には合うのでしょうけどね。 せめて背景が真っ青な空なら、ソメイヨシノも映えるんですがねえ。 こうしてズームすると、とても優しい色合いですよね。 それぞれの樹の下には、お花見のお客さんが陣取って。 曇天下のソメイヨシノですが、花見客はどこにもいますね。 ベビーカーでお花見を楽しむ家族連れ。素敵な光景ですね。 ふふふ。テントまで持参した人もいるみたいですねえ。 良く見れば、ソメイヨシノの花弁も可愛いですねえ。 苔が生えた古木にも、美しい花が咲いて嬉しいですねえ。 今年のソメイヨシノはこれで見納めかな? ここまでは全部ソメイヨシノでしたが、気づいてましたか? これは枝垂れ桜です。文字通り枝が垂れ下がっていますね。 枝垂れ桜の花びらも、実に優しい色と形ですね。日本の桜、最高です!! これはM公園に1本だけある十月桜(ジュウガツザクラ)の花なんですよ。冬桜の一種で、晩秋から冬にかけて素朴な花を咲かせます。そして春になると、再び花をつける生命力が旺盛な桜です。 あらら、1枚だけ紛れてしまったこの桜の名前は何でしょうねえ?花弁の付き方から見ると、ソメイヨシノのように見えますが? 最後に紹介するのが、ピンクの色が濃い枝垂れ桜。まだ三分咲きでこの色合いです。 同じ種類の樹が4本あり、その花のトンネルが実に見事なんですよね。 あまりに見事なので、私は勝手に「紅枝垂れ」などと呼んでるのですが。 これは少し「トンネル」っぽく見えるかな。これでM公園の桜の紹介は終わりますが、実はここはこれからが色んな種類を楽しめるんですよね。この日は他にも素敵な花を撮って来ましたが、ご紹介はまたの機会に譲りますね。ではお楽しみに~!!
2017.04.17
コメント(12)
🌸 仙台のソメイヨシノの満開宣言は13日(木)でした。昨年よりは遅かったけど、例年よりは早かったようですね。早咲きの大寒桜や冬桜の類は観ていたけど、今季のソメイヨシノはまだ。そこで近所を散歩しながら例年咲いている場所を訪ねてみました。安直で申し訳ないのですが、ご一緒に近所の桜を楽しんでいただけたら幸いです。 アパートの前のソメイヨシノ。さほど大きな木ではないのですが、近所のよしみで最初に紹介しますね。 同じ樹です。きれいな青空に映えていますね。 農家の畑に咲いている枝垂れ桜。なかなか見事でしょ? この農家では、畑の一部を家庭菜園として貸し出ししています。週末は誰かが来て耕していますよ。 大きなサイズにしてみました。やはり迫力が違いますね。 神社裏の公園の大島桜。白い花が特徴で早咲きです。(以下同様) 大島桜を初めて見たのは、伊豆大島で100kmマラソンを走っている途中でした。 もう散る間際でしたが、「世の中には白い桜もあるんだなあ」と意識した始めでした。 強い風が吹いて、花がボケています。白い桜も捨てがたい味わいがありますね。 これだけたくさんの花が咲いていると、白でも豪華に感じますね。 神社境内の子福桜(こふくさくら)。この桜は晩秋、冬、春と年に3回咲きます。ただし春以外の季節は、これほどたくさんは咲きませんが。 神社境内のソメイヨシノ。祭礼は5月3日。1月14日は毎年この境内で「どんと祭」を行っています。私もここへ正月飾りを持参します。 国道と脇道が交差する土手に咲いている彼岸桜系の桜。濃いピンクの花が特徴です。(以下同様) この桜の樹はまだ若く、高さは2mちょっとしかありません。でも花の明るさが魅力的で、傍を通りながらつい眺めてしまいます。 樹全体を写すと、あまりの小ささに驚かれることでしょう。また今年は撮るのが遅く、これでも花は終わりに近づいているのです。 良く見ると、花の傍からもう緑の葉が見えていますね。 今日は近所の桜を紹介しました。明日は仙台市内の桜の名所である、M公園をご案内しますね。ではまた~!!
2017.04.16
コメント(14)
一昨日、昨日と、断捨離を決行した。先ずは衣類などの始末。古くなった下着、ゴムが緩んだ靴下やパジャマ、加齢臭が漂うシャツ。穴の開いたセーター、首の周囲がたるんだTシャツなどだ。いずれもずいぶん使いこなし、十分に元は取ったものばかり。放置していたのは前妻が新しいのを買ってくれなかったためだが、私も着るものにはさほど頓着しなかった。 一昨日は物置小屋の中も整理した。いつか使うと考えて取って置いた板、不要になった植木鉢用の皿、ガラス瓶、古い型のゴミ袋、曲がった傘など内容は様々。4時間ほどかけて不用品を全て外へ出し、その後大掃除。スッキリしたところで、下に敷いた段ボール紙も交換。これで今後はかなり使い易くなるはず。 昨日の朝は犬小屋の解体から始まった。愛犬マックスの死後は、畑仕事関係の物置代わりに使っていたのだが、物置小屋の整理で余裕が生まれ、肥料や石灰などの重たいものなどを移動。プラスチック製の植木鉢などはゴミとし、硬化プラスチックの部材は足で割ってゴミ袋へ。それだけで40リットル用の袋が3個満杯になった。 その他不要になった篠竹の支柱や剪定した庭木の枝を短く切ってゴミ袋へ。犬小屋の裏に溜まっていた落ち葉の始末。土台に使用した煉瓦の始末。一通り作業が終わってから大量のゴミ出し。休む暇もなく、次は畑にゴーヤ用とキュウリ用のネットを張り、ビニール紐で固定。最後の最後に、野菜や植木鉢に水撒き。今後も随時断捨離を決行する予定。この朝は洗濯や風呂掃除も。 大量に捨てたら補充する必要がある。下着と靴下を買いに近所の生協へ。それからツーリストへ6月中旬の「尾瀬1泊ハイキング」の申し込み。司法書士事務所へ謝礼金などの確認。保険会社の担当者へ、契約中の保険内容の確認などの連絡。食料品などの買い物から帰宅後は、数品を料理。これだけ激しく動いたためか、その夜体重測定では2kg減だった。でも栄養はまあまあ摂っている積り。 午後遅くなってから近所の公園へ散歩。仙台ではソメイヨシノの満開宣言が出ていた。このまま家にいたのではなかなか桜にお目にかかれないままになる。A公園ではコブシ、ヒュウガミズキ、アシビが花盛り。M公園は桜の名所らしく、大勢の花見客が押し掛けていた。近所の桜各種を含めて枚数は撮ったが、まだ整理は出来てないため、我が家のクンシラン(君子蘭)で我慢していただくことにする。
