月夜の海辺でどうぞ




週末の夕方、急に夜の海が見たくなった。
夫をさそって車に乗り込む。
家から海までは、高速をつかえばそうはかからない。

誰もいない海に心が惹かれるのはなぜだろう。

「なにか音楽かけて。」
私が言うと、夫はカーラジオのスイッチをいれた。
流れてきたのは、ヴァンモリソンの「ムーンダンス」。
1970年にリリースされたアルバムのタイトル曲。ジャズのスウィングが小気味よく、無意識にリズムをとってしまう。

ムーンダンス

目の前に海が見えてきた。高速がすいていたのでまだ日没に間に合ったようだ。
夕方から夜にかけて空の色が変わる時間が一番好きだ。

夜景

浜辺にすわり、波の音に耳をかたむける。
寄せて返す波の音は、それだけで充分な音楽だ。

月夜の浜辺は、中原中也の詩を思い出す。



月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。


それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。


月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。


それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれははふれず
浪に向つてそれははふれず
僕はそれを、袂に入れた。


月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。


月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?


中原中也詩集





心の中で暗唱し、気づけばボタンが落ちていないか探している。

バー

海沿いの道でぽつんとたっているバーを見つけた。車を止めて、立ち寄ってみる。
中には静かにバーボンを傾ける先客が数人、まるで過去をなつかしんでいるようにお酒を飲んでいる。


夫もワイルドターキーを注文する。
これで必然的に帰りの運転は私がすることになってしまった。
しかたなく私はソフトドリンクを注文した。

バーボン


口ひげをはやした初老のマスターは、黙々とグラスをみがいている。
先ほどから流れている音楽。ものすごくしわがれた声。でもなぜか心に響く声。
「これは誰の曲ですか?」
私はマスターに聞いてみた。
マスターは優しい目で私を見て静かに答えた。
「トムウェイツですね。たしか、グレープフルーツムーンっていう曲ですよ。」

クロージングタイム

夫と私は無言で聞き惚れた。しゃがれ声で歌うトムウェイツの歌は、はじめて聞くのになぜかとてもなつかしい気持ちがした。

店を出て、帰りの車の中。
カーステからはイーグルスの「サッドカフェ」が流れている。

イーグルス/ロング・ラン

イーグルス最後のアルバム「ロングラン」のエンディング曲。
無名時代のイーグルスのメンバーや、ジャクソンブラウン、J・D・サウザーなどが入りびたっていた伝説のカフェを歌ったものだ。ラストに流れるデヴィットサンボーンのサックスの音色は、イーグルスの終焉を感じさせるどこか寂しげな音色だ。
高速の料金所で、ふと窓の外を見上げると、グレープフルーツのように丸い月が出ていた。

月

月は家につくまで、私たちを追いかけてきていた。

                                        (完)


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