全59件 (59件中 1-50件目)
男を幸福にする女も、男を不幸に追い落とす女も一人の「女」の中にある。吉祥天女。1983年から1985年に吉田秋生によって世に出た名作である。漫画としての魅力だけでなく、作品が持つテーマから時代を超えても色あせない、唯一無二の作品だと言えるだろう。2007年、映画化された吉祥天女は、昭和45年の金沢を舞台にしている。漫画というよりは、小説の映画化のように、足に地がついた設定がされていた。たくさんの少女や佇まいも柔らかく穏やかな風情を見せる。約30年後の少女たちよりもずっと、彼女たちは内なる女をしっかりと抱えている、そんな風に、見えた。叶 小夜子。内なる女性を抱えた少女たちの前に降り立った天女。麻井由以子が彼女に抱いた憧れは、歴史の中で女性が歩んできた運命への反論。天女神社で同級生の男どもに襲われた時、小夜子は何人もの男を見事に薙ぎ倒した。力の強い男に囲まれたら、女性に自由はない、為すがまま。女の根底にはどこか、力に屈服する心が潜んでいる。だからこそ由以子は、小夜子の強さに強い憧れを抱いていた。だが天女の羽衣に触れた男には祟りがあるという。天女神社をはじめ、この辺りの土地の地主である叶家。小夜子は遠野建設の息子、暁といわば政略結婚をさせられようとしていた。遠野家当主の一郎や叶家の浮子たちが、巨額の財産を自分たちで管理でしようとしたがための策略。だが小夜子は大人が決めた運命など気にもせず、暁よりも遠野家の養子、涼が気になるようだ。お披露目のお茶会で並んだ高校生の三人、小夜子、暁、涼。「暁くんより、涼くんの方がいいわ」何気ない一言は、彼女が見せた明らかな意志である。男たちが観る小夜子への目線。美しい女性への目線。愛情という側面もあれば、鑑賞という側面もあれば、征服したいという欲望もあるのだろう。だが、男を幸福にする女も、男を不幸に追い落とす女も一人の「女」の中にある。女の根底にはどこか、力に屈服する心が潜んでいる。だが、小夜子は屈服しなかった。小夜子を屈服させようとした者たちは次々と彼女の手によって死を与えられていく。幼い幼児の頃から小夜子は、義理の父親の魔手さえも逃れていた過去を持つ。彼女は征服される女ではない。と、同時に守られる女でもない。涼に小夜子は魔性。それは、涼のみ、彼のみ、女を個性として観る感性を持っていた証拠。だから、小夜子を畏れ、小夜子を愛した。遠野涼は小夜子を守ろうとした。天女を愛する資格を持つ、ただ一人の男だったろうに。麻井由以子が、そして他の少女たちが観た小夜子は憧れ。だが、小夜子には由以子が憧れ。自分が愛した男に愛され、守られ、自分も彼を守ることが出来る関係など小夜子のとっては夢のまた夢。小夜子は鈴木杏、難役に大胆に挑んだ彼女はまさしく女優。勝地涼の遠野涼は、適役だろう。深水元基は暁は原作とは違う存在感である。及川中監督作品、年代や舞台設定を限定したことにより、原作のもつテーマは和らいでいる。真実の語り手である麻井鷹志が女性になり、女性にとっての小夜子と男性にとっての小夜子の差異がぼやけてしまった。だが監督が原作のテーマを充分理解し、おさえた照明と素朴なカメラワークで、二次元から三次元に降り立った吉祥天女に、しっかりとした存在感を与えている。原作とは違う演出に悪い印象は感じないですんだ。唯一無二の作品を映画にするのは難しい。寧ろ、映像となった吉祥天女が、形となったことが嬉しくさえ思えてくる。男であるとか、女であることかで、境界線を感じる必要はない。小夜子に憧れる由以子、小夜子が憧れる由以子。全ては表裏一体。自分の運命に自分の中にある。男以上に女はそうであると思わせてくれる作品である。「吉祥天女」公式サイト
2007.07.28
コメント(4)
自殺したD級アイドルのファンだった5人の喪服の男が密室で繰り広げる絶妙な掛け合いの傑作コントである。あれえ?そうじゃなかったなあ。自殺したD級アイドル、如月ミキの一周忌、ネットで知り合った5人の男が解き明かすのは、彼女の自殺の原因。次第に解き明かされるのは、5人の男の如月ミキとの関係、だった。ミステリの要素たっぷりの密室会話劇。って。合っているけど合ってない。ミステリのドキドキ感はすべて笑いに変わっていた。笑った!笑った!古びた小さな部屋で、如月ミキ一周忌の手製の垂れ幕を張り、秘蔵の如月ミキ写真集をテーブルに立てかけて準備しているのは、このオフ会の主催者「家元」である。最初にやってきたのは「安男」、自分で焼いたりんごパイ持参でやってきた。「スネーク」「オダ・ユージ」「イチゴ娘」と、招待客は自分のキャラ全開で登場する。ハイテンションのスネークはすぐに場に溶け込んでいるが、オダ・ユージはムッツリしかめっ面。イチゴ娘を名乗る中年の親父は、喪服に着替えてイチゴのカチューシャを頭に。彼曰く、如月ミキの私物だと言う。如月ミキ。一年前、部屋ごと焼けてしまったグラドル。歌も下手でダンスも下手で、素人っぽさが抜けないまま死んでいった。何故、死んだのか。犯人は、おまえだ!!!と、自分の推理を披露するのはオダ・ユージ。名指しされたのは、イチゴ娘。だが、犯人を見つけて誰かが悪い!と決めつけるのは、この映画の趣旨じゃない。誰でも笑える定番のギャグもなく、コメディアンのアドリブ連発があるわけでもない。天然ボケキャラが天然を出すタイミングもない。笑わせる演技とは、泣かせる演技よりも難しいと聞く。計算された脚本と演出と演技と間合いで、引きづり回されて笑わされるのである。家元には、小栗旬、人気者には必ず華がある。モヒカン姿も披露したスネーク小出恵介は、芸達者でもある。二人の旬の役者に絡むのは彼しか出来ないオダ・ユージ役、ユースケ・サンタマリア、とにかくヘンなパワーだ。本格的な芸達者、香川照之のイチゴ娘は出過ぎす、やりすぎず、けれどもオイシイ。安男役は、塚地武雄、ただ一人本職のコメディアン。前半はボケ役に徹していた。ツッコミにボケにオイシイ役と、誰が誰かと言い切れないがそれでも、キャラクターは全てコントの役割を担っている。間違いなくこの作品は、計算されたコントなのである。笑って笑って気持ち良く笑って、そのうち彼らのことがわかってくると、彼らが何故、如月ミキを愛したかわかってくる。たいした取り柄のないD級アイドルだ、容姿や才能を愛したわけでもない。けれども、彼らは誰もが、周囲の誰かを愛するように如月ミキを愛していたのである。・・・一人だけ状況の違う奴もいたのだが、彼だって、そう、変わらない。愛された者は、愛した者にとっては、もう、スターだ。隣の誰か、むこうの誰か、あそこの誰か。遠い場所にいる誰か、写真の誰か。容姿や才能や、血縁のあるなしも関係ない。ましてやお金とか地位とかでもない。愛された者はもう、スターだ。しかし、まあ、笑った。たくさんの笑いが最近は氾濫しているが、計算された笑いは、また格別なのである。「キサラギ」公式ブログ
2007.07.11
コメント(2)
「インドに行けば一生働かなくてもいい」インド、インド、インドに行くには一人だいたい、いくらくらい必要だあ?猫だらけの家に住む猫じじいの猫を焼いて食べてるようなリョウスケ、カホル、ヒラジの三人組、全く働いてないから、金銭感覚、まるでナシ。(猫を食べていると申し上げましたが猫を焼いているという残虐シーンはございません)(ただし猫じじいの家の猫が一匹行方不明)佐藤隆太が演じるリョウスケはいいとして、緑のジャージ上下を小汚く着こなす、温水洋一のカホルは25才であると言いだす。二人の兄貴分のヒラジは知る人ぞ知る初代ビシバシステムの緋田康人。監督三木聡と温水、緋田の三人が原作のようなこの作品、上映までは長い道のりであったという。インドである、インド。かといってリョウスケ、カホル、ヒラジが目的をもってビッグビジネスに精を出すはずはない。円筒型の郵便ボスト壊し、郵便物の切手をはがして郵便局で換金。そんなもんで稼げる金額は微々たるもんである。胡散臭い神の啓示もあってインドに行こうと盛り上がったように見えて盛り上がってやる気になるような三人でもなく、多彩な登場人物が絡んでも起承転結もなく物語は進んでいく。トルエン中毒のチエミには鍾乳洞が好きなヤクザな恋人ササキがいるけれど、なんとなく同世代のリョウスケが気になってる。リョウスケは花沢というまともなサラリーマンの友人に、働けよと促されたりするけれども、ハンバーガーショップのバイトは上手くいかなかった。ちょっとボテトをオススメしたりできないのた。インバさん。インバさんは街の中に流れる、汚い川にいつも裸でつかっていてニコニコしている。インバさんの足はもう二本足ではなくて、魚みたいになっていそうである。インバさん、インバさん。インバさんは昔、働いていたそうだ。廃工場にある飛べないロケット。リョウスケは秘密のスイッチをチエミに教える。チエミは飛ばすにはトルエンと燃料タンクにぶちこむ。ササキはそのロケットで飛ぼうとした。小さなサンダル工場は借金まみれになっていて社長も従業員も起死回生を狙って新デザインサンダルを考案しようとしているけど、うまくいきそうな感じ0%。働いていてもお金は貯まらない。チエミにはタンクという友人がいる。いつもタンクの上にいるセーラー服の美女である。タンクはトルエン中毒で、それで死んでしまった妖精のような女性。いくら若くてもそやって命を落とす場合もあるんだな。三木聡監督の世界のコネタを演じるのは、なんとも豪華な俳優陣である。あんなところにもこんなところにも、有名どころから通好みの方々まで百花繚乱。主人公三人組と実のある絡みかたはロクにしない。なあんか一応インドには行くつもりの三人組。伝説の男になるんだと息巻くゲシル先輩の便乗して、銀行の金を強奪するのに参加する。一応、そこんとこ、クライマックス。なにせ、街の人(エキストラ?)も参加して、登場人物も何人か参加して、ヘン顔のイラストの紙袋をそれぞれカブリ、ダダダダと金を手づかみで強奪して街中逃げ回るんだからヘンな感じ。目的意識、責任感、そういうもんのないところにいる三人組。なんのために生きてるのか、とか、人生の意義をどうのこうの考えない作品である。そのまんま、その場を生きている。天然。インドに行っても行かなくても、結果がどうあれ、夜露をしのげる布団があればラッキーなのだ。飛べないロケット。廃工場にうち捨てられた飛べないロケット。みんなそれまでの人生があって、ジレンマを抱えているんだろうけど、そういうストーリーは一切語られないのである。猫を焼いてる場面がなかったように。それにしても、日本という国は、食べ物も生活必需品も結構捨てられているからリョウスケたちの生活にリアリティがある。インドに行こうとした三人組。いつか行くかも知れないし、一生行けないかも知れない。もしくは一生行かないかも知れないのである。「ダメジン」公式サイト
2007.06.30
コメント(6)
たいしたものじゃないですけど。どうか、おかまいなく。何かお手伝いしましょうか。遠慮しないで、召し上がれ。若い頃のようにチヤホヤされなくなって、もともとチヤホヤされるような美貌もなかったりして。天賦の才も権力もなかったりする。でも、それなりに自分の人生があって、それなりに経験もある女性たちがこの作品の中に集う。こういう女性たちを私はとても良く知っている。かもめ食堂の店主はサチエさん。ガッチャマンの歌詞を完璧に知ってるミドリさん。自分の荷物が行方不明のマサコさん。こういう女性たちはスゴイ能力を持っている。「人をもてなす能力」「人を気遣う能力」個人差はもちろんあるのだけどもね、ただその二つの能力は人生によって培われるのだ。たぶん。きっと。ruokale lokkiかもめ食堂、フィンランドのヘンシンキにある、おにぎりがメインメニューの小さな食堂である。店主のサチエさんは小さな女性で、お客のこない店でセッセとガラスコップを磨いている。「いらっしゃい」お客さんをもてなすその言葉を、しばらくは彼女、一度も言えないでいた。最初のお客は、ニャロメのTシャツを着た日本かぶれ、なヘンな青年である。漢字で書くと「豚身・昼斗念」最も、その当て字はミドリさんによる即興で、カタカナならトンミ・ヒルトネンにこやかで可愛らしいが友達がいないようある。ご近所らしきフィンランド女性三人が、焼きたてシナモン・ロールに引かれてやってきた。コピ・ルアック、コーヒーがおいしくなるおまじない、とコーヒーがおいしくなる方法を教えてくれたのは、以前その場所にコーヒー店を出していた、中年の男性である。夫が帰ってこないと憤る中年女性は、コワイ顔をしてかもめ食堂を睨んでいたが、それは彼女のワンちゃんとサチエさんが、とても似ているから、ということだったらしい。ガッチャマンの歌詞を知っている人に、悪い人はいないとミドリさんを世話するサチエさん。ミドリさんは少々乱暴だが一生懸命かもめ食堂のテーブルを吹いている。マサコさんはとても介抱が上手くて、行方不明の荷物の中に、本物の「自分」の荷物を探そうとしている。サチエさんはサチエさんの信念を持って、かもめ食堂を日々キリモリしていて、マジメにマジメにがんばっていたりして、それでも上手くいかない可能性はあるんだろうけど、そしたらそれで止めればいい。大丈夫、大丈夫、そこのところはきっとミドリさんもマサコさんも同じだろう。そんな彼女たちが道を開いていくのは、彼女たちが持つ二つのスゴイ能力なのだ、きっと。「人をもてなす能力」「人を気遣う能力」若い頃はあんまり必要なかったけれど、それなりに経験値が高くなると必要になって自然と備わっていく能力なのだ、きっと。エプロンをして水をトレーに置いてお客さんのテーブルへ。最初は馴染みが薄かった「おにぎり」も少しずつお客さんのテーブルにのるようになったきた。彼女たち手のひらに乗せて握ったおにぎり。おにぎりは、コーヒーと一緒で、人ににぎってもらった方がおいしい。「人をもてなし」「人を気遣う」そんな心が込められているおにぎりは確かにおいしい。小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、息のあった女優陣が醸し出す空気感が素晴らしい。フィンランドの方々の好演も見逃せない。特に料理をする小林聡美の姿は秀逸。荻上直子監督が撮るのは、凛と人生と生きる登場人物とその場所その場所にある自然な空気感。時折ジンとくる台詞が心にしみる。「いらっしゃいませ」お客さんを迎える言葉がかもめ食堂に飛び交っている。サチエさん、ミドリさん、マサコさん、それぞれの「いらっしゃいませ」がある。かもめ食堂の店主はサチエさん。彼女は太った人がおいしそうに食べる姿に弱いらしい。
2006.06.12
コメント(15)
