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コーヒーが大好き、というMizumizu+Mizumizu連れ合いの嗜好を聞いて、ガイド氏がウブドの近くで連れて行ってくれたコーヒー&紅茶専門店。そこで買ったトラジャコーヒーとキンタマーニコーヒー。たしか、トラジャコーヒーが250グラムで8ドル、キンタマーニコーヒーが12ドル。現地ではキンタマーニコーヒーのほうが高級だと言い張られたのだが、どうも、語感があんまりで、美味しそうに聞こえないのがキンタマーニコーヒーの可哀想なところ。キンタマーニって、現地語で本当のところどういう意味なのだろう? ガイド氏は、「思いやり」という意味だと言っていたし、ネットでは「至宝」という意味だと書いてあるサイトがあった。「秘宝」とかいう意味だったら、変に日本語とシンクロして(するか?)、ちょいイヤだけど。キンタマーニで取れた豆のうち、ピーベリーを「幻のコーヒー」と称して、さらに高い値段で売っていた。試飲させてもらったら、確かに雑味のない美味しいコーヒーだったのだが、ピーベリーにさほどこだわりはないので、買わなかった。真ん中のお菓子は、ココナッツとタピオカで作ったという落雁のような独特なスイーツ。「ココナッツ・クッキー」といって売っていた。1箱11ドル。最初食べたときは、ボソボソして変な味・・・と思ったのだが、これは食べてるうちにグイグイ好きになった。ほのかなココナッツの香りとタピオカの粘り。甘さも強烈ではなく、噛むとじんわり来る。もともとココナッツが好きなせいもあるかもしれないが、バリ島スイーツの最大かつ唯一の大ヒットになった。う~ん、また食べたい!コーヒーのほうは・・・淹れ方がうまくないのか、特にトラジャが、「さほどでも・・・」だった。トラジャってもっと妖艶なイメージがあるのだが、バリで買ったトラジャは、案外素直な味。キンタマーニコーヒーのほうは、ハワイのコナに似たさわやかな味わいで、苦味がさっと舌先で消えるところが素晴らしかった。のだが・・・香りが思いのほか早く飛んでしまった。こんなものなのか、買ったモノがそもそもさほどのものでないのか、詳細は不明。買った店は、「いいものだけを売ってる店」だとガイド氏(と店の売り子)は太鼓判を押していたが、コーヒー豆を入れた袋の上部に印刷されている会社名がUCCIってのに、一抹の引っかかりを感じるのだ。ちなみにこのお店の紹介はこちらにあった。値段は変わらないが、300グラムではなく、今は250グラムでこの値段になっている。つまり、値上げされているということね。トラジャは日本で入手できるが、キンタマーニコーヒーは珍しい(バリコーヒーといって売っている豆が実はキンタマーニかもしれない)。それになんといっても、味も上品でいい。もし、どちらかを選ぶのなら、個人的にはバリ島ではトラジャではなく、キンタマーニコーヒーを買うことを奨めます。こちらは免税店で買った、仏像形のお香立て。バリはほとんどヒンドゥー教徒のくせに、ウブドの郊外の石像工房では、やたらと仏像が置いてあった。ガイド氏に聞いたら、やはり島以外の需要に応えるためで、欧米人もバリ島でよく仏像を買っていくのだとか。この仏像、安いわりにはわりとよく出来ている。・・・のだが、こ、こ、こんなところにお香を立てるとは・・・こんな不謹慎な仏像、仏教国のタイでは絶対に考えられない。さらにお香が短くなってくると、敬虔な仏教徒なら怒り出しそうな不謹慎な姿となる。タイでは絶対に作らない、いや、こういう発想そのものがありえないだろう。しかも、このお香セット。左右の袋入りのお香・・・一見、底まで袋だと思うでしょ? ところが・・・なんと、上げ底!いや~、かつて東南アジアといえば、こういう粗悪なダマシが幅をきかせているイメージがあったが、いまだにコレですか。しかも、恐れ多くもブッダ像を象った品で・・・やっぱり、いろいろな意味で、雑貨を捜すならタイのほうがいい。タイ人売り子はビックリするぐらい「押し」が苦手で、「買って欲しいな~」という表情はアリアリなのだが、交渉は超ヘタクソだ。ディスカウントをエサに、食い下がられて疲れることはあまりない。商売がうまいのは、目の細い中華系と相場は決まっている。それに、タイ人は売り込みやディスカウントには消極的だが、買ってもらったときは、必ず丁寧にお礼を言う。そういう礼儀を大切にするという面では、とても日本人に似ている。バリでは、すぐに「いくらなら買う?」と聞かれるのが、ハッキリ言ってかなりゲンナリした。値段聞いたら買うってわけじゃないのだよ。買わないとなると、わりと露骨に「チェッ」という顔をしてくる売り子も多い。値段交渉には熱心だが、それでエネルギーを使い果たすのか、買ってもらったあとの「ありがとう」もおざなり。商品に対する愛情や誇りが感じられる売り子は皆無といってよかった。頭にあるのは、「どのくらい値引いたら買ってくれるか」だけ。原価があり、利鞘があるのは、商品なら当たり前のことだが、最初はできるだけ吹っかけて、あとは原価を割らないように利鞘を確保することだけを考えているのがこうもミエミエでは、買い手だってウンザリする。このほかに、バリ絵画のギャラリーにも連れて行かれたのだが、バリ絵画はガイドブックではなにやら賞賛されていたのだが、実際に見ると、相当に酷いものだった。絵画芸術は常にパトロンを必要とするが、観光客は史上最悪かつ世界最悪のパトロンなのだ。絵描きだという案内役が途中から押し売りに変身して、「いくらなら買う?」が始まる。絵描きに営業なんか、させちゃいけません。絵を描きたいなどと思う人間は、そもそも営業のセンスなんてゼロなのだ。才能の方向性が180度違う。絵画芸術だけがもちうるオリジナリティをないがしろにして、雑貨と同じノリで売ろうとしてはダメ。その基本がわかっていないのではないか。売れる価格帯や観光客が欲しがる絵柄や構図を考えながら描くような絵は、キャンバスの浪費でしかない。そんなインテリアなら写真でも織物でも、別の媒体でできるはず。ダメだ、バリ島。バリの雑貨や工芸品は、日本では今はまだそこそこ需要があるが、作り手までこういう態度なら、ハッキリ言ってこの島の工芸品や芸術品に、アートとしての将来性はないと思う。永遠に買い叩かれ、手ごろな値段で売れるものしか作らなくなる。いや、作れなくなる。そうなると、職人の腕も上がらない。悪循環に陥って、あとはさらに物価の安い国の職人との値段競争。さらに、現地の雑貨だけでなく、有名ブランド店をテナントに入れている街中のこぎれいな免税店がつまらないのはハワイとそっくり・・・と思ったら、同系列の免税チェーン店だった。こういう巨大資本が、同じような免税店を世界中のメジャーな観光地に作り、旅をさらにつまらないものにしている。返って面白かったのは、デンパサール空港の免税ショップ。古くてショボい空港なのだが、諸手続きを終えたあとに待ち構えている免税店は、まるでタイのナイトバサールのような猥雑な雰囲気。店数もかなり多く、露店がそのまま越して来たよう。ロゴやデザインだけ見たら高級ブランドそのもの、ただしオリジナルにはある機能がゼロの腕時計が、破格の値段で売られていたのは・・・熱帯の夜が見せた幻だということにしておこう。
2010.02.14
バリは初めてのMizumizu。チェンマイのときもそうだったのだが、バリ雑貨を見るのをかなり楽しみにしていた。まず、なにはともあれ欲しかったのは銀製品。ガイド氏に伝えると銀細工を多く作っているという村へ連れて行ってくれるという。だが、実際に着いたのは、銀製品を作っている小さな工房兼ショップだった。ショップは規模が小さいうえに、同じようなデザインのものばかり。「めずらしい一品もの」は皆無で、「手ごろなお土産」しかない。これなら、チェンマイの銀製品の工房のほうが遥かにいい。あそこで買ったオールドシルバーのネックレスは品質もよかったし、他では見ない掘り出し物だった。ニマンヘミン通りの銀製品のショップにも、「その店にしかないオリジナル商品」がたくさんあった。バリの銀製品の工房は、中途半端に量産している雰囲気で、同じペンダントトップが山ほどある。しかも、売り込み攻勢が激しいのなんの。どんどん奨められ、いったん値段を聞くと、電卓をもって店員がつきまとい、いきなり「2X%ディスカウントぉ」と値引きした額を電卓に打ち込んで見せる。そういうのって、ディスカウントではなく、単なる二重価格だと思うのだが。しかも、ディスカウントした言い値ですら、高い。これなら吉祥寺あたりにあるこじんまりとした銀のアクセサリー店のほうがよっぽど気が利いたものを売っているのでは?工房(というほどのものではなく、銀に細工している作業風景をちょっと見せるだけ)から案内役がぴったりくっついてきて入るショップは小さいので、買わずに出てくるのはかなり気が引ける。実際、孤立した場所にあるこの工房兼ショップには、次々にバンが横付けされ、2~3人の日本人グループが送り込まれてきた。日本人は素直によく買っていた。Mizumizuもせっかくだったので、バリに来たら買おうと思っていた大きめのペンダントトップを2つ買った。スネークスキンタイプの太くて長いチェーンはチェンマイで買ったもの。これに合う量感のあるトップが欲しかったのだ。右はバリ文字を象ったもので、お守りとか魔よけの意味があるらしい(詳細は、案内役やガイド氏の日本語が不明瞭でよく理解できなかった)。スイング型になっているのが少し凝っている。左は細かい模様の入ったナイフと、そのナイフがくりぬかれたようになっている平たいパーツとの組み合わせがおもしろい、ユニセックスなデザイン。最初の「ディスカウント価格」が1,200,000ルピア(1万2000円)と、――おいおい、チェーンなしのペンダントトップ2つでかい? それじゃ日本より高いじゃん。と突っ込みたくなるような値段だった。交渉したが、あまり思い切りよくは下げない。「コレ、本物ノ銀ダカラ・・・」と涙目になるお姉さん。いや、それはわかってますけど。ま、あれよね。日本人を送り込んでくるガイドにもキックバックを払うのだろうし、そうそう安くはできないということですか。結局2つで890,000ルピアで折り合ったのだが、現金をあまりもっていなかったので、カードで払おうとしたら、手数料をもってくれと粘られ、結局916,700ルピア(約300円増し)になった。値引いてもらってトクした気分より、値段交渉で疲れたという印象のが強い。銀のペンダントトップが1つ5000円弱というのは、そんなにべらぼうに安くはないし、特別すぐれた品質のものというわけでもない。あとで、免税ショップなども見たが、そこよりは確かにこの工房のもののほうが「多少」安かったかもしれない。デザインは好き好きだし、品質に関しては、免税店にあるのも、この工房にあるのも、あくまでお手ごろなお土産。ウブドの町中の宝石店では、もっとよいものも見かけたのだが、よいものは値段もそれなりだった。要するに、「抜群のお買い得感」は皆無なのだ。いや実際、雑貨やアクセサリーで個性的な掘り出し物を見つけようと思ったら、明らかにチェンマイのほうがいいと思う。銀工房のあとは、「ここならバリ雑貨が何でも揃いますから」という店に連れて行かれた。ウブドの郊外だが、やはり孤立した場所で、またもどんどん日本人が送り込まれてくる。ホテルではほとんど日本人を見かけなかったのに、案内される店はどこも日本人客ばかりとは。実に奇妙な体験だった。「ここは、ディスカウントしてくれます」のガイドの言葉どおり、レジで16%引きにしてくれたのだが・・・だから、それはディスカウントじゃなくて、単なる二重価格でしょうが。そこで買ったバリ・コーヒー。熱いお湯に溶かして飲む・・・というと、インスタントのようだが、味と香りはぐっといい。右の「スタミナ・コーヒー」は、ジンジャーやシナモンの入ったエキゾチックな味。これも非常に気に入った。もっと買ってきてもよかったナ。そしてバリの塩。なんと袋には日本語が。つまり輸出用の商品ということか? これじゃ全然ありがたくない(笑)。「バリの塩は甘みがあって美味しい」と、バリフリークの人が書いた本にあったのだが、今の東京は世界各国の上等の塩がいくらでも手に入るせいか、味はたいしたことなかった。しかも、先日日本橋の三越の地下で、「ピラミッド形のバリの塩」というのを見つけてしまった。粒が大きく、本当に1粒1粒がピラミッド形をしている! こういう高級品は、ダイレクトに日本に入ってきてしまうのか、お土産屋では見かけなかった。なんのためにわざわざ買って運んできたのやら。トホホ。沖縄でいろいろ買って東京に着いたとたん、「わしたショップ」に全部同じものが同じ値段であることに気づいたときと似た気分だ。定番の「バリっぽい」Tシャツ。日本人客で溢れた店では、店員が、「これは、バリっぽい」と言って、確かにバリっぽいものを奨めてくる。「バリっぽい」ってフレーズ、よっぽど日本人が使うんだろうか?このTシャツ、中央部分がプリントではなく、更紗になっている。昔・・・♪土手のすかんぽ ジャワ更紗昼はほたるがねんねするという歌を昔どこかで聞いたことがあるような気がする。ソレですかね? 確かに美しい。しかし、Tシャツ1枚166,000ルピア(1,660円)とは、かなりのお値段。7枚1000円の「色落ち」して「ときどき穴があいていて」「1度洗濯したら」ダメになるという、路上の物売りのTシャツは、どんなものだったんだろう・・・と逆に気なった。ガイド氏を振り切って買ってみても話のネタになったかもしれない。<続く>
2010.02.13
キンタマーニ高原に行くなら、午後より朝のほうがいい。お昼をすぎると曇ってしまう・・・というような情報をネットでゲットしていたのだが・・・1日でできるだけいろいろ見ようと欲張ったために、到着は午後1時をすぎた。棚田のあるデガラランから細い田舎道を行く。したたるような緑の並木が立ち並ぶギリギリ2車線の舗装路。どんどん標高が高くなり、涼しくなった。窓の外も高原めいた風景に変わっていくのが楽しい。道々、民族衣装の女性が頭に大きな籠を載せて歩いている姿を何度も見かけた。道端の露店には、みかんやマンゴスチンなどの果物が山積みで売られている。途中、みかん畑も通った。「ホラッ! みかんがなっています」と指差すガイド氏。・・・別にみかん畑って、日本でも珍しくはないけれど(笑)。ガイド氏は、キンタマーニ高原最大の見どころだというバトゥール山と湖が見下ろせる観光客向けバイキング・レストランになんとか午後2時までにねじこみたかった様子(たぶん、ランチタイムが2時までなんだろう)。晴れていれば、絶景が見下ろせるらしいのだが、あいにくMizumizuたちが着いたときには・・・霧しか見えませんでした・・・おまけにテーブルに着くやいなや、激しく雨が降ってきた。ウエイターが飲み物のメニューを持ってくると、Mizumizuたちの前に立ちふさがるようにしてガイド氏、「飲み物、何か頼んでください」と強要。それはウエイターの仕事だと思うのだが・・・「何にしますか?」畳みかけるガイド氏。メニューをまだ見てないっちゅーの。「マンゴージュースが美味しいですよ」そうですか。マンゴージュースは大好きなので、じゃ、それで・・・確かにここのマンゴージュースは濃厚で、相当に美味しかった。ホテルの朝食がマズすぎるだけという気もするが・・・ Mizumizu連れ合いは、ジンジャーティーをオーダー。これも非常にグッド。バリ島では、ジンジャー(生姜)をよく使う。コーヒーもジンジャー入りのものがあった。バイキングで並んでいる料理の味は、悪くはなく、そこそこと言えるのだが・・・結論から言うと、インドネシア料理って、あまり口に合わないとわかった。来る前は、ミゴレンというインドネシア風焼きそばに期待をしていたのだが、パンチのないのびた焼きそば以上のものだとは思えず。料理の彩りもイマイチ・・・ タイ料理は大好きなので、なんとなくインドネシア料理も気に入るような気がしていたのだが、幻想だった。そういえば、東京でもタイ料理やベトナム料理は評価が高いが、インドネシア料理の美味しい店というのは、あまり聞かない(知らないだけか?)。気に入った料理はとても少ないのだが、その数少ないうちの1つが、サテという串焼き(写真奥)。これは何本でもイケます。なのだが・・・サテはタイにもあるし(こちらのエントリーを参照)、正直言うと、タイのサテのほうが美味しかった。白米ご飯も、日本で典型的にマズいとされるボソボソした長米しか食べられなかった。タイの素晴らしい香り米がひどく懐かしい。けっきょくキンタマーニ高原のこのレストランでは、サテばかり食べていた気がする。それで請求された値段が、2人で270,000ルピア(2,700円)。物凄い量を食べる白人のおっさんたち↓↓には安いかもしれないが、サテばかり食べてるウチらにとってみれば、なんだかえらく高い。それにこのレストラン。ガイド氏は最初「1人100,000ルピア」と言っていたのだ。ところが入ってみると、飲み物は別に強要されるし(それもガイドに)、タックスが21%付いて、結局は上の値段。この21%というのは、別の店では「サービス料」と言われたのだが、とにかくバリのレストラン(少なくとも観光客の行く)では相場らしい。21%ものタックスだかサービス料がかかり、かつ飲み物も別に頼むのを強要されるのに、「1人100,000ルピア」とだけ言って連れて来るところが気に入らない。「1人100,000ルピア。それに飲み物とタックス21%が別にかかる」ときちんと伝えるべきだろう。額の大小ではなく、それはあくまで商売の透明性の問題。海外に行くと、なんでもかんでも安く感じた時代もあったが、それも今ははるかなる昔。東南アジアでさえ、「なんか高いなあ・・・」と思ってしまう東京人。それだけ東京のメシが安くてウマイということだ。いつの間にこうなったんだろう?肝心の景色のほうは、食べてるうちにだいたい雨が上がってくれて、霧の間にまに、山と湖を少し覗くことができた。緑の濃さはさすがに熱帯。火山と湖という眺めのせいか、北海道の摩周湖がまず頭に浮かんだMizumizu。このバトゥール湖は、ウィキペディアに「火口湖」と書いてあり、それにならったネット上の記事も多いのだが、こちらの航空写真を見ても、火口湖ではなくて、カルデラ湖だと思うのだが。バトゥール湖はカルデラの一部が湖になったカルデラ湖、そして食事をしたレストランは外輪山にあったのでは?しかし、飛行機で7時間半もかけ、さらに90ドルかけて車をチャーターして、何時間もかけてワザワザ来た場所が、「摩周湖みたい」じゃ、あんまり・・・なので、黙っておこうっと思ったとたん、横でMizumizu連れ合いが、「これなら、洞爺湖のウィンザーホテルからの眺めのほうが凄いよなあ・・・」あ~、言ってしまった。「こっちに中島の見える洞爺湖、反対側に羊蹄山だろ。絶景だよな」そうなのだ。北海道のウィンザーホテル洞爺湖は山の上にあるので、めったに晴れないという欠点があるのだが、そのかわり、晴れたらその絶景は、確かに凄い。しかし、飛行機で7時間半もかけ、さらに90ドルかけて車をチャーターして、何時間もかけてワザワザ来た場所なのだよ。強いて比べないようにしているMizumizuの気も知らず、「それに道東の美幌峠からの眺めと比べたって、あっちのが雄大だろ」寅さん、それを言っちゃあ、おしまいよぉ。
2010.02.11
バリ観光旅行の下調べをして思ったのは・・・バリ島は案外大きく、観光スポットが離れているということ。いきなりレンタカーというのも不安があるし、そうなるとタクシーのチャーターか、現地旅行会社のオプショナルツアーに申し込むしかない。しかも、改めて調べて知ったことなのだが、こんなに有名な島なのに、「世界遺産」がない。隣りのジャワ島のボロブドゥール遺跡やプランバナン遺跡のみ。「世界遺産」登録そのものが、かなりバーゲンセールになってきているというのに、1つもないとは。つまり・・・寺院建築だとか、自然の景観だとかで、圧巻のものはそもそも存在しないということか。う~む・・・ ますますわからなくなってきた。バリ島にハマる人って、日本人ではかなり多いイメージがあるのだが、みんな何が気に入って通っているのだろう?タクシーのチャーターについては、ウィキペディアによれば、「しっかり交渉すれば、1日200,000ルピア(2000円)ぐらい」と書いてあるのだが、街中を回るのか、遠くにいくのかで事情が違うだろうし、実際にタクシーをチャーターした人の体験談を読むと、ドライバーとの相性のようなものもあり、自分勝手な人に当たってしまうと、不快な思いをするという・・・フムフム、それはありそうだ。旅行会社の設定しているオプショナルツアーは非常に数が多いのだが、2~3箇所回って、1人45ドル・・・など、案外設定が高いのだ。ヌサドゥア・ビーチからだと、どこに行くにも時間がかかる。とりあえずピックアップしたのが・・・(1)ブサキ寺院 バリ・ヒンドゥー教総本山の寺院。(2)ウブド バリの文化芸能の中心地。(3)デガララン(ウブド郊外)の棚田。(4)キンタマーニ高原。(5)タナロット寺院 海上に浮かぶ岩島の上に建てられたバリで最も有名な寺院。夕日のメッカ。(6)ワルワツ寺院 ケチャック・ダンスも見られる夕日鑑賞スポット。ヌサドゥアから一番近い。の6つ。最初、一番面白そうに思ったブサキ寺院は、「寺院内に入れない」「ガイド詐欺が多い」などと書いてあり、しかもヌサドゥアからだと、クルマで2時間半とかなり遠い。往復5時間!? そこまでして行くより、せっかくのビーチ休暇なので、海辺でゴロゴロしていたほうがいいかもしれない(←すっかり堕落)。2つ目の棚田(ライステラス)は、バリに行った人がかなりの高率で棚田の絵葉書を送ってくるし↓↓個人的に心惹かれた。ウブドの近くだというので、ウブドの町とあわせて行きやすいような気がする。そこで、Mizumizu連れ合いに、「棚田って、どうかな~? 見たい?」と聞いてみたら、ニベもなく、「棚田~? そんなもの見たいの? 棚田なんてさ、姨捨にあるよ。それにヤシの木を頭の中で合成すればいいじゃん!」お、おばすて・・・地名も凄いが、それがいきなり出てくるところがさすがに信州人。ま、つまり、棚田なんて、わざわざ見に行くほどのものではないと思っているということネ。ネットで姨捨の観光協会のページを見たら・・・確かにありました。棚田の写真(上のサイトから借用した写真です)。そういえば・・・10代のころ住んでいた山口にも有名な棚田があるのだ。これは、こちらの観光案内サイトから借用した写真。実は・・・山口に暮らしながら、行ったこともなく、そもそもこの棚田の存在そのものを知らなかった。有名な写真スポットだと教えてくれたのは東京の友人。ほかにも、白馬の青鬼という村にも棚田はある。こちらの個人サイトの写真が綺麗。もちろん、国指定の名勝「白米の千枚田」もある。ここも行ったことないのだが・・・確かに、日本の棚田にヤシの木が立ってる・・・だけの場所かもしれない? それに、バリの棚田の写真って、上の絵葉書もそうだし、このように、ネットの観光サイトに載ってる写真もそうなのだが、よくよく見れば、写真のアングルが違うだけで・・・明らかに、全部同じ場所!フィリピンには棚田の世界遺産があるが、この圧巻の規模とは比うるべくもないない。ないが・・・と言って、フィリピンに棚田見に行く予定もないしなあ・・・ウブドは絶対に行きたいし、そこから近いわけで、やっぱりどうせなら見ておきたい。そう思いつつ、バリに着くと、お迎えの現地旅行会社のガイドさんが、ホテルに行く車中で、オプショナルツアーの売り込みを始めた。運転手とは別に日本語を話すガイドがつき、朝8時半にホテルを出て、バロン・ダンスを見て、そのあとウブド方面に向かう。そこで銀製品の店に寄り、バリ絵画を見て、デガラランの棚田に寄り、キンタマーニ高原でお昼を食べて、雑貨中心のお土産屋で買い物。さらに湧き水の出る寺院を見て、ウブドのメイン・ストリートを歩き、そのあとデンパサールの近くでケチャック・ダンスを見るという1日コースで、2人で90ドル・・・とのこと。ホテル代と飛行機代だけがセットになったツアー(参加者は我々2人のみ)で、空港からホテルまでの送迎があるというのが変に親切だな・・・と思ったら、コレだったわけだ。バリ初心者の観光客に、車中でオプショナルツアーを売り込む。バリというのは、不慣れな観光客が個人で観光スポットを巡るのが本当に難しい島。1日で90ドルという値段も、相場から考えて高くもないし、いきなり街中でタクシーをチャーターして、よくわかっていない観光スポットを回るのも不安があるので、即決でお願いすることにした。ブサキ寺院は、どうでもいいや。朝ホテルのロビーに行くと、同じように「お迎え」を待っているゲストがたくさんいた。やっぱりバリ初心者は、こういう割高の観光にならざるを得ない。棚田以外にその日に連れて行ってもらった場所については後日おいおい書くとして、お目当てだった、デガラランの棚田は・・・思ったとおり、箱庭的に狭い場所だった。バリの棚田の絵葉書は、ほとんどここで撮られている。Mizumizu「姨捨の棚田と同じ?」Mizumizu連れ合い「う~ん、まあ、谷が深いからね」そう谷が急に深くなっている場所なので、田んぼ1枚の幅が狭く、小さい。それが視覚的な変化を生み、確かに一見の価値ありの景観を生み出している。「ここの水は山から引いています」とガイドさん。白馬の青鬼も確か、村人手製の水路で山から水を引いていたと聞いた覚えがある。しかし、このデガラランの棚田鑑賞スポットは、物売り攻勢が激しい。クルマから降りると小さな子供の物売りが寄ってきて、絵葉書を見せながら、「100円、100円」と付きまとった。ちなみに後日スーパーで買った絵葉書は1枚3,500ルピア(35円)。ということは、物売りの子供から3枚100円で買えば、スーパーよりは安いことになる(?)。おじいさんの物売りが、なにやら彫り物を見せて、「2つで1000円」などと寄ってくることも。タイでは一切見なかったなあ、こういうアグレッシブな物売り。ただし、タイには身体の不自由な物乞い(いわゆる乞食)が多かった。観光客の集まる寺には、足のない子供などが物乞いをしていた(もちろん親が連れてきているのは明らか)。バリでは、子供の物売りが多かったが、物乞いは見なかった。バリのガイドさんは、こういう物売りにえらく冷たい。「ノー、サンキューと言ってください!」と強く念を押された。しかし・・・「Tシャツ、5枚で1000円」と言ってた物売り諸氏、30秒後には、「7枚で1000円」に値下げして、たくましく付きまとってくる。7枚で1000円だったら、使い捨てのつもりで買ったって悪くなさそうなんだけど?ガイドさんは、「1度洗濯したらもう・・・」「色落ちしてひどいですよ」「穴が開いてるのを売ったりする」と、あくまで「絶対に買うな」調。でもって、「相手にしないでください。あとで、ちゃんとした店に連れて行きますから」って・・・アンタの都合か!?自分の連れて行く店で買ってもらいたい気持ちはじゅうじゅうわかるし、実際にこのガイドさんが連れて行ってくれた(日本人客だらけの)店は、値段は高いがよいものを置いている店だった。物売りが売ってるのは、よく見ればあっちもこっちも同じだし、多少ふっかけて、安くするというテクニック(というほどのものでもないが)も同じ。でも、同じバリ人がやってることではないか? 旅行会社のガイドが、トラブルを恐れて、必要以上に現地の治安や土地の商売人のことを悪く言うというのはありがちなことだが、粗悪なものを安く売るのは別にサギではない。買うほうが納得して払うのだから、そこまで悪く言って、彼らの商売を妨害する必要もないように思うのだが。おまけに、このデガラランの棚田スポット、観光客が捨てていくのか、周囲の道にはペットボトルやらお菓子の袋やらが散乱していて、汚いことこのうえなし。棚田の中までゴミを捨ててる輩はさすがにいなかったが、これじゃ、ここで作業している農夫が気の毒すぎる。
2010.02.08
朝起きるとさかんに鳥の鳴き声がしている。「や~ねえ、スピーカーで流して演出してるの?」と思ってしまったMizumizu+Mizumizu連れ合いは、完全に堕落した都会人。窓を開けると、本物の野鳥のさえずりだった!乾季は埃っぽくて目薬がいるという話もあるバリ。Mizumizuが訪れた1月末から2月初めは雨季の真っ最中で、何度も激しい雨にも見舞われたのだが、これが不思議と不快ではなかった。バリの雨は突然降る。叩きつけるような雨だ。写真にも雨粒が写っているのが、わかりますか?待っていればやがてやむ。本当に一過性のシャワー。部屋のバルコニーから、ヤシの木に降りかかる熱帯特有の強い雨を見ていると、それだけで陶然となった。まさにサマセット・モームの世界。雨がやんだバルコニーには、しょっちゅう来客があった。なんとそれは、「リス」。バリで見たリスは、まるでムササビのようにアクロバチック。高いヤシの木の垂れ下がった葉の先のほうまでチョコチョコやって来て、そこから近くの建物や別の木に飛び移るではないか。落ちたら死ぬと思うのだが・・・こちらはプールサイドのヤシの木で見かけたリス。後ろ足だけで幹をつかんで完璧にさかさまになり、しきりとナッツを食べていた。ある日、バルコニーと部屋の扉を開けたまま、朝食に出て、部屋に帰ってきたら・・・このリンゴ、一瞬、Mizumizu連れ合いが食べ散らかしたのかと思い・・・Mizumizu「なんつ~、食べ方してるの? リンゴ・・・」Mizumizu連れ合い「えっ?(とリンゴを一瞥して) オレじゃないよぉ。これ、完全に齧歯類の食べ方じゃん」はっ? 齧歯類? そう言われてみれば、歯型の幅が狭くて深い。人間でこんな出っ歯は確かにいまい。どうやら、バルコニーに来るリス君、開いていたドアから入ってリンゴを見つけて試食してみたものの、あまりお気に召さなかったのか、すぐにやめて出て行ったよう。リスや鳥と一緒にくつろぐプールは、見かけはなかなか・・・なのだが、この大きなプールは水が汚い。チェンマイのマンダリン・オリエンタルのプールとは雲泥の差。もう1つ小さなプールがあり・・・こちらは海水を使っているとかで、水もきれいだった。プールには更衣室や室内シャワーがない。部屋で着替えてこいということだ。こういうところが、マンダリン・オリエンタルとの違い。あちらのホテルは、必ずプールに専用の更衣室とシャワーがあり、チェックアウトしたあとも使えて便利だった。ウェスティン・ホテルはスタッフの数も少ないので、自分でバスタオルをスタッフからもらって、寝椅子にセットしなくてはいけない。オリエンタルのように、ミネラルウォーターをもってきて置いてくれる、なんてこともない。こういうところが全部、少しずつ違う。もちろん、その分安いのだから、仕方がない。逆に、ほったらかしの気楽さもあり、本当は夜は7時までのプールなのだが、暗くなってから泳いでも文句は言われない。夜のプールもかなりムーディ。プールサイドでは自転車の貸し出しもあり(1台1時間=300円)、ヌサドゥア・ビーチに並んで建っているホテルのプライベートビーチを縫うように作られた海辺の遊歩道をサイクリングして楽しむことができた。ヌサドゥア・ビーチのホテルは、どれも似たりよったりだったのだが、高級感で際立っていたのが、クラブメッド(Club Med)。これが、わがウェスティン・ホテルのプライベート・ビーチの現実だが・・・同じプライベート・ビーチでも、クラブ・メッドのほうは、こう。これなら、「最高級ホテル」と言って間違いないだろうし、パンフレットに載っているイメージ写真と現実が、さほど違わないのではないだろうか。芝生に影を落としたヤシの葉が綺麗で、思わずシャッターを切ってしまった、クラブ・メッドの敷地内。だが、クラブ・メッドって、泊まった人でいいと言ってる人が、Mizumizuの周囲にあまりいないのだ。実際のところ評判いいのか悪いのか、よくわからないクラブ・メッド・・・そのせいか、きれいなわりには食指は動かなかった。値段のこともあるし、今回のバリ島の滞在はウェスティンで、まあ満足。といっても、バリ島はホテルが有り余るほどあるので、次もし来たら、別の場所の別のホテルに泊まろうと思うけれど。
2010.02.07
今回泊まったのは、ヌサドゥア・ビーチにあるウェスティン・ホテル。同ホテルのホームページにアクセスすると、まず出てくるのがこのウェスティン・ホテル・バリのプールの写真。ということは、ウェスティン・ホテルグループの中でも、いいほうの部類に属するのだろうと思うし、星も確かに最高級の5つ星。ホテルのプライベートビーチのイメージ写真↓↓も素晴らしい。のだが・・・実際には、安いレートで団体客を目いっぱい受け入れている、名ばかり高級リゾートになっていた。Mizumizuたちも飛行機チケットと抱き合わせで、安く取った。延泊しても2人1部屋で1泊7000円と、かなり安い。安くするとどうなるか? サービスが落ちる。まず典型的なのが、朝食。朝食会場は、緑豊かな池に面していて、そこに美しくも珍しい鳥が飛来したりして、熱帯のムード「は」抜群。バイキングの数も多い。種類だけは凄い。こんなふうに完全に洋食スタイルにすることもできるし、中華も和食もある。パンも種類が多い。のだが・・・どれもこれも、味が相当イマイチ。種類だけ並べれば、どれか食べられるものがあるでしょ、とでも言われている気がしてくる。タイと比較して勝っていたのはコーヒーだけ。さすがコーヒーの名産地インドネシア。甘い香りと深い苦味は他ではなかなか味わえないコーヒーが、ふんだんに出た。だが、団体客をたくさん入れているので、本当に騒がしく、テーブルもキチキチで、優雅さゼロ。熱帯らしく果物も生ジュースもスムージーもあって・・・う~ん、さすがに、南の島! と言いたいところだが・・・なんだ、このマズイ果物は! 街に出れば、もっと美味しそうな果物が店先に山積みになっているというのに! ガイドさんにもらって食べたマンゴスチンなんて、タイよりぷくぷくと丸く大きくて、味もよかったのに、なんだってこのホテルでは一度も朝食に出さないだ!? 味のないメロンとか、パサパサのパイナップルとか、こんなもん、一体どこで仕入れてるの? 結局スイカが一番美味しいって、どういうことですか、え?おまけに、生ジュースのマズさは、人をバカにしてるのか? スムージーも飲めたもんじゃない。これじゃ、タイの空港で飲んでしまった「タイ最悪のスムージー」をはるかに下回るわ!ここまで客を舐めてる朝食、久々に食べた。そのせいなのかどうなのか、「日本人に人気のホテル」と聞いたのに、日本人客はとても少ない。聞こえてくるのは圧倒的に・・・ロシア語!どうしてロシア人がこんなにたくさん来ているのだろう。ビザ協定でも結んだのか? 次に多いのが・・・中国語!日本人よりどう見ても中国人のほうが多い。世界の観光市場から日本人が退場している現実を如実に感じた。どうしたんでしょう、日本人? バリには飽きてしまったのでしょうか? 世界中でカモられまくって、海外旅行にウンザリしましたか?かつてバリの観光客は、日本人とオーストラリア人がほとんどだったとか。だが、今は街中の観光客相手のレストランの歌手(←レストランでは、やたらと生演奏が多くて、実にうるさい)も、「スパシーバ!」「シェーシェー!」と言っている。しかし、一度行って損はない島だと思いますよ。飛行機代とホテル代が抱き合わせになった安いチケットも出回っているし、まだ行ったことない方は、考えてみては?さてさて・・・朝食は高級難民キャンプ状態のウェスティン・バリ。プライベートビーチはどうかというと・・・確かに、上に紹介したような「コクーン」と呼ばれる「くつろぎスペース」は海岸に並んでいた。だが・・・現実はこれ。おお、イメージ写真との、なんという違いでしょうか。プロの写真家って、本当に凄い。確かに同じモノがあるのだが、全然違う場所のようだ(苦笑)。ビーチの砂は踏み荒らされ、コクーンは突然の雨に備えた銀色のビニールシートがくっついていて、これまた高級感に乏しい。海はといえば・・・晴れた日に、こう撮れば、まあまあに見えますかね? ヌサドゥア・ビーチ。透明度も高そうに見える?でも実際は・・・あまりきれいじゃない! 水面にはなんだかいろいろなものが浮いてるし、水も濁っている。沖縄のほうが、海は圧倒的にきれい(ただし、今回泳いだのはヌサドゥア・ビーチだけなので、他にもっときれいなビーチがあるのかもしれない)。さらに、天気の悪い日の、引き潮の時間になると・・・どどど~ん、とこんなにキタナクなる。海底の海草が砂浜にむき出しになり、まるで冬の日本海。ただし、暑いのだが・・・ヌサドゥア・ビーチというのは新しく開発したエリアらしく、大型ホテルが立ち並んでいるだけで、歩いてぶらっと楽しめる街もない、いわば孤立したリゾート地。その分セキュリティはしっかりしていて、まあとりあえず、爆弾テロの恐れはほとんどない。空港から送迎バスで観光客が、この閉ざされたエリアにじゃんじゃん送り込まれてくる。いったん入ってしまうと、個人ではとても出にくい。そうした場所だということは、あらかじめわかっていたのだが、実際に泊まってみると、「隔離された高級難民キャンプ」という印象を、やはり強くもたざるを得ない場所だった。
