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春の四国は八十八ヶ所の霊場巡をするお遍路さんの季節、一番霊山寺から八十八番大窪寺まで約1,450kmの旅になります。遍路道は空海42歳の時に開いたとか、太子入滅後に高弟の真済が遺跡を辿って始まったとかの説がありますが、八十八という数にも煩悩(欲望・執着)の数とか米の字を分解したとか、或いは、男42、女33、子供13の厄年を合わせた数など諸説があります。そこで今回は、四国霊場で「発心の道場(阿波の国)」最後のお寺になる、厄除けご利益の二十三番札所薬王寺をご案内です。 山門前の広場には若い外人男女のお遍路さん、足に豆を作って難儀中、見あげると諭祇塔(ゆぎとう)がそびえてます。 海カメの産卵で知られる徳島県南東部、薬王寺はその紺碧に輝く太平洋に面した、日和佐町(現美波町)の小高い丘に位置しています。今月終了のNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台付近になり、時々、薬王寺が映し出されると懐かしく思い出されます。奈良時代の仏教活動は、国家の保護を受けますが統制も強まり、得度・受戒などが許可制、民間布教は禁止された時代です。それに反発し布教したのが私度僧、その一人の行基が薬王寺を開基、その後、空海が本尊の薬師如来(東方浄土の世界で衆生の現世利益を司る)を刻んで安置し、厄除けの根本祈願寺としています。民主党代表だった菅直人氏が年金未納問題の責任を取り辞任、一番霊山寺からここ二十三番薬王寺まで歩き遍路して話題にもなりました。薬師如来は薬の王様だから薬王寺命名・・・です? 厄坂(階段)にはいつも一円硬貨が一杯、時には五円玉も。3回も訪問しながら不思議な光景と感じています。厄年は起源不明な習慣、でも大厄は凶事や災難に合う確立が高い人生の節目、医学的にも肉体と精神ギャップを埋め有効とか! 薬王寺は四国八十八ヶ所霊場の中でも「厄除け」で知られるところで、山門をくぐりやや直進すると33段の女厄坂、踊り場があって、その上が42段の男厄坂、登り切ったところが本堂になります。ここの厄除けには面白い習慣があって、司馬遼太郎作「空海の風景」の石碑に刻まれているように、「石段を厄年の男女が織るように上下しており、登る者は一段登るごとに一枚ずつ一円アルミ硬貨を落していく・・・」とあります。石段の裏側に薬師本願経を一石一字で印され、厄年の人が一段一段お参りしながら一円玉を置くことにより厄が落ちるというご利益を願ってのことです。階段ぎっしり置かれている時もあり、これがお賽銭を供えることに通じ掃いて回収します。面白いことに神社は厄難を払い落とす「厄払い」の所で、お寺は災厄を避ける「厄払い」と区別されているようです。このことは当然、庶民的にはまず厄を避けるためお寺に参詣し、一旦、厄難に出合ったら今度は神社に参拝するという順序が良さそうです。 本堂は開創以来、幾度かの火災や兵火で焼失・再建を繰り返しますが、現在のものは明治41年に再建された建物になります。薬師如来本尊には不思議な伝説があり、文治4(1188)年の火災のとき焼失を逃れるために、自ら光ながら玉厨子山に飛び去り毎夜光を放っていたそうです。その後、後醍醐天皇が厄除け祈願所として、伽藍を再建し新しい薬師如来を刻み開眼供養していると、飛び去っていた薬師如来が戻って来て、新しい像の後ろに座られ「後ろ向き薬師如来」になった・・・本尊が二体になったという話です。白衣、菅笠、金剛杖、地下足袋・・・姿、本堂や太子堂にお札を納め、声高に般若心経を唱え平和と安穏な人生を願っています。 本堂右横の61段の還暦坂、そこを登ると灯台のようにそびえる宝物展示の瑜祇塔に至ります。 四国八十八ヶ所霊場の遍路には、世は諸行無常と心身の苦悩を知る阿波の国「発心の道場」、ひたすら歩くことが修行になる土佐の国「修行の道場」、釈迦が瞑想の中で得た真理を知り悟る伊予の国「菩提の道場」、そして荒ぶる煩悩を断ち切り絶対静寂の心境に至る讃岐の国「涅槃の道場」とに分けられ修行することになります。遍路お接待に接すると、心通う異次元の空間体験になります。八十八ヶ所遍路は四国ですが、一度訪ねた篠栗(福岡県)とか小豆島(香川県)、知多(愛知県)では1日で遍路体験が出来ます。 瑜祇塔の展望台から街や海を見渡すと、清楚な気分に浸ります。お参りした後だからなのか・・・思わず南無太子遍照金剛です。左側半島の奥に位置する日和佐うみがめ博物館「カレッタ」、常勤職員が3名と小規模。ドラマ影響で人気沸騰中ですが、残念なことに小生は訪ねてはいません。この地域は真珠の養殖も盛んで、視察で訪ね海岸で戯れた事があるので・・・惜しいことをしました。次回は桜前線北上中・・・そんな季節に「日本一の桜名所」と評価の高い、奈良県「吉野山の桜」を予定しています。
2010.03.20