2017.04.15
コメント(12)
このシリーズでは、「仙台市野草園」」で開催されていた「八絵会」の「花の絵はがき展」を紹介しています。最終回の今日は植物画の残りの枚数が少なくなったため、野草園内の花も交えてお届けしますね。 ずらりと勢ぞろいしたスイセンの花です。 ツバキです。照明が反射してしまいました。済みませんね!! 色んな種類の花が描かれています。賑やかですね。 父母が眠る霊園から市内の泉ヶ岳を観ています。 虫食いの枯れた桜の葉っぱです。味わいがありますね。 花が少し縮れたシクラメンです。 ヒヤシンスとスイセンの2ショットです。 雪の蔵王山系ですが、今年はかなり雪融けが早やそうですよ。 赤いシクラメンがあなたを呼んでいますよ~。 サザンカサザンカ咲いた道 たき火だたき火だ落ち葉焚き・・ ノブドウ(野葡萄)の実は、ルビーの輝きに似て・・。 園内のカタクリの花も可憐でしたが・・。 白髭山、船形山、泉ヶ岳を遥かに仰ぐ父母の墓地にて。 キクザキイチゲ(菊咲一華) リュウキンカ(立金花) スハマソウ(洲浜草) カタクリ(片栗) ミスミソウ(三角草) キクザキイチゲ(菊咲一華) 大東岳をアップで撮ってみました。 これで6回に亘ってお送りした「仙台市野草園」と、ロビーで開催されていた「八絵会」の「花のはがき絵展」の紹介を終わります。大年寺の写真が何枚か残っていますが、紹介はまたの機会にしますね。では今日も元気に行きましょうね~!!
2017.04.14
コメント(10)
このシリーズでは、「仙台市野草園」のロビーで開催されていた「八絵会」メンバーによる「花の絵はがき展」の作品を紹介しています。説明は花の名前程度ですが、お楽しみいただけたら幸いです。 まだ裂けてないアケビ 裂けて来て食べ頃のアケビ ガマズミの実 ノブドウの実 スイセン ツルウメモドキ シデコブシ お茶の実? 大東岳(左)と太白山(右) 紅白のツバキ ザゼンソウ(座禅草) フキノトウ サザンカ(山茶花) 左から後白髭山、船形山、北泉ヶ岳、泉ヶ岳の偉容 カラスウリ ヒナゲシ ツバキ シクラメン 雪の蔵王連峰遠景 花の季節はまちまちですが、順不同で並べました。明日に続きます。<続く>
2017.04.13
コメント(10)
外は冷たい雨。山岳地帯では雪が降ってるところもあるようだ。予約機能を使って書いてるので、これは昨日の話。今日は畑に春菊の種を蒔こうと思う。今季の種蒔き第1号だ。 1週間ほど前に、室内で冬越しさせていた植木鉢を外に出した。もう遅霜の心配はないと考えてのこと。仙台でもようやくソメイヨシノの開花宣言が出た。それから3日後の昨日、自転車で出かけた際に桜を観た。まだ三分咲きほどか。真っ黄色のミモザも観た。東北にもようやく春の到来だ。 女子フィギュアスケートの浅田真央選手が引退した。残念だと思っても、意外だと思った人は少ないのではないか。15歳目前に世界の頂点に立ってから10年以上、世界を舞台に戦って来た真央ちゃん。同期の織田信成さんは言う。「戦う真央が大好きだった」と。 引退の理由は膝の故障。第一線で戦って来た彼女は、きっと人には言えない故障に悩んで来たのだと思う。オリンピックでこそ銀メダルに終わったが、日本のフィギュアスケート界を長年けん引して来た彼女の功績は偉大だ。もうそろそろゆっくりしても良いよね。お疲れ様、真央ちゃん。そしてこれからも元気で、幸せになってね!! 男子体操の内村航平選手が国内で10連覇を達成した。2位とはわずか0.05の僅差だった。昨年のリオオリンピック以降、彼は腰を傷めて苦しんでいたようだ。そんな状態で今大会に臨み、優勝するのだからその精神力はただならぬものがあるのだろう。 彼の述懐は実に重たい。本音はもう休みたいと思っているに違いない。次代を担う若手も順調に育って来ている。身体的な負担は相当なものだと思うのだが、彼も引退を口にすることはない。王者とは孤独なものだ。真央ちゃん然り。航平君然り。心身共にギリギリの状態で戦い、人前では決して弱音を吐かない。それがきっと王者たる所以なのだろう。 開幕から2週間経って、ようやく岸はマウンドに立った。昨年の秋にFA宣言して古巣の西武から楽天に移籍した岸投手。仙台出身の寡黙な男は恩義ある西武ライオンズで10年間投げ続け、ようやく故郷の球団である東北楽天に戻った。最後は故郷で終わりたいとの想いがあったようだ。 開幕投手に選ばれて当然の岸が今季の初登板を2週間も遅らせたのは、インフルエンザに罹ったため。ロッテとの試合で勝ち投手になった岸は、ヒーローインタビューでも決して笑顔を見せず、終始厳しい表情だった。それだけ責任を自覚していたのだろう。彼は大学の後輩。東北人らしい真面目で寡黙な男が、今後どこまで真価を発揮してくれるかが楽しみだ。頼んだぞ岸!! 日ハムの大谷翔平投手が肉離れで戦列を離れ、一軍の選手登録から外れた。昨年は投手としても野手としても驚異的な活躍を見せた彼。いわゆる「二刀流」を見事に使いこなした恐るべき身体能力の持ち主。それが足首の故障でWBCの日本代表から外れ、調整も遅れていた。 投手としては無理でも、野手としてなら使えると見た栗山監督の決断で、今季は野手としてスタートを切った。だが、恐らくはまだ無理があったのだろう。人間の体は弱い箇所を庇うため、他の部分に負担がかかる構造になっている。