全11件 (11件中 1-11件目)
1
カラーティ家の二人の兄弟ニコラとマッテオはまだ大学にいて将来を決めかめていた。1960年代、イタリア、ローマ。ニコラを担当する教授は彼に、他の国へ行くがいいと言っていた。これからこの国は混迷の時代に入っていく。6時間6分にも及ぶ物語の中時代は大きなうねりをあげるように登場人物たちを飲み込んでいく。作品の話の前に少しばかり映画館のお話をさせてもらおう。長時間な作品が故に、上映劇場も上映期間も限られていた作品。大阪から電車に乗り、滋賀まで足を運ぶ。全国で順次上映され評判を呼んでいるだけあって、思いの外劇場の座席は埋まっていた。休憩時間をはさみ同じ観客と時間を共有する。良き感動と楽しい興奮。もちろん、席を立つ人は誰もいない。誰しも生活があり仕事もある、だが良作を堪能する機会に恵まれれば、手放すのは愚の骨頂だ。二人の兄弟を通して37年の月日が流れていく。テレビドラマとして製作されたというが、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督の演出は、わかりやすく親しみやすい。本作を牽引するニコラ役ルイジ・ロ・カーショのにこやかな笑顔を大らかな演技が魅力的である。苦悩の一生を終えるマッテオ役は、アレッシオ・ボーニ、彫像のような体格、整った美形で劇中でも「ハンサム」と評されている。女優陣も生き生きとした美しさに加え、脇を固める年配の俳優たちもしっかり好演している。この作品は間違いなくキャストの魅力で、観客の心をグッと掴むことに成功しているように思える。1960年代から始まる物語。ニコラ、マッテオをはじめとして、登場人物たちが飲み込まれるイタリア現代史のうねり。ニコラには大学で仲のいい二人の友人がいた。だがこの時代大学を出ても成功といえる生活を掴むのは三人のうち二人。案の定、ニコラの友人ヴィターレはフィアットの労働者だったが解雇される。経済の破綻はその国に暮らす人の不満にもつながる。労働組合の支援組織だったというイタリア民兵組織「赤い旅団」はやがて、数多く誘拐や殺人事件を起こしイタリアを震撼させていく。長い混迷の時代が続く。後にニコラの妻となるジュリアも「赤い旅団」の組織に参加することになる。ストーリーを追っていけば、時代が大きく登場人物たちに影響して、社会性ばかりが強調されそうになるが、常に視点は「家族」や「愛」にしっかり固定されている。ニコラとマッテオの兄弟は、一人の女性との出会いで自分の道を定める。ジョルジア、精神を病んだ少女とまず最初に出会ったのはマッテオの方である。忌むべき悪習である「電気ショック治療」を受ける彼女を病院から脱走させ、兄ニコラを巻き込み彼女の故郷へ向かう。ろくに意志の疎通もできず諍いもあるが、イタリアの輝くような自然の中でわかわかしい三人が時折笑顔を見せている。だがジョルジアの父は新しい家族を持ち、手のかかる娘を受け入れることは出来ない。しかもこの時代精神病院は患者への対応は極めて悪かった。若いニコラとマッテオの兄弟は何もできないままジョルジアとはぐれることになる。何も出来ない、自分の力が及ばぬことを知って、ニコラとマッテオは真逆の人生を選ぶ。何とかしようと精神科医の道を志すニコラと、ままならぬ苛立ちを律しようとして軍隊に入るマッテオ。常に多くの人々に囲まれるニコラと、いつも一人で書物だけと友とするマッテオ。ニコラは大切な二人の人間を失うことになる。1966年、フィレンツェの大洪水で知り合った、金髪の女性ジュリアが「赤い旅団」に参加するのを止められず、最後の別れの挨拶にきたマッテオの様子を誰よりも気遣っていたはずなのに、彼の苦悩を受け止めてやることは出来なかった。ニコラは精神科医として実績を積み、たくさんの人の話を聞きいろんな心を受け止めたはずだった。そして自立の手助けをし、一人で生きていく手助けをしようとしていた。だが、人で生きていこうとする妻と弟を失う。僕の「愛」で彼らをしばりつけられなかった。妻と弟を失い、玄関の戸口で二人を見送ってしまった自分を呪い、ニコラは自分の生き方そのものが彼らが破滅に向かうのを止められなかったことを知る。