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ビッグコミックに連載中の銀のしっぽが、おかげさまで10周年を迎えました。10周年カラーでただ今発売中の本誌に掲載されております。短気で飽きっぽい私が、気づけばここまで長く続けてこられたのは、読者、関係者各位、家族の協力と支えがあってのことと感謝しています。さて今回、昔のママが老人に言われる言葉ですが、私の祖母が言っていた言葉です。明治生まれ東京育ちの祖母は、関東大震災と東京大空襲をモロに被災して生き延びたタフな人でした。私が小学生の頃に亡くなりましたが、関東大震災の時は地面に亀裂が入り、それが開いたり閉じたりしていた様、東京大空襲の時は焼夷弾の降る中必死に逃げ、離れた所から家が燃え落ちるさまを見た話などをしてくれました。そんな祖母が言っていた言葉を入れました。4日前からまた東京へ戻っています。またお仕事に集中します。
2011.04.25
間違えて近所の散歩道の写真を載せてしまった。 これがシャッターに敬礼する娘。 大変良い姿勢。〇。
2011.04.21
毎朝、車庫のシャッターが開く時、ビシッと敬礼している娘。 何故なのか? 何に対してなのか? 何になったつもりなのか? 保育所へ送り迎えしてくれるおじいちゃんに対してか? しかしおばあちゃんが運転する時もこれだ。 何かの出動のつもりなのか? 誰も見てなくてもビシッ!
2011.04.21
仕事をしていたら、ダンナから振り込みを頼むと電話が来たので、コンビニまで自転車で行ってきました。 ダンナの実家は一応地域のメインストリートの外れにあって、車は少ないけど、それ故スピード出してたりしてちょっと危ないので、1本裏の道を帰っていました。 山でしきりにウグイスが鳴いていて、とてものどかです。 ふと見たら立て札が… (写真) いのすぃすぃ?! ひいっ!! 帰宅して義母:紀子さんに聞くと、 「あ~、猪おるよ~。 この前夜、うちの前(メインストリート)をてくてく歩いてた。 ウサギはよく見る。 一度裏庭に追い込んで捕まえようとしたら、ウサギがわたしに向かってピョーン飛びよらしたから、(私は)倒れてしまった。 裏庭で仰向けに倒れて笑ってた。 あとね、30年暮らしててこないだ初めて鹿を見た。 田んぼに降りて遊んで帰るところで、田んぼから出てきて道渡ってるところを見た。 一緒にいた人が、 「あれ鹿がおる。」 って言った。 けど、あまり大きいから(私が) 「あれはロバたい」 と言った。 でもよ~く見たら鹿だった。 鹿って大きかね~」 お義母さん、ロバだったとしてもおかしいと思われますが…
2011.04.20
昼、シイタケ屋さんとやらが訪れ、シイタケを置いて行った。 それがこれ。 何この大きさ…。(゜∀゜;ノ)ノ 義母:紀子さんに寄ると、シイタケ栽培をしている方で、商品にならない余り物があったら持ってきてくれるよう、頼んで置いたとのこと。 ちょっと収穫しそこなうと、シイタケは一気に大きくなったりするらしい。 するとパッケージするのに困って売りに出せない。 そしてご近所の家にやってくるということですな。 お昼は巨大なシイタケを切って揚げた天ぷらでした。
2011.04.18
またダンナとタッチで熊本入りです。 写真は家から見える素敵な景色 心和みます ここは野菜も魚も肉も地元産で、スーパーに行くとパッケージに作った人の名前が入ってるのが素敵で安心。 なんでも、東北農産物のダメージで中国から野菜が大量輸入されるとかで、 「その内人体に影響が出る可能性のある福島産」を避ける替わりに 「直ちに人体に影響が出る可能性のある中国産」 が来るってことですな。 中国の方「日本に安心な中国野菜を届けたい」と。 ありがとう中国。 お気持ちは大変嬉しいんですが。 福島産と中国産を並べてどっちか選べるようにして欲しい。 同じリスキーなら私は国産を選びたいから。 今のところ、放射線の心配のない熊本の田舎町ですが、そろそろ、いつ東京に子供を連れ帰るか考え中。 参考にこのところずっと、福島原発のプラントパラメーターのサイトをチェックしているのですが、 福島原発原子炉の状態 http://atmc.jp/plant/rad/? それまで30シーベルトあたりだった1号炉の放射線数値が、突如100シーベルトに跳ね上がり、以降毎日「‐」横棒 なんですよ。 なんで横棒なのだろうか? 100マイクロシーベルト、100ミリシーベルトで騒いでいる中、マイクロでもミリでもなく、100シーベルト… この近くで作業できる人間いるのでしょうか? 