投手として無理なのは、野手としても無理だったのだろう。一日も早く回復して、元気な姿を見せて欲しい。敵ながら彼の凄さに脱帽している楽天ファンの希望だ。 前妻との離婚成立後、連日事務処理に追われている。結婚以来の長い緊張とストレスの日々。それらがようやく終焉したのに、多くの為すべき手続きがあった。不眠の夜と不安だらけの日中。その長いトンネルにもようやく出口の灯りが見え出した。かつてウルトラマラソンのランナーだった私は、辛抱することには慣れている。だから不安などは、ある意味友達みたいなものだ。 睡眠薬が1錠だけ残っている。他の薬は2か月分処方してくれるのに、睡眠薬は最大1か月分しか処方出来ないルールとドクター。1か月後に行って睡眠薬だけ処方してもらう手はあるが、私はその方法は取らなかった。1錠飲んでも眠れない日々。薬を半分に割って飲むことが大半だが、4、5時間で目が覚めるのが常だった。 長いトンネルからほぼ抜け出した一昨日はどっと疲れが出、薬も飲まずに6時間半ほど眠った。これだけ眠ったのはいつ以来だろう。さて、私に残された時間はそう長くはない。今後は決断即実行し、思い切って断捨離する積り。体と心がまだ正常な間に、やるべきことをやる。楽しきかな我が残りの人生。こんな状況でも不思議と心は穏やかだ。世に「止まない雨は降った試しがない」と言うしね。
2017.04.12
コメント(14)
先日「仙台市野草園」へ行った時、ロビーで展覧会をやっていました。このシリーズでは、そこで写した植物画と私が以前撮った雪山の写真を組み合わせて見ることにしました。ご笑覧いただけたら嬉しいです。 開催していたのはこのグループの皆さんたち。受け付けにいた方は、「私たちは素人なので」と謙遜されていましたが、なかなか楽しいコーナーでした。でもこの日の私は「野草」を観るのが主目的だったので、それぞれの絵のタイトルまでは気が回りませんでした。従って花の名などは、私が勝手につけたものですのでご了承願います。なお私が訪れたのは、展覧会の最終日。本当にラッキーでしたね。 菜の花 シクラメン スイセン スイセン スノードロップ 水芭蕉 雪の蔵王連峰 カタクリ ミミスミソウ? どちらも同じものを描いたのでしょうか。でも右の絵には「さや」が見えますね。名称不明。 シュウメイギク ヒオウギスイセン ヒナゲシ フリージア 雪の南蔵王連峰 マンサク ハナイソギク オシロイバナ? ヒヤシンス? サザンカ こちらは何の花でしょうね? 蔵王連峰の一大パノラマです。 <続く>
2017.04.11
コメント(14)
山道で観た野草ですが、名前は不明です。 スハマソウ(洲浜草)。キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草。早春に美しい花を咲かせることから、雪割草(ユキワリソウ)とも呼ばれる。本州と四国に分布する。 これもスハマソウ。3つに分かれた裂片(葉)の先端は円頭でミスミソウと区別され、葉の表面は無毛。太平洋側の花は白く、日本海側の花は紅色から紫色を帯びたものが混じって美しいそうだ。 良く似てるけど、ここからはミスミソウ(三角草)。キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草。国内では中部以西の山間地に多い。薬用植物で、肝臓、にきび、気管支炎、痛風の治療に用いられる。 葉は常緑で三角形に近く(ここがスハマソウとの相違点)、3つに分かれている。花弁のように見えるのは6~8の萼片。スハマソウ同様にユキワリソウの別名がある。色は白、紫、ピンクなどがある。 リュウキンカ(立金花)。キンポウゲ科リュウキンカ属の多年草。葉身は心円形から腎円形で縁には純鋸歯(ギザギザ)を持つ。国内では本州と九州に分布し、湿地などで生育する。花期は5~7月で、若芽は食用可能だが、基本的には有毒で下痢を起こすなどの症状が出る。 ここからは、キクザキイチゲ(菊咲一華)。キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。キクザキイチリンソウの別名がある。 本州の近畿以北及び北海道に分布し、落葉広葉樹林の林床に生育する。 花期は3~5月で、白色から紫色の花を開く。菊に似た花を一輪だけつけることからこの名前が付けられた。 葉はギザギザに裂け、深い切れ込みが入っている。類縁のアズマイチゲは葉の切れ込みが弱く、しかも葉が垂れ下がっていることで区別がつく由。 野草園で開花を観たため後日ジョギングコース沿いにある「秘密の花園}を確認したら、今年は例年より3週間ほど早く咲き出していた。地味だが可憐で、私は大好きな花だ。 ここからは、シュンラン(春蘭)。単子葉植物。ラン科シュンラン属の蘭で、春3月~4月にかけて咲くため、この名がある。完全な蕾(右)とやや開き出した花(左)が葉の下に隠れているのが見える。 ランには樹木などに寄生する種類の他に、地中に根を広げる種類がある。シュンランは後者の地生蘭の代表格。野草園ではまだ蕾状態だったが、私は昨年の3月に宮城県登米市の「みやぎ明治村」で、開花したシュンランの花を観た。薄いクリーム色の優雅な花だった。この株にも2つの蕾が見える。 ここからはカタクリ(片栗)で、古名は堅香子(かたかご)。ユリ科カタクリ属の多年草。 早春に花茎を伸ばし1個の花を下向きに咲かせるため、撮影には大変苦労を伴う。宮城県内のカタクリの花弁の内側には、写真のような模様が刻まれている種類が多いみたいだ。 日差しがないと花は終日閉じたままの状態でいる。開花期間は2週間程度。また地上に姿を現している期間は4週間から5週間の間。その後は葉も茎も全て枯れてしまう。 結実した実はアリによって地中へと運ばれて翌年発芽するが、花が咲くまでには7年間を要する由。我が家の近辺にはカタクリの群落が何か所かあるが、これだけの自然が今日まで残っているのは、藩祖伊達政宗公が青葉城付近の森を伐ることを禁じたため。「杜の都仙台」の大恩人である。<完>