愛する者を束縛しないで自由に生きることを望むのも愛情。だが、愛する者のために束縛することも愛情。テロリストとなった妻ジュリアと再会したニコラは、悩んだ末に一つの決断をすることになる。語ることはあまりにも多い。悩み苦しみ、愛する者を失い誕生を目の当たりにする。親から子へ、子から親へ、たくさんの想いが生まれ消え受け継がれる。物語は幸せな結末でも哀しい悲劇でも終わらなかった。ニコラとマッテオと軸とした時代の物語、愛情と家族がしっかり描かれている。そしてそれらの全てが思い出すわけでもなく最後によみがえるのは、物語の全てがよみがえるのは美しい風景故である。最後に、マッテオの子供がニコラとマッテオが行き着けなかった場所へ行き着く。美しいのである。美しいのである。物語の全てとその景色が重なり。世界が美しいことを思い出せてくれるのである。「輝ける青春」公式Webサイト
2006.05.28
コメント(2)
ここなら、やっていけそうな気がする、と6つも寄宿学校を変わっていたヨナタンの表情がほんの少しづつだけど和らいでいるような気がしました。ドイツ、ライプチヒ、少年合唱団で有名な聖トーマス校。ヨナタンのルームメイトは4人。リーダーシップをとるのは判断力があり精悍な感じのするマルティン、華奢なウリーはいつも少し怯えているように見えます。実験が大好きで校長の息子でもあるヨナタン。いつもお腹をすかしている力自慢のマッツ、彼らは自分たちの部屋にやってきた転校生に対して、何一つ気取らずマイペースで接しています。ヨナタンはどこか斜に構えた少年ですが、いつのまにか彼らのペースに巻き込まれて意気投合してました。ドイツの作家、児童文学の巨匠、エーリヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」の映画化。2003年の作品なので設定は原作と少し違いますが、かつて原作を読んだときの印象が、再現されているような気がしました。子供たちにとって大人は、自分たちの未来を想像させる存在なのでしょう。現実と直面する大人は厳しく苦しそうで、子供たちは自分の未来に不安を抱いているようです。「ベルリンの壁」の悲劇がこの作品にも盛り込まれています。それでも優しく頬を撫でてくれるような優しさと、ワクワクする楽しさがこの作品には確かにありました。子供のころは「未知」をいっぱい持っているんですね。だからこそ、不安で。だからこそ、ドキドキワクワクして。ヨナタンも他の子供たちも、家族に対してそれぞれの想いを抱えていました。しかも彼らは寄宿舎にいるから、家族に思ったことをすぐ伝えられません。作品の中でも寄宿生のヨナタンたちと、通学生の子供たちが対立していたりします。でも、逆にヨナタンたちは、ルームメイトの仲間たちとの生活の中で、自分らしさを見つけていきます。合唱団のベク先生との交流、ベク先生の友達だったローベルトとの交流で、自分たちがどうありたいか、おぼろげ、ながらもつかみかけているようです。そうなんですね。ドキドキワクワクと不安が入り混じった未来。どう歩いていくかは誰も教えられない。でもいつのまにか子供たちは学んでいる、大人だって学んでいる、自分はどうしたいのか、どうありたいのか。飛ぶ教室。ステキなこのタイトルの意味を私なりに想像したりします。その教室ではきっと、自分はどうしたいのか、どうありたいのかを学ぶことが出来るのかも知れない、なんて。子役たちが本当に愛らしいです。生き生きと演技する彼らを先生役の俳優は、包み込むようでありながらもしっかり「らしさ」をアピール。大人と子供がバランス良く調和した作品に思えました。「ベルリンの壁」で別れ別れになったベグ先生とローベルト。若い頃の友情は現実に阻まれ別れが来ます。しかし子供たちはその別れとともに、再会し変わらぬ友情を確認する大人の姿を見ます。現実には確かに、悲劇は存在します。けれども乗り越えられることを示唆するかのように。
2006.05.23
コメント(4)