2010.02.06
暖かいバリから寒い日本へ帰って来た。バリ島の印象を一言で言えば、「思った以上に気候・風土がよく、想像以上に観光地化が進んでいた」ということになる。日本語があまりによく通じるのに驚いた。ここまで日本語が通じるのは、ハワイぐらいしか知らない。公共交通機関を使った自由行動がしにくいのもハワイと似ている。普通の観光客が名所スポットを回ろうと思うと、オプショナルツアーを含めた現地のガイドに頼るか、タクシーをチャーターするほかない。レンタカーは島の交通事情に慣れていない人間には怖い感じ。バイクの走り方がかなりラフで、なんと2度もバイクの事故を目撃した日もあった。国際免許書は通用せず、運転をしたい外国人は現地で簡単なテストを受けるのだとか(答えを教えてくれるという話もあり??)。現地の物価は、観光客相手の場所だと案外高い。ハワイほどではないにせよ、タイのチェンマイのほうが物価は一般的にずっと安い。工芸品の類も、観光客相手の手ごろなものばかりになってしまっていて、銀製品にしろ雑貨にしろ、チェンマイの職人のほうがはるかに力量が上で、面白いものがあった。バリ雑貨が、期待外れだった・・・というより、もう東京にはバリ雑貨があふれていて、目新しくもなく、たいしてお買い得感もないというのが本当のところかもしれない。「定価という概念がない」とも言われる場所なので、大量に安く仕入れれば、現地の小売とさほど値段差もなく日本で売れるのだろうと思う。気候は思った以上に快適。タイのバンコクは湿気が酷く、空気も悪かったし、チェンマイのほうは蚊に悩まされた(これは季節もあったと思うのだが)。バリ島では、海辺のホテルに滞在したせいか、海風が心地よく、雨季にもかかわらず(バリ島では1月が一番雨が多いよう)、湿気で不快な思いをすることがなかった。蚊が少なかったのは、本当に驚き。でも、ハエは多くて、ホテルのテラスで食べていると、ハエがさかんにたかってきたのには閉口。雨は降るのだが、一過性のシャワー。気温は30度と、暑いことは暑いのだが、東京の真夏のように、べったりと汗が服にはりついて、ついでに空気も汚くて不快・・・ということがない。この風土の魅力が多くの人を惹きつけるのだろう。実際、身体の調子がすごくよくなった。適度に湿気があって、しかも空気がいいせいか、アトピーが目に見えて改善。寒い東京では外出する気にもなれず、自宅で仕事ばかりしていて、ウツウツと気分も落ち込んでいたのだが、バリでは海岸沿いの遊歩道を自転車で走ったりするだけで楽しかった。ウツっぽい人は、やはり南の島に行くといい(帰国したら元の木阿弥蚊も知れないが・笑)。しかし・・・曇っていた日にプールと海で少し泳いだだけで、赤鬼のように真っ赤に日焼けしてしまったのには驚愕! チェンマイではもっと晴れた日に泳いでも、これほど焼けることはなかったのに。さすがに赤道直下の太陽は侮れない。さてさて・・・実際的な話でビックリしたのが両替事情。なぜかバリでは空港の両替所もホテルもレートが変わらなかったのだ。街中の両替商が一番レートがいいそうだが、見て回った限りでは、レートが一番悪いのもいいのもウブドという街中の両替商だった。一番いいレート 103ルピア(1円)ホテルや空港など通常のレート 100ルピア(1円)一番悪いレート 99ルピア(1円)現地のレートは、数字が上がっていくほうが自分にとって「レートがいい」ことになる。ちょうど日本でドルの数字が下がっていくほど円が強いということになるのと逆の理屈だ。街中の両替商は、手品のようなゴマカシをするそうで、いったんきちんとルピアを見せたあと、札をまとめるフリをして、そのときに何枚かお札を机の下に落としてわたさないようにするとか・・・(苦笑)。街中で両替はしなかったので、その手品にはお目にかかれなかったけれど。またさらに驚いたのは、ガイドさんに連れて行ってもらった銀製品の店のレートが、1円で102ルピアと案外よかったこと。店のレートがいいって・・・生まれて初めての経験。両替しなくても、日本円が使えてしまう店も多く、レートもたいして悪くないということだ。「500円玉でもいい」と言われたときは、「ええっ? 硬貨も取るの?」と心底たまげた。植民地ですか? まったく・・・ルピアは昔のイタリア・リラのようにゼロが多い。ルピア札のゼロを2つ隠すと、だいたい日本円になる。10,000ルピア = 100円(だいたい)短期間の旅行で、しかも初めてだと、1,000ルピア(10円)と10,000ルピア(100円)をうっかり間違えるので、くれぐれもご注意を。そうそう、VISAは事前に申請する必要はないのだが、バリ島の空港で1人25ドルを払ってその場で発行してもらう必要がある。ちょっと前まで7日のVISAがあり10ドルだったのだが、7日VISAは廃止となり、滞在期間が少なくても25ドルの30日VISAを申請するしかなくなった。これは知らなかった日本人が多く、10ドル差し出した空港の窓口でいきなり「25ドル」と言われて右往左往していた。ちなみに出国の際には、1人15万ルピア(1500円)が必要になるので、これも残しておこう。結構、いろいろ細かくお金を徴収されて面倒な国だ・・・そのせいもあるのかないのか、インドネシアというのは、シンガポールやマレーシアやタイより年間の観光客数が少なく、そのほとんどをバリ島に頼っているのだとか。
2010.02.05
今、インドネシアのバリ島滞在中。ネット事情が悪いので、詳細は帰国後アップします。お楽しみに♪
2010.01.31
<続き>こうした佐藤有香のスケート技術に立脚した表現力を、アボット選手は今季うまく吸収してきているように思う。彼も動きに無駄がなく、かつ嫌味がない。昨シーズンに比べて、確実に表現がスムーズになり、「進歩している」という印象を強くもつことができた。そして、もう1つ。佐藤有香のもっている価値観。これが現行のルールで勝って行くのにピッタリなのだ。この動画の解説を聞くとよくわかる。http://www.youtube.com/watch?v=V5JNIvvVgMU&feature=relatedもう10年も前の演技だが、このとき解説の佐藤有香は、マリニナ選手のスケートの基礎力、それにジャンプを褒めている。ルッツに関しては、「エッジの正確さ」。ジャンプの質に関しては、いわゆるディレイド・ジャンプの概念からマリニナ選手のジャンプがお手本だと言っている。つまり、「きちんと上にあがって、それから回転を始め、回転を止めて降りてくる(回りきっての着氷)」ということだ。そして、「最近トリプルジャンプ、トリプルジャンプと必要にせまられて、スケートを滑るというところがいい加減になってきている傾向がある」「ルッツのエッジをきちんとバックアウトサイドで踏み切れる選手がいない」とも言っている。当時こうした視点で話をする解説者はいなかった。つまり佐藤有香は、このころからずっと、「4つのエッジ(アウト、イン、フォア、バック)の使い分けを含めた、基礎的なスケート技術の低下」が気になっていたのだろう。現行のルールは、運用にははなはだしく問題があるが、方向性としては一理ある。それを10年も前にズバリと言っているのだ。なぜ今佐藤有香なのか。彼女がスケートに対してもっている価値観に触れたこの大昔の解説を聞けば、その答えはおのずと出ると思う。彼女が現役選手にコーチとアドバイスをしている場面をテレビで見たが、さかんに、「自分自身で考えること」の重要性を説いている。これにも過去の「前例」があるのだ。佐藤選手は世界女王になる直前のリレハンメルオリンピックで、本番直前にジャンプの調子を著しく崩していた。解説の五十嵐さん曰く、「練習ではジャンプが全然跳べていなかった」「氷の上で考え込んでいた」。テクニカルプログラム(ショートプログラム)のジャンプの失敗で出遅れ、フリーでは最終グループに入れなかった佐藤選手。それでも、練習では跳べなかったジャンプをフリーでは、相当のレベルでまとめた。そして、演技終了後、「最終グループには入れていれば、もっと点が出たと思う」というコメントを残している。そのときの動画がこれ。http://www.youtube.com/watch?v=x2u2Qk4Fd9s&feature=related非常に緊張した面持ちで演技に入り、終わったときは、「やった!」という顔で一瞬泣きそうになっている。跳べるはずのジャンプが跳べなくなってしまうのには、理由がある。浅田選手も同様のことを言って、ビデオを見て軌道を修正したと語っている。佐藤選手はそれを恐らく、オリンピック本番直前の氷上で、頭の中でやっていたのだ。練習は必ず考えながらやること。「自分の頭で考える」ことに主眼をおく佐藤有香の価値観が、アボット選手のようなある程度完成された選手に対して、非常に短期間で功を奏したとしても不思議ではない。こちらはオリンピック後に日本で開かれた世界選手権のフリーの様子。このときは、演技に入る前にだいぶ精神的余裕があるようで、表情が柔らかだ。http://www.youtube.com/watch?v=p03ZQBf0TvA&feature=relatedアボット選手もこの演技に感銘を受けたと話していたが、Mizumizuもこのプログラムは、フィギュア史上に残る大傑作だと思っている。何度見ても飽きない。手足の長い白人の美少女がバレエ的に優雅に舞うだけがフィギュアの表現力ではない。伸びやかな滑りとキビキビとしたエッジ捌きが高い次元で両立し、かつエレガントが上半身の動きが見事に足の動きと連動している佐藤有香の表現は、まさにフィギュアスケート独自のもの。メリハリの効いたポーズも、流れるような動作も素晴らしい。いつまでも色褪せない価値をもったプログラムだ。一方で、ジャンプは非常に弱い。ジャンプはルッツとフリップがそれぞれ単独で1回だけ。3トゥループが2トゥループになっている。前半にかためてしまっているのでジャンプ構成のバランスも必ずしもよくない。それを補うステップワークをもっているからこそ、世界レベルでも通用したが、このジャンプ構成で世界女王はどうか、という意見も当然あるかもしれない。事実、採点結果は1位をつけたジャッジ5人、2位をつけたジャッジが4人という僅差だった。だが、肝心なことは、佐藤有香はこのとき、ジャンプの目立った失敗をしていないということだ。ルッツとフリップは着氷はよくないが、なんとか踏みとどまっているし、トゥループをダブルにしたのは、3回転ジャンプのミスではあるが、ジャンプそのものの失敗ではない。連続ジャンプは、3Lo+2Tに、2Aから3Sへのシーケンス。ルッツとフリップをなかなか連続にできない佐藤選手ならではの構成だ。この「シーケンス作戦」は、ダウングレード判定が厳しい今季、多くの女子選手が取り入れている。もし、このとき、ジャンプの得意なライバルのボナリー選手に対抗して、なにがなんでもルッツを連続にして2回入れようとでもしていたら、おそらくミスって自滅していた。このシーズン、佐藤選手はずっとジャンプがうまくいっていなかったのだ。全日本を2連覇したときのインタビューで、「これで優勝してしまうのか・・・」と敗者のような反省の弁を述べていた(と思う。記憶ベースなので、もしかしたら混乱しているかも)。それでもシーズン最後には、自分のジャンプの地力に合った構成をかためてミスを防ぎ、「ジャンプ以外の部分」で魅せたから世界女王になることができた。これは、現行のルール下での勝ち方と共通してはいないだろうか? 日本選手が負けるのはなぜか? 採点が変? それはわかっている。だが、なんといっても、「自滅してしまうから」だというのが大きな理由ではないか。ライバルに勝つために、客観的に見たら「バンザイ攻撃」でしかない高難度のジャンプ構成を組む。案の定難しいジャンプは跳べない。焦る。次に難しいジャンプでまた失敗する。後半になると体力がもたなくなって、またミスる。たいがいがこのパターンだ。そして、「次につながる」と同じ台詞を繰り返し、「次」になっても、やはりあちこちでミスをする。こういう思考回路に陥るのも、実際のところ無理はない部分もある。たとえば男子で4回転を捨てるとすると、トリプルアクセル2度を決めることが最重要課題になるが、それではパトリック・チャンと同じレベルにまでジャンプ構成を落とすことになる。ジャンプ構成が一列になってしまったら、勝負を決めるのは演技・構成点。そうなってくると、おそらく地元のチャン選手の演技・構成点が高く出るだろう。また、プルシェンコのように確実に4+3を決めてくる選手には自力で勝つチャンスがほぼなくなり、彼のミス待ちになる。ところがプルシェンコは(ほとんど)ミスをしてくれない。精密な機械のようにジャンプを降りてくる。だから、メダルを確実にするためには、どうしても4回転が必要なのだ。本田武史の、「横一線になったときに、4回転が切り札になる」というのは、そういう意味だ。理屈はそうだが、現実の自分の実力を素直に見極める勇気がなければ、大技は切り札どころか、ただの自爆装置になってしまう。「誰々が何々を決めたら、自分も何々を決めないと勝てない」というifの世界に入り込んで自爆するよりも、もっと大切なことがあるはずだ。それにプルシェンコのフリーの点を見ると、あれだけのジャンプを決めても、必ずしもブッチ切りの銀河点ではない(もちろん、お手盛りの国内大会は除く)。誰かに勝とうとするのではなく、自分のできる最大限のことをミスなくこなして、プログラムの完成度を高めること。それが、1994年に佐藤有香が、そしてトリノオリンピックで荒川静香がやったことなのだ。よく「誰々と誰々が完璧な演技をしたらどちらが勝つか」という不毛な問いかけに対して、元有名選手が困惑しながら意見を述べている姿を見るが(たいていは、「やってみないとわからない」という答えになってしまう)、現実には、ミスのない演技を大舞台でする選手はほとんどいない。だから、実際には「失敗しない選手」がここ一番で勝ち、「失敗した」選手が負ける。「完璧な演技をしたらどちらが勝つか」の闘いになったことはほとんどない。「どちらがミスをしないか」の闘いがほとんどだと言ってもいい。佐藤有香の1994世界選手権は、薄氷を踏む勝利だった。だが、1票差でも勝利は勝利。世界チャンピオンのタイトルを手にしたことで、佐藤有香の将来は大きくひらけたのだ。世界タイトルを獲った佐藤有香は、すぐにプロへの転向を発表した。彼女自身がこの1つのタイトルが自分にもたらす「効果」を冷静に認識していたのだ。もし、あのとき勝っていなかったら、有名なアイスショーに呼んでもらうこともできなかったろうし、そうなるとプロスケーターとしてキャリアを積むこともできなかったかもしれない。全米王者アボット選手の横に座っている佐藤有香をキス&クライで見ることもなかったかもしれないのだ。世界女王になった佐藤有香に対する当時の日本のメディアの扱いは実に冷淡なものだった。翌日のスポーツ新聞で紙面のトップを飾ったのは、高校野球(春のセンバツ)の完全試合。佐藤有香の記事など、探さないと見つからないぐらい小さいものだった。高校野球は人気があるかもしれないし、完全試合は快挙かもしれないが、それは単に国内レベルの、しかも高校生の話ではないか。世界相手に闘い、かつ勝った選手に対するこの軽い扱い、この態度は、まさに井の中の蛙。今になって「全米を魅了したプロスケーター、佐藤有香」「すべての選手のお手本」などと持ち上げている。実にアホらしい。実際に佐藤有香がプロフィギュア選手権などで優勝していたころは、見向きもしなかったくせに。優れた才能を自国では欠点をあげつらって貶め、海外から評価してもらってやっとその価値に気づく。日本人の態度はいつもこうだ。いかに結果を出すことが大事か。そのための条件は、「果敢な挑戦」をすることでは決してない。まず自分が自爆しないことなのだ。この原則は、ルールがどう変わろうと不変だと思う。よく「モロゾフは、選手が跳びたがってるジャンプを回避させる」などと非難するファンがいるが、たとえばモロゾフがプルシェンコのコーチだったら、4回転を回避させるだろうか? ジャンプというのは確率。練習で確率の悪いジャンプは、試合でだって決まらない。模試で解けない問題が、本番の入試で解けないのと同じことだ。「ジャンプを回避しても勝てる」と思って回避させているというより、「自爆して負けてしまう確率を極力減らしている」と言ったほうがいい。結果としてそれが勝つための必要条件だという考えは、極めて合理的だと思う。佐藤有香は、アボット選手とともに、今回全米で最高の結果を出した。ジュニアとシニアで世界女王のタイトルをもち、プロスケーターおよび解説者としても活躍し、かつコーチとしても成功したという人は、これまでほとんどいない。佐藤有香は世界初のフィギュア界の「オールラウンドプレイヤー」になるかもしれない。その素質は十分だし、実際にそこに向かう扉を自らの手で開けた。本当に素晴らしいことだと思う。それもこれも、彼女が基礎の基礎から一歩一歩積み重ねてきた結果なのだ。結果というのは一朝一夕には出ない。成功するためには運も必要だが、運がめぐってくることさえ偶然ではなく、長い間の積み重ねがもたらす必然なのだと思う。<終わり>
2010.01.24
<きのうから続く>イタリア人振付師で、世界的な名声を確立した人はあまり思い浮かばない。振付はロシアとカナダの2大潮流のようなものが、これまでのフィギュア界では支配的で、重厚で深みのあるロシア的世界が評価されるか、洒脱で繊細なカナダ的世界が評価されるかは、そのときどきのトレンドによっていた。カメレンゴの作る世界は、そのどちらとも違う。高橋選手の「道」にはユーモアとペーソスがあるが、ロシア的悲劇ほどは重くない。重くはないが、ヨーロッパ的な深さがある。北ヨーロッパにもない北米にもないその独特な味が、今シーズンは稀有なスケーターを得て、一挙に花開いた感がある。他の有名振付師ほど量産態勢に入っていないから、これだけ個性の違う振付を精密に創作できたのかもしれない。今季はいわゆる「世界的振付師」の作品が、「レベル取りのための振付」「短所を補い長所を目立たせる、やや表現に偏りのある振付」になってしまっているなか、カメレンゴの振付は、そうした作為的なものをほとんど感じさせない、選手にとっては新たな表現の境地を切り拓く挑戦型でありつつ、かつ滑り込むことでここまで芸術性の高いものに仕上がってくる奥の深いものだ。振付師とスケーター、この2つの才能がうまく合致しなければ、ここまでの完成度は望めない。高橋大輔の「道」は、かなり冒険だったはずだが、今季フタをあけてみたら、予想以上の演技・構成点での評価を得た。昨シーズン高橋選手は、「道」のほかに「Ocean Waves」というカメレンゴ振付の作品をもう1つ用意していたはずだが、「Ocean Waves」がもしかしたら、音楽そのものがうねっているようなアボット選手の「オルガン」と似たコンセプトの作品だったのかもしれない。いずれにせよ、ここにきてカメレンゴ作品は、ライザチェック選手やウィアー選手のローリー・ニコル、デヴィット・ウィルソン作品以上のものだという評価を得た。つまりカメレンゴは、与えられたチャンスを活かしたのだ。成功する人間のパターンにうまく入った。これで彼の仕事が増えることは、間違いない。仕事が増えれば生活が向上する。実に結構なこと。プロフェッショナルは、そうやって道を切り拓いていかなければならない。成功するかしないかは、巡ってきたチャンスを活かせるか否か、結果のちょっとした違いにかかっている。そして、もう1つ。忘れてはならないのは、コーチ佐藤有香の評価が高まったということだ。全米選手権の際も、アナウンスでさかんに、アボット選手のコーチ、ユカ・サトウの名前が連呼されていた。ワールドジュニアチャンピオンとワールドチャンピオンの称号を2つもち、プロスケーターとしても活躍しているユカ・サトウ。彼女もアボット選手を全米2連覇に導くことで、コーチとしての結果を出した。しかも、今季非常に強いライザチェック選手を大差で退けた。この結果のもつ意味もはかり知れない。大事なオリンピックシーズンにアボット選手が佐藤有香につき、上手く行くのか行かないのか。良いシナリオと悪いシナリオがあったと思う。まず悪いシナリオ。それは昨シーズンの最後に、アボット選手が調子を落としてしまったことだ。全米選手権までは勢いがあったが、その後の国際大会では結果が出ない。オリンピックシーズンにコーチを替えるのは、得策でない場合が多い。しかも、佐藤有香は実績と経験の豊富なコーチではない。昨シーズンの悪い調子から立て直せず、今季ズルズルっと後退してしまう可能性もあった。良いシナリオとしては、アボット選手が昨シーズン調子を崩したのは、主に疲労が原因だったということ。試合での4回転は決まらないが、地力がないわけではない。また、アボット選手は非常に基礎のしっかりした選手で、エッジ違反や回転不足になりやすいジャンプといった克服すべき欠点がなかったこと。だから、もっている力をうまくまとめ、かつ佐藤有香のもつ高度なスケーティング技術を間近に見て吸収すれば、さらに高い次元にステップアップできる可能性があったこと。結果として後者になったと思う。これは新採点システムに移行してから顕著になってきたある特徴--実際に自分が滑ってお手本を示すことのできるコーチについた選手が強くなる傾向がある--の良き一例にもなった。モロゾフにせよ、オーサーにせよ、自分で滑ってお手本を弟子に見せることができる。以前のコーチはむしろ、もっと精神的な面で選手をコントロールできることのできる人が結果を出してきた。この傾向が変わり始めたことをハッキリ示したのは、荒川選手が、タラソワではなく、実際に滑ってお手本を見せてくれるモロゾフを選んだときだったかもしれない。モロゾフは、フィギュア全盛期の旧ソ連にあっては特別優れた選手ではなかったが、今現在、ときどきテレビで、怒号を浴びせながら安藤選手や織田選手にステップや腕の表現などのお手本を見せている映像を見ると、「ニコライ君、君が滑ってくれたまえ」(←急に上から目線)とショーの出演を依頼したくなるほどに素晴らしい。オーサーのほうは、キム選手とときどきショーで滑っていたが、膝を深く使い、体全体を大きく使った伸びのある滑りなど、ソックリだ。今季のアボット選手の「あくまでスケート技術に立脚した」表現力の向上にも、プロスケーターとしても現役で活躍している佐藤有香の存在があるように思う。事実、アボット選手は、佐藤有香の滑りを見て、弟子入りを決めたと語っている。なぜ、今佐藤有香なのか。それにも理由があると思う。不完全なジャンプを徹底的に減点し、所定の条件を満たしたエレメンツのレベル認定とその出来栄えで勝負が決まる今の採点傾向について、伊藤みどりは昨シーズン「規定(コンパルソリー)への回帰」と表現した。佐藤有香はコンパルソリー時代の選手ではなく、むしろ、ジャンプが決まらなければどうにもならなくなった「ポスト伊藤みどりの時代」の選手なのだが、そうしたなかでも正確で質の高い技術力で世界を制したといっていい。アボット選手の言葉を借りれば、「(現行ルールで)成功するためのすべてをもっているスケーター」なのだ。ジャンプというのはすぐに跳べなくなってしまうが、基礎のしっかりしたスケーティング技術はそうそう色褪せるものではない。現役時代の佐藤選手は、ルッツ、フリップをなかなかきれいに着氷できなかったが、そのかわりステップワークで会場を沸かせることのできる稀有な存在だった。ちょうど、1994年に伊藤みどり、クリスティ・ヤマグチ、佐藤有香の3人の世界女王が競った「チャレンジオブチャンピオンズ」という競技会の動画がある。画質は悪いが、三人三様の強さがよくでている動画だと思う。まずは「100年に一人出るか出ないかの天才」と解説の佐野稔が絶賛した伊藤みどりのジャンプ。驚異的な高さと飛距離だ。最後にスロー再生が出るが、トリプルアクセルにせよ、セカンドの3回転トゥループにせよ、これだけピタッと降りて、ス~ッと流れる降り方をされれば、ジャッジは絶対にダウングレードなどできない(もちろんこの当時ダウングレードなどという概念はないが)。完璧に回りきって余裕をもって降りてきているから、「ピタッ+ス~ッ」となり、佐野稔の言う「ランディング、つまりは降りた姿勢の完璧さ」が生まれる。キム・ヨナ選手もダウングレード判定に文句をつける前に、このぐらい完璧に着氷してみせてほしいものだ。多くの場合、「グルン」と回っていってしまったり、「ガッ」と氷のカスが飛び散るキム選手のセカンドの3回転は、Mizumizuにはかなり疑わしく見える。それにしても、伊藤みどりのジャンプを見ている佐野さんの興奮ぶり・・・「凄いッ!」「うまいッ!」と叫ぶのは、先のロシア大会でのプルシェンコ選手のジャンプを見たときのテンションにそっくり・・・(苦笑)。これだけ長く解説をやっているというのにも驚くが、1994年と2009年に、同じノリで叫んでるというのにも驚いた。進歩・・・もとい、老成せずにこれだけのアツさを保っているところが、佐野稔という人が天才だった証左かもしれない。今でこそ世界トップで競える男子選手が複数いる日本だが、1970年代に、「スタイルのよさ」がどうしてもモノをいうフィギュア界で世界相手に台にのぼるということは、佐野稔選手とはどれほど並外れた華の持ち主だったのかと思う。佐野選手の次に世界選手権でメダルを獲得した日本人男子選手は本田武史。その登場までには、実に25年もの年月を要したのだから。そして、クリスティ・ヤマグチ選手。彼女はジャンプの成功率も安定して高く、かつ表現力もある、非常にバランスの取れた選手だ。ことに手の表現が美しい。ひらひらと何かが舞い落ちる様子を片手で表現している部分などは秀逸。解説の女性アナウンサーは、「ヤマグチ選手は、スケーティングが非常にきれいですねぇ」などと言っているが、それは佐藤有香に対して言う言葉だと思う。同じ競技会で見ているのなら、一目瞭然だと思うのだが。アナウンス担当者が、「わかってないくせに、評判だけ聞きかじって適当なことを言う」のは、今も昔も変わらないらしい。しかも、その佐藤有香に対しては、「ステップは世界トップ。でもジャンプは得意ではない」などとわざわざマイナスのことを言って、佐野稔を憤慨させている。ステップも見事だが、佐藤有香は「ただ単に滑っている」ところがずば抜けてきれいな選手なのだ。膝の使い方の深さ、柔らかさは他の選手の追随を許さない。Mizumizuもショーを見に行ったことがあるが、佐藤有香はどんなに遠くにいてもわかる。滑っていると氷が柔らかく見える。そして、スタイル自体にはさほど恵まれていないにもかかわらず、滑る姿が非常にエレガントだ。スローにしてみると、エッジ捌きがいかに速くても、まるで氷をいたわるように丁寧にすべての動作をこなしているのがわかる。それだけではなく、スピンのポジションも正確で、かつスピンから出て行くときの足の位置、身体の使い方が素晴らしい。この動画で一番注目したのはスピンの部分。佐藤選手は柔軟性が飛びぬけているわけではなく、ビールマンスピンを試みて、「腰の骨が折れそうになった」と言っているのを聞いたことがあるが、ポジションを決めてきちんと回り、スムーズにフリーレッグの位置を換え、かつ丁寧に降ろして滑り始めるところまで、一切の無駄な動きがない。これこそまさしく、お手本のような動作だ。さらに腕を含めた上半身の動き。ヤマグチ選手のような個性はないかもしれないが、腕の動かし方からポーズの作り方まで、スピードのコントロールも含めて、すべて卓越していて、かつまったく嫌味がない。ときに細やか、ときに伸びやかな足の動きと連動しているのもいい。そして、顎から胸にかけての身体のラインには、流れるような上品さがある。これはフランス人の舞踏批評家が、「日本人の優れたバレリーナに、ほぼ共通して備わっている神秘的な魅力」として挙げている特長なのだが、不思議なことに佐藤選手もその魅力をもっていた。今なら安藤選手に、その魅力を感じる。顎から胸にかけての上半身に流れるような魅力があり、クイッと顎を突き出して腕を下から上に押し上げるようなポーズを取ると、その優美さが際立つ。今季の安藤選手の振付(特にステップの部分)をみると、モロゾフもそのラインの美しさを際立たせるポーズを、さかんに入れているように思う。<続く>
2010.01.23
今のルールではなかなか結果が出ない「理想追求型」のジャンプ構成。4回転を入れた「理想追求型」でもっともうまくいっている数少ない男子トップ選手がアボット選手だということは、すでに書いた。そして、とうとうそのアボット選手が全米で結果を出した。今季の世界王者かつファイナル覇者であるライザチェック選手に大差をつけての完全勝利。「優等生の出してくる試験答案は見ていて気持ちがいい」と、受験指導の教師はよく言うが、アボット選手のフリーのプロトコルもまさにそれ。最後のスピンのレベルだけが「2」に留まっているが、あとはレベルもほぼ文句なし。GOEも全要素でマイナスがついているのがたった1箇所。現在の男子のジャンプ構成の「まったき理想」は、プルシェンコ選手がつい先日ヨーロッパ選手権で見せた4回転1度にトリプルアクセル2度だといえる。トリプルアクセルを1度に抑えているアボット選手のジャンプ構成は、その意味では「まったき理想」とはいえないかもしれない。だが、プルシェンコは、案の定(?)ルッツが2回転になった。つまり、今の世界では、4Tを1つ、3Aを2つ入れて、かつ他のジャンプをすべてコンスタントに成功させられる力をもった選手はいないと言っていいのだ。アボット選手は、トリプルアクセルを1つにしているが、他の3回転ジャンプはすべて成功させた。ここまで4Tを入れずに結果を出してきたライザチェック選手はといえば、今回4Tを入れて、ダウングレード転倒、さらに2つではなく1つにした3Aからの連続もきれいに決まらず、普通なら跳べる3ループが2回転になって、しかも乱れた。つまり、ライザチェック選手も、4回転を入れることに連動する失敗のパターン、「次に難しいトリプルアクセルで失敗する。後半のいつもなら跳べるジャンプで失敗する」の2つに見事にはまっているということなのだ。正確には3A+2TはGOEだけのマイナスに留まっているから、「次に難しいトリプルアクセルで失敗する」のパターンからは、だいたい抜け出しているという見方もできるのだが。ライザチェック選手が4回転を入れるとこうなるであろうことは、想像できた。4回転をはずしても、トリプルアクセル2つをなかなかきれいに決められない。今回トリプルアクセルを1つにしたから、3Aからの連続ジャンプ3A+2Tをなんとか決めることができたが、これで欲張って3Aを2度にしていたら、もっとミスが増えただろう。アボット選手がついに4回転を決めて、かつ他のジャンプを成功させられたのも、決して偶然ではない。アボット選手はファイナルですでに、4回転は失敗したが、他のジャンプはすべて決めている。4回転を入れるとはまる失敗のパターンから抜け出していたのだから、今回の結果は階段を1つうまくのぼったということなのだ。だが、この1段をちゃんとのぼるのが非常に難しい。今回アボット選手がとうとう結果を出せたのも、彼がすでに過去に4回転を試合で決めた実績があること(2季前のワールド)に加えて、練習での4回転の確率がいい、つまり4回転を跳ぶ実力がもともと備わっていたからだとも言える。ここに至るまでのアボット選手は、非常に着実に階段をのぼろうとしてきた。2季前のワールドで、アボット選手は4回転は決めたが、他のジャンプがボロボロになった。そこで昨シーズンは、4回転を捨てて、他のジャンプをきれいまとめる作戦に出た。アボット選手は、ライザチェック選手やウィアー選手と同世代。常に注目されるこのアメリカの2強の陰に隠れて、それまで全米4位だったアボット選手の昨シーズン初めは、崖っぷちに立たされていたといっていいと思う。そして、昨シーズン前半、4回転なしで思った以上の結果が出て、アメリカ男子初のファイナル王者になり、勢いにのって全米も制した。この結果を出したあとに、アボット選手は4回転を入れ始める。だが、なかなか4回転が決まらない。そして肝心の世界選手権では、他のジャンプも乱れてしまい、惨敗。今シーズンは、コーチを佐藤有香に替えて練習環境も一新した。シーズン前半、4回転を入れての構成にこだわったアボット選手は、4回転をはずしてプログラムの完成度を上げる作戦できたライザチェック選手の後塵を拝することになった。だが、着実に「失敗するジャンプ」を減らしたアボット選手は、今回の全米でとうとう、「理想追求型」の高難度ジャンプが成功したときの強さを見せ付けた。全米フリーの演技は、以下の動画サイトで見られるが、http://www.youtube.com/watch?v=FM8zegmh9sc&feature=player_embedded今季Mizumizuが見た男子フリーの中でも、最も素晴らしいプログラムだった。音楽そのものが氷上でうねっているかのようなパフォーマンス。見ていて鳥肌が立った。アボット選手の個人演技史の中でも最高の出来。フリーの4回転も迫力があったが、ショートでのトリプルアクセルに入る前のターンとステップも驚異的だ。これぞまさに「独創的なジャンプの入り」。ジャンプのあとに、すぐにモーションが入るのも、これはきちんとジャンプを降りなければできないことなので、非常に高度かつリスキーな構成になっていることがわかる。「ジャンプが決まるとプログラム全体が非常に素晴らしくなる」と言ったのは、浅田真央とタラソワだが、アボット選手の密度の濃いプログラムにもそれがいえる。フリーの振付は高橋選手の「道」と同じく、イタリア人振付師のカメレンゴ。人生のドラマを巧みに表現した演技性の高い「道」に対して、音楽そのものを表現するこのアボット選手のフリーは、正直に言うと、これまであまりピンときていなかったのだが、印象ががらりと変わった。アボット選手は滑りはうまいが、さほど表現力に恵まれた選手ではないと思う。だが、昨シーズンと比べて、ショート、フリーとも表現力に抜群に磨きがかかった印象がある。ジャンプも表現も、確実に進歩している選手。実際のところ、こういうふうに言える選手がここのところいなくなってしまっている。結果を出すために大技を省いたライザチェック選手は、プログラム全体の完成度は上がったかもしれないが、必ずしもそれが「進歩」には見えない。リスクを避けてうまくまとめて点を伸ばす、というのは観ているほうにとっては、やはり物足りないのだ。ウィアー選手にいたっては、4回転をはずしても、トリプルアクセルが不安定で、かつ振付の傾向もあるだろうが、かつて全米を制覇していたころの線の美しさを活かしたバレエ的な高貴な雰囲気がなくなった。プログラム全体もスカスカに見える。アボット選手がジャンプを決めてしまうとさらにその印象が強まる。ショートは文字通り短いのでさほど気にならないが、フリーになると密度の薄さが目立ってしまうように思う。キム選手の振付に対しても、Mizumizuは同様の印象をもっている。要所要所のセクシーなポーズや音楽のポイントを抑えたちょっとした踊りでメリハリをつけてはいるが、全体的にさらっとしすぎていて、フィギュアスケートそのもののもつ醍醐味に欠ける。キム選手、ウィアー選手ともに、体力的にあまり恵まれたほうではないので、なんとか「省エネ」でいこうとする振付師の目論見が見えてしまうせいかもしれない。対照的にアボット選手は、ジャッジに向かって顔芸でアピールしたり、ステップの途中で止まって体を「妖艶に」クネクネさせたりはしないが、徹頭徹尾正統派のスケート技術で観客を魅了しようとする。上体を大きく使ってリズムをとらえ、深いエッジ遣いや細かいエッジ捌きで音楽のテンポを表現する。派手さには欠けるかもしれないが、通好みの極めてインテリジェンスな振付だ。要素間のつなぎも高度で、ただ単に滑っているところが少ない。知性と気品を感じさせるプログラムが少ない昨今、変に媚びない正統派の路線で、「これこそがフィギュアスケート」という密度の濃い振付と難度の高いジャンプを両立させた意義はあまりに大きい。今回の全米、アボット選手のフリーが1位、ウィアー選手が5位。演技・構成点では、アボット選手の86点に対し、ウィアー選手が77.34点と9点近く差がついた。技術点に関しては、89.75点(アボット)に対して、71.24点(ウィアー)と18.51点もの差がある。ジャンプ構成を落として、しかも失敗してしまうとこうなる。特に演技・構成点については、点差が妥当かどうかは主観によるので論じる意味はないが、ウィアー選手の「現状適応型」のプログラムのもつ弱さが、露呈した形になったと思う。ウィアー選手に関しては、どうも去年から「進歩」した印象がないのだ。ジャンプは明らかに後退してしまっているし、プログラムの振付は、個性には合っているが、好き嫌いが分かれすぎる。東京ファイナルのショートでのあまりに男娼めいたポーズには、正直辟易した。ああいった演技は、「アジアのある種の嗜好をもった女性ファン」には非常に受けるかもしれないが、それはそれだけのことだ。アマチュアらしい清潔感を捨ててしまうのは、ファン層をみずから狭めるだけの結果になりかねない。今回の全米では、ファイナルのときのような露骨なポーズは抑制されていたので、安心した。競技会はあくまで競技会。いくらフィギュアの試合が商業的な意味をもつとはいえ、お色気を競うショーにしてはいけない。ウィアー選手は、「妖艶な演技」に軸足がのりすぎている。その一方で、まだフリップにはアテンションマークがつき、4回転を捨てているにもかかわらずトリプルアクセルが2度きちんと入らない。こうした欠点をしっかり克服してオリンピックに来て欲しい。いくら層の厚いアメリカとはいえ、国内大会のフリーで5位まで落ちてしまっては、先行きが暗い。アボット選手のほうは、これだけ密度の濃い難しいプログラムを、ここまでミスなくできたのだから、言うことは何もない。あとはオリンピックでこの演技を繰り返すのみ。あの高度な構成を見ると、やはり相当にリスキーなプログラムだという印象は変わらない。今回のように滑ることができれば高得点が出るのは間違いないが、どこかで失敗すると、それが連鎖して全体が崩れてしまう可能性も高い。それでもこうして、徐々に完成度を上げてきている様子を見ると、オリンピック本番も過度に緊張しなければ、かなり期待できる。アボット選手は、むしろここで「もう1段ステップアップを」と欲を出さないことだ。本人にとって、ライザチェックをブッチ切っての今回の全米2連覇が大きな自信になったことは間違いないし、4回転を入れて、かつ他のジャンプも決めることのできる世界のトップジャンパーであることを内外に印象付けた意義も大きい。だが、それ以外にも今回のアボット選手の出した結果は、2つの重要な意味をもつことになると思う。まずは、振付師カメレンゴの名声が飛躍的に高まるであろうこと。なにしろ、高橋大輔の「道」と2本立てだ。それぞれまったくテイストが違うにもかかわらず、これまでとは一味違う選手の個性を引き出すことに成功した。フィギュアの振付で、もっとも注目されるのは、やはりシングルなのだ。高橋選手、アボット選手という世界トップクラスのシングル選手の振付を担当し、これだけ斬新な印象とともに高い点数を得たということは、カメレンゴ氏の人生にとっても今年は重要なターニングポイントになるだろうと思う。<続く>
