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激情のメロディが男の背中を撫でる。そう、熱く熱く熱く、背中を迸る声はまるで彼の想いの熱さのようで、窓辺からパリの街を見渡していた彼はやっと、ベッドの彼女に声をかけた。昨夜の情事を表すかのように、二人とも真っ裸。旅が、始まる。ザノは恋人のナイマを旅に誘った。彼の両親が捨てざるを得なかった故郷、遠く、7000キロ離れた、アルジェリアへの旅。徒歩と無賃乗車、時には金を稼ぐため農園で働くことも。通りすがりにさまざま人と出会う。その土地で暮らす人、その土地から離れていく人、パリからアンダルシア、船の乗り間違いでモロッコへ。さまざまな場所で彼らの前に、見えない「国境」が立ちはだかる。パスポートの提示、抜け道、まっすぐに目的地へ辿りつけはしない。若い二人だからこそ、時には、旅先で別の愛を見つけケンカもする。やっと到着したアルジェリアはまだ地震の被害の傷跡が消えないままだ。彼らがアルジェリア入ろうとすれば、アルジェリアから去っていく人々の流れに出会う。どこに境界があるというのか。一つの国に入っていく者と、去りゆく者がいるのである。ザノとナイマ。戯れあい、愛し合いながら確認するようにお互いの傷の所以を話す。男の暴力の傷、幼い頃の事故の傷、誰にも本当のことが言えない深い傷もある。入っていく、去っていく、その度に人は何かをどこかに刻むように。トニー・ガトリフ監督脚本作品。奔流のような熱さが、メロディのうねりとなり画面からも溢れている。「音楽が宗教」ザノがそんなことを言っていた。迸るようなのだ、ザノとナイマ、二人の胸の中、探し求めるものの想いの熱さが。ロマン・デュリスが魅力的にザノを演じ、ルフナ・アザバルが奔放にナイマを演じている。激情のメロディ。故郷に出会うザノと故郷を自分の傷に隠すナイマ。一つの国に入っていく者と去りゆく者がいる。それでも生まれた場所は刻まれている。そして、まだザノとナイマの旅は続いている。
2006.02.01
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「池の底」と呼ばれる寄宿舎、固く閉ざされた門の前で土曜日に迎えに来ると言った父親をペピノはずっと待っていたのである。丁度そんな時、マチュー先生は赴任してきた。1949年、フランスの片田舎。丸い顔に丸い身体をしたクレマン・マチューは、鞄の中に大切に譜面を隠していた。まだ世界は戦禍の闇を色濃く残している。音楽への夢を志していたなら、さぞ辛い時代を過ごしたことだろう。しかも挫折の果てに赴任した寄宿舎は、問題児たちの巣窟だったのだ。その上に校長先生の方針は体罰である。悪戯と体罰が繰り返され悪循環が続いていた。それを解きほぐしたのは、丸い顔に丸い身体のマチュー先生の振る、柔らかな腕のタクトである。彼の腕に合わせて、子供たちは声を合わせて歌っている。コーラス。最初はぎこちなく。だが、次第に声が重なっていく。それはいつしか奇跡のように紡がれて高らかに歌声は音楽になる。誰も彼も皆、全てが、何かを持って生まれて来る。それは唯一とゆうべきもので、他と比べるものではなく、だからこそ強く、美しくさえある。子どもたちの声は子どもたちだけのもの。マチュー先生の音楽もそう。自分だけが持つ宝物を認識できてこそ、やっと人は手を伸ばすことが出来る、そうして「世界」を知るのである。物語は50年を過ぎた現代から始まる。ペピノが訪れたのは、世界的指揮者のピエール。その指揮者が世界に羽ばたいたのも、クレマン・マチューのタクトがきっかけだった。天使の声を持っていながら「池の底」で一二を争うピエール少年は、長い間悪戯を重ね、母親に苦労をかけていた。その彼が歌う喜びとマチューの心を知ったとき、彼の手はやっと「世界」に手が届いた。クレマン・マチュー演じる、ジェラール・ジュニョの軽妙な演技、ジャン=バティスト・モニエのソプラノボイスは、この作品の大きな要素ではある。だが子供たち一人一人の「個性」も、丁寧にかつ、素朴に写し出されている。ソリストの歌声に聞き惚れながらも、コーラスという題材に「個性」の輝きも見える。丸い顔に丸い身体のマチュー先生の振る、柔らかな腕のタクト。だが数少ないテノールのはずだった一人の少年は声を出す機会のないまま復讐の罪を犯す。まるで、マチューが来るまでの「池の底」のように。逆に、用務員に重傷を負わせた少年は、マチューによって罪を知り、罪を償う機会を得る。土曜日に迎えに来るそういった父親は既に死んでいるのにずっと待ち続けてたペピノ少年だった。だが、彼は学校を去るマチューについていった。小さな手は「世界」に触れようと、必死で走っているかのように。「コーラス」オフィシャルサイト