廃校になった小学校で、寒さに震えているのはついこの間まで天才的指揮者として世界的な成功をおさめた、ダニエル・ダレウスという男だった。スウェーデン北部ノルランド地方の村、ユースオーケルの地を覆うのは降り積もった雪、彼は自分の吐いた白い息に包まれ、足を踏みならし白銀の感触を確かめていた。ここは彼が幼少時代を過ごした場所。ケイ・ポラック監督作品。1986年、スウェーデンでは、当時の首相、オロフ・パルメが暗殺された。国中が精神的なショックを受け、ポラック監督も映画から遠ざかっていたという。18年ぶりだというこの作品は、まるで旅の始まりのようでもある。もう一度始めるための旅。はるかな高みを目指すように、ダニエルはタクトを振るい音を指揮する。だが表情に精気はなく、やがてよろめきながら舞台の上で、燃え尽きたように倒れ込んでいた。何かに押しつぶされたようにも見える。そして彼は今、廃校になった小学校にいる。全ての予定をキャンセルして。雪、雪、白い雪。この村の冬は雪で閉ざされ、都会とは隔絶された閉じた世界になるようだ。そこでダニエルは再び音に出会う。大劇場の観衆を満足させる一流の音ではなく、村の聖歌隊のバランスの悪いコーラス。牧師に頼まれて指導を引き受けたものの、歌の指導はダニエルにも経験がない。まずは音探し。それぞれの中にある音を探す。生命を刻む心臓の鼓動、血液の脈動。世界は音で満ちているのだ。自分の音を探すこと、それはまるで旅の始まりのようだ。自分自身を見つける旅の。夫の暴力におびえていた女性は、天使のような歌声で「生きている」と歌い、牧師の妻は夫への愛を告白し、聖職者でありつづける夫に不満をぶつける。知的障害の青年は音の中に、やっと自分の居場所を見つけたようだ。豊かな微笑みを持つ若い女性は、ダニエルを愛していたが、男に騙された経験が気持ちを邪魔する。商売上手な男もいれば、かぼそい老女も声を出している。やがて聖歌隊のメンバーは増えていくが、それをおもしろく思わない者もいた。ひとりひとり膝をつき合わし、穏やかに語りかけけるように描かれる登場人物。運命的な事件だけが人を変えるのではなく、雪が解け春が芽吹くように、ふいに気づくのだ。自分の音に、自分自身に。決して幸せな結末ではないのに、それでも満たされたラストシーンは涙を誘う。高らかな歌声と笑顔と、ダニエルを演じるミカエル・ニュクビストの満足げな微笑みが記憶に残る。雪に閉ざされた冬の時間、自分の音、自分自身、見つけられるとは限らないものを探すには寒さは辛く厳しすぎる。それでも諦めず探し続ければ、雪が解け春が芽吹くように、ふいに気づくかもしれないのだろう。自分の音に、自分自身に。歓びを歌にのせて 公式サイト
2006.01.04
コメント(4)
加害者のロープが被害者の首に巻き付いている。締め上げられる。被害者はまだ息をしていたので、加害者は大きな石で頭を幾度も強打した。饒舌な陰翳、完璧なコンポジション。1987年、冬のワルシャワ。乾いた空気はそのまま映像に凝縮される。クシシュトフ・キェシロフスキ監督作品。加害者はまだ21歳の青年ではあるが、あてのないまま、町をふらついていた。歩道橋の上から石を落とす、そんな悪戯を無表情に行っている。被害者はタクシーの運転手。乗車拒否をしたりしている。なんだか嫌みたらしい奴ではあるが、殺されるほど凶悪な人間ではないようだ。後に加害者の弁護士となる若い青年は、正義感に燃えているようだった。彼は、反抗前の加害者と、カフェで同じ時間を過ごしていた。その時彼は共にいた女性から、幸せな未来を予言されていた。が、同時に加害者の青年は、凶器となるロープを手に巻いて、グルグル巻きに巻いて、殺人を犯し、裁判で死刑判決になり、最後の煙草を与えられ、逃げようともがくが逃げられず、目隠しされ首にロープを巻かれて、絞首刑が執行される。滴り落ちる尿は最後の彼の命、だが担当医は既に死亡証明証にサインをしていた。起承転結殺人を犯した青年が死刑になる。その一連のプロセスが映し出される。ヤツェック、加害者の青年は、弁護士のピョートルに名を呼ばれ、やっと自分の起承転結を認識するが、もう、変えられない。ヤツェックの人生は終わっている。罪を犯すということはこういうことなのだ。饒舌な陰翳、完璧なコンポジション。正確で明解な解答というのは、乾いた空気の中、美しくも怜悧である。殺人に関する短いフィルム