2010.01.22
ある日――西荻から自宅に帰る道すがら、洒落たウィンドウディスプレイの帽子屋を見つけた。高低差をつけた支柱を窓際に何本も並べ、その上に、わざとランダムな方向に向けて帽子をのせている。そこだけが急にパリの街角になったよう。帽子も1つ1つ全部デザインが違い、少量生産独特の雰囲気が漂ってくる。窓越しに店を覗くと、商品を飾っているのはウィンドウと壁回りだけで、店の中央から奥にかけては布やら裁縫道具やらが雑然と並んでいる大きな作業机が占領していた。店舗兼工房ということらしい。なんだかますます魅力的だ。入ってみると、女性が1人。案の定帽子作家で、店内に飾ってある帽子は、基本的に自分でデザインして縫ったオリジナルらしい。わりあいオーソドックスなものが多いが、全体的に非常に質が高い。ふと目に留まったのは、ある黒い帽子。上のほうが膨らんだ扇形で、浅い庇がついている・・・形としては鉄道員の被っているような帽子を、庇を小さくして、柔らかく変形させたよう。額の上のところに片結びになったリボンが付いているのが、また洒落ている。被ってみるととても暖かい。「カシミアに別珍を合わせたものなんですよ」ちょっとレトロな雰囲気もあり、パリ風だなと思ったので、そう言うと、やはり50年代のフランス、郵便配達員が被っていた帽子からヒントを得てデザインしたのだという。その品自体は、試作品なので売れないが、注文すれば作ってくれるという。まさかこんな近所に、オリジナルデザインのオーダーメイドの帽子を作ってくれる工房があるとは知らなかった。さっそく頭のサイズを測り・・・「あら、小さいわ」などと驚かれ(頭は本当に小さいのだ。中身がないから・・・ほっとけ!)、「小さいわねぇ、どうしよう。ピッタリに作りますか、それとも普通にして、少し余裕をもたせましょうか・・・」と作り手が迷っているようなので、「少し大きくてもいいですよ。目深に被れば、耳のほうまで隠れて暖かいだろうし」と、こちらの希望を伝えた。森茉莉は「父の帽子」で、頭のデカい鴎外が、帽子屋で自分に合うサイズがなくて、バツの悪い思い――というより、ほとんど八つ当たり――をしているようすをユーモラスに書いているが、逆の意味で鴎外の気持ちはよくわかる。ニットならまだしも、普通の帽子を被ると、変に大きくてスポンと目のあたりまで来てしまうことがある。急に、大人のものを欲しがっている子供になったような場違いな気分にとらわられる。さて、オーダーしてからしばらくたって電話があり、おおむねできたのでリボンを付ける前に、合わせに来て欲しいと言われた。さっそく行って被ってみると、やはりちょっと大きい。風で飛ばされるようなデザインではないと思うが、もうちょっと小さくしてもいいかな、という感じ。だが、あまりピッタリした帽子は頭皮が痒くなる気がして(←皮膚のトラブルには常に悩んでいるMizumizu)好きでないので、このくらいのが返っていい気もする。結局、しばらくこのまま使ってみて、気になるようならサイズ直しをしてもらうことで話が落ち着いた。「リボンの素材はどうしましょう? 変えますか?」「何かよさそうなの、ありますかね?」「グログランなんか、どうかしら」壁際の戸棚の中から、魔法のように色々な素材のテープが出てくる。Mizumizuも、「こっちはどう?」などと指差して、あれこれテープを当ててみたが、結局サンプルのが一番ということに落ち着いた。そして、また数日待ち、出来上がったと電話が来た。だが、忙しくてすぐ行けなかった。間を置いて出かけてみると、が~ん!平日の昼間なのに、店が開いてない。この店、オープン時間が実に不定期なのだ。だから、長いこと店の存在に気づかなかった。ゆる~い西荻になんともふさわしいゆる~い店。店の机の上もごちゃごちゃのめちゃめちゃで、整理整頓はかなり苦手な人らしい(笑)。でも、売ってる品物はちゃんとしてる。そんなところも、まさに西荻のカラーの店だ。次は事前に電話をして、開いているのを確認してから出かけた。頭の部分のデザインも、この帽子が気に入った理由の1つ。黒のカシミアと別珍を交互に使って、この2つの素材の質感の違いがさりげなく、とても洗練されている。近づいて初めてわかる上質感だ。リボンが付いているのも、量感のアクセントになってバランスがいい。よくみると少しボーイッシュなデザインなのだが、リボンを添えることで、フェミンニンな雰囲気になっている。被ってみると、さすがにカシミアというべきか。破格に暖かい。今のように、酷寒の時期にはこの帽子が手放せない。普通よくある、耳まですっぽり隠れる冬用ニット帽の比ではない。実際に被ると、もっと扇形に上のほうが膨らんで見える。やはりちょっと大きいので、直してもらおうかな・・・と思いつつ、少し風が通るのが逆に暑すぎなくていいのかも・・・などとも思い、今のところそのまま使っている。ちなみにこの店、看板も出ていないのだが、Strawというらしい。帽子を作ってもらってから、名刺をもらって初めて知ったのだった。Straw杉並区西荻南3-22-7tel:03(3332)6292第二、四木曜、日曜定休日14時頃~19時まで開店(だということだが、これもアテにならないので注意)。
2010.01.17
荻窪で一番、それもダントツの人気を誇るPizzaの店がLa voglia mattaだ。駅ビル(ルミネ)の中という立地のよさがあるにせよ、ここほど行列のできる店は珍しい。すいているのは、午後の中途半端な時間。夕食どきになると、この行例だ。奥に見えるのが店の入り口で、そのすぐ前から横に並べた椅子が3列になっている。それでも座りきれずに、立ちっぱなしの行列が店の横に伸びていっている。どんな絶品のPizzaを食べさせてくれるのか? と思うかもしれないが、実際にはPizzaの基本――いい材料を使い、窯火ですばやくアツアツに仕上げる――に非常に忠実、という印象だ。荻窪には他にも石窯の直火で焼くPizzaを出す店があるのだが、クリスピーなミラノ風(ローマ風ともいう)Pizzaを出すこの店が、ほんのちょっと頭ひとつ分だけ、個性と味で抜けている。それともうひとつ特筆すべき点――La voglia mattaには、「割安感」があるのだ。この「ほんのちょっとの違い」を出すのが難しいし、維持していくのはもっと難しい。そして、食べたあとの支払いで感じる微妙なお得感とそれに比例して上がってくる満足度。その「ちょっとの差」が客足の違いとしてハッキリ出てくる。パスタ類は日本的な味付けで、あまり突出しているとも思わなかったのだが、この「イタリア風野菜スープ」には、ちょっとばかり唸った。見かけはあまりよくないが、イタリアのミネストローネはこんなもの。もっとゲ○っぽいのも多い(苦笑)。メニューにはZuppa di Minestraとあったが、要はMinestrone(ミネストローネ)だと思う。ミネストローネは野菜やベーコン、ときには豆など入れて、その旨みがスープに滲み出てくるのが美味しいのだが、やはりスープの基本になるのは、イタリア語でブロードと呼ばれるダシなのだ。La voglia mattaの野菜スープは、このブロードがタダモノではないと見た。Mizumizuがミネストローネを作るときは、そこらの固形のチキンブイヨンを使うのだが、そうした既製品では出せない、まろやかなダシの味がする。ブロードがダメだと、トマトソースの風味を強くしてごまかす。イタリアでもミネストローネはたいていこのパターンになっている。La voglia mattaはブロードの味がいい。ダシが飛び切りの味噌汁のようなもの。これはありそうでなかなかないのだ。こういう隠れた小さなところの違いが、人気のヒミツかもしれない。以前のエントリーではスペシャリテのPizzaをご紹介したが、シンプルなPizzaもとても美味しい。あまりいろいろな具がのっているPizzaを、基本的には好まないMizumizu。この日は、辛いモノ好き、サラミ大好き人間のMizumizu連れ合いの趣味に合わせて、辛いサラミののったシンプルなPizza。クリスピーな生地には、しっかり小麦粉の美味しさが詰まっている。外側はカリカリで歯ごたえがよく、真ん中は溶けたチーズと一緒になって少しねっとり。サラミは本当に辛く、チーズとの相性バッチリ。もちろんワインではなく、ビールと合わせる。荻窪でダントツの人気を誇る理由も、通ってみて頷ける、リーズナブルでシンプルで、気取りのない美味しい店。次は「4つのチーズ」にしてみようかな。あ、そういえば、基本中の基本であるマルゲリータも、ここではまだ食べたことがなかった。遠くから来る方は、夜はこの行例なので予約は必須。
2010.01.15
2010年1月23日(土)に公開される、ヒース・レジャーの遺作『Dr.パルナサスの鏡』。この作品、イギリスで宣伝が始まったときは、ヒロインのリリー・コールのヌードがやたらと強調されて、「もしかして、『アイズワイドシャット』みたいなテイストなのか?」と、やや引いていたのだが、日本の公式サイトでの宣伝手法は、一転して、ヒース・レジャーと3人のイケメン俳優たちの友情をまず表に出す、完全に女性狙いのものに変わっていて驚いた。日本ではとにかく、女性を動員しないとヒットにはならないらしい。というか、イケメン俳優4人のネームバリューで、女性を動員してヒットさせようということか。公式サイトの予告動画の日本語のナレーションを聞いても、ターゲット・オーディエンスが若い女性だということがハッキリわかる。まずは、ヒース・レジャーの未完の遺作をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが引き継いだという経緯を語る。実際にこの3人はギャラをヒース・レジャーの遺児に捧げるという無欲さで、この作品に参加した。彼らがヒースに示した篤い友情は、事実として非常に感動的なのだが、この日本向け宣伝動画は、そのあとが悪い。あろうことかたらたらと粗筋を説明したあげく、「大切な人を守るため、今鏡の中へ」と、陳腐すぎるキャッチフレーズで終わっている。これじゃ、まるでティーンの少女向けファンタジーのよう。どうしてよくある少女漫画的ストーリーの枠に当てはめたような粗筋解説をして、わざわざ映画を観る楽しみを半減させるのか。こういう「ネタバレ」を宣伝サイドが自らしてくる場合は、実際は物語がそれほどわかりやすくない場合が多い。だって、監督はテリー・ギリアムじゃないの。そんなに一筋縄でいくワケがないと思うのだが。英語のナレーションを字幕にした予告動画は、ずっと成熟している。この作品が「ファウスト」を下敷きにしたものであることをまず伝え、ちゃんと(?)テリー・ギリアム監督の不可思議な映像世界を前面に出したものになっている。あまりナレーションでベラベラしゃべらないし、映像と寄り添う壮大なクラシカルなメロディ――それはロシア風のワルツに始まり、レクイエムめいた合唱に自在に変調する――も効いている。日本語版では、陳腐なストーリー解説に合わせるためか、粋な映像もだいぶカットされてしまった。どうして、日本ではなんでもかんでもこう、幼稚でないものまで幼稚化させるのか。英語のナレーションの予告動画を見ると、「オルフェの鏡」のエントリーで予想したとおり、この作品、ジャン・コクトー的イメージがそこここに散りばめられている。ギリアム監督が直接コクトーに影響を受けたかどうかはあまり問題ではないと思う。「鏡通過」に代表されるコクトーの「幻視」は、特にハリウッド映画に大きな影響を与え、そこからさらに色々な国のさまざまな人の手によって「翻案」されているからだ。たとえば、ヒース・レジャー演じるトニーと一緒にしばしば登場する「小さな人」。小人を登場させて、「この世」と「この世ならざる場所」との境界を曖昧にしていくという手法は、コクトーが好んで使ったものだ。『悲恋』では、小人が主人公を死の世界へ導く水先案内人の役割を果たす。『ルイ・ブラス』では、小人が正装をして宮殿に仕えていることで、そこが実は「この世のどこにもない場所」であることを強く暗示する。だから、コクトー作品へのオマージュである『ロバと王女』(ジャック・ドゥミー監督)の宮殿でも、「小さな青い人」たちが、普通に働いている。コクトー作品がときどき、奇妙なほど予言的側面をもつことは、『双頭の鷲』のエントリーでも紹介した。コクトーはジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールが演じた詩人と女王を双頭の鷲になぞらえ、一方が死ねば、もう一人も生きられないと書いた。それから何十年もたって、ジャン・マレーが亡くなると(そのときはとっくにコクトーはこの世にいなかったが)、一週間もしないうちに、まるであとを追うようにエドヴィージュ・フィエールが亡くなってしまった。「鏡通過」が役者にとって縁起が悪いことも、ジャン・マレーが「私のジャン・コクトー」の中で書いている。それはメキシコで『オルフェ』の舞台劇を上演しようとしたときのこと。まず地震が来て劇場が壊れ、芝居は延期になった。劇場を修復し、いざ上演となったとき、オルフェを演じていた役者がいったん鏡を通過し、ふたたび出てくる前に、舞台裏で倒れ死んでしまったのだ。ヒース・レジャーが亡くなったのも、「鏡を通過」するこの作品を撮っている最中。『ダークナイト』での過酷なスケジュールと役作りで神経をすり減らし、私生活でのゴタゴタもあって精神的にまいっていたという報道はなされてはいたが、『Dr.パルナサスの鏡』予告動画でのヒースの笑顔を見る限り、死に至るほど深刻な問題があったとは、到底信じられない。もちろんテリー・ギリアム監督は、ジャン・コクトーだけでなく、古今東西に散らばるさまざまなイメージを巧みに取り入れている。そう、独創的な人は、常に幅広い知識人であり、優れた翻案家でもあるのだ。Mizumizuがまた特に目をひきつけられたのは、英語の予告動画にちらと出てきた、この場面。この挿絵の右上の部分。なんとまあ、ブリューゲルの「死の勝利」の一部そっくりいただいたものじゃないですか。下の人物画にもモトネタがあると思う。それがどの作品なのかはハッキリわからないが、ブリューゲルと同じく北方の画家の、おそらくテーマは「東方三博士の礼拝」だと思う。布の質感が北方絵画の特徴を示している。このブリューゲルの「死の勝利」については、こちらのエントリーで紹介したが、奇妙なほど、現在のCGで作り上げたファンタジーワールドに似ているのだ。『Dr.パルナサスの鏡』の小道具にブリューゲルの絵画を忍び込ませたのが監督のアイディアなのか、美術スタッフのアイディアなのかは知らないが、恐らくブリューゲルやボッシュといった中世末期の画家の作り出した奇怪なキャラクターは、現代のアーティストにも強く訴えてくるものがあると思う。いろいろな意味で、観るのが楽しみな『Dr.パルナサスの鏡』。各国の映画のポスターを紹介したこちらのサイトも興味深い。この独特な映像世界のどの部分をクローズアップして宣伝するのか? 日本はあくまで、スター俳優中心主義。黒と白を基調にして、中心の鏡の中だけに色をちりばめた色彩構成は、とても洗練されている。ちょっと地味かもしれないが、上品なデザインだ。しかし、ヒロインのリリー・コールと、大注目の配役であるトム・ウェイツの名前さえないというのは・・・ トム・ウェイツが演じる悪魔メフィスト、それだけで胸が高鳴る人も多いと思うのだが。ここまでイケメン俳優の名前を繰り返すのは、日本だけなのでは。作品の内容や質よりも、まずは、役者の「顔」で観客を集めようという今の日本の風潮をよく表している。個人的に好きなのは・・・リリー・コールが抜群に美しいこの1枚。さすがおフランス。リリーの少し獣めいた瞳が印象的だ。ヌードで釣らず、明るい髪によく映えるクリームイエローのドレスを着せているところもオシャレ。指のニュアンスもいい。やはりヒロインをヒロインとして正当に扱って欲しいものだ。このごろの日本は何でもかんでも女性客狙いのイケメンパラダイス作品ばかりで、憧憬の偶像としてのヒロインがいなくなってしまった。この作品では、ヒロインが魅力的に描かれているんじゃないか――その部分にも、実はMizumizuは期待している。しかし・・・『ブロークバック・マウンテン』では、ある意味、ヒース以上の評価を受けたジェイク・ジレンホールはどうしたのだろう?ヒースが亡くなったときに撮っていたBrothersは、12月にアメリカで公開されたはずで、日本でも公開予定と聞いたのだが・・・いつ?ネットでの匿名ファン投稿が口さがなく、心ないのは万国共通だが、ジェイクがヒースの葬儀に表立って参加しなかったことで、英語の掲示板にも、「葬式にも出ないなんてなんてやつ。親友なんてウソだろ」「どうせ仕事だけの付き合い。友情はただの売り物」などとさかんに書き立てられ、気の毒このうえなかった。実際には、ヒースが急死したときには撮影を中断してNYに行っているし、東海岸から西海岸に移ってヒースのお別れ会があったときも、表にこそでなかったが、行っていたのは明らかだし(街中で写真を盗み取りされている)、オーストラリアでの最後のお別れ会のときも、表に出てきた母親ミシェルにかわってヒースの娘のマチルダの面倒を見ていたのは名付け親のジェイク以外考えられない(マチルダちゃんだけが顔を出さず、他のヒースの家族は全員出席)し、つまりは、アメリカからオーストラリアまでずっとヒースにくっついていた状態なのに、「表に出てこない」からといって、非難されるとは・・・出てきたら出てきたで、今度はメディアが無遠慮にカメラを向けてプライバシーを侵害するのは目に見えている。「葬儀に出られないほど辛いのでは?」と掲示板に書いたファンが一人だけいたっけ。ああした書き込みが救いだ。
2010.01.13
殺人的なスケジュールだった12月。1月になったら気が抜けて、仕事のペースがガタンと落ちた。それでも、相変わらずコンスタントに仕事が入り、「南の島で休暇」というささやかな(?)夢がまた遠ざかる・・・12月に何か請求し忘れている案件があるような気がしていたが、案の定だった(苦笑)。新しく仕事が来て、そのクライアントさんへ12月の仕事の請求をし忘れているのに、そこで気づいた。額が小さかったせいか、完全に抜けていて、チェックしたつもりでも気づかなかった(クライアントにとっては好都合?)。おまけに6月から12月の外注費の源泉預かり金が、税理士事務所で計算してもらった数字と合わない。それも250円。イライラしながら、在広島の事務所と何度か電話でやり取りし、やっと間違いを見つけた。ミスしていたのはMizumizuのほう。数字には基本的にヨワいMizumizu。もともとこの手の作業には向いていない。向いていないが、いい加減に済ませることができない性格なので、ちょっとでも数字が違うと、「ま、いいや税理士のほうが正しいだろうし」という気になれずに、双方の計算をチェックしないと気がすまない。ごくたまに税理士事務所側の勘違いもあるのだが、だいたい間違っているのは、Mizumizu。自分が間違っているたびに、税理士事務所を巻き込んでひと騒動になる(←迷惑なクライアントだなあ)。250円ぽっちの数字が合わないために、何時間も無駄にした。電話代だけで250円を上回っているのは必至。この源泉預かり金、1月20日までに納めなければならず、毎年大いにムカつかせていただいている。ムカつく理由はただひとつ。 「何でひとさまの税金をこっちが預かって、納めなけりゃならんの!」源泉徴収という日本独特――独特かどうか、世界中の税金システムを知ってるわけではないのでハッキリ言えないが、少なくともアメリカにはないはず――のシステムのおかげで、毎年毎年、実に多くの無駄な労力と経費が使われていると思う。企業側にしたら、源泉預かり金の計算と納付という手間。そのために人件費もかかる。源泉されるほうの手間はたいしたことはないと思うが、自己申告にもとづいて還付される場合が多いハズで、そのための事務処理と膨大な銀行の手数料がかかる。個人が追加で税金を納める場合もしかり。こうした手数料は国持ちとはいえ、それはもともと税金。銀行ばっかり、やたらもうかるシステムだと思う。小耳に挟んだ話なのだが、この天引きシステムは、軍国主義の時代、税務署の職員が軍人の家に税金を催促に行くと、刀を手に払わないとスゴまれ、困った役人が考え出したもので、そのときに主導的な役割を果たしたのが宮沢喜一だったそうな。へ~ X 3どうも「帝国軍人」を悪者に仕立てあげたいがために、誇張されたエピソードという気もしないでもないが、そんな昔に作られたシステムがいまだに続いているのにウンザリする。経営者側から、「源泉徴収やめようぜ」的意見が発せられることもあるが、言ってるのはたいてい起業家、つまり新しく企業を興した人だ。大企業のトップが源泉無駄論を吹いてるのは、あまり聞かない。もう「そういうもの」として定着しているということなのか。あるいは、「預かり金」を銀行にプールしている間に利息がつくので、それが大企業となれば膨大だろうし、案外「もうかってる」部分もあるということか。これは消費税についてもいえる。しかし、こうまで企業側に面倒な事務作業を負わせ、いったん企業から納めさせた税金を、国から個人に還付するなどという二重の無駄な作業をしても、なおペイするシステムなんだろうか、これ。つまり、源泉をせずにすべて自己責任とし、脱税に厳しく対処するという(これはアメリカ式システムだと思うが)労力に比べると、とりあえず取りっぱぐりはない源泉徴収にしたほうが、総体的に見て経費が安くあがり、かつ適正な税収を得られるのだろうか。よくわからないが、どうもそういうマクロの視点からは議論がされていない気がするし(まあ議論しても、どっちが効率的か結論は出ないかもしれない)、財務省と銀行の癒着という面もあるように思う。ひとさまの税金を預かって納める側からすれば、額が大きいだけに、その数字を見ただけで少々ムカつくのだ。つまり、もともとは預かってるお金なのだが、イザ自分の懐から出て行くとなると、「自分が払っている」ような、損した気分になるということ。これは消費税を払うときも同じ。消費税は別に請求しているので、もともと払ったのはお客さんのほうなのだが、イザ自分が払う段になると、「こんなに払わないといけないわけ?」などという気になる。この2つは気分的なものだが、日本中で源泉預かりに絡んで支払われる労力・経費は、集合体で考えると、壮大な無駄だとしか思えない。
2010.01.09
東京で最中の美味しい店といえば、皇室御用達の虎屋、銀座の空也、吉祥寺の小さざ・・・などが思い浮かぶが、本郷の壷屋もはずせない。寛永年間に町民が開いた最初の江戸根元菓子店で、明治維新の折、お世話になった徳川家の終焉とともに一度は暖簾を下ろす決意をしたものの、勝海舟から、「市民が食べたいと言っているから続けるように」と言われて、店を再開したのだという。保存料の類が一切入っていないので、日もちは3~4日。一口食べて、「美味しい~!」と叫ぶようなインパクトはないが、餡の柔らかな甘さがクセになり、何度でもまた食べたくなる味。こちらが名物の「壷最中」。薄手の皮の中に、はみださんばかりの(というか、実際にはみだしている)餡が入っている。白が漉し餡で、茶色がつぶ餡。茶色の皮のほうは、かすかにおこげの風味があって、何と言うか野性的な最中だ。亡父もここの最中が好きで、亡くなる2ヶ月前だったか、オランダ人相手のパーティに持参していた。同行しなかったので、オランダ人の反応は知らないのだが(父によれば、「好評だった」というのだが・・・ホントかなぁ・・・)、昔はガイジンが苦手な日本の甘味といえば、餡子が相場だった。今はみな少しは食べられるようになったのだろうか。普通の円い最中もある。皮は壷形の最中より厚めで、餡の量も少ない。普通はつぶ餡を好むMizumizuなのだが、壷屋の最中に関しては、上品な漉し餡のほうが気に入っている。こちらはどっしりした壷最中と対照的に、とても小さな「壷壷最中」。創業当時の品物を再現したのだとか。皮と餡のバランスで言ったら、個人的にはMizumizuはこれが一番好きかもしれない。サイズが小さいのもいい。本場・上方の洗練された色とりどりの和菓子に比べると、上菓子(東京の和菓子)はどうしても見劣りするように思う。壷屋の上菓子も、一見ルックスが素朴すぎて、「大丈夫か?」と思わないでもないのだが、実際に口にしてみると、あまりに自然でとてもやさしい味。写真は「鶴」だそうな・・・ うさぎかと思った(笑)。中の白餡の風味は、何度でもリピートしたくなる。これぞ手作り。きんとん(と店の人は言っている)の下に餡入りの求肥餅が隠れている、凝った上菓子。これもMizumizuお気に入り。この本郷の壷屋は、かなり「知る人ぞ知る」店だと思っていたので、ちょくちょくフランスの美味しいものネタを仕入れに(仕入れているだけでいっこうに行けないのだが)伺っているPARIS+ANTIQUEさんのブログに突然、ここの最中の写真が現れたときは、心から驚いた。もともとこちらのブログと縁が出来たのは、「タルトタタン発祥の町ラモット・ブーヴロン」を個人で訪ねたあと、「こんなフランスのド田舎までわざわざ来る物好きって、きっと私だけだろうなぁ・・・」と思ってブログ検索してみたところ、パリから電車を乗り継いで訪ねただけでなく、タルトタタンの食べ歩きまでしたというド根性エントリーを見てビックリしたのがきっかけ。Mizumizuがホールでタルトタタンを買った、「Jack Lejarre(ジャック・ルジャル)」というお菓子屋も売り子のおば様つきで写真が載っていた。なぜか不思議と嗜好が合い、「ヴェネチア一のレストランを紹介します」とあって、どこを選んだのかな? と思ったら、なんとMizumizuが一番贔屓にしている「マドンナ」だった。ヴェネチアには他にも高級レストランがあるのだが、値段がお手ごろで美味しいこのトラットリアが気に入って、いつもヴェネチアを訪ねると入り浸りになる。ヴァポレットを降りたらリアルト橋をわたって、左へ。そして最初の角を右へ(ここの路地をふさぐように他店がテーブルを出していて、マドンナを探してウロウロしている観光客を強引に座らせ、ぼったくるらしい)。薄暗い路地の左にある、いつも混んでるマドンナ。しばらく行っていないが、贔屓だった店が相変わらず美味しいと聞いて、嬉しい気分になった。本郷の壷屋にしろ、ラモット・ブーヴロンのジャック・ルジャルにせよ、ヴェネチアのマドンナにせよ、店の規模は小さいが、時代の荒波を超えていけるだけの「強い翼」を持っている。グローバル化が進む世界の中で、小さくしぶとく生き残るための知恵。奇をてらうのではなく基本に忠実に、「美味しい」と言われた味を落とさずに続けていく努力だ。壷屋は本当に小さい店だ。知らなければ(いや、知っていても)うっかりしていたら通り過ぎてしまいそう。店の中も薄暗く、古っぽく、雑然としている。あえて店のしつらいにお金をかけないというのも、品質勝負の店ではいい選択かもしれない。
2010.01.08
1月3日に、東京ミッドタウンに行ったとき・・・スケートリンクの工事が急ピッチで進んでいた。1月6日から期間限定で一般利用が可能になるという。ただでさえ寒い1月だが、このあたりはビル風がすごく、立っているだけで顔が冷たく、切れそうになる。リンク下の施設にペンキを塗っている職人さんも、ご苦労なこと。明らかにNYのロックセンター前のオープンスケートリンクのイメージ。VWロゴが思いっきり目立つところに張られていた。フォルクスワーゲン社がメインスポンサーになっているということだろう。輸入車はどこも苦戦している昨今だが、フォルクスワーゲンだけはメゲずに宣伝攻勢をかけている感がある。いつだったか日本橋の三越で試乗会をやっていて、気がついたら誘われて乗っていた(笑)。メルセデス派のMizumizuは、乗り味の面でちょっと満足できなかったのだが、ハンドルを握ったMizumizu連れ合いには、思いのほか好印象だったらしい。フォルクスワーゲンは、メルセデス、BMW、アウディの三強に比べるとぐっと庶民的で、そのわりにはドイツ車らしいしっかり感もちゃんとある。とにかく(メルセデスに比べると)値段が段違いに安いし、そのわりにはいいクルマだ。フォルクスワーゲンとは、もともと「国民(大衆)のクルマ」という意味。メンツにこだわらなくてすむ分、今がチャンスと攻勢をかけているのかもしれない。不況のなか、頑張ってこうしたイベントのスポンサーになってくれるのはありがたいことだと思う。しかし、このスケートリンクは、まごうことなき吹きっさらし空間。「ここで滑るのは寒いね~」と、Mizumizuが言ったら、長野育ちのMizumizu連れ合い、「寒くなきゃ氷張らないんだから、当たり前でしょ」彼の田舎では、田んぼに水を入れて凍らせてリンクにしていたらしい。しかも学校の正規の授業に(スピード)スケートがあったとか。この話、聞いたときはかなりたまげた。田んぼでスケート? マジですか? 長野では常識なのだろうか? だとしたら、もっとたまげる。Mizumizuの記憶にある野外のスケートリンクは、小学校にあがって連れて行ってもらった、須走のスケートリンク。富士山がすぐ近くに見える、広大な(と、子供のころは思ったのだが、実際はどうだったのだろう?)スケート場だった。床も壁も、そして机も椅子も全部木でできた休憩所は、ひどく薄暗かった記憶がある。ギシギシ言う床を踏みしめて歩き、リンクに出ると、ぱあっと半透明の白の世界が大きく広がった。須走のスケートリンクが原体験なので、その後、屋内のスケートリンクに行くと、あまりにも狭く、人がひしめいているように見え、怖く感じたものだ。東京のど真ん中にできた上品な屋外スケートリンクも、とても狭い。利用料金はかなりリーズナブル。どれくらい人が来るのかな。ビル風に追い立てられるように、ミッドタウンの中に戻った。和のテイストを取り入れた吹き抜けは、配された素材の色調や質感、それに照明や自然光の採り込みかたを含めて、その空気感が唯一無二。1月5日にはこのスケートリンクのメディア向けの発表会があるということだったので、「また荒川静香?」と思ったら、案の定だった(動画はこちら)。クールビューティに負けず劣らずの美貌の持ち主、浅田舞も登場していた。タレント性では妹を凌ぐ才能をもっている人なので、また新しいフィールドで輝いて欲しい。
2010.01.07
1メートルほどのラズベリーの苗木を植えたのが4年前。最初の収穫時期(初夏)に、1日数個取れる状態が続き、ラズベリー好きのMizumizu連れ合いはホクホク。翌年は、剪定をせずに放っておいたら、葉っぱばかりあちこちから繁茂したが、実はならなかった。それで適当に剪定したら、次の年(それはつまり、昨年なのだが)には6月頭から実が成りだした。7月中旬にいったん終わったのだが、10月ぐらいになって、また食べられそうな実がつきはじめた。最初の年は初夏にしか収穫できなかったので、知らなかったのだが、ネットで調べたら、ラズベリーは年に2度実をつけるのだという。へ~ X 3初夏のころのように「次々と」熟してくるということはなく、実も初夏のときのようにきれいな形にならないものが多いのだが、それでもゆっくりしたペースで、数日間獲れない日が続いたあと、1日1個か2個食べられる実が獲れるという状態が続いた。雨のあとに実が急に熟すのは、初夏のときと同じだった。冬に入ると実が熟すペースはさらにゆっくりになり、熟しきらずにしぼんでしまうものも増えたのだが、それでも、12月になっても、やっぱり週に何度かは獲れるのだ。寒さが進み年末になってくると、大きく分かれた枝のほとんどは、先のほうまで枯れてきた。1本だけ、テラスのほうに伸びてきていた枝だけが葉も何枚か緑で、弱々しく熟そうとしている実をちらほらつけている。そして、1月6日。おそらく最後の収穫になりそうな実が獲れた。形はいびつだが、これでも冬に入ったあとのラズベリーとしては整っているほう。他にも少し赤くなりはじめているのもあるのだが、おそらく熟しきる力はなさそうだ。しかし、一般的には6月中旬から7月、9月下旬から10月が収穫時期と書いてあるラズベリーが1月に入っても、まだ獲れるとは・・・さすがにヒートアイランド東京、と言うべきか。そういえば、東京では蚊が越冬しているという噂がある。ここらあたりでも、11月までは蚊は確実に飛んでいる。