とりあえず引き算が出来れば、都立クロマティ高校には入れるそうである。引き算ってとこがミソでありまして。インターナショナル的に考えると、引き算的発想で計算できない方がいらっしゃるとか。あはは、いい加減なクソ知識で申し訳ない、ご容赦を。池上遼一大先生の劇画タッチで、ギャグマンガってのが「都立クロマティ高校」公開に先立ち、大問題が起こってしまった。その昔、Gのユニフォームを着ていた、クロマティと言う名の選手がいたもんだからさ。ギャグマンガに使われるとはケシラカラン!と思ったのかどうだかいい加減な情報しか知らなくて、ただ、公開も危ぶまれたといういわく付きの作品。とととと、都立である。舞台は高校なので、青春モンであるけれども、しかも66年生まれ高山善廣が演じる竹ノ内豊(16)は高校一年生らしいけど、あ、カッコジュウロクって書いてしまってるな私。いい加減で申し訳ない。主要キャストに10代の俳優は皆無。どうも実年齢が問題ではなくて、クロマティマインド(造語)があるかどうかかなあ、と思ってしまうほど俳優たちははまっている。スカッとするくらいに。クロマティ高校には恐るべき歴史がある。過去、ことあるたびに、暴徒と化した生徒たちが校舎を破損させるのは聞いたことある話だけれども、その度に、校舎はなななな、んと。「全壊」してしまったいるようである。(クロ高全壊の歴史はオープニングのナレでどうぞ)そして、この年、7度目の校舎全壊の年になろうとは、誰も知るよしがなかった。・・・・っていうのは、公式HPのコピーのバクリ。ま、その通りなんだけど。主人公は神山隆志(16)中学時代、カツアゲされた彼を助けてくれた、山本一郎くんと同じ高校に入りたくてクロ高を受けた奴。クロ高なら、貧乏な上に頭も悪い山本くんでも受かるだろうと深い考えだったはずが。山本くんは「引き算」が出来なかったのである。クロ高にしか入れなかった高校生たちの中で、はっきり言って神山くんは浮いているようには見える。タバコ吸いまくり、遅刻しまくり、鉛筆まで食べてしまう生徒たちの中に混じって、学校を良くしよう!と決意する神山くんは間違ってない、寧ろ、素晴らしい奴なんだろう、きっと。ただ、間違ってなくても、方向性がズレてる場合だってあるのである。勿論、一緒に学校改革するような仲間はいないし。ツレはなんとか出来たけれど。カラカラカラカラ空回り。メカ沢くんや、覆面の竹ノ内、褐色の肌したフレディに、本人役で、阿藤快さんまで、ご登場。ご存じの方ならとっても嬉しいという、「ゴリ」と「ラー」さんが地球征服にもやってくる。小林清志さんの吹き替えに主題歌も流れたりして、本当に嬉しい方はとっても嬉しくなる企画まであったりする。クロ高には先生はいないようである。授業だってやってないようである。何故か修学旅行はあるようだけれども、も一回、確認すると、都立だったりするのだ、このガッコ。けど、それらの設定はスグにカンタンにどうでもよくなってくる。力強い展開と、そこら中に漂っているバカバカシさが混じり合い、ほどよいスカッと感があったりする。しかもこのスカッと感には、「青春」って奴がよく似合う気がする。今ここでしか味わえないかけがえのない時間。まぎれもなく都立クロマティ高校は青春しているのである。クロマティマインド(造語)ってのは、年齢とかじゃなくて。校舎が何度全壊しようとも、次の日にはまた学校にやってきて、自分たちのしたいように一日を過ごせるような、なんつーか、そういう感じというか。ま、そういう感じなわけで。主役の須賀貴匡や金子昇、そして渡辺裕之と、地球の危機やらなんやらを乗り越えて、前向きに生きる姿を演じた特撮の経験者である。特撮の前向きさとクロマティマインド(造語)が、ビミョーに重なるかもと暴論をブチカマシテ見たくなる。7回、校舎が全壊したと言う。しかし、全壊、ナッシング!の状態からクロ高は、しっかりよみがえっているのである、壊すよりもずっと、やり直す方が難しいというのに。また、よみがえるから、壊れたっていいんじゃないか!と思えてくる。って、これもまた暴論だけれども。また校舎が全壊している。スカッと全壊。それでも再び日常がやってくる。挫折とかしないのである、またいつか壊れる日のため・・・に?魁!クロマティ高校THE☆MOVIE
2006.05.30
コメント(2)
ようここまで足運んでくださいました。さ、さささ、さあ、おざぶ、出しますさかい、どうぞどうぞ。なんか食べはりますか?と言うてるうちに熱燗もやってきた、ま、一杯。亡くなりはりましたんは、笑満亭橋鶴師匠、落語会の重鎮。一門の方々がもう皆、席についてはります。・・・下手な関西弁ですいません。一応私も関西人やねんけど、なんせ、プロの方々の粋な言葉使いは出来ません。せやけど『寝ずの番』と言う映画は、こういう感じやないと喋りにくいんですわ。なんせ、「おそそ」やさかいに。そうそう、アレ、ですわ、あれのこと。橋鶴師匠が最期に見たいと言い張ったアレ。橋太はんの嫁はんの茂子さんが、ババ~ンとスカートまくりあげてくれはったけど、師匠は「アホウ!」とか細く一喝しはった。一番弟子の橋次はんが聞き間違えたんや、何と聞き間違えたかなんてどうでもエエ。そんなアホな思い出話が何よりも、故人を偲ぶにはイチバンええこっちゃ。なんせ、下半身のユルい師匠やったさかい。あ、エッチの方とちゃいまっせ。ものごっつ~長い落語のネタを超早口でしゃべりまくってはったんも、ただただトイレに行きたかったからやもんな。人はみいんな、死ぬんやなあ。橋鶴師匠の次は橋次はんの葬式や。その次は、師匠の奥さん、志津子さんも逝ってもた。さあ、寝ずの番やと集まった一門の方々。昔話に話しが咲くんやけれども、下ネタとエロネタが咲き乱れてました。せやけどな、頼むさかいに、誤解だけはせんといてくださいな。女の人に「おそそ」があって、それがエエ言う男の人がいるんは普通やないか。師匠を愛する一門の方々が、師匠のネタをリアルに再現して、死んでる師匠担ぎだして踊りだすんも、普通のことやと思うんや。ヤラシイとかフキンシンとか大きなお世話。ほら、「らくだのカンカン踊り」師匠も楽しそや。なあなあ、橋太はん、初体験のお魚(エイ)はどないでした?茂子さんには言わん方がええで。ポルターガイスト、何が飛んでくるかわからんし。マキノ雅彦監督作品。俳優でも有名な監督の作品に集まったのは、中井貴一や木村佳乃を中心として、凸が凹にはまるようなはまり役の役者陣。なかでも橋次はんを演じる笹野高史の跳ね具合。やんちゃで愛される芸人を軽妙に演じてはった。監督の実兄、長門裕之の橋鶴師匠はあ、映画というのは家族がいるんやなあ、などと、彼を見ながら思ったりなんかしたんやな。そうそう、この作品な、チラシや紹介記事はイッパイあるやろけど、アレとかコレとか、大きい声で言えんネタがいっぱいあるんでとにかく観てもらわなアカンのや。せやけどヤラシイとかフキンシンとかそんなこと思いはるんやったら止めといたほうがエエ。あんな、例えば蛭子能和演じる田所はんは、師匠の奥さんの遠い親戚らしいけど、いっつもお通夜の席に座ってはって。「みなさんの話がおもしろくて」と聞いてはった。そんでエエンやと思うんや。この席に座らせてもらう、ってことは。人はみいんな、死ぬんや、なあ。ご飯も食べるし笑うし怒るし、泣くしなあ。もちろん、うんこもおしっこもするし、初体験もあるやろし、不幸も重なることがある。まあイーデス・ハンソンさんに会えるとは限らんけど。いきなり、何言うねん、って。自分にツッコミしときますわ。ようここまで足運んでくださいました。サミシイことに志津子さんまで亡くなってしもた。一門の方々がまた集まってはる。またみんなで、艶っぽい唄、唄ってはるで。当たり前やなあ、死んでしもた人にも、いろんな色恋話があったんや。♪汽車汽車シュポシュポシュポシュポシュポポ♪絶頂だ!絶頂だ!楽しいな~。
2006.04.25
コメント(8)
仕事も夢も愛情もなんだって、やりたいようにやってみればいいのだ。やりたいようにすることと、上手くやれることは全く別物だけど。ほら、ホテルアバンティの筆耕係の筆が、新しい年を祝っている。サンタクロース人形のヒゲが筆だったけど。カウントダウンパーティ、民謡を歌うはずだった歌手は艶っぽい声で自分らしい歌を聴かせてくれた。夢を諦めかけたベル・ボーイはまだもう少しがんばろうと決意したばかりで、その顔は晴れ晴れとしている。陽気に踊っている客席係の女性は、元は議員の愛人でシングルマザーだが、ちっとも辛そうな顔はしていない。大体、客室にあった客の衣裳を着て、客になりすまして、誰かの愛人のフリをして、言いたいことを言ってしまえる女性なのである。三谷幸喜監督脚本の作品。ホテルのカウントダウンパーティが始まる、2時間16分前から物語は始まる。ホテル側・客側が入り混じって、本当に入り混じってシャッフルして、それでも舞台はホテル・アバンティ、新年は誰の元へ近づいてきている。申し分のない副支配人には、若き日の夢を諦めた過去がある。そのときのゴタゴタで妻とも別れたが、元妻が別の男性の妻としてホテルに現れた。この男、ホテルマンとしては優秀だが、別れた妻にはやたら見栄を張る、滑稽なほどに。どこか、その場しのぎなのだが。どこか、その場しのぎ。見えない未来よりも、その場しのぎ。副支配人だけでなく、誰も彼もがその場しのぎのようである。例えばベル・ボーイの幼なじみの女性は、盗んだ制服を着て彼の前に現れた。ホテルスタッフに追い出されたはずの、コールガールの女性もまた、熟知の裏口を通って舞い戻ってきた。その場しのぎ、その場しのぎである。カウントダウンパーティの芸人たちのマネージャーはいなくなった出演者の代わりに、強烈な髪型のまま女装している。白塗り好きの支配人は、白塗りをしたままホテルを駆け回り、人気者の演歌歌手はいつも、ステージの前は自殺したがるようだ。それでも、なんとかなるのである。汚職で窮地にある議員もまた、なげやりな態度でクロスワードを解き、自分の人生の選択肢を選びそこねていた。先のことを考えるか、スキッとさせるかどうか。例えば、自殺とか。その場しのぎかも知れないけれど、やりたいことなら納得できるのだ、スキッとするのだ、スキッとするというのは、そこに「私」がいると感じることのようである。それが「私」であると、申し分のない支配人は申し分のない仕事をしている。さまざまな登場人物たちも同じである。やりたいようにすることと、上手くやれることは全く別物だけど、「その場」という「現在」は、「その場しのぎ」で成り立っている。だったら、自分らしく。とにかくいろいろあるだろうけど。ホテルのカウントダウンパーティ、新しい年がやってくる、新しい明日が。とにかくだ、とにかくだけど。仕事も夢も愛情もなんだって、やりたいようにやってみるしかない。とにかく、その場しのぎでも!!
2006.01.29
コメント(11)
愛しいと思う気持ちのぬくもり、心に宿った感情の温度は、どんな時代も暖めてくれる。どんなに荒んだ時代であっても。時は戦国時代、織田信長は稲葉山城を道三入道から譲られたが悪戯に月日重ねども、まだおちない。道三の孫、龍興は無能なれど、美濃には若き軍師、竹中半兵衛がいる。その彼がやっと動いたのは、まるで妹のように側にいた千代のためである。不破市之丞の姪の感情は、敵地にいる山内一豊に向けられていた。愛しいと思う気持ちは、戦場にあっても抑えられない。しかしどんな時代であっても、好きあっているだけで結ばれるものではない。山内一豊もまた千代が愛しい、だが、仕える主君がいて、家臣もいて、何よりも彼の誠実さが誰かを裏切ってまで幸せを得ようとしない。自分だけの幸せなど彼は欲する男ではないのである。愛しいと思えども。竹中半兵衛は愛しい女性の幸せを願った。時は戦国時代、命のやりとりが常、だがこんな時代だからこそ、好きあった者が結ばれもいいだろうと、千代と一豊を添わせようとする。秀吉の求めに応じ、織田側につき、難攻不落の稲葉山城の抜け道を教え、城にいる千代を救えと一豊に言った。命がけで救え、と彼は言った、そう言いながら彼の目には気持ちが溢れている。自分ではなく、他の男に、愛しい女性を託しているのだ。僧であり、兵の姿にもなり、千代の幼なじみの六平太もまた、愛しい女性を見守り続けている。自分ではなく他の男が、愛しい女性の思い人である切なさよ、それでも、幸せであれと彼の目も、物言わぬまでも物語っている。炎に包まれる稲葉山城。千代を探す一豊と長刀を持ち戦う千代、敵味方に別れているはずの二人は素直なまでに自分の気持ちに正直である。戦いの最中、炎に包まれる城の中、敵味方のはずの秀吉と、不破市之丞たちもまた、二人の温度に包まれていた。誰かを思う気持ちは誰にでもある。どんな時代であったも。結ばれないと思っていたのに、結ばれると知った千代と一豊の抱擁。姪の幸せ願う、不破市之丞ときぬの夫婦。焼け跡から探し得た十両は有名な逸話を生み出した。主、一豊の嫁取りを心配する五藤吉兵衛と祖父江新右衛門も、懸命な愛情に溢れているのが窺い知れる。そしてただ千代と一豊を見つめる、六平太の視線の切なさと、咳き込み血を吐く竹中半兵衛の静けさの裏側は、愛しい女性への想いに満ちあふれている。愛しいと想う気持ちのぬくもり。それでも叶わぬ願い、散る命もあっただろう。だが、千代と一豊は結ばれる。激動の時代を二人で乗り越えていく。時は戦後時代。なんとロマンティックなのだろう。
2006.01.29
コメント(3)
女子から総スカンをくらっていた程キモイ男子生徒だったのだ、彼は。佐々木正平、今はお医者さんになってはいるが病院の廊下で看護士の尻を掴んで喜んでいる。脂ぎった顔に大きな目、高校時代と雰囲気はそう変わっていない。そんな彼が勤務する病院に、子宮ガンの女性が入院してきた。正平はきっとすぐにピンときただろう。笈川未知子、彼女は、まぎれもなく彼の初恋の人だった。物陰からバレエを踊る彼女を見て、ストーカーまがいに自宅までつけていた。そんなことまでしたが、好きだと一言も言ってはいないようだ。やたら狂言を演じる竹中直人と、美しくスクリーンに映える原田知世。二人が同級生を演じる違和感はやはりある。だが次第にそれは感じなくなる。丁寧に描かれる「男」と「女」の心象風景。自らメガホンをとる竹中直人の映像は、演出や演技、脚本よりも映像によって心を描こうとする。はあはあはあ、正平は息を整えて未知子の病室へ。医者と患者なのに、そうは見えない。しかも彼女は、彼を覚えていないのだ。渾名はササキン、佐々木と菌が合体して、女子から総スカンくらっていた正平である。彼女の歴史から抹殺された彼。それが哀しくて辛くて、なんとか思い出してもらおうとする。そしてなんとしてでも、彼女の病気を治そうとがんばっている。まっしぐら、好きな女性のために。好きな女性と同じように、正平はバレエを踊ったりする。好きな女性は未知子ただ一人なのに、居酒屋の女将が愛人で他にも女子高生と援助交際まがいのつきあいも。未知子にも同棲相手がいたが、その彼は彼女の友人ともつきあっている。「男」たちはそんな風で、「女」たちはそんな「男」を愛し、そんな「男」に覚めていったりする。「男」は何故「女」に愛されるのか、何故、「女」が去っていくかもわからず、ただうろたえてばかりにも見える。だが正平は進み続けた。自分の癌を顧みず必死になって未知子の病気を治そうとした。かつて彼女の家までついていったり、物陰から彼女のバレエを覗いていたササキンは、今もなお、彼女を愛し続ける。やがて死期が近づき、彼女からの愛情を受け止められなくてもしつこくしつこく、彼女を愛し続けていたのである。中島みゆき、内村正良、片桐はいり、大谷直子、三浦友和もいる。病院患者役はミュージシャンのようでもある。バレエを踊る竹中直人、彼らしい滑稽な場面を愉しみながらも、未知子を助けようとした医師は、逆に病院のベッドで死というラストを迎える。『自分をつらぬくことはとても勇気がいるよ 誰も一人ボッチにはなりたくはないから』監督が同名の曲にインスパイアされて出来た作品という。曲と同じように一人になった未知子。「僕を忘れてもいいけど自分はもう離さないで』やさしいやさしい応援歌である。サヨナラCOLOR 公式サイト
2006.01.05
コメント(4)
目標があって、未来があって、損得勘定があって、夢やら希望があって、そういうもんの熱情にかられて、真っ直ぐに進んで行く。ってわけじゃないのだ、あの時代は。くっついたり離れたりしている女子高校生たちがいる。文化祭はもうすぐ。彼女たちのバンドもそうだった。きっかけはギター担当のケガ。それ以前にケンカもある。けれども意地の張り合いに弾みがついて、新しいバンドが出来上がってしまった。キーボードの恵は、ギターを担当、ドラムは響子、ベースは望。しかし、肝心のボーカルがいなかった。途方に暮れる時間もないのだ。だから、通路の向こうの階段から最初に降りてきた人にお願いすることに。ちょっとイレギュラーもあったけど、韓国から留学生のソンが、ブルーハーツをシャウトする羽目となった。ソンを演じるのはペ・ドゥナ、まだ日本語が自由にしゃべれないソンは、あんまり状況がわかってない。ソンは歌の練習をするためだけに、カラオケボックスに行くがそこで一騒動である。ワンドリンクオーダーが彼女には理解できない。ミネラルウォーターがあるからドリンクいらない、歌だけ歌わせろ!と頑なに直談判していた。文化祭はもうすぐだというのに。練習では「サイテー!」の音しか出せない。ひたすら練習して練習して、練習して練習しているうちに彼女たちは、少しづつ上手くなっていく。かといって、そう上手くもないけど。くっついたり離れたりしている女子高校生たちがいる。もともとは、恵と凛子のバンドだった。でも二人はケンカばかりしていた。なんだか二人は似ているのに、と皆が言う。嫌いとか、好きとか、そんなに明確なものがあって、くっついたり離れたりしているわけじゃなく、どちらかと言えば何かの拍子にいつのまにか仲間が出来てるような感じ。「ソンさん、バンドやらない?」階段から降りてきたソンに、恵は何の気なしに声をかけてみた。そうしたらいつのまにか、即席だけど立派なガールズバンドが出来ていた。ま、紆余曲折あったけれども。終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように目標があって、未来があって、損得勘定があって、夢やら希望があって。・・・・?ほんとにある?あるにはあるかも知れないし、実はないのかも、ね。ソンさん、実は文化祭で、展示で韓国文化の紹介を準備していた。恵たちのちょっとした恋愛事情と屋上でマンガ喫茶を開く年上の高校生と、天使の歌声を持っていたギタリストもいたりして。いろいろ、あったりして。さて、彼女たちの出番である。練習で徹夜明け、遅刻してギリギリの舞台だったけど、彼女たちは、ブルーハーツを演奏する。聞く側もタテノリである。とにかく「その時間」は熱いのである。リンダリンダリンダ オフィシャルサイト