2017.04.10
コメント(14)
先日、こんなところへ行って来ました。春の野草園には一体何があるのでしょうね私は野草に詳しくないので、傍にあった「名札」を信じてそのまま載せることにします。 枝の先で咲いているのはコブシ(辛夷)でしょうか。 これも上と同じ樹です。今年は花が咲くのが早いような気がしますよ。 ミツマタ(三椏)です。樹皮は和紙の原料になります。まだ咲いている花はわずかです。 これも同じ樹です。大部分はまだ蕾状態で、咲き出したのはまだ僅かです。 中には赤い花を咲かせる種類もありますが、きっとこれは自然種なのでしょう。 ゲンカイツツジ(玄海躑躅)です。まだ葉っぱも出てません。早咲きなんですねえ。とっても優しい色をしています。 受付で「ゲンカイってどんな字?」と聞いたら困っていました。植物名の前に付くのはたいてい地名のことが多いのです。調べたら「玄海」だと分かりました。やっぱりねえ。 ヒュウガミズキ(日向水木)です。トサミズキとは花の形が違いますね。 これも同じ樹です。ヒュウガ(日向)は今の宮崎県のことで、やはり地名ですね。ここまでは全て「木の花」ですが、お気づきでしたか? コシノカンアオイ(越の寒葵)です。食虫植物みたいに見えますが、これでも花なんですよ。地味な花ですねえ。なお「越」は越前(福井県)から越後(新潟県)に跨る北陸一体帯の国。分国するまでは大きな一つの国だったんですねえ。その北陸一帯が本来の生息地なんでしょうね、きっと。 セリバオウレン(芹葉黄連)。セリの葉に似た黄連(薬用植物)の意味。地味ですが可憐ですね。 セリバオウレンに名前が似てますが、こちらはバイカオウレン(梅花黄連)で、花が梅の花に似ているのが名前の由来です。名前が似ていると言っても、仲間とは限らないのが植物名の難しいところですね。 ショウジョウバカマ(猩々袴)です。高山植物の仲間です。 ショウジョウバカマの近くにイチリンソウ(一輪草)の仲間が咲いています。 高山植物コーナーの一角の岩の上にあったのがこの植物です。一番近くにあった名札には「ウラベニダイモンジソウ」(裏紅大文字草)とありましたが、ブロ友よっちゃんさんによれば、これは「イワヤツデ(岩八つ手)と言う植物で、彼女の家の庭でもちょうど今このような状態みたいです。よっちゃんさん、ご教示くださってどうもありがとうございました~!! フクジュソウ(福寿草)の蕾です。園芸種はかなり前に咲いているので、これはきっと自然種なのでしょうね。蕾状態でも堂々とした風格を備えていますよ。<明日に続く>
2017.04.09
コメント(16)
昨日から始まった「仙台市野草園」の話の続きだが、今日はタイトルを変えた。「上天気に誘われて(^^♪」はいわばイントロダクションみたいなものだからだ。かと言って、今日からスペシャルバージョンと言う訳でもない。まあ「御用とお急ぎじゃない方は、ゆっくりご覧ください」と申し上げておこう。 ツクシ 土筆。ツクシである。スギナの地下茎から伸び、胞子を放つ「笠」のような部分を持つ。実は今年はまだこのツクシを見てなかったのだが、まさか野草園で見るとはねえ。まあツクシも立派な野草だし、私が文句を言う立場にもない。その根元に生えているのがヨモギの若芽。この葉を摘んで加工すると、「草餅」の材料になる。独特の香りが嬉しい野草だが、実はとてもしぶとい雑草なのだ。 園内の小道 「仙台市野草園」はJR仙台駅から南方に3kmほどの大年寺山の山頂にある。昭和20年代の半ば、戦災で失われた緑を取り返すべく、この地を野草園として活用することになった。元々は地味の痩せた赤土の山。それを切り拓いて東日本に生息する野草を中心に育成する一大プロジェクトが開始された。 オープンしたばかりの野草園へは、父に連れられてやって来た。私は多分小学校の低学年だった頃だ。赤松が伐られて、山上からは仙台市の中心街や付近の中学校、愛宕神社などが丸見えだった記憶がある。何の楽しみもない戦後の暮しのさ中で、野草園を心を癒すオアシスにしようとした先駆者の苦労を思う。 トチの大木 樹を植え、野草を植える作業は大変な苦労だっただろう。痩せた赤土の地に、高山植物や水辺の植物、乾燥地の植物、里山の植物など、東日本に普通に見られる植物群を再現するには、きっと長い月日を必要としたように思う。そんな先人の苦労が実って、元々の山とは全然異なる風景が、今私の目の前に展開している。 園内の池 前述の通り、元々は山なので平地は乏しい。文字通り「山あり谷あり」である。谷には川も流れ、窪地には池もある。また奥まった場所には小さなダムもあり、大きな芝生の広場もある。だからアップダウンのきつい園内を一周すれば、相当良い運動になることは間違いない。 山道 大年寺の山頂は標高130mほどか。そのわずかな高低差を上手に利用して、高山から平地までの野草を網羅するのだから大変な苦労だ。そして四季折々の花や植物を揃えるのも大変なことだと思う。園芸種なら幾らでも手に入り、適宜交換するのも簡単だが、ここの主人公は野草。本来の生息地から離れて、赤土の山にやって来たのだから、きっとビックリしたはず。良く頑張ったと思うよ。職員もそして野草たちも。 芝生の広場 ここまで来ると、家族連れが目立つ。きっと休日には大勢の市民がやって来るのだろう。広い園内で一日ゆったり過ごしたら、嫌なことなど忘れてしまうだろうね。春はカタクリなどが咲き、秋には宮城県と仙台市の花「ミヤギノハギ」が咲く。ハギのトンネルを潜るのも楽しいよね。そして園内には、石の彫刻や「水琴窟」などの楽しみもあるんだよね。 