2005.10.11
コメント(4)
どんな靴を履いてますか?それは、どうしてですか?真っ赤なハイヒールを履いてクラブで踊るのは、靴デザイナーを夢見る23歳のレイレ。才能に自信を持てずに、自分の勤める店の靴を盗んで履いていたが、高いヒールは折れてしまう。愛し合って一緒に暮らしてたクンは、荷物を全部持って、新しい恋人の元へ去った。たくさん、靴を持っている女は、レイレの居る店でサイズの小さい靴を買う。さぞ、足が痛かろう。イザベルは45歳、他人から見れば何一つ不自由のない暮らしだろう。しかし夫との愛が冷め切っていた。それは子どもがいないせいではない。何故なら彼女は結婚してから靴を集め始めた。ラモン・サラサール監督作品。スペインを舞台にして、靴をモチーフに5人の女性が交錯する。みずみずしい映像と細やかな心理描写の中に、さまざまな年齢、さまざまな生活、さまざまな人生を歩む女性たちがいる。女性とはかくもしたたかに強いのだと思わせる。貪欲でわがままで明るいのだと思わせる。イザベルの夫に誘われるのは、キャバレーでマダムを務めるアデラ、49歳。タンゴを踊る靴が床に触れる音を知る。タンゴを踊りながら男女が愛し合う。愛とは無縁の場所にいた彼女が知る静かな官能。だが彼は愛をアデラに求めてはいない。そして彼女も、自分の愛よりも娘を選んだ。アニータ、知的障害の彼女は、25歳なのに、7歳くらいの知能である。だが、家にくる看護学生のホアキンに恋をする。彼女の女がベッドで一人、愛を欲する。マリカルメン、スリッパを履いて夫が残したタクシーを運転する。夫が残した家に住み、夫が残した子どもを育てている。43歳の彼女が抱えているものは全て他の人間のものだった。だが彼女はタクシーに乗る。夫の存在を感じることができるからと、ポツリと彼女はもらしていた。そんな彼女の元へ、夫が残した子どもの一人、レイレが戻ってきた。別々の物語の主人公だった女性たちが、次第に関係を明らかにしていく。生きていくのには避けて通れない苦しみを彼女たちが彼女たちの方法で乗り越えていこうとするのである。たくさんの犠牲を払って、忘れられない哀しみを背負って、孤独も不安も苦悩も全部背負ったままで。女性たちにスポットがあたりながらも、ゲイのカップルが二組誕生する。男しか愛せないという彼らは、女性の長所をカタチにしてくれる存在でもある。愛しているのである。愛されているのである。一人暮らしをはじめたレイレが描くスケッチ、カラフルで生き生きとした靴のデザイン。彼女とともに願うのである。どうぞみんな、幸せになりますように。
2005.10.03
コメント(18)
それは、まるで。好きな料理でもないのに、その人が勧めてくれるのなら、食べてみようかな、と思うときがあるような。だとしたら理由はきっと、その人と過ごしたいからだ。アレックスのお母さんが、ショックで心臓発作を起こしたのは、反社会主義運動のデモに参加して、警察に捉えられてしまったからだった。1989年。東ドイツ。長期政権にあった、エーリッヒ・ホーネッカーが退陣。国内の混乱は、止まるところを知らず、11月10日未明には、どこからとなく、ハンマーや建築機械が持ち出され、世界中に発信された「ベルリンの壁崩壊」となる。ただし、アレックスのお母さんは、そんなことも知らないまま昏睡を続けていた。取り残されたアレックスと妹のアリアーネ、若い二人は劇的な変化にも対応して、部屋を改装、新しい恋や、新しい仕事を手に入れる。だが、8ヶ月の昏睡の後、お母さんは、奇跡的に目を覚ました。ただし難問があった。もう一度、強い刺激を与えたら、彼女の心臓はたえられない、それこそ命取りだった。さあ、大変だ。お父さんに単身、西ドイツに亡命されてから、ガチガチの社会主義者だったお母さん。アレックスは、大忙しで、母がいた頃の部屋に戻し、周囲に協力を依頼する。「東ドイツは崩壊していない」社会主義の理想は壊れてはいないのだ。母が欲しがる、東ドイツ製のピクルス探し、そんなものはないから、ゴミの山からビンを拾って、シールを貼り替え、缶詰のピクルスを詰め替える。