2005.11.28
コメント(8)
40歳の誕生日に沙織がなけなしのお金で母にプレゼントした帽子、その帽子をかぶってオシャレして母は父の店で撮った写真の中にいる。そこで働く従業員の姿もある。店の名は「卑弥呼」伝説のゲイバー。父は母と沙織を捨てたのだ。だから、ありえない写真。幼い沙織を抱えて母は苦労を重ね、癌になり死んだ、借金を残して。塗装会社の事務だけでは、借金は返せない。だから風俗に興味を持つ沙織。そんなとき、若い男が彼女の前に訪れる。彼の名は晴彦、父の愛人だという。日曜日、1日3万円で、「メゾン・ド・ヒミコ」という、ゲイのホームの雑用をしないかと誘ってきた。その父はもう、死が近いという。お金のために、沙織は父と再会する。沙織の借金は、母が入院したため。そんなことも、父は知らなかったのだ。けれど、沙織も、なぜ母が父の店にいたか知らない。「メゾン・ド・ヒミコ」そこは、ゲイのホームである。なけなしの髪をピンクに染めて、ルビーさんが、嬉しそうにポーズを決める。実は、アニメのヒロインのキメポーズ。孫が送ってくれたハガキに書かれたのだ。向かいのおばあさんと、中学生らしき四人組は彼らが疎ましい。生まれ変わったらドレスが着れる女性に、だから死、なんて恐くないと山崎さんは言う。このホームが出来るまで、ずっと一人だったと晴彦は語る。ヒミコの看病をしながらホームを守るため、パトロンに身体を売ることも厭わない。みんな、みんな。本当の気持ちがどこかにあって、誤魔化して苦笑いして戯けて、本当の気持ちを言ってみたりする。気がつく場合もあれば気がつかない場合だってある。気がついて欲しいけど気づいてもらえず、世間はそんなに甘くないのだけど。もうすぐ、卑弥呼が死ぬ、恋人が死ぬ、やりきれない気持ちが、出口を求めて欲望となる晴彦。その気持ちがいつしか、沙織に向けられる。どことなく父親と似た気性、着飾った美しさはないが真っ直ぐで、そんな彼女に好意を覚え、キスはできるが、セックスにまで至れない。犬童一心監督作品。オダギリジョーと柴咲コウのキスを舌と唾液の音までも表現する。現実感を決して忘れさせないというのに、ファンタジックな空気が画面に漂う。40歳に娘からもらった帽子、そして夫からは、素敵な手袋をもらって、彼女は嬉しそうに写真に写っていた。夫にも娘にも本当のことは言わずに。何も知らなかった卑弥呼。でもそういうところが可愛い女性という。何も知らなくても言わなくても、本当の気持ちが通じる場合があるのだ。脳卒中で意識がなくなったルビーさんを家族が引き取っていくが、おじいちゃんの身体が女性なのを息子夫婦は知らないのである。でも、それでも本当の気持ちを家族はわかるかも知れない。わからないかも知れない。みんな、みんな。本当の気持ちがどこかにあって、誤魔化して苦笑いして戯けて、本当の気持ちを言ってみたりする。沙織も、晴彦も、卑弥呼も、ふと本当の気持ちを言ってみたりする。「メゾン・ド・ヒミコ」壁の落書きは、彼らの本当の気持ち。“沙織に会いたい”でも本当の気持ちは真面目には言えないけれども。伝わることがある、わかることがある。気持ちが暖かくなり笑顔が生まれる。
2005.10.28
コメント(6)
舞台は昭和15年。日本という国は戦争をしております。「なのに、どうしてこんなにおもしろい?」検閲官の向坂睦男は、しかめっ面で、声を大にして叫んでます。きっちり、90度に頭を下げて、お詫びだがお礼だかをしてるのは、『笑の大学』座付作家の椿一。もういちど言いますが、戦争はこれからもっと激しくなります。そんな時代に狭い部屋の中で、二人は喜劇を産み出していきます。それだけでこの作品は、反戦映画だと思うのです。三谷幸喜の原作・脚本。星護監督が撮ると、映像は、ふんわりとやわらかくなりますが、しっかりと主張は堂々とされています。戦争は「お国」のためではなくて、「お肉」のためにするものと。だからちゃんと生きて戻ってきて、家族や大事な人と「お肉」を食べないと。「くに」を「にく」にしただけの、つまらないダジャレではありますが、向坂さんはとっても気に入っていました。向坂さんは笑ったことがないそうです。厳しい仕事をされてきたから、笑いに接する機会のままに、喜劇の脚本を読まされる羽目になったのです。椿さんの脚本なんて最初っから、「不許可」にする心づもりだったようです。無理難題を小出しにして、椿さんに何度も書き直しをさせますが、書き直せば書き直すほどに、脚本はどんどん面白くなっていきます。というか、椿さんは夜中に書いてるから、思いついたコネタを夢中になって、一生懸命書いているだけに違いありません。しかもそれは椿さんにとって、孤独な戦いでもありました。喜劇舞台を観てお客さんが笑ってる、それは素晴らしいことのはずなのに、どうしてそれがダメなのか。どう考えてもわからなかったようなのです。向坂さんは椿さんと付き合ううちに、椿さんのことを少しづつ理解していきます。気弱で無邪気に見える作家が、実は誰よりも信念に満ちていることを。信念なら向坂さんも負けてはいません。頑固に自分の主張を通して、脚本を一緒に自らも演じながら作っていきます。この作品では向坂さんの方が笑わせる役です。演じるのは役所広司、日本屈指の名優だと思います。喜劇役者は、感情のコントロールが難しい上に、ただ笑わせるだけで終わらない付加価値を彼は付随させてくれています。椿さんを演じるのは難しいと思いました。なにせ、エノケンの劇団、菊谷栄がモデル、三谷幸喜の思い入れは尋常ではないでしょう。それを稲垣吾郎はシンプルに飄々と演じていました。日本屈指の名優を相手にして、いつも頭を下げ続けた稲垣と椿は、どこか重なって見えるようでもありました。三谷脚本はしばしば、物語のテーマそのものではなく、人間のどうしようもない「性根」を描きます。つまりたとえどれだけお母ちゃんに怒られても、止められないビョーキみたいなもんです。椿さんは面白い脚本を書かずにいられなかったし、向坂さんはいつまでも椿さんと、脚本を作っていたかった。でもそれこそ「その人そのもの」なんでしょう。面白い、と思う喜劇を観て、人が笑うのはどうしようもありません。向坂さんと椿さんが作った喜劇です。一度は観てみたいと思うのが人情じゃないですか。もちろん、椿さんが演出しています。そのときは向坂さんと一緒に、客席で大声だして笑っていたいもんです。
2005.10.07
コメント(2)
山は厳しく緑は深く、水は美しく澄み自然の恵みとなる。空は青く、雲が流れていく。甲賀卍谷、伊賀鍔隠れの民、その術の特異さ故に争うことないように、約定の祠が設置されていた。世の表に出ることなく技を研鑽し、里で静かに暮らしていた。しかし乍ら長い戦乱を終え、徳川は泰平の世を作らんとしていた。もはや忍の者たちは無用の長物とされ、権力は怖ろしき策略にて、甲賀伊賀双方とも共倒れさせんとした。されど皮肉にも、甲賀伊賀の若い跡取りが双方の身分知らず密かな逢瀬を続けていた。伊賀の朧、甲賀弦之介、だがその二人も宿命の戦いに導かれる。五対五、双方の手練れが戦い、一人生き残った者によって世継ぎを決めるという。斯くして二人を含め壮絶なる戦いが始まった。下山天監督作品。ミュージックビデオの経験が、華やかで縦横無尽な時代劇を生み出した。俳優の所作立ち姿にも気遣いを見せ、衣装ともども美しい映像になっている。だが何よりも目を奪うは、スクリーンに広がる四季の姿、山は厳しく緑は深く、水は美しく澄み自然の恵みとなる。空は青く、雲が流れていく。CGによる派手なアクションを見せながら、人を含めた自然と言う詩を謡っている。ひたすら戦いを望む者がいて、自らの命を若き頭領に捧げる者も。時代が忍を望まぬのなら、と、仲間を売り渡す者もいる。そして、朧と弦之介、二人もまた、お互いの運命のままに相対することになる。仲間由紀恵、オダギリジョー、椎名桔平、黒谷友香が人間の情を演じ、主要キャストに負けぬほど、坂口祐、虎牙光輝が圧巻のアクションを見せる。まだ未整理なのは否めないが、これからが愉しみな時代劇のカタチである。
2005.09.30
コメント(6)
乗り越えられないものがある。乗り越えられず鞄を持ち去っていく、去らなければならなくなった者たちよ。残された時間はあまりにも短い。だが、わずかでも癒されただろうか。ロンドンで演奏会を成功させた如月敬輔は、路上で父母を殺された少女を助けた。その時、指の神経が断裂し、彼のピアニストとしての人生は終わる。だが、一人残された少女、千織には、一度聞いた旋律を完璧に再生できる能力があった。彼女と保護者となった敬輔は二人で、全国の施設を回り、演奏会を続けていた。事件から5年たち、二人は小さな島の療養センター訪れた。そこに、岩村真理子はいた。脳に障害のある患者たちの世話をして忙しく毎日を生きていた。「如月先輩」好きだった敬輔との再会を喜び、人見知りの千織ともすぐに、うち解けていた。姉妹のようにじゃれ合う二人、しかし、落雷による事故で、千織をかばった真理子は大怪我をしてしまった。「私、千織ちゃんじゃありません、真理子です!」集中治療室の真理子が、意識を取り戻した千織の中にいた。真理子と同じ口調で、真理子しか知らないことを話しだす。透き通るような青い海と広い空の下で、真理子にとって、不思議な時間が流れだす。短くはかない、奇蹟のような時間が。浅倉卓弥の小説が原作、舞台や真理子の視点を強めて以外は、原作に忠実に物語りは進む。佐々部清監督の演出は、オーソドックス。千織役の尾高杏奈が真理子役の石田ゆり子と同じ口調で演技し、二人の俳優が入れ替わる。如月啓輔役の吉岡秀隆も正面からの演技、真理子に聞かせる最後のピアノも、たぶんに幻想的な原作に比べて、役者を素直に撮ることで奇蹟を生み出している。岩村真理子。愛しい人と結婚して、老舗の旅館で充実した日々を送っていた。けれども子どもに恵まれず、自ら鞄に荷物をつめて出て行った。如月啓輔もまた、左手の手袋を手放せない。もう以前のようには弾けなくなった手、ピアニストにはもう戻れない。乗り越えられないものがある。千織の身体を借りて手にした真理子の心。彼女の心は、この短い時間の間に、乗り越えられなかったものを乗り越えていく。原作には後日談として療養センター設立の経緯が描かれていたが、映画の方はラストシーンのみである。だが、教会のステンドグラスに刻まれた名前は、千織の両親の心であり、真理子の心も千織とともにいた。
2005.09.16
コメント(6)
向かい風を受けて立つ男がいる。捜査状況が書かれたホワイトボードを背に、眉間に皺を寄せたまま座っている。彼、室井慎次が指示を出せば、現場は一斉に動きだす。殺人事件。被害者の生命の尊さと、残された者の悲しみを思えば、真実は、明らかにされるべきだろう。警察は事件を追う。容疑者が確保され取り調べが始まる。そこで生まれる権力がある。警察は一人の人間の自由を奪い、一生消えぬレッテルを貼るのだ。「殺人事件の容疑者」と。奇しくも室井が逮捕されたのは、彼が本部長を務めた事件で、被疑者逃亡、その際、新宿署の刑事による被疑者への荒っぽい接し方に要因がある。おまけに被疑者は事故で死亡。現場の判断を信頼する室井には、思いもよらぬことだっただろう。だが、彼は事件の真実に近づき、弁護士、小原久美子と知り合ううちに、警察権力のあり方を考えるようになる。「私、警察は嫌いです」室井の弁護を真摯に担当しながらも、小原久美子は、はっきりと彼に宣言した。過去に彼女は、警察によって、無神経ともいえる事情聴取を受けていた。被害を受けたのは彼女なのに、男を誘ったのは、おまえだろう、と。無表情で無口な室井を演じるのは柳葉敏郎、地味なキャラクターを主人公に押し上げたのは、長い間つきあった役柄ならではだろう。重くなりがちな設定を和らげるように、湾岸署のスリーアミーゴスが登場し、筧利夫、真矢みき演じる管理官たちが、「踊るシリーズ」らしく組織の暗部を浮き彫りに。盛りだくさんの内容をうまくまとめている。監督を兼任する君塚良一の脚本、室井のモノローグの叙情性は彼ならでは。小原久美子の上司を演じる柄本明が、名台詞を味のある演技で表現してみせる。このシリーズの妙味は、波乱にとんだ展開と同時に、多彩な人間性の部分も大きいだろう。しかしながら、現実は。この作品の犯人は人間性を失っている。人間性を失った人間が、犯罪を犯し、しかも一部の警察もまた、権力を持ち、人権を侵害する。八嶋智人演じる弁護士はゲームのように、法律をお金を生み出す道具にする。余談だが、吹越満が彼の部下にいる。個性派俳優だけに、もったいない感じがした。「踊るシリーズ」のテーマの深さは、いつものことながら、秀逸でかつ、興味深い。ただ、映画という枠が似合うかどうかは、これからの課題なのかも知れない。
2005.08.26
コメント(4)
国とか、先取防衛とか、戦争だととか、生命だとか。重々しいものをたくさん抱えたままこの作品はエンターテイメントを向いていた。たくさんの登場人物が死に、日本人と異国の人と、その死の描かれ方が違うことや、マスコミの情報がいとも簡単に操作され、一般大衆は真実から隔離されていることなど、考えてみればそれらの、重大であるはずのことが、この作品の中ではもう常識なのである。GUSOH(グソー)という兵器、DAIS(ダイス)という秘密組織、隠蔽された世界のはずが、存在しているだろうことは誰もが知っている。そんな現代に私たちは生きている。そしてこの作品のキャストは、日本映画の顔を言うべき俳優が並んでいるその時点でこの作品にリアリティはなくなる。真田広之、中井貴一、佐藤浩市、寺尾聡、顔を合わせる機会が少なくとも、スクリーンの中で競いあっている。華のある俳優が火花を散せば、間違いなく、映画はエンターテイメントになる。それでもである。宮津副長が政府に向けた要求は、多くの社会問題を孕んでいる。税金によってまかなわれている兵器、アメリカとの関係、辺野古ディストラクションそして防大生だった彼の息子の論文。隠蔽された情報の開示がなければ、通常ではない弾頭のミサイルが東京、首都圏に向けイージス艦〈いそかぜ〉より発射される。そう宮津を動かすきっかけになったのは、息子の論文を読んだというホ・ヨンファである。二人がこの計画に乗りだした精神的な支柱は想像するしかないが、二人とも「敵」を意識し動いているのは確かだ。「敵」が居れば、自らは「正義」となる。しかしその構造はと言えば、彼らが憎む「敵」となんら変わらない。やっと、仙石と如月に触れることになる。 「Twelve Y.O.」を読み、 「亡国のイージス」を読み、 軍事的な用語や、政治問題も大事だろうが、 魅力的な登場人物たちの熱さに心が動かされる。一直線で、共感しやすい仙石や、秘密を持つ若者という設定の如月、それは戦争を主題としたアニメにおける、登場人物の造形と似通っている。彼らは本物の戦争という設定の中で、普通の枠を逸脱した人生を歩んでいる。だが彼らがいることで、戦争というものが切実に語られるのだと思う。だからこそ、魅力的な俳優が揃い、リアリティを削ぎ落としたようにも見える。しかもドラヴァー・ジョーンズの音楽が、映像以上のスケール感を引き出している。もしも、である。この作品に、よりリアリティを求めたら。勿論、もっと説明が必要になるだろうし、それ以上に、観る側に知識が要求されるだろう。あえて言うならば、どのキャストも小説とは違和感があり、もっと、リアリティを求めるならば、特殊なオーディションが必要になるはずだ。しかしながら、それでは、この作品は映画とはなり得ない。阪本順治監督作品。膨大な原作の情報量を日本映画屈指のキャストと音楽で、確信犯的に切り取った映画に思えた。
2005.08.08
コメント(4)
