名古屋嬢ひなの。ボンジュールな日々

名古屋嬢ひなの。ボンジュールな日々

名古屋の観光地・大須(名古屋弁バナー)!



コメ兵 では、貴金属やブランド品(中古が大半)が格安に手に入ります。
元々戦後に古着からスタートした店ですが、最近は株式も上場して東京にも進出しています。

大須商店街・万松寺1
今日は、最近行った時に掛かっていた大須バナー(大須・万松寺ーばんしょうじー商店街)をご披露します。

名古屋弁で書かれたコピーライトが、なかなか面白いと思います。
亡き祖母が生きていたら、こういう風に言うだろうな~と感じました。
名古屋弁は今も生きていますが、年寄り同志や下町の濃い人間関係のあるエリアに住まないと、なかなか丸出しで使う人は少ないようです。

父も名古屋人ですが、母が三重県出身の為、夫婦の会話では名古屋弁がイマイチ乗らないようです。
母は桑名弁がネイティブなので、興奮すると関西弁のイントネーションになってしまいます。
父が亡き叔父(父の兄)や亡き祖母としゃべる時には、ベラベラの名古屋弁になったんですが、相手の名古屋弁が堪能でないと駄目みたいです。

大須・万松寺白雪稲荷【万松寺白雪稲荷】

万松寺 は、パソコンビジネス(グッド・ウィルグループ)で成功した副住職が、 自社ビル の中にパチンコ店も誘致して、繁盛しています。
更に2003年にオープンした隣の大須再開発ビル「 OSU301 」も3階の中華街を目玉にして、賑わっています。

【大須の歴史】

慶長17年(1612年)に徳川家康が、大須観音を岐阜県羽島市大須から移転したのが現在の大須の始まりです(大須の地名の由来は、ここからきている)。

その後大須は、大須観音を中心とする門前町、寺町として長年賑わってきました。大正元年、当時大須三丁目に22,309坪の寺域を誇っていた万松寺の大部分を、万松寺37世大円覚典和尚が開放し、大須を名古屋の一大繁華街としました。

第2次世界大戦により、繁華街の大部分が戦災に遭い、また戦後の都市計画や娯楽志向の変化等で、徐々に繁華街の中心が栄などに移っていきました。

最近になってまた若者を中心に大須を見直す気運が高まり、古さと新しさが混在した場所となり、老若男女問わずさまざまな人々が訪れ賑わっています。
大須商店街・万松寺2



大須に関しては、今後も少しづつ記載していきたいと思っています。


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