2010.01.06
<きのうから続く>テレビで紹介されていた職人。それはおあつらえむきに、陶磁器の割れやヒビの修理を専門にしている人だった。もともとは骨董商で、独学で陶磁器の修理を学んだという。最初は同業者からの依頼がほとんどだったのが、だんだんと一般の人からの注文も増えたのだとか。「六屋」という工房を文京区にかまえているらしい。「案外、愛着があるから直してまた使いたいという方が多いんですよ」職人の言葉は、Mizumizuの思いそのままだった。「金継ぎ・銀継ぎ」という手法を使うとかで、テレビで説明されていたのだが、「???」とにかく、非常に細かく、凝った作業をやるらしい。さっそく、行って相談することにした。もともと文京区千駄木が本籍地のMizumizu。六屋工房のある小石川のあたりは、なんとなく懐かしい場所だ。クルマが轟々と通る春日通りのビルの1階。道すがら窓ガラス越しに覗いても、古っぽいものが雑然と並んでいて、何をやっているのかよくわからないような店だ。入っていくと、目指す職人さんは、部屋をパーティションで区切り、わざわざ「隅っこ」のほうに応接セットと作業用の机を置いて、そこに座っていた。入り口に近い空間は・・・外から見たとおり、古っぽいものが雑然と並んでいて、ただ単に無駄なスペースになっている・・・ような気がした。しかも、無駄にしてる空間のが広い・・・変わり者の雰囲気ムンムン・・・(苦笑)。隅っこに置かれた応接セットに、うながされて座り、パキーンと見事に2つに割ってしまったリモージュのソーサーを見せた。「直せますかね?」「う~ん」唸りながらひっくり返して見ている。「模様はあまりないんですね。ほとんど白か」「そうですね。ですから、継ぐだけでいいんですけど」「どのくらいまで元通りになるか、わからないけど・・・」「まあそのへんは・・・もちろん新品みたいになるとは思ってませんから」「これだと、昔ながらのやり方ではなくて、化学的な接着剤を使ったほうがよさそうですね」は? 化学的な接着剤? もしかしてそこらのセメンダインの類ですかね? 金継ぎナンタラとかは、関係ないわけで?「実際にかかる時間は、もちろん、すぐなんだけど・・・少しイメージトレーニングしてからやりたいから」は? い、イメージトレーニング? 「しばらく預からせてもらっていいですかね?」「どうぞどうぞ、いつでも気分が乗ったときで(←これは大事だ)。できたらご連絡いただければ。別に急ぎませんから(←職人はせかせてはいけない)」そんな話のついでに、「どこからいらしたんですか?」と聞かれたので、杉並だと答えると、「ぼくも杉並にいたことあるんですよ」とのこと。ちょうどそのころMizumizuは家(新築・中古を含めて)or土地orマンションを探していて、馴染みのある文京区も当たっていたのだが、不動産は杉並よりやはり一段値段が高かった。そう言うと、驚いたように、「へええ? そうですか? 文京区のが高いんだ」などと言う。「・・・」文京区はいわゆる「山手線の内側」で、江戸時代から将軍のお膝元。武家屋敷跡地が高級住宅街になっている。それに比べれば杉並なんて、もともとは別荘地として不動産開発が始まった。不動産価格がどっちが高いか、普通の感覚でもわかりそうなものだし、ましてや両方に住んだことがあるというのに、気づいてないって・・・商いにはむいておへんな(←どこの言葉?)。職人になってよかった。ぬぼ~っとした風体もやっぱり、ホントに骨董を商ってたんどすか?間違いなく地味な職人作業が向いている人だ。だいたいの見積を聞いて、もちろん十分に良心的な言い値だったので、そのまま預けてきた。1週間もたたずに、「できましたので」の電話があり、取りに出向くと、「化学的接着剤」で「イメージトレーニング」して、仕上げたらしい修理は思った以上に見事にできていた。接着剤が漏れているわけでもなく、ぐるりの模様がズレてるわけでもない。遠目には割れ目さえわからない。「おお~!」と、感嘆符のあとに、さらに丁寧にお礼を言おうとしたのだが、なんだか照れたようにすぐ向こうを向いてしまって、「よろしいですか?」の言葉もない。最初の日はわりに饒舌だったのに、どうしちゃったんだろう。社交的なのか内気なのか、よくわからない人だったが、仕事にも値段にも満足して店を出た。それをちゃんと口で伝えられなかったのが残念だったのだが、向こうを向いてる人に、しつこく話し続けるのも変だしね。これが現在のソーサーの割れ目。かなり拡大して撮って、やっと手前から向こうに一直線に縦に走っている割れ目が写った。肉眼だと、よっぽど目を近づけてみて、「ヒビかな?」と思う程度。ヒビどころか、真っ二つだったのですよ。使っている間にコーヒーの液が入り込んで、割れ目が目立つようにならないかな・・・と懸念していたのだが、案外大丈夫。裏は多少カケが目立つ。なんだか、それこそ骨董品みたい(笑)。割れてしまったものは割れてしまったものだが、あえて自分の足で直しにいったことで愛着は深まった。別に売るわけではない、使い倒すつもりで買ったモノなので、それで十分だと思う。こちらはお揃いのデザートプレート。金彩がやはり、少し剥げてきている。これは割らないように気をつけよっと。
2010.01.05
陶磁器が好きなので、焼き物で名高い街に行くと、思い出に食器やカップ類をいくつか買うのが習慣になっている。あまり高いものは買わない。せいぜい数万レベル。磁器の食器は平気で10万、50万とするものもあるが、そういうランクになるとキズついたり、色が剥落したりするのが怖くて使えなくなる。緻密なハンドペインティングだとか、金彩が場違いに華やかなものだとか、買ってもコレクションとして眺めるだけになる陶磁器にはあまり興味がなくて、Mizumizuの目的はあくまで日常に使えるもの。それをあれこれ迷いながら、窯元あるいは窯元に近い街で選んで歩くのが好きなのだ。日本ならまだいいのだが、個人で海外旅行しているときはやっかいだ。旅の途中で割れ物を買ってしまったら、最後まで自分で持って歩かなければいけない。「大丈夫かな? 割れてないかな?」と常に心配になるのがストレスだし、といって確認のために梱包を解いてしまったら、あとがもっと面倒だ。それでもやはり買ってしまう。フランスのリモージュを訪ねたときも、気に入るものがないかいろいろと店を見て歩いた。ハッキリ言って、リモージュの街での磁器探しは、期待したほど楽しくはなかった。窯元があるわけでもなく、ショップも案外大量生産モノを置いているところが多く、白一色のダイニングセットなど見ると、「これじゃ、ノリタケと変わらんじゃん」と心から叫びたくなった。ノリタケがリモージュのマネをしたのかもしれないが。ともかくリモージュは、磁器を扱う店は多いのだが、どこも似たり寄ったり。日本のデパートに入ってくるリモージュは、それなりに「おフランスっぽい」ものが選ばれているが、現地で見たら、わりあい「どこにでもあるふつー」の磁器が多かった。なんというか、これなら何もリモージュくんだりまで来る必要はない。パリのデパートで十分じゃないかと。焼き物の街という意味では、有田や伊万里のほうがずっと雰囲気がある。リモージュの国立陶磁器美術館も思いのほかレベルが低い。リモージュで磁器産業が始まったのは18世紀末。肥前磁器の始まりは17世紀初頭。その差がいかに歴然たるものかを確認する結果になった。それでも、街の中心の広場に面したHaviland(アヴィランド)直営店は品揃えも質もよく、ここで気に入ったデミタスカップ&ソーサーとデザートプレートを2種類買った。アヴィランドはリモージュ土着のメーカーではなく、ノルマンディーに起源をもつ(と自分たちで主張する)アメリカ人貿易商が作った会社だ。そのせいなのか、アヴィランドのリモージュ焼きは、東洋風のもの、いかにもフランスらしいロココ風のもの、そして超モダンでスマートなものまで、デザインの選択肢が非常に広い。「外部からの風」と採り入れることに躊躇がない。東洋風のものは「シノワズリー」と呼ばれる中国趣味のものから、ヨーロッパで一世を風靡した「柿右衛門」カラーを採り入れた和風なものまで・・・・・・というか、実際にはそのフュージョンになっていて、中国の磁器とも日本の磁器とも違う、フランス的解釈の不思議な東洋が器になった、という印象。ロココ風のものは、ルイ絶対王政時代を彷彿させる豪華絢爛な金彩を特徴とするものと、可憐で華やかな花模様とに大別できると思う。リモージュ焼きは花柄デザインをマリー・アントワネットのイメージとくっつけて、うまく商売をした感がある。オーストリアから輿入れしてきた美貌の王妃を、自分たちの手で首チョンしておきながら、今ではフランスのプロモーションに思いっきり利用している。実に都合のいい人たちだ。「悲劇」が、常に最高の商売のネタになるのはいずこの国も同じこと。さて、アヴィランドで意外と充実していたのは、現代的なすっきりとしたデザインのものだった。これにも案外心惹かれたのだが、モダンなものなら日本製にもあるし、やはりリモージュ焼きを買うなら、徹頭徹尾フランス風のフェミニンなものがいい。というわけで、選んだのが、「ヴァルドロワール(ロワール渓谷)」と「ヴィウパリ・ヴェール(旧きパリ、緑バージョン)」という、いかにもフランス的なネーミングの2品。りっぱな店構えの高級店だったが、日本人がいい客だと知っているのが、売り物を棚から自分の手でおろしてじっくり選んでいても、齢おそらく60歳超のマダムは、何も言わずに脇でニコニコしていた(でも、かなり笑顔が引きつっていたので、内心、「割らないでよ、割らないよ」と念じている雰囲気はビシビシ伝わってきた・笑)。「自分で日本に持って帰るので、丁寧に包んで」と英語で言ったのだが、全然通じない。すると奥に引っ込んでわざわざ英語のできる若い女の子を連れてきた。こういう丁寧(というか、ま、日本のレベルなら当たり前のことだが)な接客は、フランスでは珍しいので印象に残った。これしきのことで好印象の店になるってのが、フランスの凄いところだ。同じことを英語のできるお姉さんに言うと、「もちろん、もちろん。気をつけるわ」と胸を張りながら、ごくごく普通の梱包をしてくれた。愛想のいいマダムは、最後まで笑顔全開。翻訳すると、「できればもっと買って欲しい」というところ(意訳)。よっぽど売れないのだろうか、リモージュ焼き。日本でも高級磁器は苦しいと聞くが、いずこも同じかもしれない。だが、こういう「人との思い出」ができるのが、旅先の買い物の楽しさだと思う。店に個性があるように、売る人にも個性がある。それがおもしろい。最近はそういう「人の顔」が見られる店が、特に日本では、少なくなってしまったが。リモージュを発ってクルマで中部フランスを回り、パリ経由で日本に帰って来た。自宅で梱包を解くときはドキドキする。よかった。割れてない。リモージュ焼き全般に言えることだが、地の白が青ざめていて、透明感がある。温かみには欠けるが、何ともいえないクールさが上品で貴族的だ。Mizumizuはなぜかデミタスカップの円筒形が好きで、気がつくと家中デミタスカップばかりになっている。普通のコーヒーカップが非常に少ない。デミタスカップの形なんて、どれも同じなのだが、その同じ、小さな円筒形に、違ったデザインが施されているのを見るのが楽しいのだ。リモージュで買った2種類のデミタスカップとプレート。使ってみると、どちらかというとヴィウパリ・ヴェールのほうが好きになってきた。ヴァルドロワールのほうは、寒色のニュアンスのある地色に、寒色のブルーを基調とした柄なので、これでデザートを食べると、かなり「寒い」感じになる。ヴィウパリ・ヴェールのほうが使用頻度が増えた。で・・・割れ物の運命の瞬間が、1年とたたずにやってきてしまった。つまり・・・洗ったあとにシンクにうっかり落としてしまい・・・パキーン!デミタスカップのソーサーが、まっぷたつに割れてしまったのだ。「わ~!!」と、大声をあげたのは、たまたま一緒にキッチンにいたMizumizu連れ合い。Mizumizuがヴィウパリ・ヴェールをとても気に入ってると知っているので、必死に慰め始めた。ショックのあまりMizumizuが暴れると思ったらしい(?)。だが、割ってしまった本人のほうは、誰のせいでもないし、わりあいあっさりと、がっくり・・・しただけだった。もうちょっと使いふるしてから割りたかった。いや、そりゃ、できれば永遠に割りたくなかったが。しかし・・・きれいに2つに割れていて、そのままくっつけたら使えそうだ。セメンダインで貼り合わせてみようかと連れ合いとも相談したのだが、素人がやったって、きれいにくっつくわけがない。割れてしまったものは割れてしまったものだし、ソーサーなしでカップだけ使うしかないかな、と思いつつ数ヶ月放置・・・しておいたら、神の啓示か、テレビである職人が紹介されているのを見た。<明日に続く>
2010.01.04
あったのかなかったのか、それすらもはや分からないMizumizuの正月休み。大晦日と元旦はとりあえず仕事はしなかったのだが、ぐったりしていて、何をしていたのか、すでにほとんど記憶すらない。2日になって多少よみがえり、請求書作成という簡単な事務をこなす。しかし、4日までに納品しなければいけない仕事もポツポツとたまっている。というか、クライアントの「できれば年内」という希望を、無理言って延ばしてもらったのはこっちなのだ、ははは(←乾いた笑い)。せめて4日までは新しい仕事は来ないだろうと思っていたら、甘かった。2日の夜にさっそく仕事依頼のメールが。クリスマス前に来るはずだった仕事で、延び延びになっていたので、もう立ち消えになったかと思いきや、2日に来るとは・・・って、クライアントはアメリカの企業なのだ。つまり・・・「オイ、アメ公、テメーらだけとっととクリスマス休暇に入りやがって! こちとら30日ギリギリまで働いてんだよ! 2日に仕事よこすな!」などとは決して思わず、3日朝から仕事スタート。ああ、忠犬ハチ公よりエライな、チームMizumizu(←一応企業形態にしてるが、規模は「チーム」の域を出ない)。この時間になってようやく、新規の仕事も終わりが見えてきているところ。そんなときに、目に留まったのがこのニュース。主要百貨店の初売りが2日、始まり、消費不況の中、福袋の人気が目立った。 日本橋三越本店(東京・中央区)には、昨年より約3割多い約8000人が、行列を作った。女性用のカシミヤセーターやダウンコートが入った1万500円の福袋が人気で、用意した700個は午前中で完売した。 三越は、「福袋には、価格を上回る価値ある商品を入れた」とお得感を強調する。だが、買い物客の目線はシビアで、「ムダになる商品はいらない」と、中身のサンプルを確認する光景が目立った。一昔前の「不況」のときには、高級ブランド品は売れていて、「消費の二極化」と言われたものだが、最近は高級品も売れない。消費者も目が肥え、賢くなり、高級品を所有することで自分のステータスが上がったという夢を見るのではなく、身の丈に合ったものをできるだけ安く入手しようとしている。それにしても、去年より行列にならぶ人が増え、あの日本橋三越に8000人の行列とは。よく行くデパートだが、それは銀座の三越よりすいているから、というのが大きな理由なのだ。この寒い中、あのレトロチックなデパートに8000人が並んだ光景を想像してまず率直に思ったのは、「あ~、うっかり行かなくてよかった」ということだ。「並んでまで買いたい」という気持ちは、ほとんど理解できないMizumizu。逆に言えば、それだけ経済的に「まだ」恵まれているのかもしれない。だが、そんな個人的な話より考えさせられたことがある。このニュースはあまりに鋭く世相を反映しているということだ。今の世の中、流行っている商売というのはかならず、「値段以上のお得感を提供しているところ」なのだ。この原則は、店屋のような商売でも、才能を売り物にするフリーランスでも、独立した専門職ですら変わらない。いいものだからいくら高くても売れるという時代は完全に終わった。今はクライアントが、「払ったお金以上の価値があるモノ(あるいはサービス)を手にした」と思わなければ、商売繁盛にはならないのだ。そうなると、どうなるか? 当然のところ薄利になる。多売ができればいいが、できない職種も多い。そもそも多売になったら質を保てないから、あとは安売り合戦になってしまう。クライアントが増えてくれば、それに対応する人手も確保しなければいけない。だから、流行っている店(あるいは忙しく働いている専門的職種)というのは、「仕事は回っているけど、そんなには儲けてない」ということになる。以前は「他の店、他の人間には提供できない特殊なサービス」を売れる人間は、もっと「気持ちよく」儲けていたはずだ。多忙な知人に話を聞いても、だいたいみな同じことを言う。「忙しいけど、儲からない」。これは実感だろうと思う。福袋だってそうだ。提供する側は、「お値段以上の価値」を強調するが、客のほうはシビア。福袋というのは、もともとは売れ残りや在庫の処分が目的。それにさまざまな付加価値をつけることで肥大化してきた恒例ビジネスだ。だが、極論してしまえば、もともとの値付けが価値に見合ってないから売れ残ったのだし、少なくともそういう商品が大半だろうと思う。放っておいても売れるものを福袋に詰めて安く出したりはしない。もともとの値付けだって、べらぼうに高かったわけではないだろう。売り手はあくまで、「これぐらいなら売れる」と考えて値段をつけるのが普通だ。それが売り手の思惑ほどは、買い手がその価値を評価してくれなかったということなのだ。この原則はモノだけではなく、人が提供する特殊な技能や才能、専門知識に立脚したサービスにも当てはまる。提供する側は、「(自分の力量にしたら)かなり安くやっている」と思っても、客側はたいていはそうは思わない。「もっと安ければいいな。でも(サービスの)質が落ちても困るけど」。商売はそのバランスの上に成り立っていて、サービスの売り手が提供するものの価値が、払った値段以上のものだと買い手側が納得すれば仕事は増える。仕事が増えたからといって、じゃあ報酬も上げようとなると、とたんに仕事の依頼が来なくなるのは、専門職でも飲食店でも、パターンと同じだろう。専門家になるためには、それなりの技能、あるいは専門知識が必要だが、技能や専門知識を身につけたからといって、それだけでは「売れっ子」にはなれない。難しい資格を取ったからといって、それだけで将来は保証されない。自分をアピールする営業力、売り込みに成功して仕事が来たら(あるいは職を得たら)、今度はクライアントの信頼を持続させるため(あるいは組織から常に必要な人間だと認めてもらうため)の努力が欠かせない。ましてや他人とは違う何かを持っていない人間は、それこそ時期が来たら、自分を安売りしても買い手(雇い主)が見つからないという事態に陥ってしまう。そういう時代だからこそ、より強い翼を持たなければダメだろう。他人にはない自分の強みを見極めて世の中をわたっていく力。基礎的な力を身につけなければ応用も利かないし、そもそも自分の強みを見つけられない。目覚しい経済発展の中で、日本人はいつのころからか翼を鍛えるための地道な努力を嫌がるようになったように見える。そのかわりに蔓延ったのは、空想的・理想的・楽観的な平和主義や平等主義、手前勝手な権利意識だ。今の日本人は先人が築いてくれた目に見えない財産を食いつぶして、なんとか世界の金持ち国の一員に留まっている。その中で確実に中産階級の没落が始まっている。忙しい人はますます忙しく、暇な人はいつまでも暇に。貧しい人はどんどん貧しく、安いもの、ちょっとしたお得感のあるものに群がって時間を浪費する。こうした状況に陥ってから、慌てて「恵まれない人」に、乏しい国庫からいくらかのカネをばら撒いても、何の役にも立たない。「母子加算が復活したら、寿しを食べたい」だの「子供を人並みに旅行に連れて行ってあげたい」だのと愚かなことを言っている母親は、施しをもらってもそれを次世代の教育のために使うという理性がない。単に自分の欲のままに消費して、それで寿し屋と旅行業者が一時的に、ほんのちょっと潤うだけ。昔の「日本の親」は、こんな態度ではなかったと思うのだが。寿しも旅行も、子供を一人前にしてからでいい話だ。子供がひとかどの人間になれば、育ててくれた親に対して寿しだって旅行だってプレゼントしてくれるだろう。今は我慢しても、将来に堅実な夢を持つ。そうやってかつての日本人は自分の足で階段をのぼっていったのに。
2010.01.03
ガラスだの陶磁器だの、壊れやすいものが好きだ。中でも目がないのがアラバスター。柔らかな質感と、半透明の雪の肌。光を透かすと、大理石とガラスの混血児になる。ヴォルテッラでは、蝋燭立てと写真立てを買った(本当は花瓶も欲しかった)のだが、蝋燭立ては、2つのうち1つを自宅に着いたとたんに割り、写真立てのほうも倒したり、当たったりしている間に崩壊してしまった。いいかげん、アラバスターの小物はやめなくては・・・と思いつつ、コンラン・ショップで、グサリとくるアラバスターに出会ってしまった。それは・・・アラバスター製のソープディスペンサー。3つばかり展示されていたのだが、1つ1つ模様が違う。少し黄色い色が入っているもの。縞模様が特徴的なもの。そして、一番気に入ったのは、斜めの縞模様に雪片のようなまだらの模様が透けて散っているものだ。理性の声が、「オイオイ、またそんな超壊れモノを洗面台の横に置いてどうするわけ? 倒したら終わりだぞ」と告げたのだが・・・手にとって、その少しざらつく暖かみのある肌に触れたらもうダメなのだ。一見、大理石めいているが、大理石はもっと怜悧な感触がある。ヴォルテッラの感覚で言えば、「まあ、数千円ってところかな、万はしないでしょ」と、多少タカをくくって、ひっくり返して値段を見たら・・・「え? 2000円ちょっと? いや、このカンマの位置は・・・」24,150円。に、にまん? にまんですと?コンラン・ショップはデザイン性では新奇なアイテムを置いてるが、値段が高い(おまけに、あまり商品管理がうまくないのか、汚れてる売り物も多い)。しかし、このアラバスターのソープディスペンサーは、特段変わったデザインということもない。カタチは曲線と直線がうまく調和して美しいが、どちらかというと、ものすごくオーソドックス。加工だって別に難しくないでしょ。凝ったカッティングを施してるわけじゃない。強いて言えば、この丸みを帯びた形に石を切るには、無駄になる部分も含めて、材料のアラバスターがかなり要るかな、というぐらいか。それでも、惚れた弱み。値段には目をつぶって、買おうと思ってレジに行くと、レジ横に数日後に始まるセールの葉書が置いてあった。こういうものを目ざとく見つけるのは、Mizumizu連れ合いのほう。で、あつかましくも、「これってセールで安くなりますか?」などと聞くのはMizumizu。店員さんは、嫌な顔ひとつせず、「たぶん・・・割引になります」と教えてくれた。このごろは、結構こういうことも嫌がらずに教えてくれる店が多い。なので、ちゃっかりレジで、「じゃ、今日は買うのやめます」と宣言し、数日おいて出直した。気に入った「あのアラバスター」はあるかな、と心配しないでもなかったのだが、アラバスターの小物ごときに何万も払う物好きがそうそういるとも思えなかった。案の定、ちゃんとあった。しかも、予想以上に割り引かれている。こうなると・・・最初は買う気がなかった、お揃いのビーカーも買ってしまった。ビーカーも模様が1つ1つ違っている。極力ディスペンサーと似た模様をもつものを選んだ。サイズがちょうど合い、並べて置くとフォルムの主張がずっと強まる。一方は上が丸く、他方は下が丸い。その「ひっくり返し」の同じデザインが目に心地いい。結局・・・1つ分の値段で2つ買えたからお得と言うべきか・・・まんまと店側のセールの目論みにはまったというべきか・・・レジに持っていくと、先日とは別のお姉さんが、思いもかけないことを言ってきた。「あ、こちらは、炭酸カルシウム製ですので、アルコールや酸に弱いんです。色などもついてしまったら落ちにくいですが、よろしいですか?」は? 炭酸カルシウム製? そう言うと人工物みたいじゃないですか。炭酸カルシウムを主成分とするアラバスターという意味だよね?「アラバスターですよね?」あまりに当然のこととして思い込んでいたので、確認もしなかったが、確かに「アラバスター製」とはどこにも書いてない。でも、Volterra(ヴォルテッラ)という名前が付いてるところを見ても明らかだろう。「・・・大理石じゃないんです。見た目は似てますけど」ちぐはぐな答えが返ってきた。どうやら「アラバスター」というものを知らないか、忘れているようだ。「液だれなんかも、放っておくとシミになるかもしれません」つまり、繊細な素材だということを、買う前に客に了解してもらおうというつもりらしい。それにしても、「炭酸カルシウム」って、わざわざ言ってるのはなぜ? と思ってウィキペディアを見ると、アラバスターには「石膏」と「方解石」の2つがあり、炭酸カルシウムを主成分とするのは後者。しかも、方解石のアラバスターは古代のもの、今アラバスターと言ったら、ふつう石膏(雪花石膏)のものを指すらしいことがわかった。なるほど、それで上の人間が店員にアラバスターと教えなかったのかもしれない。フムフム。どちらにせよ、アラバスターがひ弱な素材であることは承知のうえ。とは言え、アルコールに弱かったら、入れる液体石鹸も選ばないといけないじゃないの。しかも、液だれがシミになるって・・・ずいぶんと気を使わせるソープディスペンサーだ。ヒビだって入りやすい。そもそも元来ソープディスペンサーには向いてない素材ってことじゃないの? トホホ・・・綺麗だが、傷つきやすく、手がかかる――アラバスターに惚れてしまったら、いずれ壊れてしまうのは覚悟でうえで付き合わなければいけない。綺麗だが、傷つきやすく、手がかかる――これが人間だったら、実に面倒だ。惚れた相手がアラバスターでまだよかった。
2010.01.02
ここ数日のMizumizu・・・30日にようやく仕事が終わるものの、すでに日付の感覚なし。31日に納品の終わった仕事の請求書を作成せねばと思いつつ、もう仕事はイヤだ! Mizumizu以上に働いてるMizumizu連れ合いは、きのうまでは疲労困憊していたのだが、一晩ぐっすり寝たら体調がよくなったよう。夕方になって大晦日の東京を見物しようと2人でクルマで出かける。Mizumizuを助手席に乗せてクルマを運転するのが大好きなMizumizu連れ合い。ちょっと時間ができると、「(クルマで)ぐるっとするか?」と誘ってくる。どこへ行くということもないのだが・・・もちろんOKですよ♪♪ ハート♪♪イルミネーション都市・東京の麗しさに改めてうっとり。次々に趣向を凝らしたイルミネーションが現れる。多少シャビーなものや、色がちぐはぐなものがあるのはご愛嬌。星マークのイルミネーション飾りを下げた、どこかの並木道が気に入る。銀座松屋の地下の食料品売り場に、閉店時間の30分前に行って、その混雑ぶりにビビる(人が多すぎてなかなか進めない!)。だが全般的に道はすいていて、人も少ない。家で紅白を途中から見るも・・・ほとんど知っている歌がないことに、ガクゼンとする。イタリアの友人に手紙を書くも・・・イタリア語のスペルがあやしくなり、ガクゼンとする。数日前イタリア人の友人から電話が来たのだが、イタリア語が聞き取れなくなっていた。言葉って長い間実際に使わないと、本当に忘れてしまうと実感。年が明けて、たった今思っていることは・・・12月の数々の納品をなんとかこなせて、本当にヨカッタ! あとは請求書だ。3日までには作って送らないと。・・・このごろ納期はなんとか忘れず守っても、後回しにした請求を忘れそうになる自分にガクゼンとしている。数週間もすると終わった仕事のことを忘れている。あ、そういえば、4日までに納品する仕事もあるんだっけ。やっぱ元旦から始めないとダメかしらん。トホホ。
2010.01.01
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。 「ジャンプ1つ抜けて歴代最高点?」と、呆れたファンが多いと思うが、それが今のフランケンシュタインルールの怪物たるゆえん。昨シーズンの世界選手権では、「パンドラの箱」まであけて、主観による演技・構成点でどんどん点を上積みできるようにした。今季はGOEの要件が増えているから、加点がつきやすい。そうなるとエレメンツが成功してしまえば、さらに点が上積みされていく。持っている技のレベルを表す基礎点での差は、これでないがしろになっていく。キム選手は後半のサルコウで失敗しやすい。それでサルコウを後半の頭のほうに移して、跳べるようにした。だが、こうなると次にもってきたルッツがあやうくなる。実際、フランス大会での彼女のフリーの後半のルッツは少し足りないまま降りてきていた。ジャンプ1つ跳ばなくてもああなる。全部のジャンプを跳んだらどうなるか? それがアメリカ大会以降の試合だ。ジャンプの基礎点を上げて点を出そうとすると、返って点を落とす。これはほとんどの選手がそうだ。「決めれば点が出る」はずが、なかなか出ない。改悪に改悪を重ね、とうとう新採点システムの柱だった「客観性」までないがしろにした、バンクーバー特製フランケンシュタインルール。その結果、奇妙な「フランケンシュタイン歴代最高点」が出てくる。バンクーバー後にルールが大幅改正されるのは、ほぼ決まっている。まあ、改良されるとは限らないが・・・ このルールはバンクーバーに向けて、開催地がらみの選手を勝たせるために「立法府」にいる人々が、時間をかけて作り上げてきたルールだ。スポーツの精神に反するという声を無視して大技への挑戦をむなしいものにし、「最強日本女子」選手たちの小さな欠点を狙い撃ちにして大きく減点してくる。「司法の現場」で働くジャッジは、裁判官と同じく、立法府が作り上げた法律を厳密に履行する。だから、回転不足にせよ、エッジ違反にせよ、日本選手に有利な判定がされることはない。そう考えて準備するべきだろう。最近モーグルのルール基準が日本人の金メダル候補である上村選手に不利になるよう改正されたという記事が出た。カナダの有力選手がこれで有利になったという。モーグルはフィギュア以上にマイナーな競技だ。それでもこうしたことをやってくる。冬の五輪で最も商業的価値があるのが女子フィギュアの金メダル。2度連続して日本なんかに獲られたくないと考える勢力がいるのは自然なことだ。ところで・・・全日本は女子に比べて男子のジャンプ認定が甘かったような気がするのだが。特に高橋選手。後半のジャンプは、足りていないように見えたものもあったが、本当に大丈夫なのか。高橋陣営は別のスペシャリストに相談して意見を聞くなど、チェックをしてほしい。参考:上村選手に対する記事はこちら。欧米による"愛子包囲網"だ。フリースタイルスキー・モーグルの全日本が26日、スイス合宿から帰国した。高野弥寸志ヘッドコーチ(47)は、五輪の採点基準が緩和され、上村愛子(29)=北野建設=に不利に働く可能性を指摘。「うがった見方をしたら、上村対策かもしれない」と訴えた。 同コーチによると10月上旬にカナダで行われた審判員講習会で「多少スキーがずれても、点数を落とさない方針」が確認されたという。技術の高い上村には無意味で「(他選手が)去年よりマックスで0・5点上がる」と説明した。 昨季の世界選手権(猪苗代)で、上村は2位のトリノ五輪覇者、ジェニファー・ハイル(カナダ)に1・83点の大差で圧勝。だが、平易な五輪コースでは得点差が縮む傾向にあり、さらに0・5点の得点緩和は大きな足かせになる。 単独で合宿を延長している上村の現状を「質の高い練習をしていた。五輪から逆算して仕上げの内容をやっている」と絶賛した高野コーチ。「4年間かけてやってきている。これまで通り突き詰めていきたい」と正攻法で"包囲網"を突破する。
2009.12.31