金田一耕助が走っている。右から左へ、屋根瓦の下を真っ直ぐ。緊張感のある直線が画面を分割する。角川映画第一作は1976年、横溝正史原作の探偵小説から始まった。豪華なキャストとオドロオドロしい人間関係。しかしながら、市川崑監督は、ストップモーションや細かいカット割りで、邦画ならではの映像美を紡いでいる。直線の緊張感。松子、竹子、梅子が三姉妹も、彼女の息子、佐清、佐武、佐智の三人も、真横に並び、正面をカメラは捉える。昭和二十年代の日本家屋を、人物とともに真正面から捉える。菊人形の首に、佐武の首が置かれ、静謐なる湖面に、足がV字に突き刺さっている。犯人の意図しなかった死体の偽装は、市川監督によって、オブジェとなり、過剰な効果音や演出ではなく、そのオブジェそのものが、驚愕を生んでいた。複雑な人間関係の基盤は、まぎれもなく、愛と憎しみによる。成功はしたが報われなかった、犬神佐兵衛翁の怨念。それは形をかえ、後の一族に染みていく。青沼静馬は復讐の機会を待っていただろうし、松子は、佐清の幸せを願っていた。野々宮珠世は、今までもそうであってように、事件の後も佐清を待っているだろう。無表情な佐清の仮面。戦争で大火傷を負った顔はケロイド状に。事件の真相は、その仮面の男が隠し続ける。仮面をつける二人の男もまた、母親への愛を背負っている。金田一耕助は、石坂浩二、この作品のバランスを担っている。重厚な存在感で松子を演じるのは、高峰三枝子、彼女が作品に大作の風格を与えた。島田陽子の野々宮珠世は可憐だった。金田一とホテルの女中はるを演じる坂口良子の会話も楽しい。後々まで名物となる名台詞、「よし判った、犯人は・・・」と勘違いを続ける加藤武の警察署長のご愛嬌と、見どころをあげればキリがなくなってくる。それに加えて、怨念や執念も、愛情の裏返しと、陰影の隅々まで目を配られた映像の美しさと、映像そのものによる驚愕の演出と、面白い邦画の原点は、この作品の中にも詰まっている。幾層にも重ねられた瓦屋根、窓に壁、日本家屋が丁寧に映し出される。オドロオドロしい人間関係は、戦後まもない国の状況が故の悲劇でもある。母親がいくら息子を無事を祈ろうとも、当時の男たちの寿命はあまりにも短かった。殺人の偽装を、リアリティよりも、寧ろオブジェに仕立てた画期的な作品。様々なジャンルでリメイクされ続けているがおそらく、この一族の悲劇は、常にビジュアル的でもあり続けるだろう。
2005.07.07
コメント(11)
人を助けることのできる優しい人間になりなさい、は母の遺言のはずだった。父が語る母は、線の細い薄幸の女性で、あえなく亡くなってしまったはずだった。だから細谷伸一は医者になろうとした。なのに、母は生きていた!つい最近まで、女子プロレスの社長として。柔道からプロレスに転向したアイアン飯島、彼女はチャンピオンになり、引退後は女子プロ団体「ガリンペイロ」を設立。だが、病には勝てず、息子に全てを託し、望み通り、リングの上で息を引き取る。伸一は「ガリンペイロ」の選手たちに半ば拉致され、社長にされてしまった。早朝より練習を始める選手達に、伸一は眠そうに言う。「どうして、そんなに練習するの?どうせ、八百長だろう」とんでもない。女子プロレスラーを演じる役者たちは、受け身の練習でも、身体ごとマットを打ちつける。カメラは嘘偽りのない音とともに、そのままの姿を捉えている。トップクラスの選手の試合のシーンも、リングロープにはじけ、その勢いのままワザが入る。コーナーから飛び降りた選手を身体全体で受け止める場面も多い。伸一は、新人の桐島に恋心を抱きつつ、選手たちの真剣さに引きずられていく。ところどころに細かい笑いを入れ、選手たちの個性も、生かされている。迫力のプロレスシーン。吉本女子プロレスJ'dによるアクション女優を育成するプロジェクト「アストレス」たちの活躍が大きい。拙いが彼女たちの真剣な芝居と、細谷伸一演じる岡田義徳の演技の巧みさが、面白いコラボレーションになっている。映画全体も、洗練はされていないが、役者たちの化学反応で、ラストに向かい強い熱気を帯びてくる。女子プロの団体は多いそうだ。だが、興行面では苦難を強いられている。「ガリンペイロ」も火の車だった。その上、金も持ち逃げされる。窮地に陥った伸一は、大手「Jリング」の申し出を受ける。それは人気ダッグ、桐島×中島コンビの移籍と彼女たちのメインイベントの八百長試合だった。だが二人は、勝利してしまう。そして、今度は伸一ともども、本物の試合をしようと挑発する。「Jリング」のトップクラスは桐島×中島コンビでは、まるで歯が立たない。伸一は母の遺言を思い出す。プロレスを格闘技という人がいる。プロレスを八百長という人がいる。だが、プロレスというのは、立ち向かっていく、ということなのだと。自分より強い壁があれば、倒されてもマットから這い上がり、勝利を掴むまで立ち向かっていけばいい。完全にリングに沈んだ桐島×中島コンビに、伸一はマイクを握り、叫んでいた。立ち上がれと、叫んでいた。そして、三人は、人差し指を頭上に掲げる。もう一回!もう一回!母は伸一に、プロレスを観て欲しいと言った。プロレスを格闘技という人がいる。プロレスを八百長という人がいる。だが、プロレスというのは、立ち向かっていく、ということなのだと。ガリンペイロとはスラングで、金鉱を発掘する人のことを言う。ブラジルやスペインの地名が上がっていた。
2005.06.28
コメント(8)
岸和田にはカオルちゃんがいる。大阪府岸和田市。だんじりの町で有名。カオルちゃんは、オッサン顔の高校生。オッサン顔なので、演じるのは、当時、37歳だという竹内力、兄イ。「ミナミの帝王」である。2001年劇場公開作品。この後、続編が続く。人気シリーズになってしまった。竹内兄イの長ラン姿をご覧じよ。お父さん役は池乃めだか、お母さんは中山美保。どちらも「吉本新喜劇」のベテラン。アルバムをめくれば、息子は最初、赤ん坊の顔をしていた。だが、いつのまにかオッサン顔、竹内兄イが子供の中に混じっている。「ンガーーぺッ!」「ンガーーぺッ!」と、痰を切る音が聞こえたらカオルちゃんが、やってきた証拠。人々は映画『十戒』のように道をあける。カオルちゃんの痰の量は、尋常ではなく、カオルちゃんは、ずっとメンチ切っている。毎日、ケンカするのが仕事で、相手が誰であろうとも薙ぎ倒す、最強。強い者には、トコトン強いけど、弱い者にも、平等に強いようだ。好きな女の子と、憧れの先生にだけ弱くて、残りその他大勢は、薙ぎ倒すのである。つまり、カオルちゃんは、怪獣なのである、叫び声は「ンガーーぺッ!」竹内兄イは、原作通り、痰を吐く。この作品、原作がある。中場利一『岸和田のカオルちゃん』この映画を観るきっかけは、原作を先に読んだことにある。原作のエピソードを紹介しよう。記憶による再現なので、脚色になる、ご容赦を。ぜひ、長ラン姿の竹内兄イを想像してお読みいただけたら、と思う。「タダでお好み焼き食わせたる」カオルちゃんにそう言われても奢ってくれる、というわけではないのである。アツアツの鉄板に顔、押しつけられて、店の亭主にケチつけるだけ。「ワシのカワイイ弟が、火傷してしもた」落とし前つけるために、お好み焼き、タダにしろ!「タダでサンバツさしたる」というのもある、カットの途中、カオルちゃんにドツかれて、ケガする役。勿論、カオルちゃんは、慰謝料をもらってく。映画は、好きな女の子のお父さんを助けるため、ヤクザをとにかく、ボコボコにする。でも、彼女に好いてもらえるわけじゃない。彼女は、カオルちゃんを怖がっている。そら、コワイがな。日本映画界の怪優、田口トモロヲも、学ラン来て、高校生役を熱演する。撮影当時は、44歳だったと言う。さすがは、『プロジェクトX』のナレーター、勝手にカオルちゃんをライバル視するが、会えば、直ちにシバキ倒されるだけ。長ラン姿の竹内兄イ、エエ顔してる。高校生の無垢さを微かに漂わせながらも、完全無欠のオッサン顔。メンチ切り倒し!その顔は、まさに怪獣である。「ンガーーぺッ!」えらいこっちゃ、逃げなあかん。観てたらオモロイけど、相手はでけへん。なんせ、怪獣やさかい(笑)
2005.06.21
コメント(8)
日本映画は元気なのである。そして、ひさしぶりの「角川映画」。原作の福井氏もインタビューでおっしゃられていたけれども、オマツリ気分なのである。だから、オマツリ気分でダラダラと、枝葉末節の【黒】を書かせていただきます。どうぞ、おつきあいくださいませ。■ブラボー!ブラボー!ブラボー!甲冑姿のエキストラさんがダダダと雪崩れ込んでくる。エイヤエイヤの戦国時代!時代は少し違うけど、2005年の大河ドラマ、合戦が物足りなかったので、嬉しい!■鹿賀丈史さんはスゴイんだよ。信長の役割を押しつけられる的場一佐、狂信的な感じがプンプンする役柄なのに、鹿賀さんは、組織からはじきだされた男の悲哀まで、しっかりと表現して演じておられた。■鈴木京香さんの目に、女の情念。「愛しているわ、的場さん」「鹿島さん、あなたもけっこう、イイ男!」エピソードはないのだけど、彼女の目は雄弁である。■江口洋介×北村一輝二人の魅力的な役者さんの違いは、「知名度」だけだと思った。■白ワイシャツの戦国武将。2年間、平成の時代で暮らした飯沼七兵衛。鹿島に会いにやってくるのは白ワイシャツに黒ズボン。でも、歩き方、所作は戦国武将。北村一輝さんの演技はかなり愉しかった!■福井作品は、とにかく壊そうとする。「ローレライ」は東京に原爆を。そして、平成の現代を壊そうとする本作品。「亡国のイージス」も日本を壊す予定である。だからこそ、見えてくるものがある。■音はリアリティを作り出す。爆発音、機関銃の音、ヘリコプターの音。。。それから、自衛隊員が動くたびに、装備の音がカシャカシャ常に聞こえている。武将達が動けば、甲冑の音も聞こえている。その音のオカゲで、作品の世界に入り込みやすいと思っちゃった!■伊武雅刀さんは、オイシイ役!斎藤道三、マムシの道三。防弾服を着込んで歴史修正作戦に参加する。だから撃たれても刺されても死なないの!■歴史の復元力とインチキ加減。タイムパラドックスは大変で、史実は、検証すれば、もっと大変なのである。的場一佐の綿密な作戦をただ一人、鹿島がうち破ったそうだが、その根本は「インチキ」だったそうである。だから蜂須賀小六の息子は改名する。改名させられるのである。■鹿賀丈史さんはスゴイんだよ、その2どうしようもない現代に怒りながらも、最後に「まだやり方はある」と言い残す的場。インチキくさい役柄なのに、スゴイんだよな~、励まされちゃった!!■汗のにおい、ドロくささ。そんな大迫力の演出でもないのに。絶えず人の動きがわかるのは「音」のせいと、ロングとアップの中間の等身大のアングルのせい。ロメオ隊隊員の表情までバッチリ確認。爆発炎上もあったが、人間も忘れずにが、嬉しい。■生瀬勝久さん、嶋大輔さんの死に際死に際の演技は見せ場である。嬉しいほどに、はまってくださっている。■手塚監督の想像力。どうもありがとうございました。愉しかった!!働く足軽さんの一人が、「油のいる「車」よりも飼い葉の「馬」の方が気楽」などと、時代を表す、粋な台詞も随所に。斎藤道三、蜂須賀小六親子が愉快で愉しい。どんな時代でもどんな役割でも、人はその人らしく生きていくのである。現代に対するメッセージ性もありながら、ひさしぶりの角川映画、オマツリ気分の愉しんだよ~。
2005.06.11
コメント(12)
歴史は止まることなく。現在を通過し過去となり、現在から、まだ見ぬ未来へと続く。いつも人は、紛れもなく、自分の「時代」の中で生きている。現代の消失が進んでいた。ポッカリ空いた渦は虚数の闇「ホール」。いずれは60億の人間を飲み込むもの、それは、陸上自衛隊が秘密で行った、人工磁場発生器の実験にあった。神崎怜二尉による判断ミスで機器が暴走、的場一佐たち隊員が戦国時代へタイムスリップ。彼らの歴史への介入が、平成の「現代」を浸食していたのだ。そこで的場たちの救出と、歴史の修正を目的としたロメオ隊が編成、かつて的場の部下だった鹿島も合流し、再びタイムスリップを敢行する。時は1549年。的場一佐たちの事件の2年後である。戦国の世にそびえる天母城。城であり、要塞であり、工場でもある。的場一佐たちはそこにいた。彼は織田信長になっていた。若き戦国武将、織田信長を殺して、織田信長と呼ばれるようになった的場一佐。そして、もう一人、彼らと入れ替わるようにはじきだされたのは、斎藤道三の家臣、飯沼七兵衛。2年の歳月を得て鹿島たちと戦国時代へ帰還する。彼こそが最後に織田信長になる。物語の符号は、「織田信長」にある。的場一佐の信長は、未来を消し去ろうとする。優秀な自衛官が、現代で生きる場所をなくして、戦国の世を生き、平成の現代の抹殺を計る。飯沼七兵衛は、現代を見聞し、平成という未来というものの意味を知る。未来とは人の世の望み、だと。だからこそ、戦国という時代を託される。時代というものは、その時代を作ろうとする人間のもの。平成の現代を生きる60億を救おうと、戦うはロメオ隊、鹿島、神崎たち。自分たちの時代にあるものをそれぞれに、必死で守ろうと奮戦する。タイムスリップにあるパラドックスを、軽妙にうち破ってみせる意欲作。歴史の登場人物たちを史実に沿わすのではなく、時代における「役割」として捉えている。だからこそ、七兵衛には濃姫とのロマンスがあり、天下が好きな蜂須賀小六の息子は、木下籐吉郎と改名し活躍する。そうして歴史を修正にきたロメオ隊と協力し、的場「織田信長」に戦いを挑む。原案は、半村良だが、原作は、福井晴敏となる。福井氏の小説らしい魅力的な人物描写と、現代に揺さぶりをかける構造が見られる。「生きる」意味を忘れがちな現代、彼が作り出す敵役は、現状を全て、破壊しようとする。破壊されてもいいのか、と問いかけてくる。ロメオ隊隊長の森三佐が、平成の現代を体現してみせる。戦国の世にあって、実弾を装填せず、その実弾は的場たちを排除するために使うという。現代という時代に忠実だった男は、戦国の世に誰も殺さずに死んでいく。だが、殺す側となった鹿島たちも、絶えず、葛藤を見せ続けている。手塚昌明監督作品。映画の壮大さを過度に演出せず、これまでのキャリアを生かした、人間がぶつかりあう迫力を見せてくれる。SFでありながらもドロくささを残した、汗の見える作品になっていた。
2005.06.11
コメント(4)
側にいることが、普通のことだったのに。秋津高校にクロはいる。ヒョイヒョイヒョイとはねるようにその犬は学校の隙間を歩く。犬嫌いの草間先生が、大層、オカンムリのようだが、クロはすっかり校長先生になついてた。1960年代、長野県松本市。学生たちは現代よりも生真面目に見える。高校三年生の亮介も、自分の進路だけじゃなく目前にひかえる学園祭やら、友人と同じ女の子を好きになったりと、残り少ない十代を彼らしく生きていた。出会いとは不思議なもので、亮介が登校途中に、クロに弁当をあげなきゃクロも学校に来ることはなかった。それ以上に、亮介と並んで、西郷隆盛の犬役で学園祭に登場、学校に伝説を残すことなんてなかった。彼女の気持ちなんてわからないが、学校の生徒達の喝采や、古い校舎の、なんとも言えない空気や、入学と卒業を繰り返し、彼女を通り過ぎてゆく生徒達をともに居ることが、普通になったのだろう。クロの普通は、山の中にあった民家に住む小さな女の子と一緒だった。けど、女の子の家族は引っ越してしまった。一緒だと思っていたのだ。側にいることが、普通のことだと。亮介と雪子、そして孝二。三人は一緒に映画に行く約束をした。でも亮介は、風邪でいけなかった。孝二は雪子に、告白をし、戸惑う彼女に、自分への気持ちがないのを察し、マフラーを彼女に渡してバイクで立ち去ってゆく。だが、若い命は交通事故で消えてしまった。一緒だと思っていた。つい、そばに、普通にいたのだ。亮介にとって、友達であり、ライバル、雪子には、彼の告白が重く、のしかかる。クロが遊んだ女の子とは、もう、会えないのだ。学校の用務員室に住みつき、用務員さんといっしょに見回りをするクロ。10年もの長い時間がすぎて、用務員さんにとっても、クロがいることが普通になっていた。生徒たちにとっても、クロがいることが普通だったのだ。クロがいたから、孝二の死を乗り越えた雪子。亮介は獣医になり、重病のクロを手術した。クロがいたから、二人は、自分の心というものを知る。側にいてくれる存在は、自分というものを包んでくれていたのだ。その温かい存在が消えてしまって、やっとわかる、淋しさもある。お弁当の出会い、西郷隆盛の犬役で大活躍、用務員さんとの思い出、いろいろ。新しい生徒たちを別れ行く生徒たち。見送るのも見送られるのも、いつも順番である。さよなら、クロ。死という別れは、いつか、やってくる。彼女を見送った亮介と雪子は、新しい幸せを見つけようとしていた。
2005.06.09
コメント(6)