看護士の彼女を紹介するも、胸の空いた服じゃなく、フリマで買った地味な服に着替えてもらう。あんまり彼がガムシャラ状態なんで、妹や彼女が、つい反発してしまうほどに。お母さんのために。別に好きでも何でもない社会主義が、まだ、ピカピカに生き残っているかのように、演出しようとするアレックス。ダニエル・ブリュールは、青年の等身大の姿でありながら、細やかな感情を見せ、観る者を引っ張る。母親を演じるカトリーン・ザース、慈愛あふれる目で、息子の奮闘を見守る。昏睡から醒めて以降、普通に見えても、異様な疲労困憊姿で居眠りをするアレックス。彼女にもずっと、秘密があった。アレックスの嘘よりも重い、誰にも言わずに隠し続けていた秘密が。本当は夫とともに行きたかった。東ドイツで党員ならず、迫害されていたお父さん。彼の後を追って、愛しい夫の後を追って、子供と一緒に、彼のもとへ行きたかった。だが、当時の西ドイツの状況で、子供二人連れた女性にビザを発行してくれる保障はなかった。それをずっと黙って、社会主義者であり続けたお母さん。お母さんと過ごすために、アレックスは。子供たちと過ごすために、お母さんは。別に好きでもなんでもないはずの社会主義をそれぞれの形で受け入れるという嘘。固い意志をしっかり持ち、嘘をつきつづける。崩壊した東ドイツ、統一後のその国の貨幣は10分の1の価値だったという。それでも変わらなかった家族の姿が浮かびあがる。時に、時代は、劇的に移り変わる。どの国も多かれ少なかれそんな歴史を持つだが、それでも、隣りにいる人や、ともに暮らす人はそのまま、なのだ。家族というもの、それは、そのまま、なのだ。アレックスの嘘はきっと、彼の彼女や再会した父親から綻びたことだろう。「資本主義の競争社会を拒否した人々が」「西ドイツの難民が、東ドイツにやってきた」最後の最後にアレックスの嘘を繕ったのは、幼い頃、彼が憧れた、東ドイツのコスモノーツである。好きでもない料理であっても、ともに過ごしたい人が好きだと言えば、美味しく思えたりするものだ。よっぽど、嫌いじゃなければ、の話だが。
2005.04.02
コメント(6)
まあ、なんてステキなお部屋なんでしょう。不動産屋のセールスレディのフリアさん。お部屋をお客様に案内していても、気もそぞろ、だって、外観はボロボロなのに、お部屋の中は高級感さえ漂う、趣味のいい雰囲気。なんといっても夢のウォーターベッドがありました。だから、住み始めることにしました。リストラされてる旦那を呼んじゃったりしちゃって。それが、彼女の悲劇のはじまり。いや、喜劇のはじまり。後に彼女は眼をひんむいて、叫び倒して、このアパートの住人から逃げ回るハメになる。演じるのは、カルメン・マウラ、1945年生まれのスペインの大女優。いいお部屋ではありました。でも水が漏れてきました、ゴキブリが落ちてきました。なにせ、上の住人だってお婆さんは、もう死んでいて飼い猫が食ってしまってたくらいですから。嗚呼、ブラックコメディ。住人たちには秘密があったのです。そのお婆さん、キニエラというサッカーくじで大当たりして、3億ペセタもの大金を貯め込んでいたんで、いつか、みんなで山分けしようと、20年間、ず~~と、待ってたんです。彼女が死ぬのを。でも、見つけてしまった。フリアさん、ラッキー♪とばかりに。一致団結する住民たち。このアパートはもう鉄の掟を持つ共同体。3億ペセタはみんなのもの。誰が誰で何で、どうしたのが知っているのが共同体。知っていても全てを受け入れてくれる共同体。善も悪も、美徳も欲も、夢も希望も。そして、罪も。フリアさんを殺さなきゃ!ダースベーダーオタクの青年に、マトリックスジャンプのおばあちゃん。無惨にもエレベータで二分割された男は、恐らく死んでしまっただろう。嗚呼、ブラックコメディ。心癒す物語は、モチロン必要不可欠なのだけど、時には、現実を。でも、直視するのは辛いから、ブラックコメディで笑ってみる、苦笑いする。みんなのしあわせを、奪うものは許さない。フリアさんVS住民たちの屋上の攻防戦。果たした勝者は誰に?