加えて、数日前まで見られた2号炉、3号炉の放射線量も見られなくなってしまいました。 更に 「炉内に燃料がないからあえて発表しない」 と説明して放射線量を公開していなかった4号炉、今日使用済み燃料プールで異変があるとの報道 結局原発はどうなっているのかわからない。 わからないと帰る時期を決めかねる。 原発はかなり深刻になってるけど、世間に言うとパニックになるから言えないのかなあと、気を利かせて察してあげなきゃいけないのかしら? 加えて、年間20ミリシーベルトに達する地域の住民に待避命令が出ましたが、チェルノブイリの時は5ミリシーベルトで待避だったんですが大丈夫なんでしょうか? これも政府を思いやって察してあげたほうがいいのかしら? 何だかもう いつが帰り時なのか、全く定まりませんです。
2011.04.14
まだ原発や余震などで落ち着きませんが、一方、復興に向けてエンジン全開な所が小気味良かったので紹介いたします。日本の道路工事がすごいhttp://labaq.com/archives/51642736.html工事の方、すごいなあ。
2011.04.12
父の四十九日に別の告別式のために喪服を着る事になるとは思わなかった。どの漫画家にもデビュー作品があって、同じ頃デビューした漫画家を同期と呼んだり、ライバルと呼んだりしていたりする。ダンナのデビュー期は新人の当たり年で、確実に同期という仲間がいて、また団結しているが、私の頃は曖昧で、後々掲載雑誌もバラバラに散って行ってるので同期と意識する人がいない。その中で、向こうは知らないが、唯一同期と言えそうな人が、中島さんだ。私と同じギャグ・コメディ系の作風で、同じ担当編集者の元に同じ時期にデビューし、後に同じビッグコミック系に進んだ。本当に似たような漫画家ロードを歩んできた。それが昨年から「病気療養の為しばらくお休みします」と休載していたので、どんな具合か編集者に聞いてみた。既に余命半年だということだった。読者へのメッセージも「無い」と言い、編集者からの電話にもあまり出ず、身の回りの物を片付け始めたと聞いた。漫画の道具も早々と始末し、親は年だし、兄弟は家庭を持っているし、家族に迷惑かけたくないから、独り暮らしのままで逝く、最期はヘルパーさんに来てもらって死ぬからと、編集者に語ったらしい。普通、余命が宣告されるような病気になると、人はもっともがくものだ。闘病記を発表したり、やりたいことをやり、行きたい所に行き、会っておきたい人に連絡したり、なんとか奇跡が起きないかと代替療法に挑戦したり、時には余命短い事を武器にして、「あなたは元気なのだから自分の望みを聞いてくれるよね」と我が儘をかましたりする。そんな人を何人も見てきた。けれどそれが人間なのだと思う。なんでそんなに潔いのだろうか?思うに、漫画一筋だった中島さんは作品に全てを注ぎ込み、人に会わなくても、闘病記などを発表しなくても、充分に自己表現をし、そして満足していたのかもしれない。もう20年近く会って無かったが、彼の連載が続いているのを見て多少なりとも励みにしてきたので、お見舞い品と手紙を送ったが、やはり返事は無かった。そして先月月26日に逝った。あと半年と宣告されてから1年、よく頑張ったと思う。見事に潔い逝きっぷりだった。その、死との向き合い方に、彼なりの美学を感じた。すごいと思う。お葬式に出席したが、遺族のほかは私だけだった。(ほかに二人いたが途中で退席)ご遺族にお声をかけづらく、また聞かれなかったので私が何者か伝え損ねてしまった。怪しい者かといぶかしく思われたかも知れない。すみません、同期の漫画家です。とても遠かったが、最後にお別れできてよかった。最期は病院で迎えられたそう。ファンレターや、アイディアメモなどを、沢山のお花と共に御棺に入れて逝かれた。デビュー作のファンレターなど、とてもきれいにとっておられた。昔、少年サンデーに小川智明さんというギャグ漫画家がいて、俺と森さんと中島君で同期だな! と言っていた。そしたら程なく小川さんはバイク事故で亡くなってしまった。中島さんはバイクも乗らないし、まだまだ生きて連載していくのだろうと思っていたのに…寂しいです。温かみのあるちょっといい話が受けている昨今(それはそれでいいのですが)、彼のようなギャグらしいギャグは貴重だった。南陪南の「このドシロウトがあっ!!」っていうセリフ、もっと聞きたかったです。面白い漫画をありがとう!お疲れ様でした。中島徹さんのご冥福をお祈りします。
2011.04.08
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