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NHKテレビ番組に、クラッシック名曲探偵「アマデウス」があります。探偵長 天出臼夫と助手 響カノンが丁々発止、曲に秘められた作曲家の意図を考察しながら、加えて専門家による解説や演奏を交え、相談者の悩みや問題を解決して行くという、良質で本格的な音楽番組です。CD300枚(内クラッシック160枚、残り洋楽)も所有し親しむ小生、音楽辞書を脇に置き視聴する熱の入れようです。が、素人は素人らしく堅苦しさを抜きにして、今回は最近の小生身近な音楽歳時記をリラックス気分で聞いて下さい。サントリーホールウイーン国立歌劇場、ウイーン・フィルの仲間30人による小規模演奏会、満席。2日前はアクロス福岡でも行っていました。 演目、ベートーヴェン交響曲第4番、モーツァルトヴァイオりン協奏曲第5番など・・・大いに満足。帰宅がPM11:30。 久し振りですが先日、サントリーホール(東京)に行って来ました。「世界一美しい響き」をコンセプトに、昭和61(1986)年に誕生した音楽専用のホールですが、特に大ホールの全2,006席はぶどう畑(ブィンヤード)形式にして、段々畑状に聴衆がステージを向いた嬉しい造りになっています。音楽的にも視覚的にも、演奏者と聴衆が一体となって臨場感を醸し出す形式を採用したわけです。ホール残響時間が満席時で中音域2.1秒という音楽特性から、余裕のある豊かな響き、重厚な低音、明瞭で繊細な響き・・・ヴァイオりン、ピアノ、合唱(アルトパートで、小・中学生時代に全国学校コンクール優勝)などで、聴音の優れた家内はお気に入りです。 ショップには音楽関連グッツが満載、ドリンクコーナーは席確保が大変です。 ホール完成から間も無い音楽会に出向き驚いたのは、クロークで服・荷物を預け、ドリンクコーナーでビールやワインを飲めたこと。会場の常識ではアルコールは絶対禁止?・・・と思っていましたから、つい嬉しくなり休憩合間にツマミ付きでビール2杯です。音楽専用ホールは全国にありますが、小生の生れ故郷でも30年も前に全国に先駆けバッハホールが完成、でもどこも採算は厳しい状態にあるようです。その中でサントリーホールは市場環境に恵まれており、演奏の質を落さず安価なチケットを願いたいものです。このホールには開館から高松へ転任するまでの6年間、毎年、設備の定期検査業務で訪問した思いが詰まった場所になります。 我が町の市民による、市民のための市民フィルハーモニー管弦楽団・・・定期演奏会、60人規模です。演目はメンデルスゾーン生誕200年を記念し交響曲「イタリア」など、ルネサンス発祥の地・・・歴史を強く感じ、また行きたい国。 文化・音楽活動が盛んな我町、この地にしっかり根付いた市民フィルハーモニー管弦楽団が活動しています。団員は賛助を含めて100名という大変な大所帯、昨年末に28回を迎えた市民コンサートを聴いた印象は、弦楽器はまずまずの出来ですが管楽器が今一歩の状態、でもここまで演奏の質を上げられたものと喝采です。悲しいことに我町には、音楽専用はおろか多目的市民ホールさえありません。今までは元ボーリング場を買い取った間に合わせホール、しかし耐震強度が無いために閉鎖・売却という憂き目に、楽団や様々な団体がホール建設を陳情している情けない状況です。 同好の仲間達によるピアノ発表会風景。 今回の演目、皆様が何気なくどこかで耳にしたことのある、R.シューマン作曲の「子供の情景」op.15から「異国から、こわいぞ」。小生、何時ものように送り迎えの運転手に徹し、帰りは家内の奢りで今回もお気に入り中華レストランで夕食 兼 反省会です。夕食といえば、昔の世界音楽紀行や映像紀行が深夜に時々再放送されていて、録画したBD、DVDを見ての夕食も楽しんでいます。 音楽関係のグッツは沢山ありますが、先日、街中でピアノ鍵盤をプリントしたTシャツを着た若者の往来にはビックリしました。写真のグッツは家内の貰い物、左からお手拭きタオル、ペンケース、小物入れトレー、ボールペン・シャープペン、そしてホルダーケースになります。その他にもあったような気がして探しましたが思い出せず、でもこんな些細な小物でも心楽しくさせてくれるものです。次回は江戸時代、九州の中心地で天領地だった大分県日田市の歴史景観「豆田地区」を予定しています。
2010.04.10