いかいかいかいかいかレスラー♪いかいかいかいかいかレスラー♪耳にこびりつく、テーマ曲、人生は脱力、宇宙は関節、イカしてるいかレスラー♪さて、いったい、どうしたことだろう?みんなが、いかの存在を認めている。「だって、あれは、いか、なのよ!」「どうして、いか、になったの?」「なんてったて、いか、じゃないか!」監督はおそらく、役者たちに、いかの発音を強調させたのだろう。強引にマシンガンのように、いかを連発することによって、いかを存在させようとした。監修、実相寺昭雄、映像的なオマージュは多いとみた。美しいオレンジ色の夕陽、オレンジ色の夕焼け。それにもましていか連発は、特撮ものと同じ手法に思えた。怪獣の名前は、誰がつけたの?画面にいきなり怪獣の名前のテロップがだされ、登場人物は、疑問もなく、連呼している。連呼されたら、覚えてしまって、存在しているような気がするのだろうが、さすがに、騙されないぞ。パキンスタンのフンザというところで、不治の病にかかった、岩田貫一というレスラーが、修行していかレスラーに生まれ変わった。岩田をライバル視する田口は勝つために、たこレスラーに生まれ変わった。実は二人の父親だったという千山は、しゃこボクサーだったのである。イカ×たこ×しゃこ。着ぐるみの精巧さは、特撮ゆずりか。イカの目は怪獣の目と同じ、しかも表情豊か。軟体の足の間だから分厚い太股が出ている。動きにくいはずが、キレのある動き、スーツアクターか?と思いたくなる。「いか」や「たこ」のフィギュアの売れ行きを、気にするルー大柴の社長と、「いか」や「たこ」フィギュアを手にして、喜んでいるゲストのなべやかん。こどもは一切、いかレスラーを応援していない。そもそも、煩悩(女性への?)がいかレスラーの弱点という設定もある。愛や夢や希望や、微笑ましい笑いや現代社会への皮肉、そういうもののない特撮なのだ、この映画は。愛や夢や希望や、微笑ましい笑いや現代社会への皮肉、を、スポイルしたら、特撮は、こうなってしまうのか。いかいかいかいかいかレスラー♪いかいかいかいかいかレスラー♪岩田貫一を演じる本物のレスラーが歌うという、主題歌は耳に残るヘタさである。主題歌や挿入歌を主役が歌うことも特撮の特徴だと聞いたことがある。しかし、公式HPやポスターなどの宣伝は上手い。宣伝の上手さと特撮好きは、カブルのか。「アメリ」の買い付けで有名な叶井俊太郎のファントム・フィルム発。「スーパー・サイズ・ミー」「ロスト・イン・トランスレーション」もこの会社の配給である。最後に、少しだけ。いかを連発することによって、いかを存在させようとした。でも、最後まで信じさせてもらえなかった。だから、途中から退屈になってくる。愛や夢や希望や、微笑ましい笑いや現代社会への皮肉の代わりは、なんでもいいから用意しなきゃあね。大人の特撮が、カラッポに見えるのは、なんだか腹立たしいそれよりも一生懸命、演じている方々に、敬意を表したくなってしまった。
2005.05.24
コメント(10)
ちょっとずつ、でいいのだ。いきなり、100%ガンバルなんてムリムリ。うまくいくはず、ないしね。無気力からスタート。葉沢里美は、高等専門学校で、ボーと生きていたようだ。目的を見つければいいのだけれども、そのへんに転がっているワケでもなし。けど、学生さんなので、何もしないと居残り授業が必要になる。って、わけで、担任の図師先生に勧められ、ロボット部に入ることになる。ロボット部といえば、「ロボコン」60校を越える全国の高専が2チームづつエントリー。全国8地区で開催される地区大会に出場し、選抜チームにより全国大会が開催される。図師先生に、引っ張られて、というより引きずり回されて、彼女が入ることになったのは、第2ロボット部。ロボコン出場常連の第1ロボット部から、はみだした3人の男の子のいるところだった。ヤル気はありそうだが、小心者の四谷部長、設計担当、完璧主義で人を寄せ付けない相田航一、組み立て担当の竹内和義に至っては、ユーレイ部員で姿を現さない。それでも、4人揃ったのだ、ロボコンエントリーは可能になった。彼らのロボット「BOXフンド」が、地区大会で敗退するも、ユニークさで、全国大会への切符を手に入れしかも活躍する。けど、そこまで行くのに彼らは、ちょっとずつ、がんばった。古厩智之監督の演出は、極端に熱くも、極端にカッコヨクもない。自分の設計に絶対の自信を持つ航一の要求に、負けん気の強さを発揮して部品をつくる里美。自分を勇気づけながらも、大舞台に立つ四谷部長の必死さ加減、遊ぶよりももっと面白いことを見つけた、竹内和義は、そんな自分をそのまま認めてない。等身大の姿を描くには、ドラマティックはいらないのだ。長澤まさみ、小栗旬、塚本高史、伊藤淳史、若い俳優もアイドルにはならず、高専の生徒になり、旋盤さえ回していた。ちょっとずつ、ちょっとずつ。現実問題として、100%なんてがんばれない。ちょっとずつ、がんばって、ちょっとずつ、確認しながら、振り返れば、やっと何かが出来上がっている。「BOXフンド」彼らのロボットは、胴がう~んと伸びて、荷物の箱を一気に乗せる。そのための素材、そのための仕組み、ちょっとずつ知恵を出し合って、ちょっとずつスゴイロボットになっていく。山口百恵の「夢先案内人」を微笑みながら里美が歌うシーンがある。無気力だった彼女は、今、がんばっていた。仲間といっしょにがんばっていた。そんなに一生懸命に熱血してないのだが、なんだかとっても楽しそうで笑顔がこぼれている。ちょっとずつがんばってみる。上手くいくとは限らないけれでも。全国大会の会場では、みんなが応援している。勝っても負けても拍手がきたりする。いろんな工夫にあふれたロボットが登場する。里美たち4人だけじゃない、他の学校のみんなもがんばってやってきた。いきなりスゴイのはドラマだけ。現実は100%ガンバルなんてなかなか出来ない。でも、ちょっとだけガンバッテみる。何もしないよりは、きっと、楽しくて仕方なくなるような気持ちになれるかも知れないのである。
2005.05.17
コメント(10)
学校のトイレの個室。小学校6年生の男の子が覗き込んで確認してる。大人の「オトコ」になったのを。「おしっことちゃうやん!!」教室に戻ってもなかなか戻らなくて、しかも朗読に指名されて、大変。阪急電車の踏切。阪神大震災の影響から、立ち直りつつも、まだ少し元気のない商店街。オール・ネイティブ関西弁である。12歳の男の子セイが14歳の女の子ナオコに恋をする。ひこ・田中の児童文学の映画化。富樫森監督、主演の久野雅弘くんは注目株。久野くんは、大作の主演経験があると思えぬほど、何気なく小学生を演じている。脇役に名のある俳優が幾人が出演、京都大学元教授の森毅先生がいるのもご愛敬。思春期に入った少年の一番最初の恋。真面目で照れくさくて、コントロール不能で、突っ走る。ちょっとだけ見かけた女の子、でも、気になって気になって仕方がない。会ってみれば、ストーカー扱い。でも、気になって気になって仕方がない。大阪~京都間を自転車で突っ走るセイ。2歳だけ年上のナオコは中学生、2歳しか違わないのに彼女がウンと大人に見える。お父さんの営む喫茶店が閉店間近、女の子の感受性はセイよりずっと敏感で、加速度を増して大人に向かっている。関西弁のニュアンスが、少年の純粋な「発情」をやわらかく包む。人間も間違いなく動物、装飾のないセイとナオコの表情と言葉がオトコとオンナのはじまりを軽やかに見せてくれる。前半はクラスよりも一足早く大人になってしまったセイのドタバタ騒動。後半はセイの自転車ロードムービー。セイのクラスメイトや彼を好きになる女の子など、児童文学らしい微笑ましい姿も多い。彼らのいる情景、それはどこかしら大人は通ってきたのだ。だからこそ、この作品にはホロ苦さがある「おしっことちゃうやん!!」真面目で照れくさくて、コントロール不能。ごめん。そう言ってしまいそな気持ち。坂道をセイとナオコは自転車で駆け下りる。止まらない止まらない止まらない。謝るしかないよな、そんな、気持ち。でも、きっと、そう、真面目で誠実であれば、きっと誰かを幸せにできるはず、きっと、自分も幸せになれるはず。
2005.05.07
コメント(4)
生まれてから死ぬまで。クルッと回ってつながるのか、それとも途切れて消えてしまうのか。どこかに、見える場所があるのか。それとも、見られぬまま消えてしまうのか。居心地のいい棺桶の中。窓から4人の仲間たちの顔が覗いている。ゆったりとした環境の老人ホーム、ここの入居者は皆、裕福なようである。奥さんととっても仲のいい源田さんは、とにかく人生設計を立てるのが好き。だから、自分の骨壺と棺桶を用意して仲間に披露した。そしてやがて、その棺桶の中の人となった。全て、源田さんの計画通り。元・映画プロデューサーに山崎努、濡れ衣を着せられた元・銀行マンは宇津井健。そこに、エロジジイに徹する青島幸男とホラをふき始めたら止まらない谷啓が絡んでくる。計画好きな源田さんは藤岡琢也、ひたすら桃と食べるホームレスは長門勇、物語のキーパーソンは森繁久彌、99歳白寿の役で登場する。この顔ぶれ、なんと個性豊かなことか。全て、源田さんの計画通り。「死に花」と名付けられた遺書を残していた。『さくらんぼ銀行』17億円強奪計画。金庫に向かってトンネルを掘らなければならない。一人でやれば大変だが、四人ならば四分の一。必要な機材やら方法は遺書に書かれている。残った四人にホームレス一人が加わって、エッサホッサとトンネル掘りが始まった。そんなムチャな。いや、ムチャじゃない。源田さんは生前、釣りで、とっても大きな魚を釣り上げた。みんなで応援した、そして、ワクワクした。そしたら、ホントに釣れたのだ。諦めずに、やってみればいいのだ。自分の人生なのだから。それは過酷な穴掘り作業だったが。四人はヘトヘトになるまでの作業を強いられる。だがヘトヘトになるまで遊んだら、深い眠りと充実した気分が得られる。物語の前半は、源田さんが主役だ。自分の葬式までプロデュースしている。最愛の奥さんとともに行くことになるのも、計画通りだったかも知れない。白寿の老人の秘められた悲劇の過去も、彼によって癒されることになる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1順番には数えられても、逆さまから数えられなくなるという。強奪計画は、老いと台風に邪魔されることに。だが、この厳しいご時世である。なんと、銀行が傾きだしてしまうのだ。銀行そのものでなく、銀行のビルが。残された時間、台風の最中、再び銀行強奪計画が始まる。見事17億円、老人たちは奪取する。犬童一心監督作品。随所にコメディが散りばめられる。同じ位に、人に訪れる老いにも焦点があてられる。現実とファンタジーがない混ぜになる。なんだか、「苦笑い」がこぼれるくる。生まれてから死ぬまで。クルッと回ってつながるのか、それとも途切れて消えてしまうのか。「遊ぼ!遊ぼ!」生まれてからずっと生きてきて、ここへきて、時間が逆行した老人を山崎努が名演。まだ、わからない場所にいるならば。最後の最後まで遊べるはずなのだ、きっと、きっと。17億円を手にした彼らは、まだ、ひと花もふた花も咲かせようとしていた。
2005.04.22
コメント(4)
兄、頼朝の陣に馳せ参じても、草繁るアバラやに通される義経主従。奥州平泉にても同じ処遇を受けた彼らだが、今度もまた同じように畑を耕し壊れた家の修繕を始めていた。本陣と離れれば気兼ねがいらない。ニコニコと笑うのは、駿河次郎。相変わらず、地元の子供らと仲良しなのは、伊勢三郎である、歌まで歌い出す。佐藤忠信、継信兄弟は呆れるを通り越して、納得しているかのように見えた。 のびのびと生きていた、と、対面した弟の話を聞いて洩らす源頼朝。自分は流人だったと、目を曇らせている。1192年、征夷大将軍に任ぜられるまで、彼には考えねばならぬことが山ほどある。本当に、山ほどあるのだ。水鳥の音が、陣を乱す。平家の総大将は平維盛、敗走する郎党を呼び止める声も虚しく、逃げ帰ることを余儀なくされる。桜梅少将と呼ばれた踊りの名手。ならば、舞いこそ彼を光らせてきたはず。この後も敗走を重ねる悲運の武将は、戦って生き抜く時間を持たないまま富士川にいた。源氏が立てば、兄が立てば。九郎義経は、そのために時間を費やしてきた。戦の経験はなくとも、彼は、彼の思い描いた場所に来るために時間を費やしてきたのだ。これまでの時間。そこに至るまでの時間。人を形づくるのは、その時間の中味。どこで生まれたか、何を生業にしてきたか、何が出来るのか、優しいのか、厳しいか、強いのか、弱いのか。人がそれぞれに持つ「力」はその時間の中に詰まっている。富士川の見張りを命じられた義経主従。駿河次郎は川の様子を観察し、伊勢三郎は、人に交わり、情報を得る。そうだ、馬を知るのは喜三太、戦場では、弁慶に佐藤兄弟がいる。それぞれの力は、それぞれの時間の中にある。兄を身近に感じ、兄を思うのは、九郎義経のこれまでの時間、そのもの。嘘偽りなく。北条政子の前でも臆することなく。涼やかな目が、彼女を射抜く。苦を楽にすればいい。食べ物がなければ、育てればいい。海は近いのだ、漁も出来る。壊れた家は、治せばいい。そうして、明るく、暮らしていけばいい。まさかの時に働く力は、負の感情の中では決して生まれるわけはない。戦はまだ、始まったばかり。現在という時間もまた、過去に変わる。そして、人の未来を形づくってゆく。
2005.04.17
コメント(8)
我を張って生きてるんだから、性格悪いのは、当たり前なのだ。っていうか。そもそも、性格悪かったっけ?竜ヶ崎桃子。BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのメルヘンティックロリータファンションに身を包み、下妻の田んぼに挟まれた道をご機嫌に歩いているだけ。ロココの世界に心を飛ばして、完璧な自己中心個人主義に浸って、ニコニコ微笑みながら歩いているだけ。ただし、一人だった。白百合イチゴと出会うまでは。性格がいい=友達がいっぱい。性格が悪い=友達が出来ない。そういう方程式にあてはまったように、学校でもいつも一人だった竜ヶ崎桃子、17歳。生まれは尼崎、身近なとこだからこそ言えるが、年がら年中、阪神の応援しているファンキーシティ。ダメ父のもとから不倫母は去り、さよなら、関西、祖母を頼って下妻へ。どうみても「負け」の父親の元に残ったのは、その方が面白かったからという変な子供だった。何もかも、ヒトゴトのような子供だった。そうなんだ、子供にとっては、大人の人生なんて、ヒトゴトかも知れない。ムチャクチャヘタクソな字。白百合イチゴは最初、文字で登場する。桃子は、ロリータのお洋服を買うためにバッタモンの有名ブランドの在庫を売ると雑誌に投稿して返事してきたのがイチゴである。下妻最強レディース『舗爾威帝劉』所属、なんかもう、燃えちゃってるヤンキー、桃子とはタメ。彼女は有名ブランドの服をとにかく安く買いたかった。バッタモンだと説明されても、安く買えたらよかった。安く譲ってくれた桃子に、とにかく、返せないほどの「恩義」を感じてしまい、その上に何故か、彼女にまとわりついてしまった。もちろん、桃子はロクに相手はしないが。一人が、二人になる。いつのまにか相手のことを知る。くだらなさそうな顔をしても、イチゴが語る「亜樹美さんのこと」、「伝説のヤンキー、妃魅姑(ヒミコ)」のこと要約して語ってくれちゃってる桃子である。中島哲也監督の演出は、軽快で楽しい。ロリータ、ヤンキー、女の子の友情、限定されたキーワードを笑いでくるんで、どの世代にも通じる心の部分に切り込んでゆく。2004年に公開された邦画の中でも、キラキラと輝く宝石のような作品となった。もう、ヒトゴトじゃない。友達のピンチ、桃子は信じられないようなハッタリで、イチゴを救い泥だらけになる。性格が悪い=友達が出来ない、そんな方程式は、嘘っぱちだったのだ。我を張って生きてるんだから、周囲と協調できなかたっただけ。BABY, THE STARS SHINE BRIGHTの社長、磯部さんは、仕事を選んだから自分には友達はいないという。だが、それは、友達に出会わなかっただけ、桃子は、もう、友達に出会っていた。遠近感のある映像は、独特。桃子とイチゴは、その極端なファッションのせいで、オモチャ箱のオモチャのようだ。柔らかいニュアンスの中に、笑いを織り交ぜ、現代に生きる人の心の部分に切り込んでゆく。我を張って、一人、自分の足でたち、向かい風に立ち向かう二人の甘くない友情。だが、嘘のない、友情。深田恭子と土屋アンナはピタッとくる演技で、この作品の一番の宝石となっている。我を張って生きてるんだから、周囲とうまくやれないのは当たり前なのだ。それは、なかなか、生きにくい。ツルんだほうがラクなのだ。だが、それでは、自分を曲げなきゃならない。ニコニコ笑って、大好きなお洋服を着て、桃子は一人、そう、一人で道を歩いている。幸せになるのは、勇気がいることだと知った彼女は、やっと当事者になり、大人になり、いままで以上に強くなったように見える。そう言えば、イチゴも、モデルやりながらスタッフをぶっ飛ばしていた。
2005.04.12
コメント(8)