藪椿 あれまあ。前置きの話を長々としていたら、結構字数を使い果たしたみたいだねえ。一枚も花の写真を入れないのもなんだから、今日は藪椿だけでも載せておこうか。これは麓の大年寺の入り口、私が自転車を停めた場所に咲いていたんだよね。それが結構な大木でね。では続きはまた明日。 <続く> <補記> 昨日「仙台市豊齢カード」について紹介したら、やや大きな反応があった。これは65歳から有効のカード。ところが70歳になると、今度は「仙台市バス・地下鉄敬老乗車証」と言うカードが使える。市営地下鉄、市営バス、民間バスの仙台市内を走る区間に乗車出来る優れもの。私の場合は正規料金の1割負担で済み、大いに助かっている。 私が仙台市を離れたくない理由の一つがこれ。でも私はあまり利用しない。理由はケチだからではなく、健康のために出来るだけ歩いたり自転車に乗ることを心がけてるため。そして仙台では、昨日ソメイヨシノの開花宣言が出た。まさに春本番である。
2017.04.08
コメント(10)
昨日の仙台は最高気温が19度になると言うので、ブラリと自転車に乗って出かけた。でも同時に色んなことをする私が、ただサイクリングする訳はない。大切な用事を2つ済ませた後、国道に沿ってとある場所に向かった。 長らく自室に引き籠っている間に、世の中はすっかり春だ。堀の傍には真っ白い辛夷(コブシ)の花。いや~っ、これは見事。「白樺青空南風 コブシ咲くあの丘北国の ああ北国の春♬」。思わず歌が飛び出したが、あまりの美声に皆が振り返る。「よ~し、順番に並んで。今からサインするから」。そう言ったものの、誰も近寄っては来なかった。 私が行ったのはここ。この山門を潜って、これから石段を登る。まず自転車をお寺の入り口に停めた。ここは黄檗宗(おうばくしゅう)の大年寺。仙台藩主伊達家の菩提寺の一つだが、今はすっかり寂れている。右は我が国に黄檗宗をもたらした隠元禅師。名前からすると、きっと中国から持ち帰ったインゲン豆を広めた方なのだろう。 あらまあ。太い樹の幹に、こんな看板が取り付けてありまっせ~っ。これは決して威しではない。この付近の養蜂家の庭に、昨年の春先やって来た熊が蜂の巣箱を壊し、中の蜂の巣をすっかり平らげてしまったニュースを今でも覚えている。ここらは街中の住宅地。熊がどんなルートで国道の直ぐ傍までやって来たのかが謎だ。 これが大年寺山に登る石段の一部。かつては山の上に大きなお寺があったようだ。この急で長い石段を、若いランナーは走って登る。ところが私は一段ごとに深呼吸。お爺さんが杖を突いて登っている。84歳のこの方は家が近所なので、足腰を鍛えるために良く来て登っている由。見上げたものだ。そして見上げた先には、どこまでも青い空。しまった!!タオルを忘れた。どどど~っと流れ落ちる汗。 厳しい厳しい石段を登り終えると、ようやく頂上に着く。ヒンヤリした樹間の道を左手に曲がると、やがて「仙台市野草園」の正面に出る。他にも道はあって車でも上れるのだが、我が家からはこれが最短のルートなのだ。大変な思いをしたが、ここまで来れば後は楽。 表 裏 ところで私はこんな物を持っている。これは仙台市が65歳以上の市民に発行する「豊齢カード」。これを見せれば、裏面の仙台市営の施設がほとんど無料で利用出来る優れもの。いわば黄門さんの印籠みたいなものか。(違う?) 施設に入ると、こんな可愛らしい作品が私を出迎えてくれた。いずれも園内で調達した植物などで作った手作りの作品。良いですねえ。こんな自然豊かなものって。 さらにはこんなものが、私を待っていた。上はトサミズキ。そして下はキブシ(右)の生け花。おまけにロビーでは美術愛好団体が「植物画」の展示会を開催中。たまたまその最終日に私は来たようだ。まさに「ただより安い物はない」だ。 <次回以降は別なタイトルで継続予定です。>
2017.04.07
コメント(14)
このブログは予約機能を使って更新日の前日に書いている。朝は出来るだけゆっくり眠るためだが、若干のタイムラグがある。 さて前日に続き、この日も朝から作業を行った。「雲南百薬」の植木鉢を畑に移動し、苗を直植えにする。根っこは簡単に抜け、予め掘った穴に丁寧に植える。南アメリカ原産の健康野菜は、5年前に初めて作って気に入った。そこで「ダメ元」で植木鉢に移植し、冬越しさせて見た。それが大成功して毎年たくさんの葉っぱを提供してくれている。 苗は5年目のが2本と3年目のが3本。とても食べ切れないため、誰か一緒に食べてくれる人を見つけたいもの。遅霜の心配はもうなさそう。苗の根元にたっぷりと水をやった。頼むよ雲南百薬。今年の健康状況は、君らにかかっているんでね。 裏庭に行くと、Oさんのお嫁さんが草取りしていた。この方に会うのも話すのも珍しい。義父のOさんが入院中のため、庭を整理してるのだとか。Oさんと息子の家の草が延びて、我が家に侵入することが良くあって困っていた。そのことも彼女は聞いていたようだ。これからは是非ともきれいにして欲しいものだ。それが普通なのだが、助かるねえ。 Oさんの入院も初耳だった。先日はお向かいさんが急性肺炎で入院し、次にその隣のHさんが大腸ポリープの摘出で入院された。そして今度はOさん。人間80近くなれば、何らかの病気になるのは当たり前なのかも知れない。高齢化が進むわが町内会は、4月23日が総会。私は「委任」せず、毎年出席することにしている。 「東北みやぎ復興マラソン」の名前は何度か聞いたことがある。最近も聞いたため、ネットで検索した。コースは亘理町と岩沼市の海岸部のようだ。フルマラソンは制限が7時間でエントリー料が1万3千円。元気な頃なら楽々クリヤー出来ただろうが。 6kmファンランの部は制限が1時間で、エントリー料は5千円。今の私にはギリギリのタイムだ。