我輩はドラ猫である
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今日はひな祭りの日だった。ひな祭りは女の子の節句だということを幼児期に知らなかった。小学生になって、五月の節句の日、友達の家の庭には大きな鯉のぼりが上げられていて、羨ましかった。「うちも鯉のぼり、欲しい」母は怒った。「鯉のぼりは男の子の節句なの!あんたが欲しがるものじゃない!」そうなのか。そして、ひな祭りは女の子の節句だと気付いた。どの友達の家にも雛飾りがある。立派な段飾りもあれば、折り紙で作ったお雛様もあった。ないのはうちだけ?「ひな祭りは女の子の日でしょ?みんな飾ってるよ、お雛様」母はまた怖い顔をした。「お雛様は、お母さんの実家から贈られるものなの!あんたのおばあちゃんが贈ってくれないから家にはないの!」そうなのか。でも折り紙のお雛様もあったのに。あれはおばあちゃんじゃなくて、親が子どもと一緒に作ったものだろう。親が子どもを大切に思えば質素でもお雛様はあるだろうに。そんなことを言ったらまた怒られるだけだから私は諦めた。私は昼間、母に言っただけなので父には何も言わなかったような気がする。しかし、数日後、父が何やら木彫りの女の子の人形を買ってきたのだ。「おまえ、お雛様が欲しいんだろう」びっくりした。「お父さん、お雛様って御内裏さまとお雛様と言って二人いるんだよ」父は笑いだした。「そうなのか!」一人きりの木彫り人形は私にあまり喜ばれず、しばらくガラスケースに入れられていた。父はお雛様を知らないのか。もう仕方ない。それでも私を喜ばせようととんちんかんな人形を買ってきてくれた気持ちはやはり嬉しいような気もした。おばあちゃんも母も買おうとしなかったものを、父は買ってくれたのだから。雛人形ではなかったけれど。一人きりの人形はその後の私の人生を予言していたかのような気もするが。その後、私は大人になり妊娠した。男か女が性別は聞かないことにしていたが、母は女の子だと勝手に決めていた。そして、友達が木目込人形作りを教えていたので習いに行ったのである。完成した雛人形を母は自分の家に飾った。人形は作った人に似るというが、確かに母の顔に似ていた。私にはしてくれなかったけど、孫にはしてくれるんだと思うと嬉しかった。しかし、母は言いはなった。「あんたにはやらん」母は自分も雛人形など、飾ってもらえない家庭で育ったから自分のために作ったのだと気付いて、私は少し落ち込んだ。歴史は繰り返されるのか。いや、繰り返すまい。私はトイザらスに出かけ、安価ではあるけれど見た目が美しい雛人形を買った。もちろん、父の二の舞は嫌だから御内裏さまとセットである。もう、この辺は私の意地だった。華やかなひな飾りを、見て9が月の赤ちゃんだった娘は喜んだ。「あー、あー」と指差しながら嬉しそうにする姿を見て、私はやっと雛人形を買ってもらえなかった自分の子ども時代を取り戻せた気がした。つまり、あなたの成長を喜んでいるよという証だったのである。だから毎年飾ったと言えばハッピーエンドだったが、私はだんだん飾るのが面倒になってしまい、数年しか飾らなかった。だからいい加減なところは受け継いでいたわけだ。小学校高学年になって娘がクローゼットに自分で飾っているのを見たときは、かなり気が咎めたが、楽天的な娘はそれで親に恨みを持つこともない様子だった。親が飾らないから自分で飾る、これも娘の自立心だったのだろう。娘は楽天的でもあり、クールでもあった。今は押し入れにしまわれたきり。今年も飾らなかった。家のインテリアに気を遣う余裕がまったくなかったこの数年だった。母が作った木目込人形も飾られることはなくなったようだ。母は自分がしてもらえなかったことは同じように私にはしたくなかったのだ。自分の母親への恨みなのかもしれない。母方の実家は昔式の考え方で、内孫と外孫への扱いが全然違った。祖母は内孫にはお祝いしていたようだ。「内孫と外孫は違います」はっきり言われた。そんなものかと早々に諦めた。昔の人だから仕方ない。そして、大人になった私は、母方の親戚からは決して生むなと猛反対されるなか、生まれたのだと知った。冷たいのは祖父母だけでなく、叔母も同じだった。叔母は兄のところに、生まれた私と同い年の女の子の誕生はとても喜び、姪を可愛がっていた。私はと言えば、反対したのに生まれてきてしまったのだから、母のために生きて欲しいというのが叔母の願いなのだった。道具でしかなかったのである。父方の親戚と言えば、私を嫌うわけではないものの、どうでもいい存在だったようでこちらにも可愛がられた記憶はない。「あんたはね、誰からも嫌われるこどもなんだよ」憎々しげに言う母の言葉を私は傷付くことなく受け止めた。もう、そんなことで傷ついていたら生きていけないというほど私は感情が麻痺していた。どちらの親戚も私には苦手だった。でも私は近所のおばちゃんたちから可愛がってもらっていた。昔は近所づきあいが濃かったのである。「桃太郎ちゃんは本当によく頑張ってえらいよ」と慰めてもらっていた。さすがに雛人形はくれなかったが、成人式に着物も着られないときいて「うちの娘の着物で良かったら着て」と言ってもらっていて、素直に嬉しかった。その家のお姉さんの振り袖はとても素敵だったから試着させてもらってとても嬉しかった。これで私は成人式に行ける。それを見た、プライドの高い母は気を悪くした。「振り袖なんかうちで買えるから借りなくていい」 成人式直前になって母は私を展示会場に連れていき、母好みの古典柄の着物に急遽決まった。お姉さんの花柄の振り袖の方が気に入っていたが、そんなことを言えばまた母の逆鱗に触れる。母は二十歳になった私でも平気で手を出す人だったから逆らえなかった。振り袖は結婚後に袖を切ったから後輩の結婚式に着ていきたいと40代の私は母に申し出た。私は乾杯の挨拶を引き受けていたから、これは事実上主賓なので、正装したかったのである。「あんた、幾つだと思ってるの?40過ぎてピンクの着物なんか!」ああ、何も私にくれたくないんだ。またまた諦めた。こんなことの繰り返しの人生だった。一つだけ希望とすれば、父が買ってくれた木彫り人形だ。母が捨てたのでもうないが、私の誕生を喜んでくれたたった一人の人のちょっととんちんかんな人形があったことが思い出の中の救いだ。いつか女の子の孫が生まれることがあったら出し入れに負担のかからない小さくても可愛い雛人形を買ってあげられるおばあちゃんになりたい。
March 4, 2022
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