青い空に向かって、高い旗竿が伸びている。その上から下まで、本当にぎっしりと、結びつけられているのは黄色いハンカチ。夕張の風に、棚引いている。“もし、おまえが一人なら、ハンカチを掲げておくれ。”網走刑務所での六年の刑期が終わる直前に、島勇作が、妻の光枝に書いた手紙。“だが、もし、ハンカチがなければ・・・”「あれっ?」最初に見つけたのは欽也だった。その彼に釣られて、朱実の顔も綻んだ。島勇作の顔がジンワリと変化する。あまり表情に変化のない男は、大きすぎる感情を表しかねているようだった。だが、まぎれまく眼前に広がるのは、黄色いハンカチ、風に棚引いている。すぐに、彼は、愛する女性を見つけた。赤いファミリアの三人の旅、陽気な旅だったのは、欽也のせいだろう。旅で知り合った朱実にしつこく迫るような軽率な青年ではあったし、毛ガニを食べ過ぎて、北海道の美しい景色も、愉しめないほどトイレに駆け込むが全く、憎めない。同僚からあらぬ誤解を受けて、北海道への一人旅にでた朱実だったが、奇妙な男達に巻き込まれて道連れになっていた。1977年、山田洋一監督作品。若い武田鉄矢と桃井かおりが、個性を生かした演技で映画を楽しくしてくれる。その楽しさが観る者を巻き込み、最後には、島勇作の肩とポオンと叩いてやりたくなる。「良かったな、良かったな、勇さん」高倉健は、みんなの想いをしっかり抱いて、愛する女性のもとへ駆けだしてゆく。“だが、もし、ハンカチがなければ・・・”この男はきっと、そこに戻らなかっただろう。そして、彼女なら、待ち続けていただろう。高倉健と倍賞千恵子は、そんな気持ちに私たちをさせる。武田鉄矢と桃井かおり、同様に、役者の持ち味が、ピッタリと作品にはまる。きっと、この作品は、おとぎ話に近いのだと思う。物語の登場人物は、その登場人物でしかない。複雑な、裏表は必要ない。どんな物語よりも純粋な「存在」だと思えてくる。例え、おとぎ話だとしても、そのおとぎ話が、人を育むことがある。子供も、大人も、変わりなく。Tie A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Tree「幸せの黄色いリボン」の歌詞そのままに。原作はニューヨーク生まれのピート・ハミル、小説家だけでなく、ジャーナリストなどの顔も持つ。日本映画の代表作にも挙げられるこの作品も、ハリウッドリメイクが決まっているという。黄色いハンカチが棚引く。黄色いハンカチが棚引く。カメラは、長い間、そのハンカチを写す。ほんとうに貧相なあばら屋。だが、鮮やかな黄色いハンカチは幸せというものをはためかせている。
2005.04.04
コメント(4)
夢ならば空を飛べるはず。80歳の日暮里さん、洋館の屋根に立つ。朝、起きたら、なんか、身体がオカシイ。心臓病を患っていた日暮里さんの意識は、病気になる前の20歳に戻ってた。家の様子もなんだか違う。しかも、彼の憧れのマドンナがやってきて、自分の世話をしてくれるというのだ。こりゃ、嬉しい、夢のようだ。実はそのマドンナ、洋館に一人住む老人の世話をするためにやってきたホームヘルパー、古代なりす。まだ、18歳だというのに、よく気が付いてよく働いてくれる。でも、家には泊まってくれない。大島弓子の原作を、犬童一心監督が映画化。日暮里 歩を演じるのは、伊勢谷友介、朴訥な演技で、長身のスラリとした姿を老人に見せる。古代なりすは、池脇千鶴、犬童監督は彼女を個性を見事に生かしきる。古代なりすの気持ちは、もちろん、日暮里さんにはない。血の繋がらない弟、丸夫に思いを寄せるが、彼が付き合うのは彼女の親友、万亀子。そんなことを知る由もなく、日暮里さんは嬉しかった。マドンナは毎日家にやってきてくれる。若い娘にクソジジイとか言われても、自分のことだと思ってない。でも、ちょっとな~んでかな?と思うのだ。マドンナは家に泊まってくれない。他にもなんとなく、いろいろ、な~んでかな?と思ったりしていた。日暮里さんの枕元に堺すすむさんがやってくる。一緒にクビをひねっている日暮里さん。夢のような楽しさは、少しづつ少しづつ溶けていく。物思いに沈むマドンナを励ますために、旧友に電話しまくる日暮里さん。だが、多くは死んでいた。妻を伴い、訪れてくれた神崎武は、白髪の老人になっていたりした。若い頃好きだった本物のマドンナは、神崎の細君になったいた。書斎にあった、自分の日記には、同じことを繰り返す文言と病気のことが書いてある。何が夢で何が現実がごちゃごちゃになった彼は、ついに空を飛ぶ決心をする。夢ならば、飛べるはず、と。現実は夢の続きなのか。現実は醒めない夢、なのか。それとも、全部、夢?空を飛べなかった日暮里さん。人は、それを確認する術をもたないから、確認しようと、いつも、もがいている。自分の感情を弟にぶつける、なりす。抑え切れぬ感情をぶつけて、現実に立つなりす。20歳に戻った日暮里さんは、ハタチのまま空を飛び、80歳の身体は荼毘に。現実は、現実。現実を感じるか、否か。洋館を囲むひまわり。洋館は、現実を忘れ去れる佇まい。だが、日暮里さんはファンタジーじゃない。80歳の彼は、夢のような現実にいた。
2005.03.18
コメント(6)
見上げるは最期の青空。絹見真一艦長の顔は充足に溢れている。東京を目標に離陸した原爆搭載機は田口徳太郎掌砲長が操る主砲に撃墜された。後は、帰還するのみ。行く先は、終戦を迎える日本だ。だがそれは、彼らが見ることのなき未来でもある。《伊507》は浮上した。かつてない試みがこの映画で実現した。役所広司、妻夫木聡といった豪華な役者を揃えて、「戦争」はCGと特撮の手法で再現される。アニメーション的な要素を加えながらも、歴史の一幕として今にも風化しそうな「戦争」に、楔を打ち込もうとしていた。原作と異なりラストに現れた作家は、絹見真一の腕時計をして私たちの前に現れる。《伊507》は、今も生きている。浅倉良橘大佐も、いる。机上の空論とは、なんと手前勝手なものだろう。ドストエフスキー『罪と罰』の引用は、他人を殺すことで自分を殺す彼の人生そのもの。どこにも他人の「生命」は介在しない。だからこそ、東京へ原爆を落とそうする。苦渋の色さえ見せることなく。楢崎海軍軍令部総長たち。組織のトップにいながら、責任をとれぬ者たち。彼らも、今も生きている。長崎原爆投下を感知したパウラ・A・エブナー、彼女の思考を表現する映像のコラージュは、アニメーションの手法を思い出す。折笠征人のひたむきさは、特撮やアニメで登場する子供たちに近い。架空の世界でありながら、映像ではリアリティが必要になってくる。役者の動きやカメラの揺れではなく、爆撃を受けた潜水艦の内部の揺れを、セットを動かすことで再現したという。CGを駆使した戦闘シーンは、明確なビジョンなしには完成しない。監督やスタッフの素養の深さと熱意を感じさせる。この映画は楔なのだ。絹見真一を演じる役所広司は、舞台劇にも通じる目線を投げかけてくる。パウラへの負荷に心痛め、木崎の犠牲に苦悩を露わにする。その目に溢れている絹見真一と言う男は、戦争の絶えない現代を射抜こうとしている。彼らの守った未来は、どこにあるのか。長崎出身の役者の矜持を感じさえする。惜しむらくは、南方戦線の状況を伝えきれなかったことだろう。浅倉、田口、高須が結びついた悲惨な状況も戦争を知らぬ世代には想像がつかない。表現の難しい浅倉の役ではあるが、描ききることが出来ればと思わざるを得ない。また、せっかく軍医長がいながら、乗組員の負傷が少ないのも気にかかる。時岡は原作では、「生命」に対し、素晴らしい熱意を見せてくれていた。《伊507》は、浮上した。そして、今なお生きているのだ。まだ、あの戦争が風化するのは早すぎる。絹見真一は明言していた。特攻は認めないと。若い命を散らすことが、攻撃と言えるはずがないのである。
2005.03.12
コメント(8)
和賀英良の最後の演奏会、静まりかえる観客を包むのは「宿命」である。白装束の本浦千代吉と秀夫親子の旅は続いていた。まだ、続いていたのだ、今西刑事らの執念の捜査が、三木謙一殺しの犯人に辿りつくまでは。「宿命」と名付けられた音楽。和賀は音楽で人生を切り開こうとしていた。ピアノを前にして演奏する彼は、音楽の神の愛を受けて、神々しいほどだ。元大蔵大臣の令嬢との結婚も近い。だが、「宿命」は彼の足をピタリと止めた。それを知られてはならないのだ。彼の「宿命」を。演奏会の会場に鳴り響くピアノ。彼の「宿命」を今西刑事は心で聞いていた。この曲が終わるまで、和賀は解き放たれることはない。切り開こうとして、走り続けた人生に立ちふさがったのは、育ててくれた恩人、三木謙一。和賀が彼を殺さざるを得なかったのは、悪意であるはずはない。だが、もう。立ち止まるわけにはいかないのだ。鳴り響く、ピアノ。カメダが山陰の亀嵩に結びつく。白い紙吹雪が、車窓から舞っている。和賀を愛した女が、血のついた衣服という証拠を隠滅する。その女の人生もまた、哀しい。哀しい、宿命。断ち切れなかった宿命。今西刑事は東に西に、本浦秀夫の足跡を追った。そしてやっと、和賀英良に辿りつく。逃れられぬ宿命に、がんじがらめになっていた男に。1974年、野村芳太郎監督作品。別々に見えた秀夫と和賀の人生のピースを、今西刑事とともに、完成させてゆく見事な展開だ。演奏会での「宿命」が和賀のそれと重なる。和賀を演じていた加藤剛は、和賀そのものになり、戦っていた。それを見つめるのは丹波哲郎、今西刑事の魂も、この役者に乗り移っている。忘れてはならないのは加藤嘉である。ハンセン氏病という社会の闇に引き込まれ、非業の人生を生きた本浦千代吉を熱演する。後世に残るべき日本映画に、役者達は力を出し切っているようだ。切り開くことの出来なかった彼の人生。和賀英良が背負った罪の根源は「宿命」にある。目を背けることのできないもの、消し去ることもできないものである。
2005.03.02
コメント(6)
女の子が変身する。婦人警官にバイクレーサー、はたまた、路上のヒッピー風シンガーその実体は愛の戦士、キューティーハニー。佐藤江梨子、サトエリの開脚180度可能のハニーである。女の子がコスプレする。監督・脚本は庵野秀明、でもって、キャラクターデザインに安野モモコも参加して、振幅激しい、キャラクターたち。ゴールドクローは甲冑姿で、コバルトクローはボンデージ風。スカーレットクローは十二単衣モドキである。しかも、及川光博、ミッチー参戦、シスター・ジルは胸を強調した篠井英介である。おっと忘れてた、コスプレなしだが、巨大化した「京本政樹」なる離れ業も登場する。女の子が戦う。警視庁公安8課所属の秋夏子警部。巷で起こる若い女性の誘拐事件やらなんやらで背後に潜むパンサークローまで行きつくが、警察組織は取り上げてくれない。行きがかりで行動をともにするのは、自称新聞記者の早見青児と、如月ハニー。どうも胡散臭い連中である。女の子の怒りが爆発する。変身したハニーの沸点が上昇するとヤバイらしい。なにせ彼女はアンドロイド、銃弾でも死なないが、怒りで爆発しそうに。如月ハニーは女の子。不死身の体を持っていても、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、すねたり、オシャレしたりする。友達がいれば、彼女を庇うために必死になる。秋夏子警部は友達だ。看病をしてくれたりする優しさと、人質を解放されるために自分が人質になれる女性。一緒に戦える友達。女の子の若さというもの。若さを維持するために若い女性の精気を吸っていたジル。今年で2,222回目の目覚めだというが老化は防げない。ハニーのiシステムは永遠の若さのために必要だった。友達を助けるためにと、ジルとの同化を受け入れるハニーの気持ちがわからない。女の子の可愛らしさ。女の子の頑固な強さ、図太さ。人間は老いて、滅びゆく。だが、手をとりあって生きてゆける。しかしそれは、若さにくるまれた愛情や友情にみえる。滅んでしまったシスタージルは新芽となって生き残っていたが。女の子は変身する。普段は年功序列にお茶も組めない派遣社員。日頃の動力源は「おにぎり」の如月ハニーである。だが、変身すれば野太い声で愛を貫く。サトエリはわかりやすく好演していた。
2005.02.09
コメント(6)
虹の都、光の港、キネマの天地。もしも、願いが叶うなら。しかし、願いは叶わないから不器用に生きるしかない。時代は流れて、映画スタアの顔も変わる。いつまでも変わらず、大部屋で小さな役をこなす役者もいる。男に捨てられて身ごもった女優がいる。「上がってこい、ヤス!!」土方歳三に扮した倉岡銀四郎、ギンちゃんが、池田屋の階段から転がり落ちたヤスに手を差し伸べる。流石、華のある役者だ、ギンちゃんの声は本当に、よく通る。奈落のヤスにしっかりと届いている。見事に斬られたヤスは、キズだらけの身体を引きずって、階段を一段ずつ上ってゆく、一段ずつ。ヤス、もうすぐ父親になるヤス。「コレがコレだから」とキズを増やしながら、小夏のために危険な役を引き受けて、部屋に電化製品で埋め尽くしたヤス。もうすぐ父親になるんだ、その子の本当の父親はギンちゃんだけど、そんなことは関係ない、小夏の腹の中の子の父親は、間違いなくヤスだ。時代に寄り添って生きれたなら。時代に乗っかって生きれたなら。いつまでも記憶に残る、銀幕のスタアたち。だが、そうはなれぬ者たちは、不器用に生きるしかない、不器用に、不器用に。松坂慶子の小夏あっての華やかさ。しかし、映画を盛り上げたのは二人の男優だ。風間杜夫のギンちゃんは直球でカッコイイ。近くに入れば迷惑この上なさそな感情の起伏の激しさも、何故だか可愛らしく見えるほどだ。平田満のヤスは、カッコワルサを魅力的に演じ、小夏に対する複雑な感情も細やかに演じている。後に、幅広い役柄をこなすなくてはならない役者の魅力は、存分に、存分すぎるほどにこの映画で味わえる。本家本元のつかこうへいの脚本を得ての映画化。深作欣二監督作品である。この監督の作品に出会えばいつも「熱気」を感じる。まさしく不器用に生きるしかない三人の男女に生きる力、なのだろう。ギンちゃんの格好は本当にキマっている。帽子は斜めに、派手なネクタイに派手なジャケット。彼の世界の中心に自分を据えて生きてきた。自分より坂本龍馬役が目だって不機嫌になったり、女にフラレりゃ、落ち込んだり。ヤスの視線はそんなギンちゃんに一直線。ギンちゃん、ギンちゃん、ギンちゃん、ギンちゃん。小夏は最初、ギンちゃんが好きだったはずだが、ギンちゃん一筋のヤスに愛想をつかしていたりもしたが、いざ、階段落ちの本番、ヤスが心配でたまらない。みな、不器用だ。時代に乗っかって生きられない。だから、這いつくばる。だから、挫折する。でもヤスは今、階段から這い上がろうとしている。「上がってこい、ヤス!!」ギンちゃんの手が差し伸べられる。虹の都、光の港、キネマの天地。虹の都、光の港、キネマの天地。
2005.01.25
コメント(11)
頭のネジをユルめよう。2~3本じゃ足りないから、この際だ、50本くらいは、ユルユルに。三池崇史監督プレゼンツ、異色ミュージカル・ホラー・コメディ。豪華キャストが親子になって人里離れた山ン中でペンション開業しておるぞ。空気はとってもイイけれど、お客なんぞ来るハズない場所であったのだ。案の定、お客第1号は見るからに陰気で、でもって、自殺してしまったのである。韓国映画「クワイエット・ファミリー」が元ネタ。しかれども日本人だけ喜べる小ネタが満載。沢田研二は「TOKIO」を歌っているし、勿論「愛の水中花」と言えば松坂慶子、二人は夫婦。丹波哲郎ジイちゃんの行き先は大霊界だし、忌野清四郎はゾンビダンスしながら踊っている。おお、そうだ、このお話。ペンションに来る客は次々となんだかワカンないけど死んでゆくのである。ラララ~♪歌って踊りながらァ~♪両親の第二の人生を半ば冷ややかに観るのは娘と息子役の西田尚美、武田真治。だが、ペンションは死体ばかりで大災難。人気力士が腹上死して女は圧死したりしている。家族団結して頑張らなければならなかった。今度はマトモな客かな~と、淡い期待をしても、また死んでゆく~ラララ~♪お客さ~ん~~。ハリウッドはよく莫大な費用でおバカ映画を作ってるが日本映画はヒトアジ違うようだ。本格的なCGや本格的なミュージカルは一つもない。本格的にエキストラを集めて本格的なホラーやら本格的なコメディもない。なんかイイ感じのテキトーでやっちゃってくれてるキャストが豪華なのは三池監督の人望だろう。クレイアニメと死体のメイクで金かけたのか?ほどよくぬるくマッタリと、しかし展開はクレイジーである。しかし、まあ、今さらながら、ジュリーとキヨシローさんは歌がいいぞ~。三池崇史監督の暴走は続く。高尚な映画的才能を見せるつー欲はないのか。コンスタントに映画を発表し続ける。アイデアと実行の人、なのだろう。違う監督ならばもっと上手い演出が出来たとしても、作品にならなきゃ意味がないのだ。「TOKIO」に「愛の水中花」外国の方が映画祭向きじゃないネタである。確信犯か。次から次への大災難を、洗い流すかのように起きる山の噴火。埋めたはずの死体が次から次へと流れだして、死体遺棄の罪は、うやむやになってしまう。やっと、家族に幸せが訪れる。ちなみに一家の名字は片栗、カタクリさん。大災難を乗り越えて、一家は真の意味で団結していたのである。