2005.12.01
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イブラヒムおじさんはモモを誘う。故郷の“黄金の三日月地帯”へ行こうと。パリの裏通り、ユダヤ人街、13歳のモモは16歳を騙りお金で娼婦たちに、愛を教えられ、愛を覚えながらも、ずっと飢えていた、その瞳は、感情を知らず、感情を表現を知らない。教えてもらえなかったのだ、見ることも感じることも知らなかった。母の顔を知らず、父は兄のことばかり褒める。その兄のこともモモは知らない。勿論、父が抱える心の闇も知らない。だから幸せになる方法を知らないままに、娼婦たちに金を出して愛を買っていた。イブラヒムおじさんは何でも知っていた。食料品を営んでいる年老いたトルコ人。そこでモモが万引きをしていることも知っている。そして微笑むことを知っている。「盗みを続けるならうちの店でやってくれ」オマー・シャリフは眼に鋭さを宿しながら、コーランの教えを抱くイブラヒムおじさんになる。街や人や自然に何気なく溶け込めるのは、長く生きた者に与えられた特権なのだ、きっと。斜に構えながらも孤独を抱え、モモの内面はまだ臆病だ、様子を窺っている。生きる方法を知らないのだ、まだ、知らないのだ。笑ってごらん、幸せになれるから。イブラヒムおじさんは言う。それは簡単な言葉だが、簡単な言葉ほど、人はなかなか自然になれないのだ、ましてやモモは、父の作り出した狭い狭い世界に生きてきた。そしてその世界さえ父の自殺で闇となる。トルコ人のイブラヒムとユダヤ人のモモが親子に。彼の何気ない言葉は、とても簡単そうだが、簡単な言葉ほど、人はなかなか自然にやれないのだ。例えば、二人が親子になること。簡単なようでいて、簡単ではない。ただ諦めず丹念に最後まで続ければ道は開けることもある。それもまた簡単なようで、難しかったりする。故郷の“黄金の三日月地帯”へ。赤いスポーツカーに乗って、二人は旅する先で、様々な宗教に出会う。静かにモモに説明するイブラヒムおじさんは、コーランの教えをずっと胸に抱いている。モモに彼は、多くを語らない。だが語らないが彼は多くを見せている。生きる方法は言葉で教えることだけではないのだ。見て、聞いて、信じて。全ては自分で成すべきことなのだろう。人は生き、人は死ぬ。それは簡単なことのようで決して、簡単ではないのだ、決して、決して、だ。生きる方法を知るには時間は長いようで短い。だがモモもまた大人になる。そしていつのまにか、多くを知っていた。イブラヒムおじさんから引き継いだ店には、万引きする子どもと自分をダブらせている。何も知らずに人は生まれてくる。生きる方法を知らずに歩き出すのだ、人は。だがそれでも人は生きている。笑ってごらん、幸せになれるから。
2005.10.25
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純白の肢体に金色の衣裳、ほとんど半裸のコスチューム。ロザリンは五頭のライオンを背にして、観客の声援に応えている。百獣の王の猛る視線と戦いながら、繰り広げられる演目、生命というものが、華々しく檻の中で火花を散らす。女神と死神とライオンがいる。若い二人の猛獣使いが自らの意志で演じたのは、見せ物というよりは芸術である。しなやかな茶褐色の獣は、毒々しいロザリンの命令に従うが、その目には凶暴さを讃えている。人間よ、その命の営みを知れ、一瞬の気の弛みにつけ込むのは、薔薇を持った死神というところだろう。ジャン=ジャック・ベネックス監督作品。