わずか6kmのために5千円も支払うのは馬鹿馬鹿しい。それならリュックを背負って被災地を訪れ、復興具合を自分の目で確かめながら走ってみたい。改めてその想いを深めた私だった。 <他にもTシャツは何十枚もあるのですが、私はこの色が好きなので。> 昨日の仙台は最高気温が17度にまで上がるとの予報。疲労もかなり抜けたし、久しぶりに走ってみようか。この天気だと半袖、ランパンで十分。手袋は不要で、帽子は必携。ポシェットにデジカメを入れ、自販機で買った100円のジュースを手に持つ。お向かいさんにシャッターを押してもらって出発。 選んだのは11kmの川沿いのコース。後でノートを確認したら、20日ぶりのランニングだった。実は前夜の夕食後にも早歩きをしていた。歩幅を伸ばすには、手を前後に大きく振ると良いみたい。これをランニングにも応用しようとしたのだが、なかなか容易ではない。広い田圃の造成が進み、広大な住宅地に変わりつつあった。 太白大橋手前でUターンし、帰りは川の左岸を走る。途中地下鉄の駅でトイレと水分補給。土手の道では、白い奥羽山脈が春霞の中にぼんやりと浮かんでいた。2時間以上もかかって帰宅。スピードは時速5kmもないが、これが現実。今の自分には走れるだけでもありがたい。当分はじっと我慢だ。 さて、わが東北楽天は開幕以来の4連勝。昨日は平日のデーゲームでラジオとTV放送を楽しみにしていた。だが先発の釜田が自責点7、リリーフの小山が自責点5と大荒れ。5回表で0-12では興醒めだ。スイッチを切ってブログを書き始めたのだが、先ほど見たら楽天もその後4点を返していた。 最終的には4-15の惨敗。最後に出た浜矢も自責点3だった。だがペナントレースはこれからで、まだまだ先は長い。一喜一憂していてはダメなのだが、ファンとしてはやはり気になるよね。今日の先発は森。若者らしく思い切って投げて欲しいなあ。
2017.04.06
コメント(10)
昨日の午前中。あんまり天気が良かったので、庭の草取りを始めた。今日の写真は目下我が家の庭で咲いてる花ばかり。笑って見てもらえたら嬉しい。 ムスカリ 庭の雑草は3月中旬以降に2回は取ったのだが、良く見るともう伸びている。生物は正直で、春の来訪を独特のセンサーで感知しているのだろう。畑仕事をしてからもう33年ほどになるので、雑草かそれとも園芸種の芽かは瞬時に識別出来る。それに今は気温がさほど高くないことに加え、草が少ないため雑草が直ぐに見つかって助かる。 芝桜 それでもちょっと戸惑うのが、ヨモギと菊の若芽。これも良く見ると、どこか違う。厄介なのが芝の根と芝桜の根がそっくりなこと。特に葉も花もない冬の時期は、つい間違って芝桜の根を切ることも稀にある。そんな訳で、約2時間ほど草取りをしたら、すっかり疲れてしまった。でも庭がきれいになるのは嬉しいものだ。 枝垂れ梅 外水道の水を飲み、次は畑の草取りにかかる。南側の畑が一番広く、次に東側の畑。こちらは3月にジャガイモを植えた時に整備したため、ほとんど雑草は生えてない。次に裏の畑。ここは狭くて直ぐに終わる。次に三つ葉畑。ここはシダなどが生えていて結構厄介。そして、コンポスト容器の周辺とお風呂の裏側。この辺は常に湿っていて、雑草が多い箇所だ。 水仙 畑から冬野菜の最後の収穫。ブロッコリーは結構早く種を蒔いたのに、全く成長が良くなかった。いつもは上手く育って大きな「実」が獲れるのだが。大根は大小8本ほどあったが、私はそのうち1本だけ自分用にし、残りは居候中の前妻にやった。後で刻んで漬物にしたようだ。私は煮物、漬物、大根おろしなどに使う予定。この冬とても重宝した自作の野菜たちよ、長い間本当にありがとうね。 ハナニラ ブロッコリーの残骸を無花果の根元に積む。次にコンポスト容器の始末。一番大きな容器の中は、ほとんどが腐って土に還っていた。この土を野菜の残骸や剪定して積んだ庭木の上に掛けた。これが意外に重労働なのだ。そして冬の期間は腐り難く、おまけに蓋が凍って開かないことが多い。出す生ごみが減るだけで、さほどメリットはない。一人暮らしになったら、このリサイクルは止めようかと思っている。 ヒヤシンス 早めに昼食を摂り、午後からは畑の畝を掘り起こす。スコップ1本での作業は結構な労働量。ところが午前中働いたことで体が慣れたのか、案外動けたのが嬉しい。南の畑は畝が5本。その一部を掘っていたら、3月に植えたジャガイモが出て来た。あれま、ゴメンゴメン。あんたはここに寝てたのね。根はまだ出てなかったが、芽が何本か出ていた。これは順調に育っているようだね。 クリスマスローズ 掘り返した畝一本ごとに、発酵鶏糞、粒状の石灰を撒いて行く。南側の畝の一部には、2つ目のコンポスト容器から掘り出した生ごみも混ぜた。この後土を均し、ジャガイモと玉ネギの畝に追肥。 玉ネギはこんな状況だ。昨年10月半ばに60本の苗を植えたのだが、タマネギネキリムシにやられて30本ほど追加購入したのだが、作業後に数えて見たら25本ほどしかなかった。オーマイガー!!今年はネキリムシ対策の薬を散布しようかなあ。う~む、残念無念。 これはパセリ。小さな苗だが、良く冬の寒さに耐えて残ってくれたもの。このまま大事に育て、もう少し大きくなったら利用させてもらうね。そして、このパセリの隣に支柱を組み、冬越しさせていた雲南百薬苗を2階から運んで玄関に置いた。今日は地植えしようと思う。一晩だけ霜対策で玄関内に入れておいたのだ。これで全作業終了。合計7時間の肉体労働は疲れたが、心は大満足だった。
2017.04.05
コメント(14)