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。中野選手のフランス大会とNHK杯でのフリーの最初のジャンプは2A+2Aのシーケンスだった。3Aを前提にずっとプログラムを組んでいた中野選手にとって、「入り方」が同じなアクセルを2つ並べるのは難しくなかった。基礎点5.6に対して、加点をもらっている。ところが勝負の全日本で、基礎点が6点の3ルッツに換え、後半の3Tにシーケンスの2Aをつけた(これは成功させている)。ジャンプの入り方が変わると身体が馴染みにくい。簡単にジャンプの組み換えができる選手もいるが、中野選手はそうはいかなかったようだ。結果は最初のルッツ失敗で五輪の切符を逃した。中野選手にとって、最初のルッツがいかに大切か、自分でわかっていたはずだ。なのに、というか、それで、というか、失敗する。それが人間というものだ。どうしてわざわざ成功させていた2A+2Aのシーケンスをはずして3ルッツに換えたのか? もちろん基礎点の高いルッツ(と後半のシーケンスからの2A)で点を上積みするためだ。本人もコーチ陣も「できる」と思って換えたはず。最初に単独のルッツを跳ぶのは、中野選手にとって、それほど高いハードルではないはずだ。むしろその後のルッツの連続ジャンプのほうが不安だったかもしれない。ところが実際には失敗。ここ一番でジャンプを組み換えるのがいかに危険か。しかも長く「最初は3A、もしくは2A」で前向き踏み切りへの入りに身体の馴染んだ中野選手にとって。これは、タラソワが繰り返し、いろいろな選手に警告している。昨シーズンの世界選手権でジュベール選手が急きょ後半のジャンプを簡単な2Aにして大失敗した。ウィアー選手も昨シーズン、追い詰められた全米で、何とか調子の落ちた3Aを決めようとフリーの冒頭にもってきて、完全にパンクしてしまった。ジャンプ構成をここ一番で急に換えて、成功した選手のほうが少ないのだ。世紀のジャンパー、伊藤みどりでさえ、オリンピックで急きょショートの連続ジャンプを3Aから、普段ならなんなく跳べる3ルッツに換えて、「『なぜ私ころんでるの?』と思った」という失敗をした。そもそも佐藤陣営は、ここ一番で突然ジャンプ構成を換えるからうまくいかない。昨シーズンの小塚選手の世界選手権もそうだ。順位を取るために、と4回転をはずし、なんとか3A2度を降りたのはりっぱだが、やはりミスは多かった。今回の全日本で小塚選手は結果を出した。だが、4回転がなくても体力がもたないという欠点も露呈したと思う。小塚選手がやるべきは、「4回転決めて、3Aもルッツも決めて、難しい音楽を表現する」などという、ありえないほど壮大な理想的目標に向かって「バンザイ」自爆をするのではなく、「失敗しないこと、失敗しないこと、失敗しないこと」これだけだ。ジャンプの安定をショートでもフリーでも見せ付けられれば、ジャッジは点を下げにくい。階段を一足飛びにあがろうとすると転落する。課題は1つ1つ、階段は1段1段上がらなければ、今のルールでは点は出てこない。よくモロゾフはダウングレード対策がうまくて、タラソワは対応が遅れていると安易に批判する人がいるが、非常に短絡的な見方だ。シーズン途中のジャンプの組み換えで奏功したのは安藤選手だが、それが彼女が天才ジャンパーだから。苦手なジャンプがなく、ジャンプのバランスでは浅田選手やキム選手を凌ぐ安藤選手。それにモロゾフの回避策は事実上の「ライバルのミス待ち」戦略で、相手が失敗しなければどうにもならない。安藤選手ほどバランスよくジャンプを跳べない浅田選手のダウングレード対策は、勢い限られる。浅田選手自身、ダウングレードされる部分はわかっているし、対策も立てている。セカンドに3Tを入れて欲しいとMizumizuは昨シーズンさかんに書いた。タラソワはとっくに練習を指示しているし、タラソワはそもそも3Aをフリーで2度入れるのには消極的だった。インタビューでタラソワは、「おそらく3回転+3回転に換える」と言っている。それに対し、「3A2度は譲れない」と言ったのは浅田選手のほうだ。それを単に「頑固者」と決め付けるのも早計だろうと思う。どのジャンプが降りやすいかは、選手自身が一番わかっている。常識的には3A+2Tより3F+3Tのほうが簡単だし、体力の消耗も少ないし、ファーストジャンプで失敗する可能性も低い。浅田選手が3Fに3Tをつけられるのはわかっている。だが3Tを回りきれるのか? それは浅田選手自身が一番よく知っていると思う。こちらとしては、試合で見ていないので何とも言いようがない。また、浅田選手もジャンプ構成を変えると失敗しやすいタイプだ。昨シーズン最初の大自爆になったフランス大会で、2つ目の3Aのかわりに入れた単独の3ループが2ループになってよろけてる浅田選手を見たときは、ガクゼンとなった。これがキム選手なら、驚きもしないが、あのときまでは浅田選手の単独3ループは鉄壁にMizumizuには見えていた。どんなに助走間隔が短くても、なんなく跳んでしまう。あの姿は、トリノでスルツカヤがループでコケてるのを見た以来の衝撃。ループでコケてるスルツカヤなど見た記憶がない。昨季初めの失敗体験が、浅田選手を「やっぱり3A2度でいかなきゃだめだ」という気持ちにさせたのかもしれない。タラソワだってビックリしただろう。安全策のつもりで得意の3Lo単独にしたら、見事に失敗とは。ループに対するダウングレード判定は、「なぜか」どんどん厳しくなってきた。ちょっとでも低いとダウングレードされる。今回の全日本では浅田選手はちゃんと降りてきたが、あれもかなり冷や冷やものだった(ように思う)。3Aをその前に2度入れれば、さらにジャンプが低くなる可能性がある。多くの人は、全日本の浅田選手のフリーを見て、「これで3Aが2度入れば」と思うかもしれないが、Mizumizuは逆。体力の消耗が半端ではない3A2度によって他のジャンプの高さがなくなるリスクが怖いと思う。そして3フリップからループへの連続をどこかで必ずダウングレードを取られている現実。ロシア大会では、前半の3F+2Loの3Fもダウングレードされてしまった。連戦の疲労があったのかもしれないが、とにかく、3F単独は評価が高く加点がつくのに、わざわざフリーで2つとも連続にして、どこかでダウングレードされているという今の状態が、ひどく不毛に見えるのだ。これがセカンドが2Tだったら常識的には問題ないハズだ。セカンドにトゥループをつけるのはループをつけるより、「ふつうは」簡単なのだ。だが、あそこまで頑なにフリップにループをつけるということは、トゥループが浅田選手にとって必ずしも「安全策」にはならないのだと思う。実際、今回は2A+2Tの2Tがダウングレードされた。だが、あえて3A+2Tのかわりに3F+3Tを入れるとすると、たとえば以下のような組み換えが可能だと思う。(現在)3A (基礎点8.2点)3A+2T 9.5点3F+2Lo 7点ここまでの合計基礎点 24.7点(組み換え)3A 8.2点2A+2A(シーケンス) 5.6点 (最初の3Aがパンクして失敗したら、ここでリカバリーしてもいい)3F+3T 9.5点ここまでの合計基礎点 23.3点基礎点は下がってしまうが、上の3A2度よりはダウングレードのリスクが少なくなるし、2つ目のジャンプを2A+2T(4.8点)まで下げるよりはいい。何より体力の消耗が3A2度よりずっと少ない。となれば、全体の表現もグッとよくなるだろう。ジャンプで体力を消耗してしまうと、表現がおろそかになる。それに、この構成なら転倒の可能性も少ないと思う。問題は、3Tを回りきれるかどうか。たとえ回りきれなくても、3Aを2度入れてパンクしたり転倒になってしまうよりはいいはずだ。本当は3F+3Tをもっと前に出したいが、前向きに踏み切るアクセルの入りを2度ずっと続けている浅田選手にとって、順番の入れ替えはよくない。「入り」が違うと失敗しやすいからだ。そして、この場合は、先にMizumizuが書いた後半の3Tに2Aをつけるシーケンスはルール違反でできないし、そもそもここまで前半をいじったら、後半まで換えるのは危険すぎる。後半は3F単独で3連続ジャンプを捨てるか、あるいはどうしてもというなら、3F+2Loにする。3A2度が入らなければ、体力ももつので、ダウングレード攻撃をかわせるかもしれない。3F+2Lo+2Loは、ダウングレードを呼び込むので不毛だと思う。認定されるセカンド3Tが跳べるかどうか、試合でまったく試していないし、このジャンプ構成の変更は基礎点が下がる。ショートとフリーで3A+2Tを入れる選択をしたということは、おそらく浅田選手の頭の中では、同じジャンプのほうが調子がよければそれを持続しやすいから、という考えがあるのかもしれない。3A+2Tの3Aの回転不足ももうほんのちょっとだ。もうちょっと遠くに跳べれば恐らく問題はない。だが、その「ちょっと」はかなり難しい。ただ、確率から言えば、セカンドに3ループを跳んで認定されるよりは可能性があると思う。そして、浅田選手個人としては、3F+3Tに換えるより、3A2度のほうが正面突破しやすく思えるのかもしれない。これはもう選手本人の判断だと思う。3A+2Tを3F+3Tに換えるのは、浅田選手にとっては、必ずしも安全策ではないのだ。どちらにしろリスクはある。そのリスクを考慮したうえで、あとは浅田選手自身が決めるだろう。4大陸でジャンプ構成をどうするかは浅田選手自身だが、彼女の判断で、3A+2Tのほうが認定される可能性が高い、つまりこれまでのどおりの正面突破と決めたからには、ファンの方は批判せずに応援してあげてほしいと思う。今さらエッジ問題のあるルッツを入れるのも自殺行為、認定が難しい3ループをセカンドに入れるのも自殺行為。(ほとんど)最後の別選択肢であるセカンドの3Tも不安がある。どういう選択をしてもリスクが高い。五輪はどちらにしろ一発勝負。何が起こるかわからない。最終的には、運にまかせるしかないのだ。今回の全日本女子はダウングレード判定が厳しかった。これは「五輪でもこうされるかもしれないから、準備しろ」ということではないかと思う。ここで判定を甘くしたら、浅田選手は「このぐらいの3Aなら大丈夫」と安心してしまい、五輪で厳しいダウングレード判定に泣くことになるかもしれない。それでは村主選手の二の舞だ。スペシャリストが浅田選手を「下げ」たかったわけはない。浅田真央が五輪代表に決まらなかったら日本中が大パニックだ。それに演技審判は、加点と演技・構成点を気前よく出してきた。キム・ヨナ選手のフリーは、フランス大会が一番得点が高かった。あのとき、フリップを跳ばなかった。ジャンプがまるまる1つない。つまり、非常に低いジャンプ構成だったわけだ。ところが、ジャンプ1つ跳ばなかったおかげで体力を消耗することなく、演技を終えることができたのだ。う・・・また文字制限、続きは明日
2009.12.30
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。ダウングレード判定は、世界トップの男子選手にとってはさほど深刻な問題ではない。3回転ジャンプがそもそもギリギリになりがちな女子と違って、身体能力に勝る男子、それも世界トップに来る選手なら基本的にトリプルアクセルまでなら完全に降りることは難しくない。4回転だけは別。高橋選手は今回の全日本で回転が足りずに降りてきてしまったが、ウィアー選手などは、何年もずっとあの状態のまま降りきることがなかなかできず、ついに今季はプログラムから外してきた。だが、それ以外で、同じジャンプを何度も続けて取られるということはまずない。ライザチェック選手は男子トップ選手の中で一番「トリプルアクセルが足りなくなりやすい」選手だが、彼とて連続して何度も取られるということはない。すぐに対応して克服している。一方の女子トップにとっては、ダウングレードは大敵。多くの場合命取りになる。上にも触れたが、ダウングレードされるジャンプは2つに大別できる。1)ジャンプの難度が(選手にとって)高く、回りきって降りきれない。つまり、ジャンプそのものに問題がある。2)普段なら問題なく回りきって降りてこれるが、試合の流れ、つまり跳ぶタイミングやスタミナ切れで高さがでなくなりダウングレードされる。浅田選手のトリプルアクセルは(1)に入る。安藤選手・浅田選手のセカンドにつける3ループもこれだ。3ループは単独なら回りきれるが、セカンドにつけるとピタッとは降りてこれない。実はキム・ヨナ選手の(ルッツとダブルアクセルにつける)セカンドのトリプルトゥループも(1)の段階から抜けきれていないようにMizumizuには見える。ルッツにつけたトゥループは着氷してすぐあさってのほうへ曲がって行ってしまうことが多い(エッジが一瞬ピタッと止まっている感じがない)。2Aのあとの3Tは遠目でよくわからないが、氷の削りカスがかなり飛ぶことが多い。どちらも回転が不足気味のときに起こる現象だ。安藤選手は、今回後半に3ルッツと2Aでダウングレードを取られてしまったが、これに関しては完全に(2)だ。2Aで取られるというのは珍しい。安藤選手はファイナルでも後半の3サルコウで取られた。昨シーズンの世界選手権では3Lo。スタミナが切れると、あるいは、ちょっと油断すると、ジャンプに高さが出なくなりダウングレードされる。これは安藤選手に案外よく見られるパターンだ。これで3回転+3回転や、4サルコウなど入れてしまったらもっと深刻なことになる。昨シーズンのファイナルで、4サルコウを立ったがダウングレードされ、そのあとの(ふつうに見れば降りてる)ジャンプも次々に4つもダウングレードされた「悲劇」の二の舞になる。試合が続くと男子選手でも疲労がたまり、ジャンプが足りなくなくなったり、パンクになったりする。安藤選手も全日本まで連戦が続いた。彼女にとってスタミナのキープがいかに難しいかということだ。安藤選手がダウングレードされるジャンプは試合によって違う。しかもジャンプ自体は何も問題のないものが、ちょっとしたことで取られてしまうことが多い。男子のトップ選手がダウングレードされるのも、4回転以外は、基本的に(2)なのだ。だから、それは突発的であって、リピートはしない。さて、Mizumizuにとって一番気になっている、浅田選手の後半に(無駄に)ダウングレードされる3Fから2Loへの3連続コンビネーション。前半の3F+3Loは問題ないわけだし、これは、基本的には(2)だと思うのだ。後半でスタミナが切れたところで、3連続にするから、高さが少しだけ足りなくなりダウングレードされる。昨シーズン初め、タラソワが描いた浅田真央絶対勝利のジャンプ構成は、3A、3A+2T、3F+3Loだった。この後半の3F+3Loが基礎点が一番高い。しかも真央陣営としては、その前のシーズンで決めてきていることから、後半のこのジャンプに関しては楽観的で、最初の3A2つが課題だと思っていたはずだ。だが昨シーズン、フタをあけてみると思わぬことが起こった。まず最初に起こったのは、後半に浅田選手がセカンドの3Loを「つけられない」という現象だ。同時に、先に試合をやっていた安藤選手のセカンドの3Loが、見た目は問題なく降りているのに認定されないということが起こっていた。それで浅田選手は緊張したのかもしれない。だが最大の原因は、3A2つが恐ろしいほど浅田選手の体力を奪っていたということだ。伊藤みどりが、「3Aを2つ入れるのがいかに大変か」「私にはできない」と言ったのは本質をついている。ともかく、最初は3Loを付けられずに、Mizumizuも「3Loの認定具合を見るためになんとしてもつけてほしい」と書いていた。昨シーズン、試合での後半の3Fからの連続ジャンプの結果とGOE後の獲得得点を見てみよう。<はダウングレード。フランス 3F+1Lo 6.2点NHK 3F 6.65点ファイナル 3F(<)回転不足のまま転倒 0.87点全日本 3F+3Lo(<) 6.5点ここで12月が終わる。流れで見ると、浅田選手がいかに苦心して3F+3Loまで持っていったかわかる。最初のフランス大会で1Loになってしまったのは、3Fの軸が傾いてしまったからだ。そこでNHK杯では、ファーストジャンプを確実に決めようとした。すると力がなくなりセカンドまで持っていけずに単独になった。ところが、結局のところこの単独ジャンプが一番点が出たのだ。 ファイナルでは、浅田選手はNHK杯の失敗を繰り返すまいとする。つまり3Fの力をセーブしてセカンドを高く跳ぼうと思ったのだと思う。ところが3Aを2度決めた浅田選手の体力はやはり思った以上に消耗していた。3Fの高さが足りずに回転不足のまま転倒。ふだんならありえない失敗だ。それを全日本でついに入れた。会場から「おう~」とため息が出るような素晴らしいジャンプだったが、案の定3Loはダウングレードだった。このときにMizumizuは確信した。セカンドの3Lo認定はほとんど無理。もう「奪われた」と思うべきだと。そして年が明けて4大陸。浅田選手も後半のセカンドを2Loに変えた。4大陸 3F+2Lo 8.1点世界選手権 3F+2Lo(<) 5.4点国別 3F(<)+2Lo 3.22点4大陸と世界選手権では、3A2つを降りることができなかった。だが、国別ではとりあえず降りた。そうすると3Fが足りなく(テレビで見てる限りは、どこが足りなかったのか、よくわからなかったのだが)なった。そして、今季(ルールはGOEで加点・減点する演技審判にダウングレード判定が知らされないように変更)フランス 3F+2Lo<+2Lo< 7.55点(GOEは減点が1人、加点が4人)ロシア 2F 1.87点(3Fそのものにできず失敗)全日本 3F+2Lo<+2Lo< 6.95点 (GOEは減点が2人、加点がゼロ)。フランス杯でセカンドとサードの2Loをダウングレードされた浅田選手は、ロシアではファーストからセカンドとサードのジャンプをかなり意識したのだろうと思う。そうしたら、3Fそのものを失敗してしまった。そして、長い「練習時間」を取って臨んだ全日本でもフランス大会と同じようにダウングレード。しかも、最初のフランス大会では、「浅田真央の3F+2Lo+2Loは足りない」と気づかなかった演技審判が、マイナスを付けてこなかった。全日本では逆にプラスがいなくなった。もう「この連続ジャンプはどこか足りない」とわかってしまったのだ。演技審判のGOEが、ダウングレード判定を知らされないといかにいい加減かは、他の選手のプロトコルを見てもわかる。ファイナルではキム選手の3ルッツ+3Tの3Tはダウングレードだったのに、「そうとは気づかない」演技審判が、こぞって判を押したように加点を大盤振る舞いでつけてきた。もちろん、GOE要件が増えているのだから、加点した理由はいくらでもあとから(こじ)つけられる。「多少ランディングの軌道は曲がったが、そのマイナスを補う質をもったジャンプだった」とかなんとか。セカンド以降のダウングレードを気にすると最初の3Fで失敗してしまう。気にせずに思いっきり跳ぶと、少し足りなくなる。この「少し」はハタから見ていると、かなり簡単に修正可能に見える。もうちょっと力を出してセカンド以降のジャンプを跳べばいいだけだ。どうも力をセーブしているように見える。本人も修正は簡単にできると思っていたのかもしれない。だが、公開された練習風景での3連続もいつもこんな感じだ。ぽんぽんとリズムよく跳ぶが、少し足りない(ように見える)。もっと身体の軽いジュニア時代なら問題なく回りきれたのかもしれないが、身体が成長した今は、「あのころ」のようにはいかない。今回はフリーで3Aを1度しか入れなかったから、3Fは大丈夫だったが、これでもし3Aを2度入れ、かつ後半を「ぜひとも3Fからの連続に」と思うと、3Fがまたダウングレードジャンプあるいはパンクになってしまうのではないか。これがMizumizuの考えだ。だから、後半は3Fを単独と決めてしまう。そうすれば負担はずっと少なくなるし、GOE要件が増して加点がつきやすくなった今季は、鈴木選手の単独3Fのように、浅田選手の3連続より点が出るように思う。そのかわり、3T単独の次にシーケンスで2Aをつける。最後にもう1回2Aが来るが、2Aは3度入れることができるのでルール上は問題ない。ただ、音楽との調和がどうかという問題はある。最後に3回回る部分は音楽と調和して迫力がある。3T単独と2A単独の間のつなぎはかなり余裕があるので、ジャンプをもう1つ追加するのは可能のように見えるが、音楽とうまく調和するかどうか、やってみないとわからない。さらに、ジャンプ構成を変えることに対する浅田選手の精神的負担もある。この程度ならシーケンスだし、負担は少ないとは思うが、それでもシーズン途中で構成を変えると失敗しやすい。浅田選手には依然として、3連続を正面突破するほうが簡単に見えているかもしれない。それはそれで仕方がないが、今回のようなリズミカルにポンポンと跳ぶ3連続ではダメだということを肝に銘じなければ、何度練習で成功しても無意味だと思う。Mizumizuには、今からではこの3連続ジャンプのクセの克服のほうが難しいように思える。少なくとも2連続に納めれば、成功すれば単独よりは点が出る(実績から言うと8.1点)が、それならば、2Loをはずして3Fは単独として、加点を狙う。そのかわり3Tにシーケンスで2Aを追加したほうが、基礎点もほんの少しだが高くなるし、「3Fを3連続にしなきゃ」の精神的負担も減る。3F&2Lo(後半基礎点7.7点)+3T(後半基礎点4.4点)=12.1点3F(後半基礎点6.05点)+3T&2A(後半基礎点6.6点)=12.65点あとは、どちらが確実に降りれるか。むろん3連続のほうが基礎点は高いが、今のままでは捕らぬ狸の皮算用で点を失うだけのように見える。3F&2Lo&2Lo(後半基礎点9.35)+3T(後半基礎点4.4点)=13.75点浅田選手が実際に獲得した点6.95+5.4=12.35点ただ一方で、ジャンプ構成を換えることの危険性は中野選手のフリーを見るとわかる。
2009.12.30
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。全日本フィギュアスケート選手権のエキシビションである「メダリストオンアイス」を見た。不況のせいか、ひところよりは演出が地味になったかもしれないが、このエキシビション、とっくにエキシビションのレベルを超えてもはや世界一流のアイスショーになっている。男子ももちろん素晴らしいが、何と言っても「黄金時代」の女子の演技には目を奪われる。まさに百花繚乱。こんな素晴らしいショーを見るのは、もしかしたら今年が最後かもしれない。中野選手の「ハーレム」は、これまでの彼女のエキシビションナンバーの中でも出色の出来。これをバンクーバーで舞って欲しかったし、本人の落胆はいかばかりかと思うが、そういうマイナスの感情をまったく見せないのが、人としても尊敬できる選手だ。最初のルッツを失敗していなければ、恐らく五輪のチケットは中野選手のものだった。トリプルアクセルに次ぐ難度であるトリプルルッツがフリーで1つしか入らない鈴木選手に対して、2つ入れてきた中野選手。基礎点の高いジャンプ構成を組んでも、1つの失敗で大きく点を失う。中野選手と鈴木選手のフリーの演技・構成点は63.28で同点。もし、どちらかを意図的に救おうとすれば、演技・構成点で差をつけてしまえばいいことなのだが、今回は、主観点では差をつけず、2人にとって納得がいくであろう、技術点の出来に結果を委ねた形になった。4年前のトリノに出て欲しかった気持ち、出るべきは中野選手だったという確信は、きっといつまでもMizumizuの中から消えることはないが、今回の選定は、あのときと違って公平感があったのが救いだ。もちろん、鈴木選手のダンサブルなステップも一瞬たりとも目が離せない。あのはじけるような明るさ、滑る歓びを体全部で表現できるパフォーマンス力は、生真面目さが本番の演技に出て硬くなってしまう中野選手にはない武器だ。そして浅田選手。可憐な初舞踏会から、人格まで変わったような気迫溢れる鐘へ、そして軽やかで奔放で「気まぐれ(カプリース)」な淑女へ。圧巻の表現力だった。あのフリーは真央ちゃんに合わないという一部のファンからの悪評や懸念を、彼女は自分自身のパフォーマンスでねじ伏せた。結局のところ、多くの人は、作品を「評判」で見る。自分の目で見ているつもりだが、実際には「評判」で判断している。評判が高まれば感動する人が増える。浅田選手のファンがやるべきことは、自分の趣味や希望を押し付けるのではなく、彼女が表現する世界に寄り添い、理解し、賞賛し、背中を押してあげることなのだ。結果どうこうを最初に考えてはいけない。あれほど素晴らしいフリーで観客を総立ちにさせた浅田真央。もういいかげんにネガティブキャンペーンを日本人自らがやるのは、やめて欲しい。夕刊フジにまた事実誤認だらけの不愉快な記事が出た。しかも内部の人間が情報をリークしているのは明らか。リークした人間が話を歪めてるのか、書いてる人間が歪めてるのかは知らないが。今の日本のフィギュアフィーバーの立役者はなんと言っても浅田真央。浅田選手が五輪が決まったことでの経済効果は100億だという記事も出た。さらに、全日本フィギュアスケート選手権2009女子フリーのテレビの瞬間最高視聴率が37.2%とも。本当に凄い。かくいうMizumizuのこんな個人ブログにもアクセスが1日2万7000件・・・(驚)。男子では高橋選手の人気が沸騰しているが、そうは言っても高橋選手のことだけを書いていたのでは、恐らくこんなにたくさんの人は読みに来ない。これほどまでに国民から愛されている浅田真央。ところが悲しいことに、最初のうち「鐘」を積極的に評価する声は日本人の識者からはほとんど聞こえてこなかった。フィギュアをよく知っているコーチが何人か、プログラムの素晴らしさを認め、五輪の舞台に相応しい、浅田選手はよく音楽を表現してくれている、と言ってくれた程度。あとはヨーロッパ。フランスのベテラン記者が、「プログラムの高度な振付に感動した」と言ってくれた。こういう記者やライターがなぜ日本にいないのか。そんなに皆、目がないのか。孤立無援ともいえる状況の中で、「私は鐘を表現できると思っている。だからやる。プログラムを変えるなんてありえない」と主張した浅田選手はたいした根性だ。一流のパフォーマーとは常にそうしたものだ。100人が100人、「あなたにはできない」と言っても、自分ができると信じたら演じる。短絡的な結果を欲しがるエセは、こういう態度は取れない。そして実際に、ここまで解釈を深めてきた。「鐘」の最後のステップでは総毛立つような、ほとんど宗教的な感動を覚えた。言葉もなく見つめる以外何もできない。世界に浅田真央と、彼女を見つめる自分しかいなくなったような感覚。これぞ表現芸術の極致。わかりやすくインパクトがあるが、見るたびごとにつまらなくなる上っ面作品とは別次元の世界。今のフィギュア界で、タチアナ・タラソワ以外、誰がこんな世界を作ってくれるだろう? 誰がそれを演じ切れるだろう? もしかしたら、浅田真央で最後かもしれない。だが、今回の「メダリストオンアイス」に限っていえば、私的ベストオブベストは、安藤選手の「レクイエム」。ショートとエキシビションで同じ音楽の別の表現を見る楽しみは、喩えようもない。このショート、このエキシビションナンバーが、安藤選手のベストオブベストだと思う。衣装も素晴らしい。安藤選手の衣装デザイナーはどなたで?(笑)今回の衣装。胸元から腕にかけてのレースと、胸から腰にかけて大胆に斜めに入った十字架部分のレースは、微妙に模様が違っている。この洗練されたデザインのレース使いにまず目を奪われた。そして、長めで、イレギュラーなカッティングのスカートの軽さと上品さ。スピンに入ると黒の色調の中に、紫が混ざってくる。布が長い分、より紫の主張が強くなる。そして、透けた布越しにうっすら見える、安藤選手の美しくセクシーなヒップライン。出るところは出て、引っ込んだところは引っ込んだ、女性として理想に近い安藤選手の女性美を黒い衣装がエレガントに引き立てている。最初に心臓の鼓動そのもののような動作から始まるEX「レクイエム」。安藤選手が天を仰ぐと、こちらも一緒になって天から降りてくる光を見る。動作も風格があって美しいが、氷上に横たわった安藤選手の肢体は、ドキドキするほど魅力的だ。背中が大胆にくれて、素肌がスポットライトに照らされて輝く。役者が役者になるのに人生の経験が必要なように、「かわいい女の子」が「魅力的な女性」になるのだって経験が必要なのだ。安藤選手は装う必要はない。これほど女性の激しさ、深さ、やさしさ、傷つきやすさを、生(き)のまま表現できるスケーターはいない。稀代の振付師ニコライ・モロゾフと作り上げた世界で、「ぼくたちのゴール」と彼が彼女に告げたバンクーバーに向かって、迷わずに進んでいって欲しい。さて、ここからはプロトコルから見た技術的な話を。浅田選手と鈴木選手のフリーの技術点は、浅田選手67.90、鈴木選手65.78。フムフム、浅田選手のほうがやっぱり高い。大技トリプルアクセルを入れてるせいかな・・・細かく分析しなければそう思うかもしれない。だが、実際には浅田選手の技術点が鈴木選手を上回ったのは、ジャンプ以外の要素の取りこぼしが少なかったからだ。スパイラルは残念ながらレベル3に留まったが、スピンでずらりとレベル4を並べ、ステップはレベル3に加点3のオンパレード。1人をのぞいてすべての演技審判が加点「3」を出している。一方の鈴木選手も元来エレメンツの取りこぼしが少ない選手なのだが、今回はスピンでレベル4が1つにレベル3が2つ。そして一番目立つ取りこぼしは、スパイラルがレベル1になってしまったこと。スパイラルでの鈴木選手の得点が2.7点。浅田選手が4.5点。これだけで1.8点の差がついた。また、鈴木選手はステップがレベル2(盛り上がりは凄かったが)。浅田選手のステップが卓越しているのは、ステップのレベルを3にキープしつつ(高橋選手でさえ何度もレベルを2に落としたのに)、かつその難度の高いステップより自分が高い位置にいて、踊りながらステップを踏み、観客をその世界に引き込んでいくことができるということだ。アピールを気にするとしばしばレベルが取れないのが今のルール。レベルを取ろうとすると、「確実にターンしておりますです」という感じになり、感動が薄れる。浅田選手は、レベル取りと高い次元での感動を両立させた。だが、ジャンプに関しては、浅田選手と鈴木選手のフリーの得点を見ると、3Aを入れている浅田選手より、3Aどころかルッツも1つしか入っていない鈴木選手のほうが高いのだ。特にジャンプに定評があるわけでもない、五輪代表としても日本で3番手、4番手だった鈴木選手が、3Aを跳ぶ天才より点を出す。これが狂気の沙汰ともいえるような「厳密な」ダウングレード減点の「成果」なのだ。浅田選手のフリーのジャンプだけの得点3A 8.20(基礎点) 9.60(GOE後の実際の得点)2A+2T< 3.90 4.703F+2Lo 7.00 7.40ここから後半x印は基礎点が1割り増しになるということ3Lo 5.50 X 6.703F+2Lo
2009.12.29
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This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。今や世界一層の厚い全日本女子。この中でたった3人を選ぶというのは非常に残酷なことだ。特に中野選手。今回の五輪には個人的に行って欲しい気持ちが強かったのが、今季フタを明けてみたら、鈴木選手のほうが調子も成績もいい。全日本では僅差だったが、最終的には鈴木選手に軍配が上がった。ただ、中野選手も世界選手権に選ばれたということなので、こちらでメダルを目指して頑張って欲しい。女子の印象を一言で言えば、やはり「減点されない選手が強い」。もっと言えば、「ダウングレードとエッジ違反を取られない選手が強い」ということだ。今回結果の出なかった中野選手、村主選手に共通しているのは、シーズン前に3回転+3回転などの高難度のジャンプに意欲を見せていたことだ。対して鈴木選手は、徹底したダウングレード対策。昨シーズンの国際大会でダウングレードされたジャンプを組み替えたり、1つ1つをきっちり跳ぶ意識を高めたりして、極力ダウングレードを取られないジャンプ構成で来た。エッジ対策もすばやい。今季ルッツにwrong edge判定が下るや、ショートから外してループを入れてきた。基礎点は下がってしまうが、「加点・減点のマジック」を考えると、基礎点の高いジャンプを入れるより、減点されずにきちんと降りてこられるジャンプを入れるほうが強いのだ。ルッツにもフリップにも連続ジャンプをつけることができ、かつバランスよくジャンプを跳べる選手の強みだ。単独ループは最初に入れたときはダウングレードされたが、次からはきちんと回ってきている。フリーのルッツも2回を1回に変更した。こういうことが臨機応変にできるところが凄い。驚いたのは2A+3Tの連続ジャンプをやめて、3Tからのシーケンスで2Aをつないで、3Tのダウングレードを防いだことだ。シーケンスは基礎点では連続ジャンプには劣り(後半の2A+3T連続ジャンプは基礎点8.25点、後半3Tから2Aのシーケンスでは6.6点)、加点は付きにくいが、1つ1つをきちんと降りてしまえば連続ジャンプよりダウングレードの危険性は少ない。これには、本当に驚かされた。ショートにもフリーにもダウングレードが1つもないというのは、素晴らしいの一言(実は、ちょっと怪しいと思ったジャンプはあったのだが・・・)。・・・浅田選手もこの手を使えばよいのに・・・実は昨季の終わりぐらいから個人的には妄想していたのだ。浅田選手は連続にするとどこかでダウングレードを取られやすい。昨季からそれが目立ってきているし、今季はあからさまに取られている。今回2A+2Tの2Tさえダウングレードされた。今さら遅いかもしれないが。跳躍力のある浅田選手なら3Tにシーケンスで2Aをつけることも、2A+2Aのシーケンスにすることもできるだろうに・・・鈴木選手もシーズン途中で変えることができるのだから、ジャンプの組み換えが苦手な浅田選手とはいえ、シーケンスに変えることは難しくないようにも思うのだ。鈴木選手の表現力も、国際大会ではまだまだ点が出てこないが、際立ったものがあると思う。フリーの最後のステップのなんと生き生きとしていること。あれだけビビットに踊れる選手は世界広しといえど、そうはいない。オリンピックでは、プレッシャーもないことだし、思いっきり伸び伸びと演技してほしい。中野選手は、昨季からルッツとフリップが安定していなかった。ルッツとフリップに対するエッジ違反と回転不足。この課題が、全日本でも克服されていない。今回のフリーでは3つのジャンプに「!」マークで減点。こういう細かいところで違反を取られるとGOEで減点され(あるいは加点が抑えられ)、技術点が伸びなくなってしまう。ただ、後半にもってくるとファーストジャンプが回転不足になりやすい3F+2Tは前半に決めて、昨季までしばしば取られたダウングレードを防いだのはりっぱだと思う。とにかく、中野選手のやるべきことは、トリプルアクセルでも3回転+3回転でもなく、ルッツとフリップの安定。これだけだったのだ。村主選手の課題も3回転+3回転ではなく、ルッツの矯正、ルッツの矯正、ルッツの矯正。これだけだったのだ。昨シーズンの全日本でMizumizuを激怒させた、村主選手のwrong edgeに対する甘い採点。あのようなことをしても決して選手のためにはならない。今回ショートのルッツで村主選手は転倒したが、これは以前から指摘しているwrong edgeをかかえる選手の典型。つまり、エッジを気にして、踏み込みの間に不正エッジに入ってしまう前に離氷しようとするから、回転が足りなくなる。この現象はウィアー選手のフリップでしばしば見られた。男子のトップ選手でも、そうやって跳び急ぐと回転が足りなくなる。村主選手も回りきれずに降りてきて、最悪のダウングレード転倒になってしまった。オリンピックシーズンに短期間でコーチを替えるのもよくない。新しいコーチは、どうしても選手のかかえる根深い問題に気づくのが遅れがちだからだ。ルッツの矯正は年齢的に難しかったかもしれないが、これまでできていない高難度の連続ジャンプに挑戦するよりは、ずっとうまく行く可能性が高かったはずだし、実際エッジ自体はかなり直ってきている。村主選手はケガがあったようだが、ケガも無理な挑戦が引き金になることが多い。ただ、今回はジャンプ構成をきちんと国際大会基準にして、3サルコウも入れて、しかも成功させた(今季はなかなか成功させられなかったジャンプだ)。今季崩れてしまったジャンプを立て直せなかったのは、いかにも残念だが、これも人生。無念というなら、1度も五輪に出ることが出来なかった中野選手のほうが無念だろう。村主選手の実績を世間が無視して、荒川静香ばかりを持ち上げても、Mizumizuは忘れるつもりはない。日本女子冬の時代に、1人でフィギュア界を牽引していたのは荒川選手ではない。村主選手だったのだ。ことにベートーベンの「月光」は、今でも心に残っている。蒼白い月の光が一瞬氷の上に差してくるような表現力。「ハートで滑る」といい続けた村主選手にしか作れない世界だった。安藤選手は、今回もずいぶん体調が悪そうに見えた。単なる疲労であればいいのだが。ファイナルのときは右ひざを痛めていたというし、コンディションが心配だ。それにしても、安藤選手の衣装は毎回凄い・・・。資金が潤沢なんでしょうか?(苦笑)浅田選手は、自爆や転倒がなかったのが最大の収穫。だが、問題は連続ジャンプにしたときのダウングレードだ。今回は、ショート 3A<+2Tフリー2A+2T<3F+2Lo<+2Lo<とダウングレードを取られた。判定は厳しいと思うが、オリンピックではもっと厳しくされるかもしれない。ダウングレードされるところは決まっているのに、毎回同じことをして、ほとんどお約束のように取られている。これは「乗り越える」より「構成を変える」という方向で考えたほうがいいのだが、浅田選手という人は、ジャンプの組み換えが苦手な選手で、何がなんでも正面突破しようとする。ここまで何度も試みてなかなかうまく行かない。後半の3Fからの3連続ジャンプなど、むしろ単独のほうが加点がついて点が出るように思う。あるいは連続も2回なら回りきれるのかもしれない。ショートの単独フリップは、どこからどう見ても文句をつようがなく、実際に加点がかなりついた。自分では降りているつもりでも思わぬところでダウングレードされる。それが今の採点だ。ダウングレードされがちなジャンプは、可能なら避けるほうがいい。「基礎点重視」ではなく、「減点回避重視」のほうが、今のルールでは強い。フリーでは2つともフリップを連続にするのではなく、1つを単独にして、そのかわり3Tから2Aへのシーケンス、あるいは2A+2Aのシーケンスへの連続ジャンプの組み換えというのは、考えられないのだろうか(←くどい?)。セカンドに3トゥループや3ループをつけるのは、ダウングレード判定が厳しくなっている状況では、あまりに危険なので、シーケンス作戦が今からでも間に合う最も現実的な戦略だと思うのだが。今回はフリーでトリプルアクセルを1回にした。あれを2度入れて体力を使うと、後半の3フリップも低くなってダウングレードされてしまう可能性が高いように思う。3A+2Tの3Aのダウングレードは、もしかすると3A+3Tを練習しているうちにファーストジャンプをきっちり降りるという意識が弱くなったのかもしれない。フリーの単独のトリプルアクセルは認定されているのだから、単独なら降りられると見ていい。あとは、回りきってセカンドにつなげるという意識がもてるかどうか。去年成功させているので、不可能ではないと思う。とにかく、3A+3Tはもう練習でも避けるべきだ。3Aを回りきって2Tにつなげる。ショートの課題はそこ。高いレベルの連続ジャンプに挑戦してはいけない。そうすると、また足元の小さな欠点克服ができなくなってしまう。ダウングレード判定は、甘く見てはいけない。キム・ヨナ選手にしても、本当のところ、セカンドの3トゥループが回りきれているのか、Mizumizuはかなり懐疑的だ。またフリーではルッツやサルコウが不足気味になることがしばしばある。女子の3回転ジャンプというのは、だいたいがギリギリなのだ。キム選手だけが絶対的な例外だというのは、ただの思い込みに過ぎない。ダウングレード判定は、スペシャリストによっても違ってくる。キム選手に対して、昨シーズン初めてフリップのエッジにE判定をしたのも、今季のファイナルでセカンドの3トゥループをついに(?)ダウングレードしたのも、スイスの同じ審判だ。ファイナルのショートでキム選手がフリップのエッジに神経質になり(と荒川静香が言っていた)、失敗したのも、「あのジャッジ」という警戒感があったのかもしれない。選手にとって判定に不公平感が生じるのはどうしようもない。キム選手のように選手本人があからさまにジャッジングを批判するのはスポーツマンシップに反すると思うが、あの陣営に今さらそんなことを言っても仕方がない。とにかく、日本選手としてできることは、「自分がダウングレードを取られないようにすること」だ。だがしかし、全日本女子の演技は、みな素晴らしかった。ことに、ショートでの浅田選手の可憐さと上品さは、命の洗濯をさせてもらうかのよう。まさに、氷上に咲いた一輪のピンクのバラ。衣装は目を惹く胸元のディテール――花形の髪飾りとお揃い――に加え、スパンコールを散りばめた繊細なレース使い。あれはほっそりとしたウエストをもった女性にしか似合わない。初舞踏会の初々しさと可愛らしさ、胸はずませる躍動感が、どこまでもエレガントに表現できていた。細い選手は往々にして体力がないが、浅田選手のスタミナは群を抜いている。動作が限りなく華麗で、どの瞬間をどう切り取っても美しい。しかも、これまでなかなか取れなかったスパイラルでのレベル4、ロシア杯に続いてレイバックスピンでのレベル4を取った。もちろんフリーの荘厳な世界も感動的だ。「アウェイ」で戦うバンクーバー。ショートもフリーもオーケストラでジャンジャン音を鳴らすことで、タラソワは浅田選手を守ろうとしている。フリーは繊細なピアノ曲にしてもよかったはずなのに、北米で観客からさんざん冷遇されたロシア選手を見ているタラソワは、音楽の壁を作ることで、浅田選手が自分の表現する世界に集中しやすいようにしたのだ。「下から湧き上がってくるような感動」を、今回はファンの皆さんも味わえたのではないか。