2005.01.31
コメント(8)
「NO CG! NO STORY! ONLY STANT!!」予告編のウリ文句はそういうことだったらしい。そんじょそこらのカーチェイスじゃない。バイクをゴーカートで追っかけてくんだからね~。ホンマ、その違和感と疾走感に喝采。ハーディ・マーティンス、監督がスタントなしで演じたドイツ映画、いやはや、スタントマン出身の役者が監督した冒険活劇。原案も監督だから、一人三役以上、CGなし!ドイツ版「インディ・ジョーンズ」実はそんだけで、物語は言い表せるけど、一筋縄ではいかないミョウチクリンな熱さがある。編集の上手さとか、膨大な製作費とか、そんなもん、吹っ飛ばしちまったところには、『魂』みたいなもんを感じてしまったりするのである。話は映画とそれるけど。物語に酔いながらも感じてしまうは監督の『映画魂』。ああ、こんな映画、作りたかったんだな、って。『エイリアンVSプレデター』『カンフー・ハッスル』つまりはイワユル、「××バカ」『カスケーダー』という映画は「スタントバカ」決してあなどれやしないのだ。それどころか、スゴイかもしれない。「バカ」になれるってことは、全身全霊、人生を愉しむってことでもあり、後ろ指さされてもドオってことない無敵さもある。それに誰にでも、多かれ少なかれ「バカ」の要素は持ってたりする気もする。美術館の学芸員の女性と元スタントマンが時価2億5千マルクのロシアの秘宝、「琥珀の部屋」を探す旅に。ドイツのお金の単位はドルに直すと、130億とか160億とかってことになるらしい。もちろん、ナチスの秘密組織も絡んでワヤクチャ。やたら黄色い乗り物を乗り回し、「あんなところから」と思うとこから落ちて、トラックの下をスルリと抜ける。そもそも元スタントマンの設定が、南米ベネズエラのカラカスってとこで隠遁生活、そこへ火種の女性学芸員が命カラガラ逃げてくる、つ~か、落ちてきてから始まるお話、一応ラブロマンスにも発展する、とか、物語を書き始めるとワケわかんなくなってくる。やっぱり「××バカ」の話を続けよう。『ロード・オブ・ザ・リング』を観ていると、ひたすら思う、ピーター・ジャクソン監督のこだわり。『ザ・ロイヤルテネンバウム』監督、キャスト、この映画に関わる人たちはこの映画をとっても愛しているように見えた。「こだわり」と「愛」は、カタチはないのに、とっても濃ゆい力になって否応なく溢れてくる。はっきりと言葉になっているわけでもなく、はっきりと輪郭をなしているわけでもないのに、伝わってくるものがあったりする。なんと不思議なもんだろう。どんな映画であっても、要は人の「力」なのだと思うのである。CGもまた人の「力」だと思ったりするけれど、スタントもまた人の「力」だと思うのである。「バカ」になれるってことは、全身全霊、人生を愉しむってことでもあり、後ろ指さされてもドオってことない無敵の存在になれることかも知れない。
2005.01.17
コメント(4)
抱えきれないほどの感情が行き先をなくしてしまったのだ。それを解放する方法はセシリにとって肌の温もりしかありえない。車の中で何度も何度も、ヨアヒムとセシリはキスをしていた。最後にもう一度キス、そしてドアを閉めたヨアヒムが交通事故に遭うが。すぐさま駆け寄ってきたのは運転していたマリー。同乗していた娘スティーネは、動揺を隠せない。路上を赤く染めるヨアヒムの血。抱えきれない感情。愛情の膨張は、感情の中でも厄介だ。首から下が不随になってしまったヨアヒムの心の痛みは大きく、セシリにさえ心を閉ざす。彼に向けられたセシリの愛情は行き先をなくしてしまった。加害者となった妻マリーを慰め、医者であるニルスは病院でヨアヒムの心配をするセシリに声をかける。彼は妻だけでなく彼女の心の拠り所にも本気でなろうとしているように見える。抱えきれない感情。障害なく愛しい人に向けられれば、抱き合ったりキスをしたり肌を重ね合ったりそれが出来れば解き放たれるもの、セシリの若さは「感情」の重みに絶えきれず、ニルスの体温をもとめニルスは彼女を受け入れる。