ラストシーンに昇華するのは、死と隣り合わせの生命。それはロザリンの肢体に宿る、官能と重なり合う。不思議にもこの作品は、前半、さわやかな印象さえ受ける。猛獣使いを志すロザリンとティエリー、バイクで二人乗りをして放浪の旅にである。語り部であり二人を応援するのは、飄々として英語の先生である。だが、下働きばかりさせられて、思うような仕事をさせてもらえない。そんな二人に興味を示したのは、ドイツ最大のケニヒ・サーカス団。五頭もの虎を与えられるが、経験の乏しい二人にはそれも苦難の道だった。調教を任されたティエリーの負傷と、虎の猛獣使いが自己を喪失し、虎の前で自殺する。猛獣使いに魅せられた二人が、猛獣と向き合うことの危うさに気づいたとき、サーカス団のためではなく、自分たちのためのショーへ結実していく。女神と死神とライオン。生命の中身が剥き出しにされる。美しく幻想的なラストシーン。最後に。コミカルな役柄を受け持つ英語教師が、二人を力づけた言葉を引用しておこう。「二点間の最短距離は直線ではなく夢である」結論はそんなに単純ではなく、自らで作り上げるものなのかも知れない。
2005.10.10
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人の描いた空想を映像は「世界」という形にしていく。独自の美的感覚を加えながら、科学や現実といったものに束縛されずに、次々と産み出されていく、その数は無限。コミックから広がるエンキ・ビラルのビジュアル、丹念に飾られた箱庭の美しさに目を奪われる。フランスから届けられた未来は、白き肌の頬に青き涙を流す女性ジルが、神の子を宿すまでの物語。宇宙の仕組み、神の存在、社会はどうなり、人間はどう変わったか。2095年のニューヨーク。人間とミュータントとエイリアンが存在するカオス。レベル1からレベル3に階層が分けられ、エリートと不適格者が隔絶されている。何よりも進化したのは「大企業」だろう。ユージェニックス社が提供する人工臓器が合成皮膚でCGで描かれた人間は異形の形をしている。あちこちに現れるホログラフィの文字は、ニコポルの魂と呼ばれるメッセージ。ユージェニックス社の提供する器官を捨てよ、と。投獄された革命家ニコポルの意志は受け継がれていた。その時、神は。古代神ホルスの反逆罪を執行していた。アヌビスとパステトに見守られ、鷹の頭に人間の男性の姿をした神は甦った。かつて自分も人間を作ったと言いながら、翼をはためかせ、人間の世界に戻ってきた。残された時間は、7つの砂時計の砂が落ちるまで。それは神が瞬きをする時間に等しいと言う。ホルスはニコポルの身体を借りて、ジルを探す。限られた時間、ある目的を果たすために。カオスとされる世界観。過去という歴史を匂わせるアンティークさと、空中に交錯する交通機関の未来が同居する。エジプトの神が遊ぶのはモノボリー、幻想と過去と未来が渾然一体となっている。統一ではなく、全てを飲み込む未来、映像が語るものは、詩的でありながらも饒舌だ。映像は語る、渾然一体の未来。物語が語るのは、一つのカップルの姿。大げさなアクションの見せ場や、哲学的な解釈など必要のないラブストーリー。ホルスの母は、受胎の神イシス。かつて人間の女性だったと言われている。反逆の罪を負い、神でなくなる定めのホルスは、ジルをレイプし、彼女を妊娠させる。だが相手となるのは、ニコポルである。彼は、彼女を気づかう。彼女は、ホルスではなく彼と愛し合う。だが、神の子を宿したジルは、記憶をなくす。それでも2人は再び出会うのだ。ひとりひとりが描く空想。空想は空想のまま、失うことなく、言葉や絵、音楽などに止める力を人は持っている。表現も技術も数多、千差万別、無限。次にやってくる時代はカオス。人の空想の産物は一篇の詩のような映像になる。俳優とCGが同居し、幻想と現実が同居する。まるで、映像を鑑賞するために、物語は細部を説明することなく愛のみを語る。全ては映像が語っている、と言わんばかりに。
2005.05.14