Oさんの死を知った。宮城県選出の参議院議員3期と衆議院議員1期を務めた人で、旧民主党政権時代は国家公安委員長を務めたはず。民間放送アナウンサー出身で気さくな人柄のようだが、私は転勤暮らしが長いため詳しくはない。気になったのは彼女の享年が私と同じ73歳だったため。死因は肝機能障害らしい。私もそんな年齢になったことを、否応なしに知らされた訃報だった。合掌。 あれはロンドンの大会だったか、羽生結弦選手が金メダルを獲った。SPは不振で5位。それがフリーでは自己最高記録を出して逆転優勝だった。これで日本は金銀を独占し、来年のピョンチャンオリンピックへの出場枠を3とした。一方の女子は上位に食い込めず、オリンピックの出場枠は2に留まった。しかし羽生選手、フリーでは4回転ジャンプを全て完璧に飛んだと言うから信じられないねえ。 今年もプロ野球の公式戦が始まった。わが東北楽天は敵地でオリックスとの3連戦。先発は「第2クルー」の美馬、辛島などだったが、何と猛打が爆発しての3連勝とは恐れ入った。中には延長11回まで行った試合もあるし、7回まで0-4のビハインドの試合もあった。それをひっくり返したのだから、梨田監督が組んだオーダーがズバリ当たったのだろうね。 そして今日からはホームでの開幕3連戦。先発は則本、岸などの「第1クルー」。これもぜひ勝ち越して、勢いをつけて欲しいんだよなあ。なお海の向こう、NYヤンキースのマー君は今年も開幕投手だったけど、7点を失って降板した模様。やはりメジャーは厳しいねえ。それにアメリカも今回のWBCには全てメジャーの選手を選ぶなど、本気モードだったもんなあ。 森友学園の籠池理事長、とうとう焼きが回りましたなあ。小学校の建設業者が工事代金の代わりに系列の保育所や幼稚園を差し押さえていたのですが、それでも足りず今度は自宅も差し押さえの対象になったとか。既に大阪地検は告発を受理したし、大阪府の2度目の立ち入り調査も確実で、補助金の類も全て没収になるでしょうな。昔から良く言いますよ。「策士策に溺れる」とね。悪いことは出来ないものです。 家裁での調停後、私がやるべきことを抜き出してリスト化した。そのうち既に解決または解決見込みが14項目。相手待ち状態の案件が2件ないし3件。ある案件が片付いた後に処理すべきものが2件。今のところはこんな状態だ。相変わらず良く眠れない中で、我ながら良く頑張ったと思う。ここは自分に大きな拍手を送りたい気分だ。 そしてここ数年の間に衰えた心身に「喝」を入れようとしている。夜は自室で体操。そして朝は近所を早歩き。長い間自室に閉じ籠って座椅子の主となっていた私。こんな状態では足も衰えて当然なのだが、これまでは気分的に如何ともし難かったのだ。これからは復活しまっせ~。皆の衆。 申し上げ難いのだが、ブログに関しても変化があった。私が来訪拒否した方が1名。この方は酔っ払ってとんでもないことを書くことが良くあった。訪問しなくなった方が2名。そして1か月以上ブログを更新していないブロ友さんが2名おられる。そんな影響か、毎日の読者数もガタ減り状態だ。それもまた良し。私は自分の気持ちに忠実でありたいし、無理してまでお友達の輪を広げてもね。 コメントさせていただいているのは、気持ちが通じる方ばかり。さほど気を遣わず、出来るだけ素のままでお付き合いいただこうと思う。そして人もブログも互いに「響き合う」ものがないとね。きっとそれを「絆」と呼ぶのだろう。こんな私ですがどうぞよろしくね。残り少ない私のブロ友さんたちよ。
2017.04.04
コメント(10)
仙台にもようやく春が訪れた。長かったこの冬、厳しい暮らしの中で私を慰めてくれた一つが冬の花だった。今日載せるのは、既にブログに登場したものばかり。それでもたった一度だけで捨てるのは勿体ないと残していたのだ。感謝の気持ちを込めて、今日は再び登場してもらおうと思っている。ただし、ちょっと変わった詩を添えてだが。 現役時代俺はずっと苦しんでいた 転勤して故郷を去った後の仕事の厳しさ それは誰にも言えないこと 自分の力の乏しさは知っていたが それでも前進するしか他に道はなかった かつて俺の妻だった者よゴメンな 三人の子供たちよゴメンな 二人の孫たちよゴメンな 夫として父親として そして祖父として 十分に心を通わすことができなくて 夫婦は元々他人だから別れることもあるだろうが そんなことは子供や孫たちには関係ないもんね 両親や爺ちゃん婆ちゃんが別れたら もう二度と一緒には会えなくなるし 笑ったり泣いたりすることも出来なくなるもんね だからゴメン 許してねみんな 悔しいなあ 悲しいなあ なぜって実は俺の両親も離婚したんだよ だから俺は子供の時から淋しかった それが二代続けての離婚だもんなあ でも俺はこれからも前を向いて歩いて行くよ だから子供たちよ 孫たちよ 決して俺のことは心配しないで良い 後はお母さん お婆ちゃんをよろしく頼むね じゃあさようなら そしていつかまたお前たちとも会えると良いね
2017.04.03
コメント(16)
今年もプロ野球の公式戦が始まった。わが東北楽天は、オリックスの本拠地「京セラドーム」での3連戦。初戦のマウンドへは美馬と金子が上がった。4対4の同点で延長戦へと突入し、楽天は11回表に2ランホームランでオリックスを突き放した。勝ち投手は9回、10回の2インニングを無失点で抑え切った松井。6時半試合開始だったが、ゲームが終わったのは11時。初戦から4時間半もかかり、またまた寝不足になったのだ。 2戦目の昨日はデーゲーム。東北楽天は着々と追加点をもぎ取って、終わってみれば13対4の圧勝だった。大阪同士の戦いになった甲子園の選抜高校野球決勝戦は、厳しい競り合いが終盤まで続き、9回に大阪桐蔭が追加点を取って逃げ切った。長い今大会だったがついに決着。次は夏の大会に期待しよう。 さて3月のラン&ウォークだが、ランはわずか4回で36kmのみ。走れたのは前半だけだった。例の事情で心労が重なって眠れず、体調は最悪だった。