2005.01.13
コメント(6)
1944年2月、北海道羅臼の老人宅に、外套の上にムシロを巻き付けた異様な男が助けを求めて倒れ込んできた。難破船の船長だった男は、猛吹雪の知床岬の冬をどうやって生き抜いたのか。武田秦淳の小説を熊井啓監督が映画化。知床の洞窟を舞台に繰り広げられるのは、目を覆いたくなるほど暗鬱な人間のドラマ。生き残るために船長がした選択。生還から5ヶ月だってから見つかったリンゴ箱から、バラバラの人骨と衣服が発見される。船長の船には最初、4人の船員が乗っていた。妖しく、マッカウシ洞窟で光るのは。天然記念物の「ひかりごけ」本当にこの地方にあった物語。作家は「ひかりごけ」に圧倒されたまま、地元の中学の校長の話に耳を傾ける。奇跡の生還と遂げた船長は、人骨が見つかるまでは美談の主人公だった。だが、一転、世論は逆転する。食肉事件、彼は生き残るために船員の人肉を食べたことを裁判で認めた。洞窟の中で繰り広げられる、四人の男たちの葛藤は観るのも辛い。最初に死んだ男をめぐり、残った三人の意見はやはり二つに分かれる。そして肉を食べなかった男は死んで、船長と若い西川が二人残ってしまう。最初に死ぬ五助役の杉本哲太、肉を食べることを拒否した八蔵役の田中邦衛、二人もまた印象深い演技を見せるが、船長の三國連太郎、西川役の奥田瑛二の肉を食べる姿の迫真の演技には圧倒される。特に、船長の三國連太郎、無表情な顔をして、本当に食べているかのような気がした。最後に残った西川が、凍死を覚悟して、逃げ延びようとさえする。だが、その彼もやがて死んでしまう。ゆっくりと西川を食べる船長が描かれる「我慢しているんです」船長はずっと、そう言い続ける。洞窟の中。四人が三人に、三人が二人に。西川が死んでも、熊井監督は船長を一人にはしない。船長とともに、観客を洞窟に存在させる。五助が死んだ、八蔵が死んだ、次は西川が。生き残るためにはどうするか。人肉を食った者の頭には「光の輪」が見えるのだと言う。「光の輪」に罪があるのかどうか、「光の輪」を持たぬ者がいるのかどうか。「光の輪」を裁くことが出来るのか。答えは、どこにもない。だが、逃げることは出来ないと思う。
2004.12.27
コメント(2)
歴史には、名を残す者と名を残さぬ者がいる。1979年、斎藤光正監督作品。脚本は鎌田敏夫氏。テレビドラマでも活躍のご両人である。原作の半村良氏は、星雲賞から直木賞、柴田練三郎賞まで受賞歴の幅広い、中身の濃い作品を書かれる作家。『戦国自衛隊』も痛快無比な小説である。颯爽と戦場を駆け抜ける長尾景虎。彼の武者ぶりに自衛隊の青年たちは何を観ただろう。日本海側で実施される大演習に参加するため、伊庭義明三尉以下、二十一名はトラック、装甲車にて目的地に向かっていた。異変は金星の位置によって知らされる。隊員の腕時計は五時十八分を指したまま。彼らは四百年の時を越えた戦国時代に放り出されていた。最初、伊庭三尉は歴史との関わりに慎重だった。だが、長尾景虎との友情と実際の戦闘に加わることで、天下取りへの野望に目覚めてゆく。隊員たち一人一人もまた、変化が訪れる。時代に順応する者、時代に刃向かってゆく者。『時の神』、彼らを戦国時代へ送り込んだ存在の意志を彼らなりに、確かめようとしていた。自衛隊VS武田信玄。映画は荒唐無稽な川中島の合戦を映像化する。ヘリコプターに装甲車、機関銃は二万人と互角。当時の角川映画の真骨頂、莫大な費用が見える戦闘シーン。タイムスリップ時の描写は甘いが、ラストは大迫力である。隊員たちは次々と命を落としてゆくのにもドラマがあり、それこそ、監督と脚本家の持ち味が光る。千葉真一、渡瀬恒彦ら俳優も、力演している。『時の神』。伊庭たちを戦国時代に運んだ存在。自分の人生を切り開こうとした者を切り捨て、最後には、長尾景虎とたった一人の隊員のみを生かす。長尾景虎、後の上杉謙信。伊庭たちの戦闘は、彼の戦として歴史に刻まれる。そして、もうひとり農夫となった隊員だけが、ひっそりと戦国時代で命を得ていた。この映画は娯楽作品である。だが、原作と同じく面々と流れる混じりけの無き「時間の流れ」は明確に汲み取れる。歴史には名を残す者と残さぬ者がいる。良くも悪くも刻まれた足跡に名前が冠せられる。ただそこに記される名は、ただ一人。『時の神』が誰を選ぶか、だ。それでも、人間は『時の神』に戦を仕掛ける。伊庭の遺体を見おろす、景虎。彼はもう、伊庭のいた過去よりも未来を観ている。だが、戦国時代に農夫として生きるのも、また、未来を観ること。荒唐無稽な設定でありながら、露わになるは「歴史」そのもの。混じりけ無き、一筋の「時間の流れ」である。
2004.12.14
コメント(4)
人間はもはや少数に。地上は人類の進化形態オルフェノクに支配されていた。だがレジスタンスの一員である人間の少女はいつか、救世主が現れると信じていた。『そしてファイズは闇を切り裂き、この世に光をもたらす。』と。人気テレビシリーズは、登場人物はそのままに、間違いなく独立したSF映画となっていた。B級SFのツボを押さえまくり!最後のバトルはコロシアムである!伝説の「帝王のベルト」は謎の存在である!悪役のボスは頭ダケという造形である!少女は捕らえられ鎖に繋がれている!主人公は記憶喪失で王子様のカッコをしたりする!とにかく、大盤振る舞いである。そう、遠くない未来の物語。普段は人間、オルフェノクに変化すれば、動植物が混じり合った造形となる。それぞれの方法で人間の心臓を潰したりする。潰された人間は、灰となり崩れるか、もしくはオルフェノクとして生まれ変わるか。この世界でオルフェノクは束ねるのは「スマートブレイン」という企業である。巨大スクリーンでは、人間の数が減るのをCMとしてカウントダウンしていた。キレイな格好をして日常を営むオルフェノク、ボロボロで食うも困る状態の人間たち。主人公は乾 巧、記憶喪失の少年。レジスタンスの少女、園田真理と再会し、記憶が覚醒してファイズのベルトでオルフェノクと戦う。オルフェノク側にも人間との共存を望む者もいる。だが人間にも受け入れられない彼らの末路は美しく描かれているが、悲劇である。デビルマン、キャシャーンと映画化が続く。比べられることのない特撮映画ではあるが、ご覧になられた方のレビューの多くは“熱い”のである。バイクアクションに映画だけのライダーと、本筋の見せ場はしっかり押さえながら、B級SFのツボも大盤振る舞いである。ウレシイことに、頭ダケの悪役は、失敗の責任をとらされ、殺されてしまうのである。効果音だけだが、グシャンと潰されて。B級SFである。だからこそ、救世主ファイズ、正義のヒーロー、乾 巧も実はオルフェノクだったという秘密を持っていた。愛する園田真理の目の前で、狼の姿が混じったオルフェノクに変化する。ファイズとオルフェノク、二つの側面を持ちながら自分を貫く乾 巧は、やっぱり、ヒーローなのである。容姿で騒がれてはいるが、若い俳優たちの演技はまだ拙いと思う。だが補ってあまりあるのは、長い時間をかけて「役」に取り組んできたということ。人気が出た俳優には出来ない仕事である。彼らは「役」に打ち込んでいる。スーパーマンとかスパイダーマン、賛否両論だが、デアデビルとかハルクとかバッドマン・・・アメコミヒーローの映画は原作抜きでも観れたりする。『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』はそんな映画に仕上がっている。
2004.11.30
コメント(2)
何故、戦争が起こったのだろう。何故、魔法は生まれたのだろう。何故、魔法使いは存在するのだろう。何故、魔法使いは「兵器」となったのだろう。ハウルは魔法の何を学んだのだろう。彼にとって魔法とは何だったのだろう。生きてゆくというのは未来を観ることだ。1秒でもコンマ1秒でも未来は未来である。老若男女、国籍も犬も案山子も人間も悪魔も関係ない、未来は未来だ。彼が手にした魔法と言う力が何に使われるのかどこかで彼は知ったのだ。星が広がる夜空の下で、ハウルは火の悪魔カルシファーと契約する。自然界に宿る力を得て彼は城を造る。彼の住処、彼の防壁、彼の甲殻。彼は閉じ籠もってしまったのだ、城の中に。何故、魔法は生まれたのだろう。黒い翼を広げてハウルは戦禍の空を飛ぶ。サリマンの配下が巨大な母船から繰り出される。帽子をかぶった奇妙な魔法の兵士たち。何故、魔法使いは「兵器」となったのだろう。キングズベリーの王に化けたハウルは言う。王宮は魔法で守られている。だから爆弾は他のところへ落ちるのだ。例えば、市街地に。城の外の世界は闇。ハウルは闇からソフィたちを、家族を守ろうと戦禍に飛び出してゆく。戦争と戦うにも「力」は必要なのである、戦争と打ち負かすための強大な「力」、戦争という悪魔に君臨する「力」、その「力」を得たときハウルは魔王となるのだ。「力」とはそういうもの。だから魔法使いは「兵器」となる。なんというパラドックス。なんというロジック。「兵器」があれば「戦争」は存在する。「戦争」は「兵器」を産む。物語は架空という「枠」をとっくに壊してしまっていた。現実にどこかの国の空からサリマンの配下が、ヘンテコリンな帽子をかぶって舞い降りてきている。それも、市街地に。何故、魔法が。魔法とは「科学」の別称。科学は一体、どこへ行こうというのか。生きていくということは、未来を観ること。ハウルとの未来を夢みるソフィにように、だ。だが科学は未来を殺す「兵器」となっている。老練な監督のまなざし。心躍らせる物語の先にあるのは現実の世界だ。黒に針を合わせれば扉の向こうは戦禍。針は簡単に合わせられる。夢のように美しい花畑の絨毯の自然へ。大事な人たちが暮らす街へ。そしてカルシファーのコトバを借り、重要なメッセージが伝わってくる。ソフィの髪を食べて大きくなるカルシファー。彼は力を発揮するために、人間の犠牲を要求したのである。魂でも目玉でも、と。「待ってて、私、きっと行くから。」「未来で、待ってて」ソフィは約束した。ソフィが思い描く未来のハウルに。彼は成長する、成長した彼が戦争を止める。ソフィとともに馬鹿げた戦争を止めるキッカケとなる。それこそが魔法。魔法は不思議な力でも何でもない。階段を一歩ずつ歩く自分の力。自分の一部なのである。
2004.11.24
コメント(23)
かつては「手塚アニメ」、そして今は、言うならば「宮崎アニメ」が時代に足跡を刻んでいる。豊かな想像力に彩られたスタジオジブリからのメッセージ、現代という時代と重ね合わせながら、あれやこれや、つれづれなるままに。■ソフィの精神年齢を考えてみる。18才の少女が魔法で90才のおばあさんに。ハウルの代役で城へ向かうソフィは彼のお母さんという設定である。ヨボヨボの荒れ地の魔女と一緒に、二人は長い階段を昇っていた。手助けしない城の者たちを叱りとばし、荒れ地の魔女をなんとなく励まし、体重の重い赤ん坊のようなヒンという犬を抱え、ホントに彼女はたくましいお母さんである。身体よりも心の方がお母さんなのである。■宮崎監督の車は汚いらしい。男は現象、女は実体。養老孟司先生のお知り合いの至言を、パンフレットから抜粋してみる。ハウルの動く城も汚いのである。汚くても実体のない現象が詰まっているお城。「ロマン」に見えるのか「掃除」したくなるのか、と言うところなのだろう。■「荒地の魔女」と「宮廷の魔女」ソフィに呪いをかける「荒地の魔女」と、戦争の手助けをしている「宮廷の魔女」サリマン。どっちもどっちである、全く、もう。■タイムスリップラブストーリー。これは推測である。ハウルがソフィを助けたのは、あの夜の出来事のせい。少年ハウルが火の悪魔カルシファーした契約を目撃した女性の記憶がソフィの姿とだぶっていた。カルちゃんがソフィに契約内容を探らせようとしたのも立派な伏線、だとすれは、ああ『ハウルの動く城』、SF、だったのか?言っておくけどね、推測である。■カルシファー、あんたってば。この映画でイチバンオイシイ役だってばさ。■三谷幸喜式「ハウル」のようだ。三谷幸喜氏はよく「アテガキ」をされている。役者に合わせて人物設定を組み立てていくというもの。キムタクのハウルは「アテガキ」のようである。そういえばなんとなくイメージは、キムタク的「ハウル」である。■続・ソフィの精神年齢を考えてみる。妹と会話するソフィには若さがない。とても10代には見えない。心の強さはわかるのだけれども、90才を受け入れられた彼女がある意味、哀しい。■声優さんと役者さんとイメージ。倍賞千恵子と木村拓哉。二人の姿がチラチラ浮かぶことのデメリットと、二人の役者あってこそのソフィとハウルというメリット。ワタシは個人的に、後者の方に一票である。■今明かされる、カブくんの秘密。呪いでカブ頭の案山子に代えられて王子様。あなたが何故そんなことになってしまったのか、そのサイドストーリーにはこの戦争の巨大な陰謀が隠されているようで、そっから芋蔓式にハウルとサリマンの確執や「荒地の魔女」追放の秘密も今明らかに!ヒンはなぜ、サリマンのところに居着いたのか、もしかして忍者犬ならぬ、魔法使い犬なのか。そしてマルクルくん、キミにも悲劇があったはず。どうでもいいかも知れないが、謎は残るのである。求む、完結編(笑)。みんな愛すべき、キャラクターだからさ。謎は残るのである。ワガママ男に見えるハウルが抵抗するのは戦争という巨大な敵である。だが戦うことで彼は魔王に近づいてゆく。そんなパラドックスにあらがうのがソフィの愛。実はそこまで行き着くのに時間を要してしまった。単純に愉しめるオモシロイ映画なのにテーマはとびきり深いのである。だから戸惑いが残るのである。追記:いつもの文体のレビューは「魔法と戦争」にしぼって書かせてもらえたらと思ってます。
2004.11.23
コメント(7)
大きな青いリボンの制服の、黒髪のほっそりとした少女は千津子。どこか淋しげな瞳なのは、彼女がこの世界の住人ではなくなったから。いつも困ったような顔をいているが、意志の強さを感じさせる瞳は美加、千津子の妹である。彼女は事故で死んだ姉の存在を感じながら、中学生から高校生へ、そして大人へ成長していく。尾道の細い起伏のある道を、美加はところ狭しと駆けめぐっている。カーブの連続、その先に待ち受けるものは何か。経験という裏付けがないから予測という準備さえもままならない。だが進んで行かなくてはならない。迷宮というよりは、大林宣彦監督が描けば叙情的で深遠な空気に満たされた森になる。いつか抜け出せる森なのだが今はまだ彷徨っている。姉として生まれれば、映画の視点は千津子と重なる。自分の妹への想いが美加と重なる。格別な想いが浮かび、涙があふれてくる。それは拭いようのない涙なのだと思う。それでもこの映画は、姉妹に向けたものではない。美加はピアノの発表会、マラソンなど、さまざまなピンチを乗り切る。親友や同級生、大学生の智也との関わり、そして母親のノイローゼ。姉とふたりで乗り切ったピンチではあるが、彼女はその度に成長していく。美加は自分の道を自分で見いだしてゆく。姉とふたりで、そして彼女が関わった人たちと一緒に。森の中にいれば転んだりぶつかったりケガだらけ。だが、ケガはいつか癒えるのだ。石田ひかりの素朴な演技と、中島朋子の豊かな表現力。長い映画を、やわらかく愉しませてくれる。叙情的な映像の中にも、千津子の事故のシーンの描写は秀逸。大林宣彦監督の才能は感情を表現するための小さな心配りにあるのだと感じさせる。他の映画に比べれば稚拙に見える画像処理なども彼の演出する箱庭の一部にさえ見えてくる。「大林作品」というものは確かに日本映画のジャンルなのである。森を抜けたところで、世界は光に満たされているわけではない。千津子にはどこか美加がうらやましそうだ。美加はこれからも千津子とともに、そして今まで出逢った人たちと、これから出逢う人たちと共に生きてゆく。ひとり、ではないのである。ふたり、の物語なのである。
2004.11.19
コメント(1)