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見知らぬ男が、ジッと見ている。高校時代の友人らしい。彼は懐かしげに目を細めているが、全然、覚えていない。炎天下。修理ばかり必要なボロ別荘へ、向かう途中。クーラーなしの車である、運転するミシェルも奥さんのクレーヌも、子供たち3人もいらだっている。せっかくのバカンスなのに愉しそうじゃない。そんなときミシェルはハリーに会った。しかも、である。車はエンストして身動きとれなくなる。ハリーはグラマラスな恋人と一緒だったが、予定を変更してミシェルたちと過ごしたいと言う。おまけに買い物したい奥さんのために、もう一往復してくれた。そんなに世話になればハリーたちの来訪をミシェルたちは断れない。夕食を囲いながら発覚するのは、ハリーがミシェルを覚えていた理由だった。ヒッチコックを知らなくても、尋常じゃない緊張感が容易にその感触を想像させる。ハリーは、ミシェルが昔書いた詩を覚えていて、彼女とのセックスで朗読するのだと言う。ハリーは、有り余る財産で簡単に、三菱の四輪駆動車をミシェルにプレゼントする。ハリーはその後、ミシェルのために、ミシェルの親や弟や、自分の恋人を殺してしまう。口には決して出さないが、彼は思っている。“可哀想なミシェル、日常生活に疲れ果て、せっかくの文才が宝の持ち腐れ。邪魔なものは、取り払ってあげよう。”「空飛ぶサル」書きかけのミシェルの小説。その続きを書くがいい、書くべきだミシェル。セルジ・ロペスが演じるハリーが見事。目に見える狂気ではなく、穏やかに巻き込んでゆく狂気。穴や、四駆、空飛ぶサル、歯医者、葬式重なり合うように、緊張が高まっていく。ドミニク・モル監督の手法もまた、見続けることで、狂気に巻き込んでいく。ハリーとは、何者か。ハリーはミシェルのために、ミシェルの創作を邪魔するものを消去する。その彼が、邪魔と認定したもの。才能を開花させるために、不必要とされたもの。実際に、全て、消去されるのだ。書き上げるための状況は全て、整っていた。ミシェルは三菱の四駆をツキモノの落ちた顔で運転していた。新しい作品は仕上がっている。うるさい両親と勝手な弟はもういない。そしてもちろん、ハリーもいないのである。
2005.05.06
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肉がなくなった、売り物の肉が。隣りには子供が住んでいる、さては奴らの仕業か!1942年の夏、パリのユダヤ人にも未曾有の悲劇を迎えていた。第2次世界大戦のさなか、である。ドイツはまだ、優勢を保っていた。肉屋のパティニョールおじさんの家でも、娘の恋人がドイツ軍の協力者である。ただし、娘は彼を利用しているだけだったが。パティニョール家のお隣は、バーンスタイン家、お父さんはユダヤ人の外科医。スイスへの今まさに、逃亡しようとしてた時、パティニョールおじさんが「おたくの子供が肉を盗んだ!」と乗り込んじゃったから逃亡失敗。だが、間一髪で逃げた息子のシモンくんを、パティニョールおじさんは匿うハメになる。でもって、彼を逃がそうと画策を始めてしまった。肉屋のパティニョールおじさんまあるい身体にまあるいお顔が乗っかってる。フランスのベテラン俳優、ジェラール・ジュニョが、監督、脚本、主演をこなす。喜劇演劇集団にも属するという彼の演技は、戦禍の中でも等身大の人間を演じている。そのことが、この映画の大きな価値となって光っている。最初はトラブルを避けるために、イヤイヤにシモンをかくまっていたパティニョール。いとこのサラとギラまで連れてきて、自分の立場はわかっているのに、今まで、それなりにイイ暮らしだったシモンは、ちょっとだけワガママでもある。肉を食べないユダヤ人の価値観と、ずっと肉屋だったパティニョールおじさん。だが、感受性が強くて賢い少年は、パティニョールという人間を理解してゆく。外科医の本当のお父さんとは天と地ほど違うはずだが、自分たちを守るために娘の恋人を殺してしまい、さまざまなピンチにも必死に立ち向かってくれている。必死も必死だ、必死だけしか取り柄がない。外科医と偽ってドイツ軍人さんの足の治療をするのだって、肉屋の論理である。人間だって動物と基本の構造は一緒だから、と、グイっと引っ張ってなおしてしまった。