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まさに歴史ですねっ!TV見てましたっ・・・。ついでに、ふぅ~ん そうだったのですねっ。
ドリフの歴史
前期バンド時代
雑誌「ミュージックライフ」、いかりや長介著「だめだこりゃ」、高木ブー著「第5の男」、および加藤茶の証言等を元に極力矛盾が少なくなるように整合させた、いかりやが正式リーダーになるまでの経緯を紹介。なお、新生ドリフ結成の解釈には、おなじみ5人のメンバーが揃った時と、桜井輝夫と小山威が抜けた時である渡辺プロ移籍時の2通りがあるが、本記事ではイザワオフィスの公式発表に従い後者としました。
サンズ・オブ・ドリフターズ
1957年(1955年または1956年説もある)、「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併し「サンズ・オブ・ドリフターズ」として結成。岸辺清がリーダー。メンバーは、グループ名は、アメリカのThe Driftersに傾倒していた岸辺が、自分達のグループをDriftersの息子たちと自負して命名したという説がある。駐留米兵相手のウエスタンバンドとして活躍し、山下のボーカルが人気を集める。後期には、桜井も加入。なお、初代リーダーは大野という説もある。大野と親交のある高木は、いかりやが3代か4代目のリーダーと語っている。大野が初代とすればいかりやは4代目となる。この時のメンバー:岸辺、大野義夫、多田正幸、新井利昌、鈴木修、根本節夫、吉田博、能勢武、清水一夫、斉藤任弘、山下敬二郎
井上ひろしとザ・ドリフターズ 1958年、山下の脱退と共に、名称を「ザ・ドリフターズ」に変更。山下の代わりのボーカルとして井上ひろしが付き人より昇格。一時期は坂本九も在籍。当時ドリフは、ロカビリーが売りのバンドであり、井上のバックバンド的な存在だった。
桜井輝夫とザ・ドリフターズ
1960年、井上の独立と共に、岸辺から桜井へとリーダーが交替し、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」となる。また、ポン・青木、小野ヤスシが加入。当時はロックバンドだったが、この頃から音楽主体のコミカル路線を歩むこととなる。
碇矢と加藤の加入
1962年二代目リーダー桜井がグループのお笑いを強化するため、「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」のベーシスト碇矢長一(当時は芸名でなく本名)をヘッドハンティングした。その直前に「クレイジー・ウエスト」(ミッキー・カーチスのバンド)のメンバーだった加藤英文(同じく当時は芸名でなく本名)もドラマーとして参加。そして、桜井より碇矢がリーダー代行という形で、「ザ・ドリフターズ」を本格的なコミック・バンドとして再々編して出発することになる。
碇矢がメンバー入りしドリフがコミックへと完全に方向転換した際、青木とコミックを嫌うメンバー(田中、三好)は脱退し、代わりに飯塚文男とマウンテン・プレイボーイボーイズのジャイアント吉田に加え、猪熊虎五郎もメンバー入りした。当時のメンバーの中には、加藤もいたが、小野も、フィーチャーリングボーカリストとして在籍していた。さらには、桜井がボーカルを行ったり、木の実ナナや高松秀晴がドリフ演奏の下で前歌を歌うこともあった。これが、現在万人に知られているドリフの母体、原形である。
この時のメンバー1:桜井、青木、田中、三好、小野、小山、※木の実、※高松(※後述2人は専属シンガー)の8人
ドンキーカルテットとの分裂 1964年桜井はライブに出演しなくなり、オーナーの立場となった。桜井はオーナーとしてバンドの采配を握っており、碇矢は依然雇われリーダーの形式だったが、碇矢の影響力が強まり、碇矢は練習の鬼と化した。そのワンマンぶりに対し小野は一種のクーデターを起こし、吉田、猪熊、飯塚を誘って脱退して、「ドンキーカルテット」を結成する。当初加藤もドンキーカルテットへ加入する予定であったが、プロダクションの上部から「ドリフを辞めさせない」との圧力が掛かり、小野は1人を残留させれば他の新メンバを集めてドリフは残せる、またグループ名がカルテットなのに5人ではクインテットになってしまうとの考えから、加藤へ「ドリフに残った方が良いのではないか?」と説得した。また、碇矢からも執拗な残留の説得、及び説得時の碇矢の顔の迫力により「残ります」と言ってしまい残留を決めたといわれる。この時いかりやは「俺が辞めるから残ってくれ」と言って小野らを説得したが、小野は既にドンキーカルテットとしての仕事をブッキングしていた。結果、残されたメンバーは、リーダー(代行)の碇矢、ドラムの加藤、ギターの小山、渡辺プロのオーナーの意向によりメンバ入りしたサックスの綱木だった。ここで、オーナー桜井の腹心を除いた実質のメンバーは、碇矢と加藤だけだった。
高木・荒井・仲本の加入
主力メンバー大量脱退でピンチになった桜井を含むドリフの母体側(逆にいうなら「残された側」)は、この時点で急遽「シャドウズ」、「パップコーン」などに在籍していた高木友之助を引き入れ、さらに「クレイジー・ウエスト」のピアニストだった荒井安雄が加入し、続いて「クレイジー・ウエスト」でのボーカル経験もあった仲本コージ(ジェリー藤尾のバンド「パップ・コーン」にも在籍)が参加し、ご存知の5人のメンバーが揃った。1964年9月頃のことだった。この当時は一時的に小山が在籍していたため8人構成だった時もある。
新生ドリフ誕生
桜井はバンドを渡辺プロに譲り、小山も桜井が身を引いたのと同時期に体調不良により脱退した。またこの後しばらくは綱木が正メンバーとして在籍し、ドリフは6人構成だったことはあまり知られていない。綱木在籍時の6人ドリフのブロマイドがある。碇矢が正式に三代目リーダーとなり、それからしばらくして、在籍の意思あるも笑いのセンス無しとして、綱木が碇矢に強制脱退させられる。ドリフといえば通常、桜井の影響が無くなり碇矢が正式にリーダーに就任したこの時期以降のことを指す。しかし、新生ドリフターズは結成当初は正メンバーとして綱木文夫がいたので6人構成であり、5人となったのは新生ドリフ結成後2年経った1966年頃である。TVでいかりやが「ドリフ40周年」と言っていたが、西暦を数えるとちょうどこの年に当たる。なお、渡辺プロに移った年が1965年という説もあることや、加藤の「20歳でドリフに入った」との証言(彼が入ったのは19歳で、1964年の秋は21歳)から、ドリフ再結成(新生ドリフ結成)年の解釈に疑問も残る。
この頃までは、ドリフターズはジャズ喫茶出演が中心で、全国的には無名に近いバンドであり、かろうじて加藤の「カトちゃんぺっ」のギャグがTV放映でわずかに知られていた程度である。
スケさん!かくさん?ぷぷっ🤘 Jul 26, 2019 コメント(12)
みざるイワザルきかざる⁇ Oct 16, 2018 コメント(19)
あのね・・・(。◕ˇдˇ◕。)/ Mar 21, 2018 コメント(12)