乗り物が好きな子供は多い。特に、男の子は、目を輝かせて見ていたりする。自動車、電車、飛行機。。。大阪に住む小学校三年生の良平くんの目に止まったは、ゴミ収集にやってくるパッカー車だった。大阪十三の映画館が中心になり、公募によって寄せられた脚本を元に作られた映画は、やがて全国ロードショーまで展開した。私が観たのもロードショーで。鮮明に今でも、様々なシーンを記憶している。一番衝撃だったのは、良平くんが仲良くしてもらっていた作業員さんの事故。黒いゴミ袋はいつものようにパッカー車へ。うねりをあげでゴミ袋をおしつぶすだが突然爆音が鳴り、中に入っていた消火器が破裂した。作業員さんは大怪我をしてしまったのである。黒いゴミ袋と、良平くんの家族がシンクロする。お母さんはお父さんと別れてしまった。今はお母さんの実家でお兄ちゃんとと暮らしている。実家の畳屋さんという職業と、良平くんが観るゴミの姿がシンクロする。黒いゴミ袋には何が入っているのかわからない。相手の心がわからないから別れてしまった良平くんの両親。使えるものがいっぱい捨てられたゴミ置き場と畳を丹念に再生してゆく職人の仕事。ゴミになってしまうものと、ゴミにならずずっと使われるもの。良平くんにはその違いがわからない。ただ作業員さんを大怪我させた黒いゴミ袋には、人の傲慢さがイッパイ詰まっている。物語は26才になった良平の回想。作業員さんのケガは彼の未来を決めてしまった。残念ながらそこからの記憶が不鮮明。確かゴミに関わる仕事をしていたと思う。ビデオやテレビで再び観るのは難しいが、16ミリフィルムは公民館などで出回っているようである。大人の良平くんはしっかりとした口調で、ゴミの話をしてくれていた。ゴミは消えてはくれないのだ。生まれかわれるゴミは今もわずか。ゴミはいつか地球を覆いつくすかもしれない。少年の素朴な演技と、関西の芸達者な役者さんたちの演技が上手く噛み合っていた。みずみずしい映像だったとも記憶している。だが哀しいことに。明るくなった劇場の床にはゴミが散乱していた。幾つかの映画の場面とともに、そんな現実も情けないほどに鮮明な記憶として残っている。最後にこの映画のキャッチコピーを。『少年には捨てられたリンゴが、未来の地球に見えた』プロデューサー貞末麻哉子さんのホームページで、映画の詳細がありました。手持ちのチラシとともに、大変参考にさせていただきました。あーす THE EARTH
2004.11.04
コメント(0)
1匹1億円のタニシを預かってくれ。寡黙に地味に。電算写植オペレーターの波多野の元に、高校時代の同級生、相川が現れる。スゴク、調子がいい。調子よく舌がクルクル回る相川は詐欺師である。だがヤクザの組長の娘と関係を持ち彼女から金を借り、借りたまま逃亡した身の上でどうやら、すぐ腐るタニシを同級生に預けたようである。原作は中島らも「永遠も半ばを過ぎて」中原俊監督はヒトクセもフタクセもある作家の作品を、ヒトクセもフタクセも逃さずに映像にしたようである。もはや時代遅れとなる電算写植屋に佐藤浩市、気持ちイイまでに調子のいい詐欺師に豊川悦司、そして後の出版騒動に絡む編集者、美咲を鈴木保奈美が小気味良く演じている。寡黙に地味に。電算写植オペレーターは文字を打つ。だが詐欺師が醸し出す波長に感化されてゆき、どんどん暴走する彼の運命。相川は造本屋を演じ調子のいい話術により医師協会年史の競合プレゼンに成功したのは良かったが、彼の持ってきた睡眠薬にラリってしまい、とんでもない文学的散文詩を無意識のうちに仕上げてしまう。「永遠も半ばを過ぎて」眠っていた才能が刺激されたのか、それとも奇跡なのか。相川は新たなる詐欺を思いつく、その作品を幽霊の書いた本として出版するというのである。そして登場するは編集者、宇井美咲、会社をガツーンと見返すために、相川の嘘を見抜いた上に、その詐欺に便乗してしまうのである。変な構造である。真面目な男が嘘付きの男に巻き込まれ、ヤケッパチな女によって嘘の規模が広がってゆく。広がる嘘は思わぬ展開となり、「永遠も半ばを過ぎて」は売れてしまう。1億円のタニシから始まって、あれよあれよと幽霊の書いた本に行き着く。嘘の上に嘘を乗せ、嘘を広げているうちに、半眠りの心地よさがやってくる。嘘にまつわる罪悪感とか後ろめたさなんていうマイナスの感情は吹っ飛んでいて、嘘は現実における適度な刺激に変わって行く。なんとも気持ちいい刺激。2時間がアッと言う間に過ぎてゆく。ヤクザに追われている相川は派手につかまって波多野にも一旦は平穏が訪れる。美咲とのハッピーエンドと思いきや、またしても相川は調子よく波多野のもとへ訪れる。新しい詐欺の話を携えて。嘘と言うのは一度ハマれば抜け出せなくなるようだ。魅力的な代物、のようである。
2004.10.27
コメント(0)
歌を忘れてしまったのは花火。バンド時代は人気者だったミュージシャンは一人になると歌か作れなくなってしまった。今は人里離れた廃校でキャベツ作り。幾層にも葉っぱでくるまれたキャベツの中に彼はいる。そこへふらりとやってきたのはヒバナと名乗る少女。彼女はダンサーを目指していた。そして何度も彼に「歌って」と頼んでいた。篠原哲雄監督作品。山崎まさよしが主演と音楽監督を。監督の優しい映像と山崎まさよしのナチュラルな演技に包まれて、シンプルなストーリーはラストに向かい、熱い感動に昇華してゆく。実直なまでに、花火が作り上げた歌が感動となる「0ne more time, 0ne more chance」ヒバナの踊りが重なり、朗々とをピアノを弾きながら歌う花火は歌手山崎ではなく「花火」として歌う。歌を忘れた青年と夢を叶えることなく、亡くなってしまった少女の魂が出会い、歌が生まれるまでのシンプルなストーリー。だがそれだけに歌と踊りの持つ力が実直なまでに感動とある、芸術の高みにある歌もあれば口ずさむように身近にある歌もある。どれも時に気持ちを一変させ、様々な感動を呼び起こしてくれるのと等しく、力強く波のように轟く花火の「歌」と、拙くされど儚く透明なヒバナな「踊り」が二人の登場人物の総てを表現していた。表現、ということ。それは生みの苦しみを伴う。だが素晴らしい表現は多くの心に響き、新しい表現を生み出す礎となる。広がるキャベツ畑。ファンタジーの世界の夜空の月。緑深き山を歩く無口で無表情な花火。まるごとキャベツを囲む花火とヒバナ。廃校舎は歌に満たされると途端に豊かな場所に変化していた。篠原哲雄監督は何もかも柔らかく撮る。歌も踊りも洗濯機もライフルも、みんなどこか柔らかい。歌が生まれた瞬間に遭遇する。それもまた自然の一部なのだ、きっと。
2004.10.07
コメント(4)
この国は呪いだらけだ。前作「陰陽師」では早良親王の呪いが。平安京遷都の理由こそ一説によれば早良親王の怨霊から逃れるためとされているほどに。時代の闇には堆く積み上げられているのだ。謀反の嫌疑をかけられ非業の死を遂げた者たちが。「陰陽師2」で登場するのは出雲族、製鉄の技術に長けた日本の先住民に、大和の朝廷は脅威を覚え抹殺を謀ってしまった。なにはともあれ野村萬斎の安倍晴明!白い衣を舞のように使う艶やかなアクションに、独特の間と、無表情の中の微妙な感情表現を愉しむ。日本映画の赤絨毯を歩く滝田洋二郎演出。源博雅、伊藤英明は経験値アップもあってか、前作よりも萬斎・晴明との違和感が減っている。若い役者を悲運の運命に巻き込み、堂々のエンターテイメント作品である。余談だがせっかくだから「輸出」してはどうかと思ったりした。加えて中井貴一である。出雲族の長であった幻角、呪いの根源。萬斎・晴明の相手は邦画屈指の映画俳優。白い衣の舞いに対抗するは華ある殺陣である。息子にかける呪文も力強く晴明を脅かす。エンターテイメントでのはずが中井・幻角は悲哀を感じさせる。この国の呪いの根源となってしまった運命を映画俳優の演技力は表現しているのである。権力とはいつも継続を模索する。とるに足らない者は放っておかれても、出る杭はすぐに打たれる。「謀反」そのものではなく、「謀反」を起こすかも知れない、が、権力から抹消される原因になるのだ。先住民族の出雲族、渡来民族とされる大和民族という構造にも触れている。だからこそそれら物語の中身を一身に背負い、エンタメにケンカ打ってるかのように中井・幻角は気高ささえ感じさせる。スサノオノミコトを荒ぶる神として息子に降臨させるくだり、逆恨みする惨めな悪役になりきらず毅然と歴史観を持って演じているように見えたやはり「輸出」したはどうか。平安の街は堂々たるスケールである。心配は女優陣が弱いことか。全くこの国は呪いだらけだ。漫画ではとてもファンキーな大物の怨霊、菅原道真がまだ残っているのである。
2004.09.29
コメント(8)
小豆島にはたった一本の名作をずっと上映している映画館がある。「二十四の瞳映画村」という観光地の中、「松竹座」は白壁と木に包まれこの土地らしい外観をしていた。中に入れば空気が一変する。懐かしい場所に戻ったようだった。快晴の空の下、瀬戸内海の海がキラキラしていた。美しい自然は映画の中でも再現される。一九五四年版の名作に比べれば一九八七年のリメイク版は太刀打ち出来なかったかも知れない。それでも大石先生と子供たちの第二次世界大戦をくぐり抜けた十八年間の物語は胸にズンと迫ってくる。空と海を間近にあった。壺井栄の原作は力強く綴られていた田中裕子の大石先生は穏やか。主役のいつも子供たちなのである。マスノの美しい歌声や、ゲンキ者のニクタ、仁太、キッチン吉次。奉公に出なければならなくなった松江は当時の時代背景を反映している。なによりも時代背景は同窓会として集う十八年後にもあるコトエは肺炎で亡くなっていた。男たちは何人か戦争で亡くなっていた。いつもモジモジしていたソンキこと磯吉は戦争で失明してしまう。子供たちの悪戯は大石先生は大ケガを。砂浜に作った落とし穴が思わぬことになったのだ。だが彼女は決して子供たちを責めたりしなかった。子供たちは子供たちで二里もの道を励まし合いながら先生の見舞いへ向かう。「先生の顔が見たかった」二十四の瞳が大石久子の顔を見ていた。再び、その二十四の瞳が失明した磯吉の心の中で甦る。皆で撮った写真を指さしてまるで見えているかのように同級生の名前を言うのだ。それは皆の心の中と同じ景色。失われなかったもの。十八年間。大石先生もまた結婚や家族の死があり再び教師として復職もする。彼女もまた戦争を越えてきた。この物語の目線はまさに、生活する人々の位置にある。戦禍の激しさや政治の駆け引きではなく。繰り返し繰り返し映画は上映される。原作もまた多くの人に読まれて物語。胸のズンとくる感動の中には戦争があったという事実が深く刻まれているのである。小豆島の空と海の下でも。
2004.09.17
コメント(2)
病というよりは本質の顕在化に近い。本質はふとした瞬間に確認される。それは歯の矯正だったかも知れない。それが終わるまでの世界と終わってからの世界がまるで違っただけ。欲望には確認がいる。毛糸が手に絡まり絡まりそれが要求する。それとは本質だ。彼女の本質だ。男は正常な倫理観で物事を解釈しようとしていた。それを愛情と読んでも差し支えないだろう。正常な範囲内での要求。何もかもを縛ろうする彼女亀を家財を空気をも縛る彼女を救おうとする正常な倫理観は本質とは違う。彼女の本質は要求する。それは体中に巻き付けられた紐の圧力が彼女の感情をどのように刺激するか観ている。欲望であるうちは確認が出来る。「ねえ、もっと縛って」確認作業が継続している間の蜜月。二人で確認している間は蜜月。だがその確認作業に答えが出れば結果が出れば蜜月は幕を閉じる。絵を描く者だけが絵画の完成を宣言できるように。完成すれば心は次に移ろう。部屋中が一つの絵画になるまでは二人は蜜月だったのだ。豊川悦司、山口智子、田口トモロヲ。監督・原作・脚本は岩井俊二。1994年作品。45分のドラマの中に二人の男女の確認作業の途中経過が記されている。
2004.09.04
コメント(2)
1581年(天正9年)織田信長は伊賀全土にて大量虐殺を行った。全ての発端はここにある。為政者は忍者を怖れた。配下ならば最強の兵士であっても、寝返れば自分を狩る最悪の敵となる。だが大量虐殺が果てにあるのは長く続く憎悪のジレンマである。葛篭重蔵が請け負った任務は豊臣秀吉の暗殺である。伊賀一族たる彼の憎悪は信長の後に続く施政者に注がれている。だが秀吉はもはや老いぼれていた。司馬遼太郎の原作を篠田正浩監督が映画化。巨額の製作費を投じていると話題だったがアクションを観る映画ではない。寧ろ見え隠れする原作の重みを味わい、役者の底力を堪能してこそのもの。中井貴一の忍者、重蔵の違和感は時が経つに連れ薄まってくる。彼は忍者としての自分と人間としての自分の間で揺れる男を描き出している。純粋無垢に出世を望むのは風間五平。忍者として闇に生きるのではなく、表舞台に立とうとする男がいる。小萩、木さる、女たちはくの一でありながら愛情を忘れぬ情深き存在として描かれている。そして忍者としてもう後戻りできずに生きる者たち。忍者である限り任務から逃れられぬ重蔵。秀吉暗殺に関わった者は黒幕、徳川家康によって暗殺するよう腹心たる服部半蔵が動いていた。小萩によって全てを知らされても伏見城へ単身乗り込んでゆく。重蔵は金箔の障子を抜け豊臣秀吉の寝床に辿りついていた。見せ場である。時の為政者の老いていたひたすら命乞いするする老人。重蔵の前にいるのはもはや為政者ではない。ただの老人。そうなれば彼の任務は成立しない。彼はやっと一人の男に戻る。138分と長めの映画でさえ、原作のエピソードは盛り込めきれないと言う。鶴田真由演じるの小萩はマインドコントロールされた服部半蔵のスパイ。上川隆也演じる五平は伏見城にて石川五右衛門として処刑される。永沢俊矢の摩利支天洞玄は妖術を使う。娯楽性の高い設定は原作からのものか。だが未消化なのは否めない。それでもアカデミー賞助演男優候補にもなったマコ岩松の秀吉は注目に値する。中井貴一との取り合わせは見物である。一人の男となった重蔵は小萩とともに穏やかな生活に落ち着く。伊賀一族の恨みは消えたわけでもなかろうが、もう憎悪はあってはならないのである。
2004.08.26
コメント(6)
「地球の重力に引かれた人間達」。かの名台詞がしめすとおり地上の状態はなおも悪い。戦争は絶えずどこかで進行中で、いとも簡単に命を奪われる人たちがいる。ファーストガンダムでは数多くの兵士の死に様が描かれていた。1年戦争で散っていった命が描かれていた。大人になったシャアとアムロ。30歳と迎えた二人にはどんな行動も「若さ」で片づけられなくなっていた。アムロは相変わらずに思えたが、シャアの選んだ人生はあまりにも悔しい。あの青年の静かだが激しいほどの熱さは、研ぎ澄まされすぎて視界を狭めてしまっていた。彼の言うことは間違ってはいない。正しさには麻薬に似た強い力があり、従う者も多いだろう。「隕石落とし」核兵器と積んだ小惑星アクシズを地球に衝突させ、地球そのものを粛正しようとするシャア。そんな彼に共鳴し、父の乗る戦艦を撃滅するクェス。確かに地球政府は愚かな差別を行っている。肥え太った奴らはいっぱいいる。だが戦争は家族に殺し合いをさせるのだ。殺し合いをさせたのだ。だが粛正し一掃した先に築く、新しい世界というものが理想通りになるとは限らない。再び何かの引力が生ける者を迷わせるのかも知れないのだ、シャア。彼の選択は哀しい。アムロは相変わらすだ。間近な悲劇が彼を立ち上がらせる。たくさん見続けた間近な悲劇が次の悲劇を止めよ、と彼に命じているように。再びアムロとシャアは戦うことになる。戦いの果てに。シャアの選択は本当に哀しい。アクシズが地球に近づく。映画はギリギリまで予断を許さない。ブライト・ノアたちが隕石を二つに分断する。だが一部は降下を続けていた。隕石に取り付くモビルスーツ。敵の一部も協力するが吹き飛ばされる。アムロも必死で食い止めようとしていた。だが絶望は近づいている。奇跡が起こるまでは。奇跡をどう解釈するか。だがその後はアムロもシャアもその姿を見たものは誰もいないという。1988年度作品。
2004.08.19
コメント(8)
アハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハオッソロしくゲンキにハッピーにマイキーファミリーは笑っている。高らかに高らかに 美しいお顔立ちのマネキン一家マイキーファミリーとその愉快な仲間たちってワケでもないか。設定ととやかく言うよりもその場その場の映像を愉しむ。ヨンコママンガテキエンドパタパタマンガテキエンドカギリナクオバカ。でもなにせお美しいお顔だちのマネキンが拾ったシュークリームがあんまりにもオイシイソウなので食べてしまって案の定お腹を壊すのである。oh!Mikey!oh!myGod!東京都写真美術館ホールにて鑑賞。金のボールと銀のボールどっちがキミのボールかね。正直者にはいいことあるよ。さてさて。みなさんホントにお美しい。お美しくてオバカである。
2004.08.13
コメント(8)
全59件 (59件中 1-50件目)