パティニョールとシモン、サラとギラ、3人へのスイスへの逃避行もピンチの連続、国境近くの農場の女性と出来ちゃったパティニョールに、シモンはすねて、ガセネタに飛びついてしまう。なんだか大変な逃避行のはずなのに、親子のホームドラマみたいな筋書きである。だが、最大のピンチではあった。肉を盗んだと、隣りへ怒鳴り込んだパティニョール。いつのまにか、ユダヤ人の子供を匿い、娘の恋人を殺してしまったパティニョール。一緒にスイスへの逃避行、無事に送り出すパティニョール。1942年の夏、世界は未曾有の悲劇だった。だが、彼らは親子がともに暮らせる幸せを手にいれた。戦争は人の心を狂気に染めてゆく。だが、彼らは、一緒に過ごす相手を大事に思う心をずっと、忘れなかったのである。
2005.03.03
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うら若き乙女の悲鳴あらば、全てを投げうち救出に向かわねばならぬ。微笑み絶やさず、愉しそうだ。ファンファン・ラ・チューリップ、只今、参上!!1952年の作品のリメイク。若くして散った伝説の美男子、ジェラール・フィリップに捧げられた作品。ペネロペ・クルスをヒロインに迎え、美男子というよりは、子供にも人気の笑顔のファンファン、ヴァンサン・ペレーズが縦横無尽に演じている。陽気で自由、我が道を行く。その日、恋を語っていた娘の父親に見つかって、強制結婚させられそうになるが軽やかに逃げ去っていく。これまでに浮き名を流した娘たちも集まって、みんな愛していると笑顔をふりまくファンファン。だが、誰とも結婚するつもりはない。運命の相手と出会うまでは。時は18世紀、フランスはルイ15世の御世。プロシア、イングランド、アイルランド国々はスポーツのように戦争三昧に明け暮れていて、王たちはチームのオーナーのように、選手増強を計ろうとしていた。お金と好待遇を振りまいている。なにやら、皮肉めいた設定である。「あなたは王女と結ばれる運命」「そのためには軍隊にはいらなきゃ」黒髪に黒い瞳の美女、アドレーヌの手相占いを、本当に信じてか、ワザとなのか、ファンファンは軍隊へ。実は彼女、兵隊募集係の兵士の娘。兵士になりたがらない男たちを唆すための定番の大嘘。なのに、そんなとき、うら若き乙女の悲鳴が彼の耳に入る。フランス王女の馬車が襲われていた。運命は現実に!!裏切りと陰謀、ファンファンにスパイの嫌疑も。王女への求愛がいつしかアドレーヌとの恋に。彼がピンチならば、自らも出陣する彼女である。卑怯な敵がいれば、拳銃で威嚇し、相手の足が屋根をブチ抜けば、その足を引っ張りに行く。死罪目前の彼のためにルイ14世に直談判へ。ファンファンが縦横無尽に活躍すれば、いつも彼女はその片棒を担いでいる。面白そうに。愉しそうに。洗濯が上手、料理の上手、そんなアドレーヌに求愛する男がいる。「彼は、洗濯や料理をしてくれる道具が欲しいんだ」ファンファンはにこやかに皮肉を言う。ファンファン・ラ・チューリップ、アドレーヌと結ばれるのは必然の運命である。フランスの王、王妃も祝福する二人のウエディングは、チューリップをあしらった可愛らしい衣装。にこやかなファンファンと愛らしいアドレーヌは幸せをふりまく。そして彼は言うのである。「彼女は僕と子供との家庭を統治してくれるでしょう」と誇らしく。
2005.02.03
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たまには、肉を食わないと生きていけない。核戦争後のフランス、いわゆる荒廃した近未来って奴だ。当然、食糧難で定番は豆とトウモロコシ。そんな世界で存在する精肉店。本日も新鮮な肉が新入荷!そして人間がまた消えてゆく。監督は、ジャン=ピエール・ジュネとマルク・キャロ共同となっている。1991年のフランス映画。お話は「恋」が勝つか、「食欲」が勝つかで上を下への大騒ぎ。セピア色の画面に登場人物、七転八倒。まさに狂想曲。精肉店の上のアパートに、新しい「肉」、、おっと、間違い、「入居者」がやってきた。サーカスの人気者だったピエロのルイゾン。相棒のお猿さんが食われたばかりで意気消沈中。