2009.12.28
今回ファイナルも日本だったので、客席の様子にも注目したのだが、案外年齢層の高い女性が多いのには驚いた。最近の日本の景気は中高年の女性が引っ張っていると思うのだが、フィギュア人気もどうやらそうなのかも。あるいは、チケット代が高いので若いファンには敷居が高いのか。しかも、高橋選手に対する応援は熱狂的。ショートのステップで高橋選手が客席に接近すると、最前列に陣取った女性が昂奮している。ショーのときはたまたまかと思ったのだが、ファイナルでも全日本でもいつもそうだ。バンクーバーの男子ショートでもあのあたりの席が確保できませんかね? もしできたら、大輔命のファンの方は、旗振って歓声あげて、大いに盛り上げてくださいな。こんなに人気のある日本人男性スケーターというのは、ちょっと記憶にない。再起が危ぶまれるケガから復帰し、世界トップに返り咲いた。その奇跡的な物語がなおいっそうファンの琴線に触れたのかもしれない。対して、織田選手に対する応援は、明らかにお義理の拍手・・・に見えるのは、気のせいでしょうかね?(苦笑) あの最後の楽しげなステップでは、もっと客席が盛りあげてあげてもいいと思うのだが。表現力の差を明確な数値の差として出すことには、何度も書いたように基本的に反対のMizumizu。だが実際、今季の高橋選手の表現力はケガ前を遥かに凌いでいると思う。もともと音楽やドラマの世界に入り込む能力は日本人離れしていたが、今の高橋選手にはそれを当然のこととして、さらに観客と心を通わせる「コミュニケーション能力」が備わった。モロゾフ振付の世界を演じていた高橋選手は、どちらかというと自分の世界をひたすら構築していた感があるが――というより、振付師モロゾフの作り上げた世界にひたすら献身していたというべきか――今の彼はあのころより自由に、さらに伸び伸びと、観客やジャッジとコミュニケーションを取ろうとしている。昨今の採点で「ジャッジへのアピール」が必要だと感じたのか、高橋選手はさかんに、そのことを口にする。それを意識して、しかも実際に出来てしまうのが凄いところだ。Mizumizuは、ことに「お手玉」をマイムで表現する部分が大好き。高橋選手の手から空中に飛んで、落ちてくる球体が目に見えるよう。思わず視線で追ってしまう。役者ならともかく、ここまで表現できるフィギュアスケーターが、他にいるだろうか?こうした次元に行くには、才能も必要だが、経験も必要だ。子役時代に優れた才能を発揮しても、大人になると俳優として大成しない人が多いのは、当たり前の人間としての「経験」が子役として仕事をしてしまうと欠けてしまうことが多いから。演技力を熟成させるのには、経験が必要。その意味では、高橋選手を襲ったケガは、間違いなく彼を高みに引き上げるのに役立った。また、それを表現するのは肉体なので、過酷なリハビリで下半身を柔らかくしたことも無縁ではないだろう。だが、物事には光と陰がある。得たものも大きいが、失ったものもあることは否定はできない。何といっても、フリーの後半のジャンプを決める体力がまだ戻っていない。ケガ前は跳べた4回転も確率が悪いという。才能はGift、つまり与えられたものだ。本人の努力がどうのと言うが、そもそも才能のない人間は、努力できない。せいぜい短期間努力したとしても、継続することができない。天才とは努力のできる人と同義であって、本人がそれを隠しているか、さほど気にしていないだけだ。才能のある人に「あなたはなぜそんなことができるのか」と聞いても、本人は答えられないことが多い。だからこそ、何か特別なものを与えられたら、代わりに何かを神様に返さなければいけないこともある。体力と4回転を取り戻せるのかどうかは周囲にはわからない。だが、やはり、最終的には金メダルどうこうという「結果」より、プログラムをミスなく滑りきるにはどうしたらよいかという「いちパフォーマーとしての選択」をしてくれればいいと、Mizumizuとしては思う。そのうえでの1つ、あるいは2つぐらいのミスなら仕方がないだろう。「道」は今季、あまりにミスが多い。ジャンプ構成に対して体力がどうしてもついていかない。ある一面で、ランビエールの「ポエタ」を思い出す。だが結論は、あくまで高橋選手次第だ。高橋選手に関しては、短絡的に4回転を外すべきか入れるべきかの二元論では語れない。五輪は選手のためのものであって、本人に悔いが残るのが一番いけない。伊藤みどりと荒川静香の解説を注意深く聞くと、伊藤みどりは、回避策について、「やはり確実に、ということできましたね」と、否定はしないが、積極的に賞賛する言葉は口にしない。逆に高難度ジャンプに挑戦して失敗しても、「でも、挑戦してきましたからね」と必ず暖かいエールを送る。一方で、荒川静香は回避策に関しても、「これはいい判断だったと思います」と評価してあげている。この温度差は、2人の五輪での「結果」にあると思う。回避策で荒川選手が金を獲ったのは周知の通り。一方のアルベールビルでの伊藤選手は、ショートで調子の下がった3Aを外す決意をして換わりに入れたルッツで失敗した。この選択は、山田コーチによれば伊藤選手自身が下したものだったという。だが、本人のためではない。「自分のことだけだったら3Aを跳びたい。でも、日本を代表して来ているからには順位を取らなくては」と伊藤選手がコーチに言ったという。あのときに自分のアイデンティティでもあるトリプルアクセルに挑戦しなかったことは、口には出さないにしても、伊藤みどりの心に長く、苦く、残ったことは想像に難くない。Mizumizuは「ジャンパー包囲網」とも言える現行ルールのもとでもなお、日本のメディアが煽っている大技信仰には賛成できないが、といって、信仰を持つ人を否定はできない。高橋選手は、4回転を試合で一度も決めていない(しかも、恐らく次の五輪も狙える)小塚選手とは状況が違う。以前はできたことなので、それを取り戻したいと思う気持ちについて今はもう批判めいたことを言う気にはなれないし、実際に、スピンに関しては、あれだけボロボロだったファイナルから短期間で見事に立て直してきた。ステップもレベルを揃えた。織田選手に関しては、4回転が武器になるか足を引っ張るか、まだ微妙な線にいると思う。今回の結果を見ると、やらないほうが点が出るように思うが、オリンピック本番の日の調子やショートの順位にもよるかもしれない。織田選手は去年ほど4回転に固執していない。入れずに今季結果が出てるからだと思う。「コーチと相談して決める」と言っている人なので、2人の選択に任せるべきだろう。ジャンプというのは「できる」はずのものでも、失敗することがある。伊藤みどりが、「跳んでみないとわからない」と言ったが、天才ジャンパーが言うのだから間違いはないだろう。小塚選手に関しては、4回転など問題外だ。今回4回転を入れなくても後半で体力が持たなかった。ジャッジングに関しては、今季はエレメンツのレベル取りも厳しく、エッジ違反も厳しくなっている。男子でもジャンプが低いとダウングレードされる。今季の小塚選手は、振付が昨シーズンより難しい。そうした状況にもかかわらず、4回転を入れ続けたことが、今季の成績不振につながった。今回は国内大会なので、演技・構成点も出てきたが、国際大会での低い評価は、正直不当ではないかと思うぐらいだ。昨シーズン最後の世界選手権では、織田選手と小塚選手の評価にそれほど差はなかったのだ。今季に入ったら、伸び盛りのはずの若い小塚選手は1戦目から演技・構成点が低く、2戦目では自爆してしまい、織田選手は確実な演技を見せ付けて点を伸ばし、ファイナルでは2位に入った。対照的な結果になっている。小塚選手本人が自爆を繰り返していては、下げてくれと言っているようなものだ。ミスをしても演技・構成点を高くもらえる選手もいるが、小塚選手はその域には達していない。彼はコーチの指示をよく聞く選手なので、コーチ陣が冷静な判断をして、五輪に向けて調整してほしい。「これが決まれば点どうこう」より、いい演技をしなくては。ギターの音を表現することに徹底的にこだわった今季の作品は、派手でもなく、残念ながら思ったほどジャッジの評価も高くない(これは、評価のトレンドと合わなかった面もある)が、素晴らしいチャレンジだと思う。全日本ではショートは見ごたえがあったし、フリーも前半は傑出していた。上半身の動きもよくなった。フリーの後半バテて、「なんとかジャンプ跳ばなきゃ」になってしまうのが、Mizumizuとしては、何とも残念なのだ。
2009.12.27
全日本男子フィギュアが終わった。一言で印象を言えば、高橋大輔選手という人は、本当に、真から「華」のあるスケーターだということ。彼が滑ると他の選手はすっかりかすみ、ほとんど「前座」になってしまう。今季のショート「Eye」とフリーの「道」は、高橋選手のこれまでのプログラムの中でも傑出している。「フリーをまとめることさえできれば」という前提つきだが、フィギュアスケート史に残るエポックメイキングな傑作になるだろうに。一方で強く感じたのは、今季はやはり、競技者として本当に強いのは高橋選手ではなく織田選手だということ。今回の試合で、Mizumizuが注目していたのは・・・高橋選手のフリーのまとめ具合「まともに滑れなかった」とモロゾフに酷評されたファイナルの次の試合、今季5回目の試合で、どれだけの演技が出来るか。もっと具体的に言えば、次のような優先順位になる。1)体力がもつかどうか(実際には、スピンもステップもジャンプも、これにかかっていると言える、極言すれば、問題はそれだけなのだ)。2)スピンとステップでのレベル取りができるか。ステップはレベル3を揃え、スピンもできればレベル3以上を揃えたい。世界トップ選手と比肩するだけのレベル取りに彼はこれまでしばしば失敗している。3)スピンでのGOE(質の評価)での減点を防げるか。難しいポジションで回るあまり、軸が広がってしまったり、流れたりでGOEで減点されることがあった。これは非常にまずい。4)ステップやスケーティング部分で、足がついていくか。ときどき変なところで躓いたり、エッジを引っ掛けたりする小さなミスが目立つ。5)4回転を入れることは公言している高橋選手だが、練習での成功率を聞くかぎり、本番で決めるのはまず9割がた無理。となると、4回転を入れたあとの失敗パターン「次に難しいトリプルアクセルで失敗する」「後半のいつも跳べるジャンプで失敗する」をどれだけ防げるか。特に高橋選手の場合、後半の連続ジャンプのセカンドと単独のループが危ない。織田選手織田選手に関しては、高橋選手に比べると課題はかなり少なかったのだが・・・1)4回転は成功するか否か。練習での成功率も高橋選手より高いし、昨シーズンの世界選手権で成功させている。もし、今回の全日本で4回転を成功させる選手がいるとしたら、それは織田選手だと思っていた。2)4回転を入れたあとの失敗のパターンを防げるか。特に今季なかなか2つ揃って決められないトリプルアクセルをきちんと降りられるか。このぐらいだったのだが、あとは強いて言えば3)スピンをレベル3以上でまとめたい。高橋選手に比べると、課題は非常に少ない――ファイナルで銀メダルの実績が示すとおり、完成度がもともと高いのだ。小塚選手小塚選手は、「理想追求型」の最も悪いパターンに、ファイナルのかかったNHK杯ではまってしまった。次々とジャンプを失敗した悪夢を払拭し、今回ジャンプを立て直せるかどうかに着目した。具体的には・・・1)小塚選手にとっては、もうどう考えても「バンザイ突撃」でしかない4回転を外す勇気があるか。あるいはまだ固執するのか。2)2度のトリプルアクセル。これも去年なかなか2つ揃えて成功できなかった。そして、後半のジャンプはちゃんと降りられるか。3)ステップのレベルを2から3に引き上げられるか。ファイナルフリーのプロトコルはこちらhttp://www.isuresults.com/results/gpf0910/gpf0910_Men_FS_Scores.pdf全日本フリーのプロトコルはこちらhttp://www.skatingjapan.jp/なので、見ていただければわかることだが、高橋選手に関して言えば、ファイナルよりは段違いによかったと思う。だが、厳しい言い方をすれば、それは「まともに滑れなかったファイナルに比べれば、だいぶまともに滑れるようになった」というだけで、あのジャンプのミスの多さで五輪でのメダルを期待するのは、かなり難しい。今回フリーでも高橋選手が織田選手の点を上回ったのは、演技・構成点を「爆上げ」したからだ。フリー 高橋 技術点79.98+演技・構成点88.3=168.28織田 技術点85+演技・構成点80.7=164.7こういう演技・構成点の付け方をみると暗澹となる。演技・構成点は基本的に主観点なのだ。1位と2位で8点もの差。これでは、エレメンツの質をあげようとコツコツ努力をしても報われない。去年の全日本の男子フリーで1位の織田選手と2位の小塚選手の演技・構成点の差は2.4点だった。繰り返すが、点や点差が妥当か妥当でないかという論争は、まったく不毛なのだ。ファンであれ、ジャッジであれ、自分が評価する選手の点ならいくら高くても「妥当」あるいは「やや高め」程度に思える。自分が評価しない選手の点が高ければ、「高すぎる」「非常識」と感じる。点差についても、「質や出来に差がある」のはわかるにせよ、その差を数字化して「2点差」なら妥当か「5点差」なら妥当か、「8点差」でも妥当かという話になれば、まったくの水掛け論だ。ということは、オリンピックで、「素晴らしい振付で、素晴らしい演技をした」とジャッジが判断すれば、日本選手を低く、チャン選手や、あるいはライザチェック選手を「非常に高く」付けられても、文句は言えないということにもなる。「道」に関して言えば、もちろん類のないほど素晴らしいプログラムだし、高橋選手ほどの演技性・パフォーマンス力を発揮できる選手は、ほとんど見たことがない。だから、88点という演技・構成点も妥当だと言えば妥当と言えてしまうが、それはあくまで「ホーム」での話。パトリック・チャンの本拠地であるカナダでは観客のノリも違ってくるし、同じような評価をしてもらえるかどうかわからないのだ。素晴らしいパフォーマンスをしても、点が「変に低く抑えられている」選手はいくらでもいる。今回の全日本では、「高橋選手を勝たせたい」という力学が働いたのは明らかだろう。そもそもシンボルアスリートがオリンピックに出ないのでは、話にならない。ショートで見てるファンが「はあぁ~?」とひっくり返るような点差で2位以下を引き離し、フリーでは演技・構成点を高くして、ミスが出ても逃げ切るというのは、キム・ヨナ選手やロシェット選手のパターンにそっくりではないか。採点はこんなもの。なので、実際のところの選手の課題克服具合はどうだったか見てみよう。まず高橋選手1)体力――ファイナルより段違いによかったが、結論としては、やはり体力不足が後半のジャンプの乱れに出た。だが、その他は大きなミスもなく、情感もこもった素晴らしいパフォーマンスだったのではないか。正直に言うと、Mizumizuの予想を遥かに超えた出来だった。2)スピンとステップのレベル取り。これも文句なし。国内大会で、ある種の「力学」が働いたことを考えると、このレベル認定をそのまま信じていいものか、若干不安はあるし、ショートのステップのレベル4は、「お手盛り」感があるが、あれだけアラの目立ったスピンを、ミスなくまとめてきた。素晴らしい。驚異的だ。3)スピンでのGOEマイナス。ショートとフリーでまったくゼロではないが、これだったら問題はないと思う。Mizumizuが個人的にいつも非常に気になっていた、フリーのFCCoSpの最後の軸の流れも、今回はなかった。4)変なところでの躓きやエッジの引っ掛けも今回は気にならなかった。よく気持ちをコントロールしていたと思う。5)4回転を回りきれないのはわかっていたが、転倒しなかったのにはホッとした。続く2つのトリプルアクセルも素晴らしい出来。だが、やはり後半になるとジャンプの着氷が乱れる。心配していたループはやはり減点着氷。ルッツもダメ。連続ジャンプは3F+3Tをなんとか降りたのみ。気になるのは、ルッツを1つ連続にできなかったことよりも、片方のルッツについてしまった「!」。アテンションとはいえ、エッジ違反を取られたのは初めてではないだろうか。これは要注意だ。何度も言うが、今のルールは、「減点されない選手が強い」。高橋選手はトリプルアクセルを前半に跳んでしまうかわりに、ルッツを2つ後半に持ってくる。トリプルアクセルは体力のある前半なので跳べるが、次に難しいルッツは後半跳べなかったと見るべきだろう。つまり、「4回転を入れるとはまる失敗のパターン」から今回も抜け出せなかったということだ。織田選手1)4回転は回転不足のまま転倒。非常に悪い結果だった。2)だが、それ以外のジャンプは全部降りた。課題のトリプルアクセルも2つ決めた。強いて言えば、4回転の直後のトリプルアクセルが低くなっていたように思う。だが、「お休み」をうまく入れた後半では、逆にジャンプの高さを取り戻し、結果、すべてのジャンプに加点がつく、超・超素晴らしい出来。4回転を入れるとはまる失敗のパターンに、まったくはまらなかったのだ。高橋選手とはここが違うし、この差は、ハッキリ言ってとてつもなく大きい。プルシェンコを除く、現世界のトップ選手が、ほとんど全員このパターンから抜け切らずにいるのが現実なのだから。3)スピンもステップも文句なしのレベルを揃えた。小塚選手1)4回転はさすがに外してきた。遅きに失した感はあるが、「基礎点の高いジャンプで点を稼ぐ」という理想が、幻想だと気づいたのは収穫だろう。4回転というのはただの1つのエレメンツに過ぎない。武器になるか足を引っ張るか、きちんと見極めなければ、プログラムはキズだらけになってしまう。今回は目に見えてプログラムの完成度が上がった。2)2度のトリプルアクセルを見事に決めたのは最大の成果。だが、後半のジャンプはダブルになったりシングルになったり、おまけにフリップにアテンションが付いた。小塚選手は、今季は確か2度目?。エッジ違反判定は今年、どうも厳しくなっている気がする。これも気をつけないといけない。3)ステップのレベルはSlStがショート、フリーともレベル1。これはいけない。ショートはちょっとしたアクシデントのせいかもしれないが、フリーが大問題。これも体力不足が原因かもしれない。どちらにしろ、まだステップのレベルが揃えられないというのには、頭を抱えてしまう。要するに、競技内容としての完成度が高いのは、どう考えても織田選手なのだ。フリーの「チャップリン・メドレー」は、織田選手の欠点を補い、長所を目立たせるようよく練られた作品だと言える。だが・・・まあ、これは主観もあるかもしれないが、高橋選手の「道」が始まると、すっかり色褪せる感がある。「道」は振付もシングル選手のフリーとしては革新的だが、やはりパフォーマーが天才なのだろう。モロゾフはファイナル後に、安藤選手の「クレオパトラ」を自画自賛した。計算高いモロゾフらしい上手いプロパガンダだ。つまり、プログラムというのは「評判」で印象が変わってくる。ファイナルで安藤選手のフリーの演技・構成点は、キム選手にかなり接近した。そのタイミングを見計らって、「評判」をさらに高めようとしているのだ。モロゾフは、「高橋選手がフリーを滑りきれないことはわかっていた」とも言っていた。そうだろうと思う。実際、ファイナルのフリーは体力がまったく持たずに傷だらけ。だが、「道」に対して、自作の「チャップリン・メドレー」が優れているとは、間違っても口にしない。というより、できないのだ。短所を補い、長所を際立たせるという振付の熟練度では文句のつけようもないにもかかわらず、結局のところ、織田信成の演じる喜劇王の物語は、高橋大輔の道化師の物語には及ばない。私見では、大人と子供ぐらいの表現の力量の差がある(織田選手のファンの方、ごめんなさい)。う・・・文字制限・・・続きは明日
2009.12.26
むかしむかし・・・誕生日プレゼントにイギリス製のデミタス・カップ&ソーサーを父に買ってもらった。イギリスでではない。山口のデパート。今はもうなくなってしまったが、「ちまきや」という、市内で唯一のデパートだった。ミントン社の製品で、カップの裏を見たら、Grasmere(グラスミア)とあった。詩人ワーズワースが住んだというイングランド北西部の小さな村だ。ゆかしい名前を持つデミタスカップ。確かちまきやで父と一緒に選んだのだと記憶している。そのときにお揃いで使えるデザートプレートがないか聞いたのだが、そもそもそのデミタスカップ自体が一点しかなく、お皿はないという話だった。模様は華麗だが色味は落ち着いている。グレーブルーのパターン模様はハンドペインティングではない。基本的には量産品だと思われた。メーカーのミントンもよく知られている。なので、ちまきやにはなくても、都会のデパートに行けばあるような気がしたし、そのうちイギリスに行ったらついでに探してもいい・・・そんな気持ちだったように思う。ところがところが。東京のデパートの洋食器売り場に行っても、ミントンのグラスミアシリーズというのは、全然見当たらない。その後イギリスに行く機会もあったが、行ったら行ったで観光が中心になるので、落ち着いてミントンの食器など探す時間は取れなかった。デパートの食器売り場をちょっと覗いてみたりしたが、「ありふれたもの」という予想を裏切って、さっぱり見当たらない。Mizumizuは自分でカップを買うときは、だいたいデザートプレートとセットで買う。スイーツとコーヒーあるいは紅茶を出すときに、カップと皿がちぐはぐだと――我ながら少しばかり神経症的だとは思うのだが――気分が悪いからだ。少女時代に父から買ってもらったデミタスカップは相棒のデザートプレートがなく、なんとなくあまり使わないまま棚にポツンと置かれているのが、少し可哀想なのだった。気にはなっていたのだが、「そのうちに・・・」とほったらかしている間に、長い時間が経ってしまった。なので、とうとう決心して、ネットで同じグラスミアシリーズのデザートプレートを探してみることにした。ところがところが。いくらでもヒットしてくるだろうと思いきや、これが全然ないのだ。どうやら日本のショップで新品が売られているということはないらしい。海外のサイトで見たところ、ミントン社のグラスミアシリーズは1974年から1998年まで生産され、現在は廃盤になっているということがわかった。Mizumizuがデミタスカップの相棒に欲しいと思っているデザートプレートはだいたい20センチぐらいが相場。その海外のサイトではサラダプレート扱いになっているのが目指す品のようで、値段は33.99ドル。ともかく海外ではかなり大量に出回っているということだ。なら日本のネット個人オークションはどうかとしばらく見張ってみたが、ヤフーにも楽天にも出品されてこない。最後の手段で古物商を当たった。すると一軒だけ、鎌倉の古物商が扱っているのを見つけた。そのサイトの説明では当該プレートは日本未発売で英国で購入したものだと言う。日本未発売?しかし、Mizumizuが同じグラスミアシリーズのデミタスカップを買ったのは、日本なのに・・・ しかも、海外のサイトもその日本の古物商も、脚付きのカップは売っているが、Mizumizuが買った円筒形の小さなデミタスカップはまったく扱っていないのだ。どういう経緯で、あのデミタスカップが日本に輸入され、しかも山口のデパートの陳列棚に並んだのか?逆にそれが不思議に思えてきた。「量産品」と侮っていたが、案外レアなものだったのだろうか。とにもかくにも、相棒プレートを見つけたからには買わなくては。ありがたいことに鎌倉の古物商がつけたプライスは2100円(送料は700円・割れ物保証付き)と、かなり安い。申し込むと、あっけないぐらいすぐに送られてきた。ずいぶん長いこと心の隅に引っかかり、デパートの食器売り場を歩くたびに、「あ、そういえば、グラスミアはないかな?」と気にしていたのは何だったのだろうというぐらい、あっけなく。繊細で貴族的な柄なのに、色調はどこか陰鬱。華やかなのに暗い――この二律背反が、いかにもイギリス。こうしてめでたく、むかしむかしに買ってもらったデミタスカップは、相棒プレートと一緒になったのだった。鎌倉の古物商は、「アンティーク」と言って売っているが、それはちょっとオーバーだと思う。だが、周囲の金彩が、この値段の量産品にしては、かなりしっかり厚く塗ってあり、劣化したりハゲたりしていないのは、たいしたものだと思った。そういえば、Mizumizuが買ったデミタスカップの金彩も、時間が経っているわりには剥落がない。いい仕事をしているということだろう。地の色はクリーム色で、プレートもカップも厚味がある。イギリスの磁器はフランスの磁器に比べると地の色が柔らかい。アヴィランド(リモージュ)の青ざめたような白地にもフェティッシュな魅力を感じるのだが、イギリスのウエッジウッドの乳白色、そしてこの「やや古い」ミントンのクリーム色の地色も暖かみがあって気に入っている。
2009.12.25
パークハイアット東京のペストリー・ブティックは、いつ行っても客足が途絶えることがない。どれを買ってもハズレた印象はないが、秋冬のお楽しみは、やはりモンブラン。ここのモンブランは、まさしく栗が主役。茨城県の岩間産と、栗の産地まで表示されている。たっぷりかかったマロンクリームは、和栗の濃厚な甘さを十二分に味わわせてくれる。一見、「台」がないように見えるが、メレンゲの生地がマロンクリームの底に隠れていて(量はかなり少ない)、歯ごたえのアクセントを加えている。ただ・・・メレンゲの底生地を型に接着させるために、チョコレートが使われているのが、個人的にはいただけない。少量だが、甘く濃厚なチョコレートなので、返って栗の風味を損ねている。こちらはクレームダンジュ。マスカルポーネチーズに生クリームを合わせた純白のルックスが魅力のスイーツ。中にラズベリーソースとスポンジ生地が仕込んである。ぐちゃっとした柔らかいスイーツで、マスカルポーネの濃厚さとラスベリーの甘酸っぱさは、一緒に食すとなんともお似合い。Mizumizuの場合、大好きなチーズを、脈略なく思いつくままに挙げてみると・・・フランス・・・シェーブル、ブリー、フローマジュブランイタリア・・・マスカルポーネ、ブッラータと、かなりクリーミー系(という分類はないと思うが)に偏っている。フロマージュブランは果物のソース、マスカルポーネは蜂蜜や黒蜜、あるいはエスプレッソ風味の甘いソースなどと一緒に食べる。ブッラータだけは、日本で食べたことがない。一度買ったら、明らかに腐っていた(その顛末についてはこちらをどうぞ)。これだけは、やはりイタリアのプーリアで食べなければ、と思う。日本でも最近美味しいチーズが食べられるようになった――以前の日本は、チーズといえば、プロセスチーズという国だった――が、そうはいっても、値段は高いし、味はもうひとつ。輸入品は保存が悪いのか、味が別モノになってしまっているものも多い。フレッシュチーズを食べに、またイタリアに行きましょか(←かけ声ばかりで、全然実現できない)。
2009.12.24
東京という街はおもしろい。クール&モダンなビル群が林立している脇で、江戸の風情の残る古びた路地も残っている。最先端のデザイン性を追求した空間を歩くのも楽しいし、ゆかしい坂にいざなわれて、時代を忘れるちょっとした迷宮に遊んでみるのも捨てがたい。だが、どうにも陰鬱で虚無な空間もある。その多くは、あのむなしいバブルの時代の遺産だが。東京で「好きになれない」場所というのもいくつかあるが、そのうちの1つが案外行く機会の多い西新宿のビルの1階。1泊7万も取る高級ホテル、パークハイアット東京のグロッサリーストアと、デザイン性の高い(ついでに値段もバカ高い)小物を売っているコンランショップの間、ここに広がっている空間は、実に近代的で、実に無機的だ。いつもここに来ると、地下の駐車場に入るだけで、巨大な霊廟に飲み込まれていくような気分になる。駐車場からエレベーターで1階に上がってくると、目の前に広がっているのが、このバカバカしいほどデカいロビー。案内嬢がきちんと座ってるのさえ、一種の虚構に見えてくる。こういう空間でも、生きた人間が頻繁に行き交えば、もう少し体感温度が上がるのかもしれない。だが、いつ行っても人が全然いない。内装に使われている素材も、どこまでも冷たく、無機的で、ヤケに明るい蛍光灯の白っぽい光に照らされて、何もかもが白々しく、無価値に見える。こういう空間は、ちょっと歩くだけでひどく疲れる。ところがところが。ここから、ホテル棟に移って、ほの暗いグロッサリーストアに入ると様子は一変するのだ。美味しい惣菜やパン、チーズといった軽食を置いている店内は、いつも人で賑わっている。要するにこのビル、人がいる場所とまったくいない場所に極端に二分化されているということ。賑わうグロッサリーストアを抜けて、コンクリートで固めた中庭からコンランショップのある商業棟の1階に移ると、またもパッタリと人がいなくなる。天井から吊るされた装飾は、巨大なエチゼンクラゲのようで、オシャレなつもりでデコレートしたのだろうが、人気のない冷たい空気の中では、いっそ不気味だ。エスカレーターを上って2階に上る。そこから見るコンクリート漬けの中庭。デザインだけ見れば洗練された都会的な中庭だといえるかもしれない。だが、この広場で、どうやって人が人間的な気持ちになれるというのか。寒々しいのは真冬だからというばかりではない。あくまで人工的で、どこまでも殺風景。人が立ち止まって安らぐことを拒否するような「モダン」なデザインの中庭は、ただ足早に通り抜けるしかない。東京の街角で人々をひきつけているイルミネーション装飾もない。コンクリートの平面と凹凸面が、都会のもつ虚無性を強調するばかり。あまり居心地のよい中庭――あるいは人が付け入るスキのある空間というべきか――にしてしまうとホームレスが集まってきて迷惑だとか、そうした懸念があるのかもしれない。ここにクルリと背を向けて、コンランショップの中に入れば、不思議と人がいるのだ。売れているかどうかは定かではないが、奇抜なデザインの小物類の並んだコンランショップは、見て歩くのは楽しい。ショップ内は、音楽をかけて、外界とはまったく異質の世界を演出している。パークハイアット東京の上階も同じように、自己完結したそれなりにオシャレな空間を持っている。41階(!)にあるラウンジやバーは、摩天楼都市東京の景観を存分に楽しませてくれる。ここもやはり、人がいないということはない。だが、その足元がこんなにも虚無的だということに、(主に白人の)ホテル宿泊客は気づいているのだろうか。繁華街新宿に至近で目の前が公園だと言えばひどく聞こえがいいが、その公園は実は悪名高いハッテン場。このビルは都庁にも近く、新宿駅まで遠くはないのだが、と言ってぶらぶら歩いて楽しい道だとは到底言えない。いつも車で行くのだが、ビルの谷間に作られた広い車道の脇の、これまただだっ広い歩道は、ほとんど人が歩いていない。こんなにも人が歩かないのに、なぜあんなにも広い歩道を作ったのか。まったくもってちぐはぐだとしか言えない。ここは田舎ではない、東京でも屈指の繁華街・新宿のすぐそばなのだ。新宿駅に向かう途中、周囲の寂しさをむしろ強調するような寒々しいイルミネーションや、邪魔なだけの無意味なオブジェが道の脇に現れるのだが、それを見ると、ますます歩きたいという気持ちが失せてくる。いくらホテルやショップが高級でも、こうも周辺の環境が人工的で無機的では、魅力は半減してしまう。こうした人間味のない開発は、時代が悪かったのか・・・いやむしろ、この西新宿の土地そのものが呪詛的な性格を秘めていて、ヒューマニスティックな暖かみがとことん拒まれてしまったのではないか。新宿中央公園が、「そんな場所」になってしまったのも、この土地に何らかの因縁というのか、ある種の磁場があるからではないのか。昔ここらあたりに何があったのか、古地図で調べてみたくなる。
2009.12.23