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国宝姫路城は世界文化遺産、'93年に法隆寺地域の仏教建築物と共に我国最初の登録です。JR姫路駅からでも間近に見渡せる姫路城(別名白鷺城)、駅近くまで外濠が迫ったという広大な面積を有するお城になります。最初の出合いはM電機姫路製作所(当時はレンガ造の旧紡績工場だった)への実習訪問の時、もうかれこれ43年もの星霜が過ぎてしまいました。そんなことで今回は、美しい築城当時の姿を今でも残す唯一の城「姫路城」のご案内です。 第一印象は素直に、大きい、美しいでした。 初訪問時は場内設備が不案内で、石垣や白壁が一部崩れかけ、廊下は土埃が入り込んでいた印象があります。でも城造り技術が昂揚期を迎えた江戸時代初期に造営された城郭だけに、完成の域にある城郭建築や壮麗な天守閣群には、戦災を奇跡的に免れた日本の財産を発見した気分でした。でも戦災で焼け出された貧しい人達が、外堀の石垣の上に勝手にバラック小屋を建て生活、国有地に一寸した町が出来上がっていた時期もあったようです。昨年は築城400年、来春、大修理に入り雄姿は当分幕で覆われますので見学はお早めに。 姫路城は姫山(46m)に築かれた平山城、石垣や建物の高さを加えると海抜92mです。敷地は内濠内で7万坪、外濠からだと70万坪にもなる広大さで、中濠だって造られています。その敷地内には大天守と三つの小天守、それらを結ぶ渡櫓は国宝指定になり、そして化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1kmは重要文化財の建築物になります。国宝・重文満載の城見学になりますから、たっぷりと3時間以上は確保したいものです。 曲線美を見せる石垣の「扇の勾配」長方形の大型角石を、左右交互に積む積木手法で、崩れ難いために高く積んでいます。 唐破風・千鳥格子の天守閣、外観から5層、でも内部は地上6階・地下1階の建物です。 羽柴秀吉後半の軍師黒田官兵門考高が主人公の司馬遼太郎作「播磨灘物語」、読んで興味を持った姫路城。秀吉が官兵門の勧めで西国攻略の拠点として天正8(1580)年に入城、翌年に3層の天守閣を完成させています。でもここを秀吉に譲るまで3代35年間も黒田家が姫路城主であり、戦国時代の主従関係を思い知らされます。発祥は、播磨の守護職(赤松則村)が砦を築き、その嫡男が城を構えたのが姫路城の始まりとされ、正平元(1346)年まで遡ります。関が原合戦の後には、勝利した徳川家康の女婿の池田輝政(52万石)が入封、慶長6(1601)年から8年の歳月を費やし南の外濠を大きく拡張して、姫山に5層7階の天守閣を築き、今日に見る姫路城の全容が整い400年経過しました。池田3代の後に入封した本多忠正(15万石)は、長男忠刻とその室「千姫(二代将軍徳川秀忠の長女)」のために、西の丸を整備しています。 天守閣内部の板張り空間は広い、今では手入れが行き届いてピカピカに磨かれています。西の丸を守るように建てられた百間廊下、最近、心無い落書きが話題になっています。 戦国の世は残酷物語時代、男子は主従関係で動き、女子は道具扱いと思える処遇です。そんな因果が姫路城にもあり、本多忠正が嫡男忠刻の室「千姫」は再婚になります。歴史を遡れば織田信長の妹「お市」は浅井長政との間に3姉妹(茶々、初、江)を授かりますが、長政は信長に滅ぼされ自害。お市と3姉妹は秀吉に救出され、長女茶々(後の淀君)は秀吉の側室に、三女江は家康の子で2代将軍になる秀忠に嫁ぎます。それぞれに生まれた豊臣秀頼と千姫(7才)は結婚することになり、正しく近親であり政略結婚、その挙句、千姫の祖父家康と父秀忠が大阪夏の陣で大阪城を落城させ、夫の秀頼と淀君(伯母)を自害させるという悲劇です。織田家(or浅井家)の血は、徳川方でも豊臣方でもどちらが天下を取っても継続出来るようにした策略でもあり、このように翻弄された経緯を経て本多忠刻との再婚に結びつく訳です。こんな境遇の中にあっても、武家の子女は自らの幸せを見出し力強く生きたようで感服です。千姫が姫路城西の丸に居を構えた時、お付の女達が住んだ長局とか、千姫が身支度や化粧直しをした化粧櫓につながる百間廊下、武者の住まいかと見誤る重厚でしっかりした造りでした。 天守閣の心柱は、直径1m近い2本の柱で支えています。 天守閣は一寸した高さがありますから、眺望は市街地の遠くまで広がります。秀吉に居城の姫路城を譲った軍師黒田官兵門考高(後の如水)、剛毅に唄われる「黒田武士」のモデルともいわれ、九州征伐の貢献から豊後中津城17万石を与えられます。嫡男長政は徳川家康の養女を正室に迎え、関が原の合戦やその後の武勲から筑前国(福岡)52万3千石を与えられており、武力や知力、人柄、財力だけで無く、現在にも通じるプラス婚姻を含めた世渡り上手でなければ出世は出来ないもののようです。 この姫路城の特徴は、屋根の鬼瓦や軒丸瓦は、築城や修理した城主の家紋を彫った瓦が使用され歴史を残しています。それから壁のほとんどは白漆喰で塗り込んでいます。また、石不足を補うために五輪塔とか石棺、或いは、石臼なども転用使用されたようです。お菊井戸はお家乗っ取りを女中お菊が知り城主の難を救った騒動、播州皿屋敷の犠牲者です。次回は讃岐国、侠客森の石松も厄介? になろうとした金毘羅さんを予定しています。
2009.04.18
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