なかなか心優しき青年である。精肉店のお嬢さん、ジュリーは恋をする。あの手この手とがんばって、ルイゾン青年を助けようと奮闘する。彼もまたジュリーに恋をして、なんとか生き延びようと奮闘する。だが、肉を食べたいアパートの住人たちも強者揃い。特に肉屋の親父が不死身で無敵なのである。セピア色の映像の中、デリカテッセンの看板は主張する。古き時代を思わせる街並みに人々は暮らす。弦楽器が軋めば、ベッドも軋み、メトロノームも左右に振れる。肉を求めるのは地上の人々、伝説の地底人は菜食主義者だが、役に立たない。全く、上を下への大騒ぎ、風呂場の水が溢れて、洪水で、起死回生の一撃もアウトかと思えば、なんとかセーフである。地上に地底に、左右に振れる。クルッと回ってブーメラン。緩急自在だというよりは、緩急激し過ぎ!美しくてグロい映像。昔のような未来の映像。音楽は多彩に、振幅も激し過ぎ。ルイゾンとジュリーの恋が実っても、本日もどこかで肉は皿の上に。人肉がドウノコウノが二の次になる、七転八倒ブラックワールド。たまには、肉を食わないと生きていけない。実はどんな肉なのかわからなのだが、肉は何処かしこでも売っているのである。
2004.12.24
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ワンサカワンサカ、サンタが街に。インラインスケートをはいたサンタ強盗団。フランスのマルセイユ警察、8ヶ月もの間、謎の銀行強盗が捕まえられず、取り逃がしてばかり、30と数十回、面目、マル潰れ。オープニングからチンケな007のパロディとフランスが似合わない豪華ゲストにニヤつく。シリーズはもう、3作目、「20分以内に空港に行ってくれ!」お客のムチャな注文に合点承知のスケのダニエルに、ワクワクせざるを得ないのである。ウィ~~ンと秘密の箱が開いて、スイッチがバシ!バシ!バシ!とONになり、ハンドルも、特別仕様に付け替え完了。車体が下がってウイングが開いて、準備オーケーしたかと思えばもう、シュウイ~~ンンンン!と加速は始まっている。その時速、新幹線なんぞに、負けちゃあいない、目眩く時速300km超えの世界。スーパーTAXIプジョー406見参!である。さて欠かさず観てきたTaxiシリーズ、今回は派手なカーチェイスは少な目のようである。ところがドッコイのリュック・ベッソン脚本、キャラ設定にコネタを乗せてシンプルに爆走のストーリー。マルセイユ警察でピカイチのダメ刑事エミリアン、このヒト、車の運転が出来ないつー設定である。だから、犯人追跡のためという大義名分のもとで改造車の機能全開の違法爆走運転をダニエルにさせちゃうヒトなのである。刑事さんのおスミつきで好き勝手に運転できるから、ダニエルの目はランランと輝いている。二人はもはや、名コンビである。さて、強盗団を取り仕切るはチャイナ美女、キウ。スコブル化粧が濃く、記者と偽りジベール所長を誘惑、警察情報を盗みまくりである。エミリアンを誘拐して、やっぱり誘惑している。殺すつもりなのに、誘惑している。強盗団は、雪山へ。やっぱりダニエルは合点承知のスケである。ウィ~~ンと秘密の箱が開いて、スイッチがバシ!バシ!バシ!とONになり、車体が上がって、タイヤは雪上モードに大変身。スキー競技に混じって、爆走する。それはそれで十分に面白いのだが、追走するジベール所長からも目が離せない。くだらぬダジャレが大好きの所長はコネタ王であり、災難を一気に背負ってくださってる。スイッチがバシ!バシ!バシ!とONになり・・・リュック・ベッソン脚本、今回は、いつも以上に磨かれてピカピカのシンプル仕様、この作品から入っても笑えるだろう展開である。しかし、ダニエル×エミリアンのコンビが、いつのまにか父親になっているのもまた愉しい。シリーズを欠かさず観てるからこそ、愉しさもヒトシオである。女性のココロがわからぬ、朴念仁ばかりだが!正義も信念も、根性さえもない映画。それでもスカーっ!と爆走して終わる約90分。好き放題!勝手放題!されてしまっているようだ。ああ、もうバカ!って感じである。(笑)
2004.12.16