よく飲むハーブティーは、自分でブレンドする。比率は5:4:1・・・5はペパーミント4はレモングラス1はレモンバームレモンバームは少し量を多めにすることも。ペーパーミントの清涼感とレモングラスの爽快感、ほのかに交じるレモンバームの芳香。味はどこまでもさわやかで、キレがある。Mizumizu連れ合いはこのハーブティーが大のお気に入り。仕事中に飲むと頭がすっきりするのだとか。頭が冴えるといっても、覚醒するのとは違う。筋肉・・・あるいは血管がほぐれる感じで、鬱々とした気分にも効く。12月は超多忙なMizumizu&Mizumizu連れ合い。1日数件ある締め切りに、毎日追われている。ハーブティーの力も借りて、なんとか乗り切りましょう。仕事が一段落したら、ゼッタイに南の島で静養する!やってられるか~、仕事ばっかり!落合ハーブ農園 オリジナルブレンド ハーブティ 10g レモングラス、レモンバーム、スペアミント、レモンバーベナー、ペパーミントのブレンドティーです。【日用品屋】落合ハーブ農園 オリジナルブレンド ハーブティ 10g【※キャンセル・変更不可】【日用品屋】と記載のある商品のみ同梱可能です。
2009.12.21
エキストラバージンオリーブオイルは阿佐ヶ谷のブオーノイタリアで量り売りで買っている。ここのオリーブオイルはイタリア中部のウンブリア産。ピリッとした辛さが特徴のかなり個性的なオイルで、気に入っている。が、実は、基本的にはエキストラバージンオリーブオイルはもっと南のもののほうが好き(苦笑)。イタリア旅行をして、オリーブの老大木の堂々たる姿に驚くのは、やはりプーリア州やシチリア島なのだ。南のオリーブオイルは、ざっくり言ってしまうと、もっとフルーティだというイメージがある。油というよりジュースに近くなってくる。高級スーパーには瓶詰めのものが売られているが、できれば量り売りでフレッシュなオイルを売ってくれる店で買いたい・・・と思っていたら、さすがにそこは、何でもある東京。世田谷区砧に、シチリア産のエキストラバージンオリーブオイルを量り売りしてくれる店を見つけた。その名も「ダ・ノンナ」。オリーブは11月が収穫の時期。なので、今の時期は絞りたてのオリーブオイルを買うのにはちょうどいい。そう思って行ってみたら案の定、「12月5日に届いたばかり」というフレッシュなエキストラバージンが売られていた。住宅街の一角にある、小さいけれどセンスのいい店。芸能人が大好きな世田谷の高級住宅街には、こういう店が珍しくない。エキストラバージンオリーブオイルは、鮮度が命。重宝がって台所の隅に置きっぱなしにしておくと、味がガタ落ちになる。日本の高級スーパーで売られている高級エキストラバージンオリーブオイルがどうももうひとつなのは、鮮度に問題があるのだと思う。こちらが、11月にシチリアのカルタニセッタで絞ったばかりだという、正真正銘フレッシュなエキストラバージン。これで1743円ってのは・・・ハッキリ言ってかなり高い。値段から考えれば阿佐ヶ谷の店ほうがお得感がある。何でもそうなのだが、杉並より世田谷のほうがモノの値段が一段高い。芸能人が好んで住むあたりになると、郊外――という言い方が適当かどうかわからないが、とりあえず、都心ではない――なのに港区並みの物価になる。肝心のお味は・・・うん、うん。想像したように、ウンブリア産(阿佐ヶ谷)のものよりフルーティ。最高級とは言わないが、かなり次元の高い農家から仕入れていることは間違いない。エキストラバージンオリーブオイルというのはワインと似ていて、値段が高いもののほうが基本的に美味しい。だが、日本で売っているモノは現地とは値段が逆転したり、反対に差が極端に開いたりすることがある。長持ちするものでもないし、農家によって生産量も違ってくる――つまりインポーターからすれば、仕入れの量が制限されるということ――し、このあたりは致し方ないといったところか。透明な入れ物だと、光が入って酸化しやすい。なので・・・スペインのトレドで買った、素朴な陶器の入れ物に移しかえた。普通はVマーク=バルサミコ、A=オリーブオイルだと思うのだが、我が家では両方ともエキストラオリーブオイルで、ウンブリア産とシチリア産それぞれ直輸入のフレッシュな味が楽しめることになった。贅沢な時代だ。お店情報:ダ・ノンナ世田谷区砧3-2-22 電話:03-5494-7437営業時間 平日:午前11時から午後8時、土日祝:午後1時から午後8時
2009.12.19
日本人のマネッコの上手さにはいつも驚くが、ピッツァに関してもそれが言える。昔はイタリアに行くと、石釜で焼いた本場のピッツァを食べるのが楽しみだった。それがいつの間にか、石釜ピッツァは日本でも珍しいものでなくなり、味も本場にひけを取らないものがどんどん登場してきた。「モッツァレッラ・ブファッラ(水牛のモッツァレッラ)」なんてものも、幻の素材だと思っていたら、あらあら、Mizumizuにとって日本の田舎を代表してる(←失礼!)山口県山口市のレストランでも空輸のモッツァレッラ・ブファッラが食べられるではないか。ただし、さすがにいかな空輸とはいえ、味はかなり抜けてしまったシロモノだが。まだ石釜ピッツァが珍しいころは、ビールを併せて注文し、フォークとナイフでピッツァを食べてるだけで、「あ、イタリア帰りですか?」と言われたものだ。そう、イタリアのピッツェリアでは、普通ピッツァを手でつまんで食べることはない。ナイフで切ってフォークで口に運ぶ。そして、ワインではなくビールと楽しむ。・・・と言い切りたいところだが、実はちょっと自信がない。ピッツァ=ビールというのは、イタリアにいる間になんとなく「そういうもの」だと刷り込まれただけで、ピッツェリアのイタリア人客誰も彼もを注意して観察したわけではないからだ。よくイタリアで日本人が食事のあとにカプチーノを飲んでる姿も、相当変な気がする(普通はエスプレッソで締める)のだが、日本で日本人がピッツァにワインを合わせてるのも、なんだかちょっと変に見える。どうして、と聞かれると、「うッ・・・」と詰まるのだが、やっぱりピッツァには水っぽいビールだと思うのだ。荻窪には、石釜ピッツァの店が複数ある。クリスピーな生地で有名なのは、「ラ・ヴォーリア・マッタ」だが、ナポリ風のふわふわ生地で美味しいピッツァを出すのが、Pizzeria da Giovanni (ピッツェリア・ダ・ジョヴァンニ)。マルゲリータ、クワトロフロマッジなど、シンプルなピッツァを好むMizumizuは、マルゲリータ・フレスカを注文。「フレスカ」とはフレッシュのことで、普通のピッツァ・マルゲリータがトマトソースを使うところを、生のトマトの薄切りを使っている。フレスカのほうが多少値段が張る。普通のトマトソースのものも食べたがどちらも十分に美味しかった。少し焦げているのが、いかにも石釜直火ピッツァらしい。イタリアだともっと全面焦げ焦げのものを平気で出してくる店もある。もちろん、抗議すれば焼き直してくれるが、黙っていればそれでOKだということになる。合わせたビールはやはりイタリアの「ナストロ・アズッロ」。イタリアでは多分、一番飲まれている、クセのない軽いビールだ。隣りの客も向こうの客も、やっぱりピッツァと一緒にワインを飲んでいる。地元客相手にやっているイタリアの夜のピッツェリアは、日本のピッツェリアよりずっと開放的な雰囲気で、たいてい若い男の子がビール片手に大騒ぎしているのが、日本のピッツェリアは大人しいカップルや家族連れ。味はイタリアのピッツァそのものだが、そこに広がっている風景がなんとなく違う。
2009.12.16
名店パスティッチェリア アベのあとを引き継ぐようにして開店した、パティスリー ヴォワザン(Voisin 〒167-0043 東京都杉並区上荻2-17-10. Tel 03-6279-9513)。黄色い背景色に白抜きのエッフェル塔のシルエットが目印。店内にもエッフェル塔グッズがたくさん。オーナーはフランソワ・トリュフォーか?(笑)Mizumizuの家からもっとも近いケーキ屋さんで、ときどきお世話になっている。まだ若い職人さんが奥に2人、売り子の女性が1人。12月の繁忙期にはアシスタントさんを何人も従えて、せっせとケーキを作っていたアベ時代の賑わいに比べると、まだ少し寂しいが、上質の材料を使った丁寧なスイーツを出す店だと言っていいと思う。Mizumizuのお気に入りは、フロマージュ。ふわりとした軽い口当たりではなく、濃厚かつクリーミーな味を追求した逸品。かなり酸味が強いのは、中にはさまれたパッションフルーツの量が多いから。これが効きすぎてクリームチーズの風味が少し犠牲になっているかもしれないが、Mizumizuはクリーム層と分けて口に運んで、風味の違いを楽しんでいる。底に敷かれた、粗く砕いたクッキーもしっかりした歯ごたえ。繊細というより、むしろ昔ながらの素朴な味のレアチーズケーキの系統。モンブランは、なんと注文をしてから作る。底のメレンゲのふんわり感がクリームで湿ってしまわないようにとの配慮からだと思う。メレンゲの量がかなり多く、糸状に巻かれたマロンクリームの中は、上質な生クリームがたっぷり。いくらローソンが頑張っても、やはりホンモノのケーキ屋の選ぶ上質な生クリームにはかなわない(笑)。上に飾ったマロンの砂糖漬けには、手をかけているそうな。なのだが・・・このモンブラン、肝心のマロン風味が少し弱い気がする。モンブランなのに、生クリームとメレンゲの印象が強いのは・・・生クリームが美味しいから、それでよいと言えばよいのかもしれないが、隠しマロンを生クリームの中に入れたらもっとインパクトの強いモンブランになるのでは・・・と思わないでもない。ただ、そうすると、材料費が上がっちゃって難しいのかな。アベも生クリームは、非常によいものを使っていた。ヴォアザンの生クリームも同じ味がするのは、仕入先が同じせいだろうか? 生クリームが美味しいから、当然フレジュも美味しい。ただ・・・上にトッピングされた苺、見た目は文句ないのだが、ちょっと味が抜けていた。生地のしっとり感は、完璧。マカロンもあり。モナコ公国から運ばれてくるラデュレのマカロンもいいが、近所に本格的なマカロンを作ってくれる店があるというのも贅沢なこと。フィナンシェ・オ・ヴェルジョワーズ。ヴェルジョワーズとは、ビートから作る褐色の砂糖。日本人が作るフィナンシェらしく、繊細で優しい味だが、噛むと独特の風味が口いっぱいに広がる。何気なく、クセになりそう。シナモン風味の生クリームを戴いたタルトタタンは秋の味。しかし、日本のタルトタタンって、タルトタタンに見えない。フランスの地方の小さな町が発祥のこのリンゴのスイーツ、本当はパイにひっくり返ったリンゴがのってる、もっとぐちゃっとした、素朴な見ためだと思うのだが・・・ こういう深いボルドーカラーで、きれいにまとまったタルトタタンを始めたのは、誰なんだろう? 日本人?こちらはカシス味のメレンゲ菓子。カシスの酸っぱさと苦味が個人的にはかなり気に入っている。どれも上質なのだが、お客の入りが・・・まだ新しい店で、住宅街の不便な場所にあるせいかもしれないが、それを言ったら、アテスウェイだって便利な場所とはいえないが、物凄く流行っている。流行る店とそうでもない店――その違いは、ほんのわずかな「何か」なのだろう。ヴォアザンもここで、材料を落としたりせず、頑張って固定客を1人、また1人と増やして息の長い人気店になってほしいもの。
2009.12.15
Mizumizuが使っている楽天ブログは、無料で使える写真容量が50MB。これは他社の無料ブログ・サービスに比べると少ない気がする。先日写真容量がいっぱいになったと通知された。容量を増やすと有料になり、月々100円で20GBまで使えるようになる。20GBならあれば、たぶん一生(一生書くとも思えないが)大丈夫ではないかと思う。だが、この有料サービスから抜けたとたんに50MBに戻ってしまう・・・つまり、いったん増やして載せた写真も、月々100円を払わなくなったとたん消えてしまうということだ。う~ん・・・月々100円、1年で1200円、10年で1万2000円・・・ただの趣味ブログなのに、わざわざ払うには高い気がする(←せこッ!)。なので、ブログを引っ越そうかな~と思い、いろいろと見てみた。世の中にはテーマによってブログを変えて、複数持っている熱心な書き手もいるそうな。Mizumizuはとてもそんな根性はないので、自分に興味のあるテーマをカテゴリー分けして1つのブログでごっちゃに書いている。しかも、カテゴリー分けもかなりテキトーで、あとから思い付いて追加したり、そもそも自分で分けるときに間違えたりして、相当めちゃくちゃだと思う。思うのだが、自分にとってのブログの目的はあくまで気晴らしなので、あとからまとめて読む人にははなはだ不親切だとしても、まぁ、ブログというのは元来、「一挙に読むには不便」という欠点を内包していると思うし、どうでもいいんじゃないか、と直す気もない。無料でブログを提供しているところは多々あるのだが、やっぱり、「引っ越すのが面倒」という気持ちが打ち消せない。仕事も忙しいし、たかがブログにあまり時間を取られたくない。管理方法――といっても、ブログの管理なんて、たいしたことではないのだが――をまた覚えるのも億劫だし、慣れた楽天ブログのほうが、やっぱりラクだろう。それともう1つ、長く楽天ブログをやっているせいか、アフィリエイト報酬というのが入るようになっている。アフィリエイト関連商品の紹介(広告)には全然熱心ではなく、たまに本当に気に入った商品についてレビューを書くぐらいで、ほとんどタッチしていないMizumizuだが、月々の100円だったら、この楽天からの報酬で十分補えそうだ。・・・ということで、結局有料サービスを申し込んだ。なんだか、だんだんと楽天の世界にはまりこんでいくようだ。楽天JTBカードを作ったら、案外これが便利で、従来もっていたVISAやダイナースは使わなくなってしまった。買い物のたびに付くポイントが、楽天市場での通販に使えるし、それにヨーロッパとアメリカで使ってみたら、VISAやダイナースより、ユーロおよびドルのレートがよかった(ただし海外旅行保険は付いていない)。「ポイントが付くから・・・」と言って、決まった家電量販店で買い物をするように、通販も楽天市場を利用することが多くなった。必ずしも安くはない場合もあるのだが、そこはそれ、「ポイント付くし、貯まったポイント使えるから・・・」ということになる。徐々に、徐々に取り込まれ、いつの間にか楽天の思うツボ・・・ただし、オークションは充実していない。オークションはもっぱらyahooを利用しているMizumizu。オークションもはまると、たった100円、200円でみょ~にアツクなる。インターネットが浸透しはじめたとき、同じようなモール・サービスを展開しようとした人はかなりいたと思うのだが、楽天は間違いなくそのトップランナー。楽天のサービスには、特に大きな不満はないが、何か質問があってもメールだけのやり取りなので、案外わかりにくい。一度、アフィリエイト報酬の詳細について問い合わせたのだが、結局隔靴掻痒の答えしか来なくて、突き詰めるのを諦めた。あとは、勝手にサービスを変えることがあるのが、やや納得できない。最近だと、1ヶ月のアフィリエイト報酬が3000ポイント(3000円分)を超えた場合は、超過分だけキャッシュでイーバンク(ネット銀行)に振り込むようにするから、イーバンク(ネット銀行)の口座を作れ・・・みたいに強引なことを言ってきたことがあった。作らないと3000ポイント以上の報酬はパーになるそうな(呆)。ネット銀行はすでにソニー銀行を開設しているMizumizuには、ただ面倒なだけ。それでなくても、銀行との付き合いは多くて、通帳の管理が面倒なのだ。イーバンクにはおまけに、自分の口座から現金を引き出すときにいちいち手数料を取るという信じられない落とし穴(?)がある。この話、余程苦情が来たのが、あるいはシステム運用に支障が出たのか、いったんペンディングになったよう。多少の不満はあれど、まぁまぁ便利に使っているのだから、思うツボになったといっても、損をしたわけではない。ないのだが、ブログを開設したときには、ここまで楽天ライフに取り込まれるとは想像もしてなかったのも事実。いろいろな会社が無料でブログスペースを提供するのは、こうやって徐々に自社サービスに取り込むためなんだな、と実感した。
2009.12.14
初めてヨーロッパのドイツ語圏に行ったときは、食が合わずに困った。好きだと言える料理はほとんどなかったのだが、唯一気に入ったのが、オーストリアで食べたヴィーナー・シュニッツェル。ウィーンはドイツ語ではヴィーンと発音する。ヴィーナーとはウィーン風という意味。ただ、濁音を嫌ったのか、日本ではヴィーンをウィーンと書き、ヴィーナー・シュニッツェルもウィンナー・シュニッツェルという書くほうが多いようだ。一般に、訳は「ウィーン風子牛のカツレツ」とされ、正式には子牛を使うが、安価な豚で代用することもある。豚肉を使ったウィンナー・シュニッツェルは、「日本のトンカツ(ロース)を薄くしたもの」になってしまい、ブルドックのとんかつソースとご飯が欲しくなる(苦笑)。ちゃんと子牛を使ったものは、トンカツとは違った味わい。塩・胡椒のシンプルな味、たっぷりレモンを絞るのがいい。オーストリアではこればかり食べていた記憶がある。シンプルゆえに、当たり外れも多く、ハズレ――たいてい、肉はバサバサしていて、ボケたような味になっている――を引くと、「ああ、せめてここに、ブルドックのとんかつソース(←しつこい!)があったなら・・・」と日本を思って目をウルウルさせることになる。日本ではあまり人気がなく、出してるレストランも少ない。美味しいヴィーナー・シュニッツェルはなおさら少ない。そんななか、本場の一流店に混じっても遜色ないであろう、上等なヴィーナー・シュニッツェルを出してくれる店を見つけた。意外なことに、それはカフェ。昭和のまま時間が止まったようなレトロなショーケース。場所は日本橋の三越の2F、その名も「カフェウィーン」。名前からして、相当にレトロ。日本橋界隈は、まだ江戸の情緒がわずかに残る都内でも稀有な場所。ここの三越は、銀座よりもずっと老舗感がある。建物の風格が違う。客も少ないので、最近はおのぼりさんでごった返す銀座のデパートを避けて、日本橋の三越や高島屋に行っている。「カフェウィーン」の内装は、これまた「レトロ」。昭和の香りと言うのか、流行遅れもここまで極めればりっぱな様式美だと言うべきか・・・そもそもオーストリア全体が流行遅れみたいな国なのだが(失礼!)、カフェウィーンは、そのちょいくたびれたオーストリアの雰囲気をよく出している。新聞が置いてあり、老紳士が読んでる姿もかの地とまったく同じ。今どき「ウィーン」に胸をときめかせる日本人も少ないと思うが、かつて、ある年代の日本人にとってハプスブルク帝国の都ウィーンは、絶大な吸引力を持っていたに違いない。客層もシニア世代が多い。隣りに座った老婦人は、マリア・テレジア・カラーのニットを着て、マリア・テレジア・カラーのバラ模様の入ったハンカチーフを膝にひろげ、ゴールドのイヤリングとリングを煌かせながら、1人上品に肉料理を口に運んでいた。Mizumizuと違って、フランス料理やイタリア料理よりもドイツ料理が好きだというMizumizu連れ合いは、この店の本格的なソーセージが気に入っている。パンやバターも何気なく上等なものを添えてくる。このあたりが老舗らしい。こちらが、Mizumizuお気に入りのヴィーナー・シュニッツェル。塩・胡椒の効かせ方が素晴らしい。レモンが多いというのもMizumizuの嗜好に合っている。浸すぐらいレモン汁をかけて食べたいのがMizumizu。脇にちらと写っているポテトサラダも、一見まったくフツーのポテトサラダだが、酸味があって非常に美味しかった。案外ダメなのが、意外にも、ここに来れば皆が注文するであろうザッハートルテとメランジュ。ザッハートルテはもっとコクがあり、甘みが強いものだと思うのだが、ここのトルテはシニア向けなのか、ずいぶんと味が薄い。いつだったか、オーストリアから帰ってすぐ、吉祥寺のケーキ屋でザッハートルテを食べてみて、味があまりに同じだったのに驚いたことがある。それに比べるとカフェウィーンのザッハートルテは甘さが控えめすぎる。生地も水分が抜けてしまったよう(作ってから時間が経ってしまったケーキの典型)。メランジュとは、コーヒーに泡立てたミルクを添えたもの――つまりは、ウィーン風カプチーノだが、どうもこれも水っぽい。こちらがイタリアの濃い味に慣れてしまったせいもあるかもしれない。だが、苦みが薄いこういう味のほうが、やはり日本のシニア世代には受け入れやすいかもしれない。こちらは、アインシュペーナー。日本人が「ウィンナーコーヒー」と呼ぶコーヒーの原型。別に今となってはどうということもない飲み物なのだが、惜しげもなく飾られた生クリームに、かつての貴族文化の面影を見る気がする。そして、ドイツ語圏でのリンゴのスイーツといえばコレでしょう。アプフェル・シュトゥーデル。薄い生地にリンゴを巻き込んで焼いた素朴なお菓子。レーズンの酸っぱさとシナモンの香りがアクセントになっている。左はブラウナー。要は泡だった普通のコーヒー。カフェウィーンでは、温め直したあと、甘くない生クリームを添えて供された。これは、コクのないここのザッハートルテよりはるかにイケる。銀のお盆、アールヌーボー風の装飾のついた銀のカトラリー、ゆったりとした椅子に小さめのテーブル・・・。パリでもローマでもロンドンでも東京でもない、まさしく、ウィーン風のカフェ。ウエイターの年齢層も高く、客の年齢層も高く、味は本場に負けない。こういう場所に気軽に行けるのも、東京で住んでいる人間の特権だろう。
2009.12.13
吉祥寺の3大喫茶店カレーといえば、「まめ蔵・くぐつ亭・武蔵野文庫」ではないかと思う。いずれもメディアに頻繁に取り上げられる人気ぶり。Mizumizuは、くぐつ亭・武蔵野文庫のカレーは一度しか食べたことがないのだが、まめ蔵は頻繁にリピートしている。一番よく行くカレー屋かもしれない。常連歴はかなり長いMizumizu。レンガのポータルでお化粧直しされる前から通っている。以前はドアは現在の向かって右手ではなく、左手にあった。内装も少し変わった。以前は黒っぽい木組みに漆喰の壁という山小屋風の造りだったのが、ところどころテラコッタを足して、少し明るい雰囲気にした。いかにも上から汚れたところを目隠しした、という感じで、個人的には以前の、暗めだが統一感のある内装のほうが好きだったのだが・・・雑誌に取り上げられて有名になる前は、もうちょっとご飯の量が多かった(苦笑)。値段もちょっと上がったかもしれない。だが、味はそのまま。いわゆる「欧風カレー」と日本で呼ばれる、日本人好みのコクのあるカレー。マイルドなスパイスの風味と、じっくり炒めた玉葱の甘さが、「家庭でもできそうで、できない味」。傾向としては、西荻の「Y's カフェ」も同じ系統。どちらが美味しいかは好き好きで、近所なら食べ比べてみるのをお奨めするが、個人的にはまめ蔵に軍配をあげたい。まめ蔵人気は、本当に息が長い。週末は店の前に行列(椅子があるので座って待てる)ができている。並んでまで食べるほどのものか・・・? と思わないでもないMizumizuは、すいている平日に行くようにしている。
2009.12.11
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。今のルールは、基礎点で上をいくジャンプ構成を組むより、加点をもらえるジャンプを跳んだ選手が強い。逆に言えば、「減点」されない選手が強い。大技の基礎点の高さに着目して、「このジャンプが決まれば、これだけ高い点がもらえる」と、大技を優先的に決めようと考えると、うまくいかない。それも、つまりは、大技を入れたときに待ち構えている「減点」のパターンにはまるからだ。さて、グランプリ・ファイナルの女子フリー。2位のキム・ヨナ選手は不調で、彼女の最大の武器である、セカンドの3トゥループが2つとも決まらなかった。そして、最後に安藤選手。事前にメディアが盛り上げていた、3ルッツ+3ループは、3ルッツ+2ループに回避。2A+3Tも、やると思っていたら、2A+2Tに回避。出てきた結果は、総合得点キム・ヨナ188.86。安藤185.94。2.92点の差。3ループのダウングレード判定は、単独でも異様に厳しい。鈴木選手のショートで点が出なかったのは、3ループがダウングレートされたのが大きな原因。Mizumizuは「奪われたセカンド3ループ」と、何度もエントリーに書いたが、単独でさえあれほど厳しいのだから、セカンドの3ループは、ほぼ認定されないと考えていい。ならば、2A+3Tはどうか。2A+2Tの基礎点が4.8(安藤選手は加点を得て、得点は5.6点になった)。2A+3Tの基礎点は、7.5点。単純な基礎点の計算だと、7.5点-5.6点は、1.9点。2人についた差が2.92点だから、加点のもらえる2A+3Tを跳んでいれば勝ったことになる。だが、安藤選手の点が伸びなかったのには、もう1つジャンプのミスがからんでいる。それは後半の3サルコウ。軸が傾いてしまい、着氷が大幅に乱れた。当然減点される。だが、単なる減点だけではく、この3サルコウがダウングレードされてしまったのだ。不足気味だったかもしれないが、まさかダウングレードされているとは、Mizumizuは思わなかった。同じような乱れでも、ロシェット選手だったら、認定してくれたかもしれない。判定の不公平感は常につきまとうが、ともかく、これがダウングレードされ、GoEでも、マイナス1、マイナス2と気前よく減点され、結局得た点数が、1.07点!NHK杯で安藤選手は後半の3Sを無難に跳び、4.95点に加点をもらって、5.75点を稼いでいる。現行ルールで、基礎点での目論み戦略がうまくいかない理由はここだ。1つのジャンプで減点されるか、加点されるか。ちょっと足りなくてダウングレードされてしまえば、いきなり、同選手の後半の3サルコウ1つで、4.68点も違うのだ。3サルコウが失敗しなければ、基礎点は4.95。4.95-1.07=3.88!もう一度見よう。2人の最終的な点差は、2.92点。3サルコウを降りていれば、加点を考えなくても、少なくとも点数が3.88点かさ上げされるから、安藤選手が勝っていた。ここでリスキーな2A+3Tをやって、ダウングレードされたり、着氷乱れになっていたりしたら、元も子もない。2A+3Tを2A+2Tに変えたことについて、解説の荒川静香が、「モロゾフの指示かも」と言っていた。安藤選手が自発的に回避したのか、モロゾフの指示かは、わからないが、とにかく、安藤選手のスコアがキム選手を上回らなかったのは、3+3と2A+3Tを回避したせいではなく、直接的には、得意な3サルコウで失敗したからなのだ。もう1つ。安藤選手は、試合後、「かなり疲れていた」と言っていたが、調子自体は必ずしもよくなかったと思う。最後のステップでは、見た目にも辛そうだった。それでもキム・ヨナ選手よりはまとまりが良かったと思うが、あの状態で、体力を消耗する2A+3Tをやっていたら、後半さらに乱れたかもしれない。難しいジャンプを跳ぶより、ルーティーンのジャンプを絶対に失敗しないようにまとめること。これが現行ルールでいかに大切かわかると思う。一見わかりやすく派手な高難度ジャンプだが、減点・加点のマジックを考えると、必ずしも得点源にならないのだ。今季、織田選手が強いのは、ジャンプをピタリと決めてきているからだ。ファイナルでは苦手のトリプルアクセルにミスが出た。織田選手のアキレス腱はトリプルアクセルなのだ。これを2つきっちり決めることが、なかなかできないでいる。だから、4回転は入れない。この順番は正しいと思う。モロゾフの言葉をもう1度引用しよう。「4回転は、2つの3Aを含めて他のジャンプを決めてこそ大きな武器になる」。モロゾフはこの順番を揺るがせにしない。そして、細かいところで取りこぼしがないように、安藤・織田選手を時間をかけて仕上げてきている。だから、2人は強いのだ。織田選手は、3Aはやや苦手だが、他のジャンプではほとんど失敗しない。しかも着氷がこの上なく美しい。完全に回り切って降りてきて、氷をいたわるように柔らかくピタリと降り、ランディングの軌道がすうっと流れる。理想的だ。ヘタをすると2回転が高くなっただけのように見える。これは力任せに回転しているのではなく、回転が自然だということで、質の高いジャンプの特徴なのだ。織田選手は、演技・構成点では、必ずしも世界トップの評価はもらえていない。ミスしても、レベルを取り損なっても、驚くほど高い演技・構成点をもらっている高橋選手とは対照的だ。だが、織田選手は、「表現の幅が狭い」という短所を、プログラムの工夫で補い、最大の長所であるジャンプの着氷で加点をもらうことで、今季4回転をもつ選手以上のスコアを出した。ステップもちゃんとレベルを取る。織田選手のステップは、先輩である高橋選手の影響がかなりあると思う。指導者が同じだからかもしれないが、「高橋選手をお手本にして」頑張っているのは確かだろう。悪い言い方をすれば、高橋ステップの劣化バージョン・・・というのは、言い過ぎだが、ともかく、ステップで観客を熱狂の渦に巻き込むような色気はない。だが、今季、ステップで獲得した織田選手の点は、高橋選手にひけをとらない。レベル取りだけに関していれば、レベル2と3を行ったり来たりしている高橋選手より確実だ。一方、質を評価するGOEは高橋選手は圧倒的。「加点3」などという高評価がゴロゴロ並ぶ(ジャッジの皆さん、おありがとーごぜーます。チャン選手と競うバンクーバーでも、同じ態度でお願いしますね!)。だが、まずはレベル取りを確実にして基礎点をあげなければ、いくら加点をもらっても、確実にレベルを取ってくる選手には点で負けてしまう。見た目の印象と出てくる点数の乖離については、何度も指摘している。良いか悪いかと聞かれれば、「実に奇妙で、スペシャリストの判断次第というのが、不透明」と答えるが、何度も言うが今からではルールは動かせないのだ。表現力云々という話は、結局嗜好が絡む主観論になってしまうので、今さらどうにもならない。Mizumizuは安藤選手には、キム・ヨナ選手や浅田選手に引けを取らない表現力があると思う。あざとさのない自然な風格、成熟した女性のもつ落ち着きと情熱・・・ フリーの最後のステップもMizumizuは大好き。カクッとクビを横に折る動作も、たまらなくチャーミング。素晴らしい。本人もそう信じて演じるべきだ。それしかできないではないか?確実にレベルを取り、かつ、減点されないようにする。大技に挑むのはそれからなのだ。安藤選手が今回負けたのは、大技に挑まなかったからではなく、いつもならできる得意な3サルコウでミスったため。ちょうど、受験勉強に似ている。まずは、小さな基礎的な部分をかためてから、難しい応用問題に行くのが正しい順番というもの。基礎問題は1つ1つの配点が小さく、応用問題は一般に配点のウエイトが高い。基礎問題10個解くのが、応用問題1つと同じ配点だという場合もあるだろう。だが、どちらを優先させるべきかと聞かれれば、間違いなく基礎問題なのだ。そもそも基礎問題が解けない学生は、応用問題も解けない。基礎問題をすばやく正確に解いていけるなら、応用問題にじっくり取り組む時間もできる。何をやるにも、基礎力がしっかりしているかどうかがカギになるのだ。配点の高い難しい応用問題を解けば、多少細かな基礎問題を落としても、合格できると考えている受験生は、結果を出せない。これは自明の理ではないだろうか。
2009.12.06
