【遙かなる紫の物語】若菜の章 その4


 藤姫がぽつんと言った。
「お耳に届いていましたか、藤姫。耳ざといのは変わらないね。」
 八葉か……。夢だよ。あかねに関してだけは、みなが恋敵だった。最後に誰があかねを得るか……。あかねが元の世界に戻ったのは、誰のことも選べなかったからなのに。
 友雅は、あかねが自分の為に戻ってきたなど、夢にも思っていなかった。
「友雅殿、神子様が一番お好きだったの、どなただかご存じですか?」
 藤姫がいたずらそうに言った。
「今日は気分がいいとみえる。宮が来てから、神子殿の話はしたことがなかったのに。」
「ええ……。あなたが私を選んでくださったから、言わないでおこうと思っていたのですけれど……。お知らせしておかなくはいけない気がしましたの。お知らせせずに私がはかなくなるようなことがあったら、私、きっと後悔しますわ。」
「気をもたせるねえ……。誰なんだい?」
「……お気づきにならなかったのですか?」
 まさか……。自分は、あかねから一番遠い存在のはずだ。年も一番離れていたし、いつもからかっていたから、傍へも寄ってこなかった。
「たくさんの姫君とおつきあいをなさっても、これは別なのでしょうか? 友雅殿、あなたのことが、一番お心を占めていましたのよ。」
「まさか、そんなことが……!」
「お帰りになる前の晩に、私に話してくださいましたの。友雅殿と京へ残りたい。でも、友雅殿の気持ちがどこにあるかわからないし、周りにたくさん女の人がいるから、自信がない。元の世界でも、自分の事を心配してるだろうから、天真殿たちと戻ることに決めたのだと。本当に苦しそうに話しておいででしたわ……。私、一緒に泣いてしまいましたもの。神子様が残ってくださったら、私もうれしゅうございましたし。でも、残られても、あなたとお幸せになれないのなら、神子様にはご不幸でございましょうから、お停めしませんでしたの。」
「そんなことがあったのか……。知らなかったよ、藤姫。話してくれてありがとう。」
 では、あかねは……自分の為に戻ってきたのだ! 友雅は、あかねのことは藤姫に内緒にしておこうと決めた。いらぬ心配をかけたくない。まず、元気になることだ。もとの藤姫に戻ったなら、宮があかねだと知っても、動揺してどうにかなることはないだろう。
 まずは、あかねの記憶を取り戻さなくては。友雅は、夜が明けると、橘の館へ戻った。



 館へ戻った友雅は、衣装箱から古い直衣を取り出した。
 あかねが元の世界に戻ってから、もう二度と着まいと、しまい込んでしまった、古い直衣。いつも着ていた、両肩に大きな牡丹を描いた白の……。あかねの記憶に最も残っているだろう直衣。それに着替えて、友雅はあかねの居間に向かった。

 あかねは、すべて、友雅に話そうと決めていた。
 友雅がどう思おうと、話さなければ分かってはもらえない。
 友雅が来た。
「……?」
 見慣れた直衣……。ちょっと古さが目立つ。わざと? 何のつもり?
 あかねの不思議そうな顔が、友雅には少しまぶしかった。
「あかねの君……。ご機嫌は、いかがですか? 昨日はすまなかったね。人の亡くなった話などお耳に入れて、気分が悪くなられたのだろう?」
「友雅さん……」
 今度は、友雅が不思議な顔をする番だった。友雅「さん」?
「その直衣……私、知ってます……」
「思い出したのだね……! あかね、神子殿、君は……」
 友雅は、あかねを抱きしめた。うれしかった。幸せだった。「桃源郷に輝く月」と思っていたあかねの心を手に入れられたのだと思った。
 手放しで喜ぶ友雅。あかねは初めてみる友雅のそんな姿に戸惑った。
「友雅さん……?」
「君の気持ちは分かっているよ、神子殿。戻ってくれて、うれしいよ。君に、逢いたかった。宮として君を抱いたとき、あまりにそっくりなので、びっくりした。でも、こちらでは、ずいぶん年月が過ぎたのに、君はちっとも変わらない。どうして……?」
「友雅さんなら知ってるでしょう……? 邯鄲の夢のお話。ずいぶん長くこちらにいたと思ったのに、元の世界に戻ったら、ほとんど時間が過ぎていなかったの。学校にも、遅刻、ですんだし……。私、元の世界へ戻ってみて、やっぱり、友雅さんのことが忘れられなかったの。これからずっと逢えないんだと思うと、もう、気が変になりそうだったの。蘭に相談したら、最初の古井戸が何かを知ってるかも、というから、古井戸に行ってみたら、こっちに来られたの。でも、なんだかそのとき、心のかけらがなくなって、何も分からなくなってしまっていたの。」
「そうだったのか……。では、君が帝の女三宮になっていたのも……」
「どうしてだか分からない。神泉苑の時空の狭間が知ってるかも。」
 あかねは、鷹通とのことをどう切り出そうかと迷っていた。友雅の方が先に口に出した。
「では……何も分からないうちに、鷹通とできてしまったのだね……?」
「そう。私のせいで、鷹通さんが死んでしまった。私がこっちへ来るのをあきらめてたら、死なずにすんだのに!」
 涙があふれ出てきた。おなかの鷹通の子が、ぐるっと動いた。
「神子殿……。戻ってくれて、うれしいよ。鷹通も、正真の君だと知っていたかどうかは分からないが、想いが叶ってうれしかっただろう。その子は、鷹通の想いの結晶だ。大事にして、元気に産んであげなさい。」
「友雅さん……許してくれるの?」
 友雅は微笑んで、あかねをそっと抱きしめた。
「本当のことを言おうか……。許せないよ。」
 あかねはひやっとした。友雅は言葉を続けた。
「でも、君も、自分を見失っていたのだからね……。私も、君だということが分からなかった。鷹通も、気づかなかった。君は、君でありながら、別の人として契ったのだ。体は君だったのだけれどね……。」
 友雅は、あかねに口づけた。あかねもそれに応えた。このためにこちらへ戻ってきたのだ……。互いが互いの気持ちを分かり合えて、二人ともとても幸せだった。



 月満ちて、あかねは無事に男の子を産んだ。
 友雅が積極的に子どもをかわいがることはなかったが、一応、自分の子として扱い、誕生からの様々の儀式は滞りなくなされていった。
 罪の子……。あかねの気持ちも、子どもに添わなかった。乳母に預けて、時折顔を見るだけだった。目鼻立ちがはっきりしてくるにつれ、鷹通に似たところが目立ってくる。どうして、友雅の子ではなかったのだろう……。運命がうらめしかった。

 土御門の藤姫の体調がすっきりと治る日はなかなか来なかった。
 物の怪の仕業かと加持祈祷をするのだが、効果はなかった。
 藤姫には、原因が分かっていた。
(友雅殿のお気持ちは、どこへいったのか……)
 気に染まなかったはずなのに、今では、女三宮にすっかり心を奪われている。藤姫は、女三宮が本当にあかねだったことをまだ知らなかった。
 友雅の愛で生かされていたのに。小さい頃から、友雅に支えられて。今、ここで支えがなくなるとは……。つらかった。このままはかなくなれたら楽なのに……。


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