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良かったね、カステラさん。クララさんが微笑んでくれてるよ。ムッシュ・カステラ。口髭が特徴でオデコは広めフランスの中小企業の社長さん。たまたま奥さんとつきあいで観劇したときに、女優のクララさんに一目惚れしてしまった。芸術なんかわかんないから退屈で退屈で極まりなかったはずなのに、彼の目はランランと輝きだしてしまったのである。もともとクララさんは会社に押しつけらて習っていた英語の個人授業の先生だったのである。売れない女優さんだからバイトも必要、もう若くもないから大変である。仕事はキチンとカステラさんに英語のレッスン。宿題の作文でカステラさんから愛の告白、それもベタベタな愛の告白、クララさんは困っていた。カステラさんの周囲も近頃慌ただしい。会社の契約の関係でボディガードがついて、彼も仕事の傍ら、ウェイトレスさんに恋をしている。お抱え運転手さんは遠距離恋愛中。オジサン三人がそれぞれのベクトルで、途方に暮れた恋愛をしてたりする。カステラさんには芸術がわからない。だが愛しのクララさんは舞台女優で、彼女の友達は芸術家だらけである。何かと彼女の回りをうろついて話を合わそうとして、トンチンカンな発言で周囲に笑われて、クララさんはヤキモキしている。そう言えば観ているこっちもヤキモキしてしまっているのだ。クララさんが「口髭の男は嫌い」と言えば、ソッコー、ヒゲを剃ってきたりもして、何をそこまでと呆れてしまうのだが、でもなんとなく微笑んでしまうのである。カステラさん、初めて自分で一枚の絵を選ぶ。それを自分の家に飾る。あんまりワケのわからない絵だったので、奥さんはその絵を取り外してしまう。カステラさん、カンカンに怒ってしまった。自分の家に、自分で選んだ「絵」を飾る、なぜそれが出来ないのか。奥さんの心情もなかなか大変なのだが、すれ違いの夫婦はゆるやかに破局する。さて、クララさん、彼女がカステラさんを好きになる理由はどこにもない。共通点もどこにもない。他の人の目もあることだし。正直に真意を告げるのだが。それでもカステラさんは、クララさんが好き。ホントにホントに好きなのである。そんなカステラさんの一途な気持ちがやっと映画の最後に伝わったようである。だから、クララさんは舞台の上で満面の笑みを見せていた。良かったね、カステラさん。
2004.11.22
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失われたものだから、透明ではなく悪夢のようでだが純粋、薄膜をはったように緑色の輝きを放っている。少女と男は水の上を行く。決して透き通ることのない水の上には大きな月が揺らめいている。沖合に浮かぶ奇妙な実験室。そこに住むのは天才科学者、クランク。彼のために子供たちがさらわれていた。サーカス団の怪力男ワンの弟も。未来はパラダイスにはならず朽ち果てた港町で子供たちは泥棒団である。ワンは泥棒団の9才の少女ミエットは出会い、さらわらたワンの弟を捜すために、一つ目教団の本拠地に潜入することになる。二人の間には純粋な感情が見える。薄膜の緑色の輝きの中で。ジャン=ピエール・ジュネ監督作品。寓話的な世界が美しく映像に広がっている。どこか悪夢にも似た色彩で。どの場所も皆、失われている。満たされているものはどこにもない。狂気の狭間にクランク。ワンとミエットを殺そうとするのは、痩せた黒髪の女のシャム双生児。博士とクローンは海底にてケーキを囲む。7人の同じ顔が並んでいる同じ顔同じ顔指導者は脳だけのイルヴィンだ。装置は皆、部品をつなげただけ、小さな部品、大きな鉄塊、そして水上では月が揺らめく。どれも失われている、のかそれとも、いらないものが消去されたのか。薄膜の緑色の輝きの中、ワンとミエットはラビリンスにいる。この世界もまた近未来。映像として見るには美しい未来だが美しすぎて悪夢にも似ている。いらないものが消去されたのか。愛情だけが残ったのか。ワンとミエットはお互いを理解していた。怪力男と9才の少女に見える。だがワンは幼い心のままミエットの精神年齢はずっと上熟女にも見せる。満たされようが幸福にはなりえない。失われても残るものそれが、この世界。薄膜をはったように緑色の輝きを放っている。少女と男は水の上を行く。決して透き通ることのない水の上には大きな月が揺らめいている。写真はこちらで。