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。<長くなったので、きのうの日付に前半を移しました>ライザチェックは、「演技・構成点がカギ。トリノのときとは、違うルールになってしまったようだ」と言っている。何を捨てて、何を追求するか。その見極めをした選手のほうが、今のルールでは強い。そもそもキム・ヨナ選手が、オーサー・コーチについたのは、トリプルアクセルを習得するためだ。ルールに助けられたとはいえ、キム選手が3Aに固執していたら、今の強さはない。今回のオリンピックでは、4回転を跳ぶプルシェンコやランビエールが出てくる。だから、4回転がないと男子の金メダルはない――恐らく日本人の多くは、そう考えている。そうかもしれない。だが、そうでないかもしれない。プルシェンコもルッツを失敗するようになっているし、フリーのジャンプ構成は、前半に重点を置いたものになっている。しかも3回入れてよい連続ジャンプをロシアでは2度しか入れなかった。彼はつまり、「失敗している姿」を見せないように、彼としては確実なジャンプ構成で試合に臨んだのだ。そのレベルが高いのは、彼の身体能力が抜群に優れているからだ。だが、技と技のつなぎはかなりの手抜きだ。やたらと走っているだけに見える。事実、地元での試合だったにもかかわらず、演技・構成点は思ったほど出なかった(もちろん、次のオリンピックがバンクーバーではなく、ソチだったら、もっと点は出たかもしれないが)。ランビエールは痛みを常時かかえている状態で、4回転は跳べるが、苦手のトリプルアクセルがほとんど決まっていない。一番大切なのは、誰かに勝とうとして、今の自分の実力以上のジャンプ構成を組むのではなく、失敗しないジャンプ構成を見極めて、ミスのない「解答」をジャッジに出すことなのだ。理想(あるいは希望)と現実をごっちゃにして、自分の力を過大に評価してはいけない。ミスが少なければ演技・構成点も上がってくる。少なくとも、下げにくくなる。難度の高いジャンプ、ジャンプで頭がいっぱいになり、音楽の表現がおそろかになると、とたんに点を下げられる。その見極めがモロゾフの弟子以外の日本選手には不足している。鈴木選手は例外で、減点されたジャンプは次から外すなど、臨機応変に対応している。バランスよくジャンプが跳べる選手の強みでもある。結果の出ない選手たちは、ただ「次につながる、次につながる」と言って、ミスの多い演技を繰り返す。「次」とはいつなのか? オリンピックに向けての調整だとは言っても、その前の試合で結果が出ないと、ジャッジの印象は悪くなってしまう。オリンピックでは、難しいことのできる選手が勝つのではない。失敗しない選手が勝つのだ。練習ではできていても失敗するのがジャンプ。練習でも確率の悪いジャンプが、最高に緊張するオリンピックで突然すべて成功するとでも? もちろん、その可能性だってある。100分の1か、1000分の1か知らないが。だが、そんな火事場のバカ力頼みでは、戦略とはいえない。難しいことを失敗なくできれば、それはそれで素晴らしい。だが、あのプルシェンコでさえ、最初のオリンピックでは大技に失敗している。安藤選手、織田選手は、大技に挑戦しないで、ここまでの結果を出してきた。もちろん大技の練習もしている。「大技は持つ必要がある。だが試合で使うかどうかは別。ジャンプはあくまでエレメンツの1つ。総合力が試合を決める」とは、モロゾフの弁。現行の日本選手に不利なルールと判定を、一般紙のインタビューで真っ向から批判したのはモロゾフだったが、その実、モロゾフが一番、現行のルールに選手を適合させている。批判すべきことは批判する、だがその一方で、やるべきことをやる。Mizumizuが一貫してモロゾフを評価するのは、彼が多くの日本人のように長いものに巻かれるタイプではなく、批判すべきことを批判するために敵が多いにもかかわらず、こうやってやるべきことをやり、結果を出すからだ。安藤・織田選手に共通しているのは、ジャンプ以外のエレメンツの取りこぼしが少ないことだ。そしてジャンプは丁寧に、加点がつくように跳ぶ。「理想追求型」で、ある程度の結果を出している数少ない選手がアボット選手だ。彼は昨シーズン、4回転を跳ばない試合では強かった。年が明けてから、さらに上のレベルを目指して、4回転を入れ始めた。最初は一番悪いパターン。4回転も失敗し、他のジャンプも失敗する。今季は、少しずつよくなっている。4回転が入り、かつ他のジャンプの失敗も少ない。あるいは4回転を失敗しても、他のジャンプの失敗が少ない。それでも、まだまだだ。昨シーズンのようにファイナルを制することはできなかった。こういう状態だと、返って悩むかもしれない。ウィアー選手のように、4回転がダメなら、いっそさっぱり諦められるところだろう。アボット選手はウィアー選手やライザチェック選手のように顕在的・潜在的なエッジ違反もなく、ライザチェック選手が苦手とする3Aも得意な選手(そのかわりルッツで失敗が出やすい)。佐藤有香コーチはどちらの決断をするのか。オリンピックでは、彼女とアボットの戦略に、Mizumizuは非常に注目している。アボット選手は、もともと4回転なら跳べる選手なのだ。2季がかりで試合に入れようとして、それでもうまくいかない。「大技を入れて、他のジャンプやエレメンツをまとめる」というのが、どれほど「とてつもなく」高いハードルかわかると思う。自分の今のレベルを冷静に見極め、ミスを防ぐ。確率が低いことはやらない。そのうえで、自分のもっている「他の選手にはない」長所をどれだけアピールするか。それを見極めるインテリジェンスと決断する勇気が、日本選手には欠けている。ライザチェックは、4回転を捨て、その代わり、自分の長い長い手足を十二分に使った演技でアピールしている。4回転で体力を消耗しないから、最後のハードなステップもやりこなす力がある。「あなたのもっている強みを活かしなさい」とライザチェックに言ったのは、そもそもタラソワだったというが、実に的を射ている。モロゾフはスケート連盟を批判するとか、高橋選手から織田選手に乗り換えたとか、日本人は悪口を言うが、気がついてみれば結果を出しているのは、彼ばかりではないか?特に今季の織田選手のプログラムは、実によくできている。ショートはスピードにのって、「怒り」を表現する。フリーではうってかわって、楽しさと哀愁を込めたチャップリン・メドレー。織田選手の表現力について、モロゾフは必ずしも褒めていない。表現できる幅が広くないから、このフリーのプログラムを選んだと言っている。織田選手の個性にはまっているから、「無理して作っている」印象がない。また、フリーはプログラムにかなり余裕がある。そのスカスカ振り(苦笑)は、キム・ヨナ選手のフリーからアイディアを拝借したのではないかと思うくらい。曲の転調をうまく使い、観客を飽きさせない。「お休み」しているところも多いのだが、そこはマイム的な動作で雰囲気を出す。それと「ポーズの美しさ」の多用。織田選手はもともと日本人としてはプロポーションがよく、身体のラインはきれいなほうだ。そこで、バランスのとれたポーズを随所に入れる。手をどこに置き、足をどう上げるか――ポーズの美しさは、バランスのよさだし、「感性」や「センス」はさほど必要ない(踊るとなると、話は別だ)。それは教えられれば、ある程度誰にでもできる。キム・ヨナ選手に似ていると思うのは、たとえばステップのループ(ジャンプのループではない)の部分。軸足は深いエッジにのり、スピードをうまくコントロールして、緩急をつけてクルッと回る。非常にきれいで、見ごたえがある。織田選手はよく教えられたとおりに、こなしていると思う。だが、それは褒め言葉でもあるが、けなし言葉でもある。ファイナルで2位という素晴らしい成績を挙げた織田選手には申し訳ないし、これはあくまで主観的な印象論だが、高橋選手のように、すっと音楽の世界に入ってしまう天与の才能というのは、織田選手にはあまり感じられない。だが、今のルールは、優等生が天才に勝てるルールなのだ。ジャンプ以外のエレメンツでもレベルをきちんと取る。小さなミスを防ぐことが、大きな点差につながってくる。Mizumizuはもちろん、採点が公平などとは思っていない。「思惑」だらけの判定・点数だと思っている。パンドラの箱の開いたあとの世界は、思った以上に酷い。だが、今からではもうルールは動かせないし、組織の裏で何があったか、なかったかなどは、外部の人間にはわからない。言っても無駄なことに文句をつけるのは、時間の無駄だ。今から出来ることが何なのか、考えるほうが先だし、そもそもそれしかできないのだ。今季の点の出方を見ると、1つや2つの試合で一喜一憂するのが、いかにバカバカしいかわかったと思う。フィギュアがいつからホームアウェイ形式になったのか知らないが、今季は特別その色彩が濃い。カナダでオリンピックが開催されるということは、カナダを拠点にしている選手には有利になる。これもMizumizuが予想したとおりだ。メダルに向けて明らかにお膳立てされている選手はいる。だが、そのこと自体は他の選手やコーチにはどうしようもない。オリンピックは商業的なイベントだし、フィギュア(特に女子)は、金メダルが莫大なカネになるウインタースポーツでは数少ない競技の1つなのだ。点を出さないジャッジに、出せと強要することはできないが、選手がいい演技をすることはできるはずだ。ジャンプやエレメンツのミスを出さず、自分の良さを迷いなくアピールする。そのために邪魔になる、不確実な大技は捨てることだ。もちろん、「できる」自信があるなら入れていい。その結果の失敗なら、仕方がないではないか。問題は「見極めること」なのだ。それにもう1つ、「結果」や「メダル」を気にしていては、それはできなくなるということ。モロゾフは、昨シーズンの終わりに何と言っただろう? 「このままでは、(オリンピックで)日本選手はメダルなしだ」。もし、モロゾフがいなかったら、いや、モロゾフがいても、この「予言」が本当になるかもしれない・・・グランプリシリーズの結果を見て、思わなかっただろうか?どの選手にも弱さと強さがある。キム・ヨナ選手の3ルッツ+3トゥループは、予想よりはよいが、今回はショートではセカンド3Tがダウングレード、フリーではダブルで2回とも決まらなかった。2A+3Tの3Tも、だいたいいつもギリギリなのだが、今回は文句なくダウングレード。ロシェット選手は最初の連続ジャンプがアキレス腱。あれが決まらないと、ガタガタっと崩れてしまう。一方、安藤選手はあえて「深化」と呼びたいぐらい、表現力を磨いてきている。今回の『レクイエム』は、今季の女子の中で、Mizumizuが最も好きなプログラムだ。女性らしい美しさと上品さに、溢れる泉のような豊かな情感。最後のステップは、足遣いより、むしろ一瞬一瞬のポーズに見惚れてしまう。しかも、試合ごと、見るたびごとに、深みが増してくる。まさに安藤選手でなければ演じられない世界。選手の夢の舞台であるオリンピックまでもう2ヶ月。日本選手は、「メダル、メダル」という欲にとらわれずに、自分の魅力を十二分にアピールする演技をバンクーバーの舞台でしてほしい。
2009.12.05
Copyright belongs to Mizumizu. All rights reserved. This blog may not be translated, quoted, or reprinted, in whole or in part, without prior written permission.本ブログの著作権はMizumizuにあります。無断転載・転用を禁止します。許可なく外国語に翻訳して流布することも法律により禁止されております。また文意を誤解させる恐れのある部分引用も厳にお断りいたします。もはや、名コーチというより、「したたかな男」と呼びたい。織田・安藤両選手のコーチ、ニコライ・モロゾフのことだ。オリンピック・シーズンに入り、気づいたらシリーズ2勝した日本選手はこの2選手だけ。ファイナルで台にのったのも、同じくモロゾフの教え子。モロゾフのもとを離れた村主選手は結果が出ず、浅田選手、中野選手、小塚選手も残れなかった。高橋選手はギリギリ通過で、今回は台落ち。この差はどこから来るのか?非常に単純な話だ。今回結果が出なかった選手は、ほぼ全員「理想追求型」。つまり「大技」を入れて、あくまで自力で文句なく勝とうとしている。「大技」といっても、それぞれの選手によって違うが、浅田選手は3A3度、中野選手は3Aと3回転+3回転(試合では使っていないが、シーズン初めには意欲を見せていた)、村主選手も3回転+3回転(ジャンプを強化したくて、ミーシンコーチについたという)、高橋・小塚選手は4回転。全員がそれぞれの「大技」に固執している。村主選手について昨シーズン、モロゾフは、「周囲が3+3などを跳び、(村主選手は)自分にはできないと焦っていた。それで情感をこめて滑る彼女の良さが失われていた」と指摘して、ジャンプの難度を下げた。だが、それでは、オリンピックのメダルはない。村主選手はそう考えたはずだ。「3+3を持つ選手と持たない選手では、点の出方の幅が違うから」という彼女のコメントは、村主選手にとっての目標が、オリンピックに出るだけではなく、そこでメダルを獲ることにあることを示している。すでにオリンピックで4位の実績のある選手なのだから、当然といえば当然だろう。だが、今シーズンは怪我もあって、3+3どころか、昨シーズンMizumizuが指摘した「問題のあるジャンプ」がことごとく、さらに悪くなってしまった。浅田選手の、「(トリプルアクセルを)ダブルアクセルに変えてしまったら、次に負担が来る」という発言、高橋選手のコーチを務める本田武史氏の、「(4回転を)試合で跳んでいかなければ、ものにはならない」という発言は、彼らの考えが理想追求型だということを示している。あるいは、「基礎点重視型」と言ったほうがいいかもしれない。もらえるかもらえないかわからない加点に期待をするのではなく、まずは基礎点の高いジャンプを能力ギリギリで構成し、オリンピックという最終目標に向かって繰り返す。1つの試合で課題が見つかったら、それを修正しつつ次へ臨む。これはこれで、理論的には悪くない考えのはずなのだ。だが、昨シーズンからMizumizuが、何度も指摘しているように、この理想追求型は、今のルールではうまく機能しないのだ。なぜうまく行かないかのか? それはよくわからない。人間の能力というのは、それほど一足飛びには伸びないのだろうとしか言いようがない。なぜうまく行かないのか、明確な答えは出せないが、どういうふうにうまくいかないのかは、見事なくらいパターン化する。「大技」を入れる。たとえば、それが4回転だとしたら、それがうまくいっても(あるいはいかなくても)、次に難しい技トリプルアクセルで失敗する。難しいジャンプをクリアしても、後半の「いつも跳べているジャンプ」で失敗する。全体的な傾向としては、大技で体力を消耗し、他のジャンプが低くなり(つまり加点のもらえるジャンプが跳べなくなり)、エレメンツの取りこぼしも起こる。全部の悪い面が出てしまったのが、今回の高橋選手のフリーだろう。そもそも今季の高橋選手は、4回転を入れなくても、ステップやスピンでのレベルの取りこぼしが多い。Mizumizuが今季ショーで高橋選手を見たときに、スピンに感じたネガティブな印象、それとステップのときの足元の不安定さ、それが試合で弱さになって出ている。表現力が素晴らしいのは、何度強調してもしすぎることはないが、今回のファイナルはむしろ、ステップやスピンの取りこぼしの克服だけに集中して欲しかった。振付師を含めたコーチ陣が、モロゾフ陣営に比べると、ずいぶんと「青く」感じる。フリーでは、後半ずいぶん足にきていたようだが、大丈夫だろうか? アクシデントがなければいいのだが・・・あれだけ後半足が動かなかったにもかかわらず、演技・構成点で80点以上の点が出るのは驚異的だ。地元開催という利があったとはいえ、期待以上、想像以上に、高橋選手の表現力に対する評価は高い。その意味では、高橋陣営の戦略はズバリ以上に当たったといえる。フリーの「道」での表現力も想像以上の素晴らしさ。カート・ブラウニングは高橋選手を「ダンサーでもあり、アクターでもある」と評したが、まさにそのとおり。ショートでは無上のダンサー、フリーでは無比のアクター。両方の才能を発揮できるスケーターは、フィギュアスケーターの歴史をひもといても、ほとんどいないのではないか。だが、それは高橋大輔という稀有な才能に頼んだ戦略であって、弱い部分を補うようにお膳立てするのが周囲のインテリジェンスのはず。昨シーズン、最初のダウングレード攻撃の犠牲者になってしまったライザチェックは、見事に舵を切りなおし、彼にとって(やや回転不足気味だったのだが)の大きな武器だった、4回転+3回転を捨ててから強くなった。世界選手権、ファイナルと大きな大会を連続して2度制した彼のフリーには、どちらも4回転はない。
2009.12.04
中世ヨーロッパでもひときわ異彩を放つ神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世。彼についてはすでに1月30日のエントリーと4月22日のエントリーで紹介したので、詳しくはそちらを読んでいただくことにして、今日ご紹介するのは、フェデリコ2世が南イタリアのプーリアに建設した「カステル・デル・モンテ」。カステルとは城、モンテとは山を意味する。その名のとおり、小高い丘の上に建つこの城は、世界遺産にも登録され、イタリアの1ユーロ硬貨の裏面の絵柄にもなっている。だがこの山城は、いろいろな意味で謎に満ちている。まず、まったくもって城らしくない。こちらは、ネットから拾った空中写真だが、ご覧の通り、8角形の外壁、8角形の塔が8角形の中庭を囲んでいる。装飾の花や葉も8枚ずつになっているらしい(ただ、実際に行っても、この目で確認はできなかった)。13世紀の城といえば、通常要塞の役割を兼ねるのが普通だが、この城は軍事的には、完全に無防備。堀も厩も銃眼も何もない。客をもてなすための城としても、明らかに役不足だ。大きな厨房もなく、広間もない。中庭を囲む塔とそれをつなぐ空間は、どこも均一で、主従の居室の区別がつかない。オリーブ畑の続くプーリアの平原。小高い丘のうえに建つカステル・デル・モンテは、かなり遠くからも見える。まるで山のいただいた王冠のよう。クルマで行ったのだが、城が視界に入ってきてからも、なかなかたどり着かなかった。それくらい、今でさえも辺鄙な場所だ。フェデリコ2世の好んだ鷹狩の拠点にしたという説もある。なるほど、実用的な意味では、そのくらいになら使えたかもしれない。実際に城として使うには、あまりに不便な造りなのだが、この実、この城は、ストーンヘンジやマヤの遺跡、あるいはエジプトのピラミッドにも通じる、綿密な天文学的計算に裏打ちされた設計になっているのだ。こちらは中庭の壁を撮った写真。太陽の影が見えるが、この影は、春分と秋分の日の正午に、中庭の一辺とぴったり重なる(ということはつまり、秋分の日と春分の日の間は中庭の床には日が差さないということ?)。ユリウス暦で8番目の月に当たる月の8番目の日、現在でいうと10月8日に、南西の高窓と中庭側の低窓を太陽光が一直線に結ぶ。また、夏至の夜には、中庭の中央のちょうど真上にヴェガが来るのだという。設計自体にフェデリコ2世自身が深く関わったことは文献等から知られている。皇帝は8という数字に、非常に強いこだわりをもっていた。キリスト教では、8はキリスト復活までの日数であり、イスラム教では天国を表す数字だという。その知的精神で「最初の近代人」とも称されるフェデリコ2世が、迷信ともいえるような「8」への執着を、大掛かりな城建設で見せたことは、非常に興味深い。論理的で合理的な思考の持ち主が、ある面で呪術的ともいえる神秘主義に傾倒するという傾向は古今東西を通じて、しばしば見られるからだ。フェデリコ2世は言語の天才で、さまざまな言葉を話すことができた。アラビア人とも通訳なしで話している。言葉にはそれぞれの論理があり、多くの言語を操るということは、それだけ多くの世界を心の中にもつことになる。ある意味でそれは、精神が相対する論理で分裂する危険性をはらむ。そして、フェデリコ2世の治世後期には、領土内でのキリスト教徒とイスラム教徒の対立が激しくなり、ノルマン・シチリア王国の繁栄も陰りを見せ始めていた。フェデリコ2世がこの世を去ったのは、1250年の12月。1+2+5で8になるという偶然が、最後までつきまとった。「城」としての機能をほとんどもたない、「8」という数字と大いなる宇宙の神秘に捧げられたとしか思えない、美しい孤高の城。小高い丘に建つこの城の上階から眺めると、オリーブ畑と小麦畑が海のように広がり、神の視線を手に入れたような錯覚にもとらわれる。その眺めはヴァイエルンの狂王ルードヴィッヒ2世の建造した白鳥城のもつ眺望に、ある程度似ている。ネオゴシックだの擬似ビザンチンだの、過去のさまざまな様式をゴッチャにしたルードヴィッヒ2世の城のインテリアを見ると、王のネジの取れっぷりに圧倒されるが、この世にはない世界とつながろうとしたという意味では、フェデリコ2世のカステル・デル・モンテも同じではないか。政治的な力をほとんど持たなかったルードヴィッヒ2世と、神聖ローマ帝国皇帝にしてノルマン・シチリア王であり、中世ヨーロッパで絶対的権威をもっていた教皇との対立も辞さなかったフェデリコ2世の人生に類似点はほとんどないのだが、内面に何かしら現実には成し遂げられない壮大な夢を秘め、それを大掛かりな土木工事という形で、うつせみの世に残そうとした情熱には共通点がある。そして、それは有史以来、「力」を手にした人間がほとんど必ずとらわれる妄執でもある。
2009.12.03
以前このエントリーでも取り上げた、ローマのタクシーの雲助ぶり。想像以上に悪評が高まっているらしく(苦笑)、こんな記事が出た。イタリアの首都ローマの最大手タクシー会社「Radiotaxi3570」が、観光客の間で悪名高い同市のタクシーを改善しようと、新たな試みを始めている。ローマでは、空港から市の中心部まで本来の料金の2倍が請求されることもあり、不慣れな観光客を乗せるため、ドライバー同士が言い争う姿がよく見られる。 同社は、観光客が自宅を出発する前にインターネットで料金を支払えるサービスを開始し、国内のほかの都市にも拡大する計画。インターネットでの予約時に、英語やフランス語、スペイン語、ドイツ語を話すドライバーを選ぶこともできるという。市当局は、観光客へのサービス向上や詐欺撲滅などを目指すキャンペーンを展開しており、カラフルな広告を使って、観光業従事者らに「正直になり透明性を保つことが、あなたやあなたの市を救う」と呼びかけている。インターネットで前払い? タクシー代を?なんだか、ますますドツボで信頼できなくなりそうだ。ネットで前払いしたものの、「知らな~い」「ドイツ語を話せるやつ? いないね、ここはイタリアさ!」「それはウチの会社じゃな~い。あっち(←と、全然違う方向を教えられる)」「荷物代は別」「夜だから割り増し料金」「そのホテルの道は今工事中。遠回りしなければいけないから割り増し料金」などなど、結局ワケわからないことまくし立てられて、同じハメに陥りそうな悪寒予感がする。そもそも、モシモシさんのブログにあるように、「空港から市内まで40ユーロ」という規定を決めたのなら、それを周知徹底すればいいだけの話だ。夜間だったらX%増しになると決めてもいい。それだけのことなのに、やれ荷物が大きい場合は1ユーロとか、コツコツ上乗せしようとするからぐちゃぐちゃになる(イタリアのタクシードライバーは、別に荷物の積み下ろしを助けるわけでもないのに、荷物代を割り増しで要求してくるヤツが多い。馬で運ぶならともかく、ガソリン車で、なんで荷物代が別にかかるのか理解できない)。固定料金表は、タクシー乗り場やタクシー内に掲げてもいいし、バンコクやNYのように、何人か別の人を配置して、クレームレターを渡すようにしてもいい。それほど大変なことではないはずだ。ところが他国では簡単にできることが、イタリアではなかなかできない。というより、やろうとしない。こういうところを見て日本人は、「イタリア人ってバカだな」と決めつける。イタリア人はバカではない。ただ、自分の目先の利益にヨワイだけだ。そもそもタクシーのドライバーに、「正直になり透明性を保つことが、あなたやあなたの市を救う」なんてきれいごと言ったって、信じてもらえるとは思えない。人間は、「ひきあわないこと」はやらないのだ。日本のタクシードライバーがぼったくりをしないのは、それが「ひきあわないこと」だと知っているからだ。誠実さを見せて信頼してもらうことが、長い目で見れば自分の利になる・・・元来ムラ社会の日本人には、その思考が染み付いている。イタリア、特にローマは事情が違う。タクシードライバーの客はほとんどが外国人観光客。短期間イタリアに来て、去っていく一見さんだ。イタリア語もできないし、土地にも不慣れ。そんな相手に正直に振舞うより、何だかんだ理屈をつけて1ユーロでも余計に稼いだほうが、よっぽど自分の利益になる。彼らはそう考えている。評判を落として客がパッタリ来なくなるなら考えるだろうが、ローマはあいにく、世界中からおのぼりさんがやってくる街だ。タクシードライバーは、実入りのいい商売ではない。自分の食いブチ稼ぐだけで精一杯の余裕のない労働者が、ローマ市全体のことを考えるだろうか? 「考えたところで何になる。市がオレらを助けてくれるのかい?」という彼らのホンネが聞こえてきそうだ。ローマの雲助タクシーの伝統は長い。どのくらい遡れるだろう? 20年? 30年? Mizumizuは少なくとも、思い出せる限り昔からローマのタクシーの悪評を聞いていた気がする。昔はイタリアの通貨・リラが弱かったから、多少ぼったくっても、リッチな旅行者には、さほどでもなかったのかもしれない。旅行自体が贅沢なことで、限られた富裕層しかできなかった。今は様相が違う。このまま汚名返上が出来なければ、観光で食べてるローマにとって、取り返しのつかないことになる・・・ と考えているのだろう。当局のお上は。だが、個々のタクシードライバーが、そんな俯瞰的な思考をもつとは、どうしても思えないのだ。人的資源をちょっと活用してシンプルに是正する方法があるのに、上の人間が、やれ認定ステッカーだ、インターネット予約だ、とシステムで何とかしようとするから、下は笛吹けど踊らずで、さっぱり透明で効率的な事業運営ができない。それがイタリア。このまま汚名返上ができるのか、それこそ「汚名挽回」になってしまうのではないか。ま、どちらにせよ、ローマではテルミニまでの直通電車のある時間に着いて、タクシーは利用しない、テルミニからは徒歩圏のホテルを予約する、それが一番だとMizumizuは思うのだ。そして今のMizumizuはといえば、ローマどころか、石垣島どころか、東京から一歩も出られない多忙な日々。12月のスケジュールはすでにいっぱいに埋まってしまい、新たな仕事が来ないようにと祈っている。
2009.12.02
マルティナ・フランカのことは、よく憶えていない。ただ、その街もバロックで、白い建物に挟まれた迷路のような路地があり・・・そして、半円形の回廊をもつ広場がこのうえなく優美だったこと。回廊のアーチ天井から吊るされた街灯の装飾が、あまりにリズミカルで可憐だったこと。回廊の中にあるタバッキの店主のおじさんと、絵葉書を買うついでに何か会話したこと。回廊の石畳を歩く人の足音が、やけに響いたこと。マルティナ・フランカのことは、よく憶えていない。だがどうしても、襟元をレースで飾った、この小さな広場だけは忘れられない。プーリア州の中では富裕層が住む街として知られているというマルティナ・フランカ。なるほど。ローマや、もっと北のミラノの邸宅ほどではないにせよ、オストゥーニで感じた、街全体に漂う貧しさは、確かになかった。貴族的なバロック風の装飾を施したバルコニーが、白い路地に華を添えていた。街から出ると、そこにはプーリアの田園風景がどこまでも広がっている。貯蔵庫として使っているのだろうか、トゥルッリもちらほら見えた。
2009.12.01
プーリアには、郷土色豊かな小さな街がたくさんある。中でもオストゥーニは少し異色だろう。オリーブの老木の向こうの丘に建つ白い建物群。丘全体が1つの街になっている。ここはまるでギリシア。エーゲ海のどこかの島に迷い込んだよう。壁も床も、ただただ白く塗られた家々に、鮮やかなブルーの扉の色がまぶしい。今にも扉をあけて、誰かが出てきそう。買い物に行こうとする主婦かもしれない。エスプレッソを飲みにバールに出かける旦那かもしれない。学校から帰ってきて、遊びに飛び出す少年かもしれない。途中で、玄関先の床を白く塗りなおしている中年女性の姿を見かけた。こんなふうに部分的に塗りなおすせいか、白の塗装は均一とは言いがたくなり、妙に新しい真っ白なところと、黄ばんだり汚れたりしているところの差が目立つ。それにしても、なぜこんなふうに憑かれたように街全体を白くしたのか。最初は衛生のためだとか、何か理由があったのだろうが、今に至るまで住民全員の総意で続けている、続けていられるのはなぜなのか。アラブ系のような顔つきの住民も多い。そして、明らかに経済的に豊かでない。昼間から時間をもてあましているような働き盛りの男性の姿も見かけた。複雑に上に伸びた住宅群の縁を、鉢植えの花で飾っている。お世辞にも洗練されているとはいえない、田舎じみた感覚だが、生活感が漂ってくるのが、メジャーな観光地にはない魅力。あまり有名になってしまうと、街全体がテーマパークのようになって、生活感が消えてしまう。生活感のない街は死んだも同然。ただの野外博物館だ。アルベロベッロで、それを感じた。青い空に映える、「白」が取り得の街オストゥーニは、まだそれほど多くの観光客を集めるにはいたらず、だからそこ、街のあちらこちらから人々の生活の匂いが漂ってくる。
2009.11.30
タイで功成り名を遂げた異邦人の中でも、ジム・トンプソンほどチャーミングでミステリアスな男はいない。アメリカの裕福な家庭に生まれ、大学卒業後、いったんは建築家として人生のキャリアをスタートさせながら、戦争が勃発すると志願兵に。自ら進んで諜報員に転じ、ヨーロッパへ。さらにドイツ降伏後は、日本軍への秘密作戦に従事すべくインドシナ半島へ。そこで終戦となったのちは、タイで実業家に転じ、衰退著しかったタイシルクを産業として復興させ、世界にその名を広めた。そして人生の絶頂期に、バカンス先のマレーシアで謎の失踪。いまだに行方が知れない。バンコクのジム・トンプソン・ハウスは、日本人にはあまり知られていないが、ぜひとも足を運んで欲しいスポットだ。ここを見ると、ジム・トンプソンという男性が、並外れた美意識の持ち主であったことがわかる。ティファニーの「フランク・ゲーリー」シリーズの例を挙げるまでもなく、昨今、建築家にオシャレもののデザインを任せるのが流行りだが、ジム・トンプソンにこうした仕事を依頼したら、さぞや洗練された、一味違うものを作ってくれただろう。ジム・トンプソンの家には、建築家としての彼の空間意識の高さが示されているのはもちろんだが、東南アジアの古美術品に対する彼独自の鋭い審美眼が室内装飾に存分に生かされている。美的な家を作るには、財力が必要だが、それだけでは成金の家ができるだけだ。トンプソンの家は、成金趣味の調度品はほとんどない。どれも控え目だが、熟考に熟考を重ねて選ばれた美しいものばかり。自ら国境を越えて収集に出かけたという東南アジアの古い仏像は、タイの美術館でもなかなかお目にかかれない一級品だ。それをトンプソンは自身の美学にしたがって、部屋と調和するように配置している。仏像を置くための空間を特別に考えながら、部屋が美術品の展示室になることなく、あくまで美術品が部屋の一部になり、空間を装飾しているところに、限りない贅沢を感じた。しかも、彼は単なる好事家ではなく、ビジネスの才能もあった。さらに、戦時下には諜報員として暗躍し、謎の失踪を遂げたまま永遠に姿を消したというミステリーも手伝って、その人生は家を訪れる人の好奇心と想像力を掻き立てる。個人名としては破格のブランド力をもつ、ジム・トンプソン。バンコクではタイシルク製品の店として観光客に人気があるが、日本では、なぜか「ジム・トンプソン・テーブル」というレストラン・ブランドとして、進出を果たした。バンコクではあまり聞いたことがない。レストランやバーはあるようだが、やはりタイシルクのショップのほうが有名。店は赤坂と銀座にあるが、Mizumizuが行ったのは、銀座のマロニエゲート。ここは最近、仕事の打ち合わせも兼ねてよくランチに出向いている。「ジム・トンプソン・テーブル」も「タイセレクト」認定店。店の前にごちゃごちゃ出されたたて看板が、いかにも若者狙いのマロニエゲート。こういう宣伝をするから、マロニエゲートのレストランは、イマイチ垢抜けない。内装は、ライトグリーンを基調とした、明るい雰囲気。平日のランチは、一品料理に食べ放題ブッフェが付く。こちらがブッフェから取ってきた前菜。春雨や野菜、シーフードなど各種のサラダに、鶏の照り焼きなど。ブッフェとしては、味はいいほう。というか、このくらいがブッフェの限界と言うべきか。長方形の皿がオシャレ。ソムオーとはえらい違い(笑)。向こうに見えるのは、黒タピオカのココナッツミルク、蓮茶、春雨入りスープ。蓮茶は、たぶん初めて飲んだが、とても美味しいお茶だった。一品料理は、Mizumizuは定番のグリーンカレー。タイ料理は、グリーンカレーの味で決まる・・・と個人的には思っている(苦笑)。ジム・トンプソンのグリーンカレーはかなり甘く、西洋人好みにしてある。だが、これはこれで非常に美味しい。日本で食べるグリーンカレーの中では、個人的にはかなりの上位に来る。ライスももちろん長米。もう少し上等なジャスミンライスが欲しかったが、香りが強いお米は、日本では「くさい」とか言って嫌う人が多いので、あえてこのぐらいのものにしているのかもしれない。Mizumizu連れ合いはガパオライス。鶏肉のバジル炒めご飯で、タイでは屋台の定番らしいのだが、タイでは食べたことがない。要はアジアの混ぜ混ぜご飯だと思う。韓国のビビンバもこの系統かと。連れ合いは、やや「西洋人に媚びた風」になっているのが、気に入らないらしく、再訪するならソムオーだという。Mizumizuは、だんぜんジム・トンプソン・テーブルのほうがいい。黒タピオカのココナッツミルクはアップで。タピオカは大粒のほうが、もちもちしていて美味しいと思う。洋風のシフォンケーキとプティングもあった。味は・・・「・・・・」まあ、東南アジアの洋物スイーツってのは、期待はできない。ちなみに、まずくはありません。値段も手ごろだし、味も「上だ」し、悪くない店だ。しかし、ジム・トンプソンの名前を、こんなカジュアルな若者向けレストランに使うのは、多少もったいない気もした。高級路線ではやっていきにくいのかもしれないが、あの謎めいた魅惑の男、「ジム・トンプソン」の香りは・・・カケラもない店だった。ティファニー フランク・ゲリー フィッシュブレスレット送料無料・プレゼントにメール便送料無料【Jim Thompson】 蝶柄 バタフライシルクブランド 【ジムトンプソン】コットン ハンカチ 20%オフ47.5cm四方
2009.11.27
「タイセレクト」認定店のソムオー。新大久保と高円寺に店舗があり、距離的に近い高円寺店に行ってみた。駅からも近く、店舗は彫刻を施した木をふんだんに使ったタイ風の内装。厨房では、若いタイ人の男の子が2人。ウエイトレスの女の子も日本語が達者なタイ人。ここはランチメニューが豊富。カオソイもあったが、麺がインスタント麺のようで、もうひとつ食指が動かない。Mizumizu連れ合いは、珍しくパッタイ(タイ風焼きそば)をオーダー。タイ人が作るパッタイだけあって、かなり辛い。・・・のだが、なぜかナンプラーや砂糖といったお決まりの調味料が出てこなかった。パッタイのほかには、日本風のサラダとスープ、デザートのタピオカココナッツが付く。タピオカは大粒で美味。・・・なのだが、お皿はまるで赤ちゃん用(苦笑)。ここまで安っぽいプラスティック皿は久々に見た。Mizumizuは3種のカレーにしてみた。レッドカレーとグリーンカレーのカレースープはかなりイケる。タイで言えば、アタリの屋台といったところ。・・・なのだが、野菜の切り方が物凄くザツ(苦笑)。しかも、これでもかッてぐらい入ってる。グリーンカレーからはあふれそうなタケノコの山。あまりにテキトーに切ってあるせいか、はたまた火の通りが悪いのか、なんとなく生っぽい。イエローカレーはベトナム風。・・・なのだが、これ、びっくりするほど「ぬるい」。タイでもえらく「ぬるい」カレーが出てきたことがあった。タイ人は猫舌で、あまり熱いものを好まないと聞いた。そのせいかもしれない。・・・にしても、このイエローカレーはあまりにぬるすぎた。にんじんもデカすぎ。カレーのほかに、やはりスープとタピオカココナッツがつき、ボリュームは満点。・・・というか、多すぎる(苦笑)。店内を見渡すと、若い男性が多い。ナルホド。そういう店ですか。ドリンクは飲み放題で、種類も多いが、ハッキリ言ってどれもイマイチ。・・・というか、イマサンぐらいか。率直に言えば、マズい。特にコーヒーは、オイオイってレベル。料理の味そのものは本格的タイ料理なのだが、あちこちがテキトーなところが、またタイそのものというべきか。Mizumizu連れ合いは、「また来てもいいかな」と言っていたが、Mizumizu自身は、微妙。会計のとき、1900円(2人でこれだけ食べて1900円というのは、相当安いと思う)を7900円と打ち間違えてきた。キャンセル方法がわからないとかで、結局そのままサインして、6000円を返してもらった。なんか、こういう適当なところ、でも決して悪気はなく、間違いを指摘されたら一生懸命合掌しながら謝っているところなどは、タイで見聞したタイ人そのもので、懐かしくなった。
2009.11.25
バロックの街、レッチェは、イタリア半島のカカトの底近くにある。バーリからなら日帰りも可能。駅から旧市街までは徒歩だと少し距離があり、途中で信号待ちのクルマの窓ガラスを拭いて小銭を稼ぐ貧しい少年を見た。新市街も全体的にうらぶれた様子で、イタリアの南北問題、つまり南部の貧困は、やはりまだまだ解決していないのだということを実感させられる。だが、旧市街に残るバロック建築群は、世界屈指と言っていいと思う。その最高峰がサンタ・クローチェ聖堂。白亜の素材そのもののもつ壮麗な質感といい、繊細で複雑な装飾といい、この聖堂のファサードを凌ぐものは、そうはないだろう。Mizumizuがこれまでに見たバロック聖堂のファサードの中でも、最高に洗練され、最高に美しいと断言できる。気が遠くなるほど壮大でありながら、同時に考えられないくらい緻密。この一大芸術作品を作り上げた人々の忍耐力と美意識には、打ちのめされるような感動を覚える。こうした建築を見ると、やはりイタリアはとてつもない文化国家だと思い知らされる。ひんやりとした聖堂内の装飾もまた見事。あまり余計な色がないところが、またいい。壁全体に装飾を施すのではなく、優美なディテールはレース飾りのように、ある空間を縁取っている。こうした取捨選択のセンスも、他のヨーロッパ諸国ではなかなか見られない。だが、このサンタ・クローチェ、たしかお昼から午後4時まで「お休み」で中に入れなくなる。夜は何時に閉まるのか忘れてしまったが、午後6時とか、そんなものだと思う。内部も必見なので、何を置いても午前中に行こう。旧市街を歩いて目立ったのは、石を加工する職人の店。ここで取れる石灰岩は、柔らかく加工しやすいのだという。アラバスターの街ヴォルテッラにも似た雰囲気があったが、職人のいる街には何ともいえない深みが加わるように思う。職人というのは世界共通で、どこかに置き忘れた魂を捜しているような、浮世離れした顔つきをしている。そうした魂の流浪人が、「加工しやすい石」という素材で、この土地につながれているというのがおもしろい。小さいけれど個性的な店をのぞいて歩くのも楽しい。重さを考えなければ買って帰りたいような装飾品がたくさんあった。バロック建築は、かたまって一箇所にあるのではなく、旧市街に散らばっている。角を曲がるとふいに視界に飛び込んでくる壮大なファサード。空気を吸うように、最高のバロック建築の息吹に触れることのできる街。こんな街は、世界広しと言えどめったにないし、もう永久に作られることはない。一生に一度は訪れるべき土地。ことに、何かを作っている人、表現している人なら、絶対に行くべきだ。
2009.11.24
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