そして日常とは違う彼女の体温に彼は本気で惹かれる。抱えきれない感情。膨張する感情は熱と体積を持ちは増大する。感情の解放を。解放が「しあわせ」に繋がるわけでなく。冒頭にドグマ95が謳われている。デンマークの映画。セシリ、ニルス、ヨアヒム、マリー。主な登場人物のどんな感情も、それが例え過ちにみえてもなお、否定することは出来ない。むしろ、そうならざるを得ないと思うのだ。全ての感情を押さえ込むことは出来ない。矛盾を包括した四人の「感情」は共感を誘うほどリアルに描かれている。手足も性器も使えなくなったヨアヒム、セシリに別れを告げる笑顔が印象的である。現状での彼なりの答えである。何も後悔はないと清々しい顔のニルス、セシリに別れを告げる笑顔が印象的である。そのときの感情は全て本物、もう、戻ることは出来す、時は流れてゆく。四人とも、伝えることは出来なくても自分が愛した人たちの、しあわせを願っているように見える。離れていても、きっと。
2005.01.10
コメント(12)
社会から逃げて逃げて逃げて、またしても彼女たちはダイブする。彼女たちはダイブする。ロックを胸に抱いたままに。バンディッツ、悪党。その名前が彼女たちの胸にストンと響く。エマ、ルナ、エンジェル、マリー囚人だった彼女たちの音楽は瞬く間に社会に受け入れられる。だがまたしても彼女たちはダイブする。脱獄、逃避行。大ブレイクする彼女たちの音楽。彼女たちが音楽。彼女たちがロック。だが彼女たちとロックは同じではない。彼女たちは囚人。エマ、ルナ、エンジェル、マリーそれぞれの人生に戦いがあったのに、ひとくくりにするのが社会。だからまたしても彼女たちはダイブする。ハル警部は手を伸ばす。だがテルマとルイーズには届かない。自分の音楽と、自分の仲間を得て、彼女たちは最高にカッコイイ。そして南アフリカに行く前に音楽を抱いたまま彼女たちはダイブする観衆は熱狂している。演奏するバンディッツ。彼女たちが音楽。彼女たちがロック。音と映像にはほとばしるような叫びと願いが秘められている。揺れながら酔いながら逃避行する音楽。サントラが売れたというのも頷ける。ドイツ映画。カーチャ・フォン・ガルニエ監督。だが彼女たちもまたハンブルグの港でダイブする。演奏の余韻に浸りながら、屋上から地上へ。
2004.08.02
コメント(2)
現実という幻想。そうしてまた誰かが現実は仮想現実に過ぎないのだと気づく。物語は1937年のロサンジェルスから始まる。これがSFなのかといきなり錯覚覚えるほど巧みさ。ダグラス・ホールとボスのハノン・フラーが作り上げた仮想現実に引きずり込まれる。1999年フラーが殺害される。疑われるダグラス・ホール仮想現実。過去のロサンジェルス。そこの住人の意識にリンクし生活をシュミレートできるシステム。シュミレートとは言っても現実と仮想現実に差は全くない。ただ現実と違う自分がそこに居るだけだ。だがまた誰かが現実は仮想現実に過ぎないのだと気づく。もはや驚くほどの題材ではない。それでも仮想現実の意識が現実をのっとろうとすれば?のっとってしまったなら?のっとられた現実も仮想現実に過ぎないとしたら?丹念に描かれた美しい映像は仮想現実と現実をシャッフルしてゆく。観る者の足下を突き崩してやろうとしているかのように。現実はそこの住人にとってはあやふやであってはならないのだ。足下が崩れれば落下するしかない。ダグラス・ホールもまた仮想現実の住人。世界の果てにあるデジタル信号。仮想現実と現実のシャッフルが巧み。ドイツ出身の監督、スタッフの上手さか。二役とも言える難しい役柄を主演級の俳優たちは上手く演じている。製作ローランド・エメリッヒの名前が薄く感じる。そしてまた誰かが気づくのか。それとももうみんなが気づいているのか。「13F」公式ホームページ
2004.05.21
コメント(4)
全11件 (11件中 1-11件目)
1