ウォークは17回で53km。これは買い物と散歩が中心。月間合計は89km。年間合計は274km。これまでの累計は88309kmと相変わらず遅い歩みだが、これが現実。今はゆっくりとマイペースで、しかも確実に前進出来たら良いとしよう。 久しぶりに所属走友会の掲示板を見たら、5月にO川さんが完走した「本州縦断フットレース」1520kmのレポートをK野さんがリンクしていた。28日間の戦いは壮観だが、O川さんの温和な性格でやんわり仕上げ。この掲示板で連日応援した昨年の記憶が蘇った。連日のレースの模様は、全て覚えていた。65歳での完走はこれまでの最高年齢だった由。改めてO川さんおめでとうございます。 難問が一歩前進したため、走友会のお花見に参加することにした。だがもらったメールを消したようだ。裁判が続くため、多分参加は無理と判断したのだろう。事務局長のKさんに頼んで再送してもらい、改めて申し込みをした。今年は総会を兼ねた新年会も欠席だったため、会費を納入する必要性もあったのだが、これでようやく納入出来る。さらに練習会へも行ければ良いのだがねえ。 5月下旬にある仙台鉄人会主催の「5時間走大会」への参加申し込みをした。これも例のことと体調の問題で保留していたのだが、思い切って申し込んでみた。参加種目も3時間走にしようかと迷ったのだが、5時間走の部にした。許可が下りたら料金を振り込む予定。まだ元気だった頃は10時間走の部で、あの厳しいアップダウンのコースを75kmも走ったものだが、今は5時間歩けるかどうか。 9月下旬に宮城県内で「温泉地巡りウルトラマラソン」が初めて開催されることは、Kさんからメールをもらって知っていた。だが、その頃もまだ裁判が続くと思っていたし、体調も全く不明なので放置していたのだ。それが急遽事情が変わったため、スタッフとしてお手伝いしても良いとの気持ちになった。 そうなると万全の体調を整える必要がある。数少ないスタッフがドタキャンでは申し訳ないからねえ。これもKさんに申し込んだ。他県からのランナーも多いだろう。給水所でランナーのお世話をしながら、ウルトラランナーだった頃の気持ちが戻ると嬉しい。 その他、心に秘めていることがある。それは出来れば幾つかの被災地(東日本大震災の)を訪れて、自分の目で現状を確認しながら走りたいと言う希望が第一。第二は30km程度の距離の「峠越え」をしたいと言う希望。 かつては60km~80kmほどの峠越えランをやっていたのだが、今はそんな体力がないことは本人が一番知っている。そこで30km程度を歩く夢を見たのだ。それが本当に実現するかは今後の練習と体調次第。これも衰え行く自分への挑戦と思っている。
2017.04.02
コメント(12)
「離婚が決まった」。男が言った。家裁での6度目の調停で結論が出たようだ。間もなく調停結果を整理した書類が双方の弁護士に届く由。それに基づき男は調停で決定した金額を相手側弁護士宛に振り込み、自分の弁護士へ弁護費用を支払うそうだ。年金分割は50%、慰謝料はなし。家は男の物になるが、20年点検に伴う修理の必要があるようで、心なしか男の顔は厳しかった。 「そもそも・・」と男は話し出した。俺たちの結婚式は47年前の4月1日。招待状を出したら、「エイプリルフールじゃないの?」などと疑う人もいたなあ。それに・・。男の言葉が澱んだ。山形勤務時には仲人を頼まれたことがあった。あの時俺は、「将来仲人自身が別れることにならなければ良いが」と思ったが、まさかそれが現実になるとはなあ。男の目は虚空をさ迷っていた。 「調停後も結構忙しい」。将来の家計を考えて保険を解約し、待たせていた業者への返事を連絡し、銀行印を変更し、古い通帳を整理したりと動き回っていたのだ。そしてまだ緊張が完全には解けず、眠りも浅くて冴えない顔色。それでも長年の課題が解決し、安心した面もあるのだろう。そして長い調停のために出来なかったことにも、少し手を付けたようだ。 「さて」と男は腰を上げた。どうやら庭の野菜などを使って炊事を始めるようだ。「菜の花の蕾菜は刻んで味噌汁に入れようか」。畑仕事は男の趣味の一つだ。さらに男は裏庭のフキノトウを幾つか採り、台所で料理を始めた。 フキ味噌 先ずフキノトウを洗って水けを取り、細かく刻む。これとは別に味噌、味醂、砂糖をレシピの分量で混ぜ合わせる。サラダオイルを引いたフライパンでフキノトウを炒め、油が回ったら酒を少々。男は酒の代わりに焼酎を入れたようだ。これに別途作った例の味噌を混ぜて火を通し、水分が無くなったら完成。初めて作った割には上手に出来、早速夕食のおかずになった。春の香りが強い逸品だった。 佃煮 次に作ったのは佃煮。具は引き昆布。これは昆布を細く切った物。オキアミは釣り餌にもなるごく小さな海老。鶏のレバーは2割引きの安物だが栄養たっぷり。この3種類を、出汁醤油と味醂で煮る。弱火で20分も煮たら完成。到底佃煮とは呼べない代物だが、これが案外良いおかずになる。 野菜炒め 最後に作ったのが野菜炒め。野菜はネギ、玉ネギ、蕾菜、ニンジン、モヤシ。肉の代わりに魚肉ソーセージ2本を刻んで入れ、味付けは塩コショウとケチャップ。男の簡単手料理だ。なお米は2合を予め研いでおき、圧力鍋で炊く。前日はカレーを作っておいたので、今週は持つはず。 そうそう・・。男は弁護士の言葉を思い出す。「老後の張り合いのためにも婚活すべきと言ってたなあ」。「俺は終活ばかりを考えていたんだが、まさか婚活とはねえ・・」。戸惑い気味な表情の男。「早く健康を取り戻すため、先ずは串カツでも食うか」。男は食事の面でも結構辛抱していたのだ。「今日から4月。心機一転で何とか頑張ろうな」。男の顔に少し生気が戻った。
2017.04.01
コメント(14)
全30件 (30件中 1-30件目)
1