Je parle au sujet de la musique classique. ♪

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生涯



ヨハン・ゼバスティアン(以下バッハとする)はアイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。バッハが10歳の時に父が死去し、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。

1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職、その後まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになった。すでにバッハの能力は高く評価されており、1707年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに異例の好条件で招かれた。同じ年、遠戚にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚した。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。多くのオルガン曲はこの時期の作品である。1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。

1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。1720年夏、領主に従って旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴュルケンと再婚した。彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。有名な『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏された曲が折々に書き込まれていった。アンナ・マグダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、クリスティアンは音楽家として幅広く活動、モーツァルトに影響を与えた。クリスティアン他、バッハには成人した4人の息子があるが、彼らはみな音楽家として活躍した(下記を参照)。

1723年、ライプツィヒの聖トーマス学校のカントル(音楽監督)に就任。この地位は事実上ライプチヒ市の音楽監督にあたっており、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。

1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。

1749年頃から眼疾が悪化し、手術を受けたが、テイラーという医者がヤブ医者だったため、予後が思わしくなく、病床に伏すようになり、1750年に65歳でこの世を去った。

なおバッハの子孫がアイゼナハに1960年代に生存したことが確認されている。


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