2004.09.20
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その肉体が切り裂く空気の裂け目に敵は傷つき倒れていくように見えた。アメリカ先住民モホーク族のマニ。マーシャルアーツの達人が演じるアクション。鍛え上げられた肉体が宙を舞う。色濃く装飾されたこの物語の一番華やかな宝石である。女子供ばかりを狙う「獣」がいる。国王の命により王室博物学者グレゴワール・デ・フロンサックは義兄弟であるマニとともにジェヴォーダンにやってきた。1765年、ルイ15世の治世。フランスは啓蒙主義時代にあたる。当時の世相を紐解けば、ジェヴォーダン地方の地方貴族たちの陰謀の根底にあるものは容易にわかる。フロンサックは全てを見抜く。土地ぐるみの陰謀である。冒頭より「獣」に追われ怯え逃げまどう女が観る者を釘付けにする。雨に濡れながら夜盗たちから老人と娘を守るマニのアクション。速い上に高く飛ぶ。ストップモーションかと思えば急に急ぎ展開するカメラワーク。かと思えばフロンサックとマリアンヌ嬢の恋は最初オママゴトのようで和まされる。だがマリアンヌの兄、片腕のジャン・ピエールは妹を溺愛し我が者にしようとしている。フランスの歴史ミステリーの根幹に過剰なる装飾が施される。アクションと恋物語と禁断の恋。おまけに貴族御用達の娼婦は秘密諜報部員である。さて「獣」とは。明かされる「獣」の正体よりもマニを殺されたフロンサックの復讐劇に驚かされてしまう。飄々とした男がマニに憑かれたように驚嘆のアクションを見せてくれる。しかし「獣」とは?啓蒙思想は人間の理性や意志を重んじ、現実の国家やキリスト教を批判する。フランスはかの有名な革命の時代に入るのだ。フロンサックとともに事件に挑んだ若き青年貴族の運命が全てを物語る。哀しき「獣」の正体と自然に近い存在であるマニの死。本当の「獣」は明らかに他にいる。人々を飲み込み飲み干してゆく。この物語を語るには装飾が多すぎる。細やかな設定とハデなアクション。スピード感あふれる演出は観る者を圧倒する。。それだけでも充分満腹になる。
2004.08.16
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パリのポンヌフ橋橋とは彼の地と此の地を結ぶ境界線である。その向こうは知らぬ世界。足を進めれば手を伸ばせば届きそうだがまだ触れたことのない未知がある。そこで二人は出会った。未来に不安を抱いた二人が。アレックスはポンヌフで暮らす。身よりはない。天涯孤独。ミシェルは、失明するかも知れないという目の病気を患っている画学生。まずはミシェルがアレックスの世界に住まう。彼を中心とした世界が形成され、彼とミシェルを中心とし一定の範囲が領域となり、明らかな境界線が出来上がる。橋の上を中心にした恋。橋の上を中心にした二人の世界。だが彼女はいつまでもそこにいなかった。彼女の病は治る見込みのあるもの。画学生の未来は閉ざされていなかった。彼の地へ走りゆく彼女。そこにアレックスは行けない。橋の上、橋の袂。彼の地へも此の地へも行けない。そのジレンマが罪を呼ぶ。ポスターを燃やすアレックス。彼のもがきが人の命を奪う結果となって。彼はやはり橋の上に閉じこめられる。クリスマスの雪景色、革命記念日の花火。語り継がれている映像の美しさは、彼の地にも此の地にも染まらないただ「愛」だけに満たされた二人に相応しいもの。レオス・カラックスが描くのは橋という境界領域で何者にも属さない純然たる男と女の愛情。だから美しい。だが二人の愛はどこにも行けず、未来はない。祭りの日、日常は全く別の時間となる。橋の上という境界領域で非日常のヴェールに包まれたまま愛し合う二人。愛し合う二人はそのまま閉ざされる。ポンヌフの橋の上で。
2004.08.05
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