そういちの平庵∞ceeport∞

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波止場の哲人



 彼は1902年にドイツ系移民の子供としてニューヨークに生まれている。7歳で母親と死別し、その年に視力を失った。盲目生活は15歳まで8年間も続いたという。当然、彼は正規の教育を受けずに育った。

 18歳の時父親が死に、彼はひとりぼっちになった。彼はバスでロサンジェルスに行き、そこの貧民窟に棲みついた。そして職業紹介所でいろいろな職業を見つけ、そのその日暮らしの生活をしていたが、28歳の時そこを去った。きっかけは自殺に失敗したからだという。

 その後、農業従事者としてカルフォルニアの農園を渡り歩いた。炭坑夫として働いたり、失業者を収容するキャンプで過ごしたこともあった。恐慌と戦争の時代でもあり、その暮らしは人間として最低の水準だった。

 彼がモンテーニュの「エセー」を手にしたのは、1936年の冬だった。彼は砂金堀をしていて、冬の間は雪に閉ざされた生活を余儀なくされた。そこで、偶然書店で買い求めたこの本を三度読み返し、ほとんど暗記してしまったのだという。

 モンテーニュとの出合いが彼の運命を変えた。彼は行く先々で図書館に出入りして本を読み、気に入った言葉があるとノートに写すようになった。そして自分の思索の結果をノートに書き写した。やがて1941年、彼が見つけたついの仕事がサンフランシスコの港湾荷役の仕事である。彼に言わせれば、自由と運動と閑暇と収入とがこれほど適度に調和した職業を他に見出すのは困難だった。

 彼が1958年6月から翌年の5月にかけて書いた日記が、1963年に「波止場日記」と題して出版された。港湾労働者の日々の記録というにはあまりに高度な思索がそこには書き留められてあった。翌年、彼は認められてカルフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になった。1967年には彼の対談が CBCテレビで全米に流され、大きな反響を巻き起こした。

 しかし、彼は大学へは週に一度顔を出すだけで、普段は港湾の日雇い労働者として生き続けた。「波止場日記」に<私がくつろげるのは波止場にいるときだけだ>と書いている。そして彼はその言葉の通り、65歳まで現役の波止場労働者として働き続けた。彼の言葉をいくつか「波止場日記」から拾ってみよう。

<たびたび感銘を受けるのだが、すぐれた人々、性格がやさしく内面的にも優雅さをもった人々が、波止場にたくさんいる。この前の仕事でアーニーとマックとしばらく一緒になったが、ふと気付くと、この二人はなんと立派な、寛大で、有能で、聡明な人間だろうと考えていた。じっと見ていると、彼らは賢明なばかりではなく驚くほど独創的なやり方で仕事にとりくんでいた。しかも、いつもまるで遊んでいるように仕事をするのである>

<労働者としても、また人間としても比類ないニグロがいく人か波止場にいるのを知っている。この人たちは柔和で、誠実で、非常に有能である>

<知識人は自己の有用性と価値とに自信がもてないために、とてもプライドなしには立っていけないのであり、普通は国家とか教会とか党とかいったある緊密なグループと自己を一体化してプライドの根拠としているのである>

<私の言う知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである>

<自分自身の幸福とか、将来にとって不可欠なものとかがまったく念頭にないことに気付くと、うれしくなる。いつも感じているのだが、自己にとらわれるのは不健全である>


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