なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

CF 崩れ行く土手に座って


崩れ行く土手に座って

 私は、本能寺家の執事をしております沖ともうします。我が家の当主本能寺将様がご結婚なさる少し前から、こちらでお世話になっております。

 先代が海外に長らくいらっしゃることが多くなって以来、将様は今まで抑えていらした真の能力を発揮して、グループ8社の管理を実に見事にこなしていらっしゃいました。自信に満ちたお姿は、私ども使用人にとっても誇りでございました。
 今、こうして土手に座ってあの頃のことを思い出しますと、夢を見ていたのかとさえ思えてきます。



 その頃は先代がアメリカにいらして、ご主人様が若き社長として懸命に会社を盛り上げていらっしゃる頃でありました。

「ただいま。」
「パパーっ!! おかえりなさい!」

 ご主人様のまわりを飛び跳ねて、まだ小学生だったぼっちゃんは早いご帰宅を喜んでいらっしゃいました。

「パパ、あのね。今日は僕、ホームルームで発表したんだよ」

 ぼっちゃんはとても聡明なお子さんでしたが、内向的なところがあって自分の意見を人前で話すのが苦手なご様子でした。

「ほお。秀人にしてはがんばったなぁ。これからもどんどん発言していきなさい。大人になった時にその経験がきっと役に立つよ」
「うふふ。この子ったらテストで100点とっても喜びもしないのに、こんなことになると大はしゃぎなのよ」
「だって!的場先生は発表ができるようになったら僕には欠点が無くなるって、おっしゃっていたもの」

 的場先生というのは秀人ぼっちゃんの家庭教師で、ぼっちゃんがまだ小さい頃から担当している者です。

「旦那様、お食事の用意が整っております」

 メイドの一人が声をおかけすると、ご主人様方はそろってダイニングに付かれるのでした。

「悟と美優は?」
「美優様はお気分が優れないとおっしゃって、お部屋で。悟様は…」
「また出歩いているのか? 沖、君に悟を止めてくれとまでは言わんが、機会をみて忠告してやってくれ」
「わかりました。」

 ご主人様は若いご兄弟のことをとても気にかけていらっしゃいました。早い時期にお母様を亡くされたとはいえ、知識としての勉強だけではなく、情操教育や礼儀作法にもやさしくもきっちりと躾なさった前の奥様の深い愛情を一身に受けられ、ご主人様は気品高くいつもスマートな身のこなしをなさいます。そんなご主人様ですので、歳の離れた腹違いの弟妹君にもきちんとした礼儀作法を身につけてもらいたいとお考えのようでした。

 しかし、それには大きな障害がありました。先代の後妻に入られた絹代様です。絹代様は悟様と美優様のお母様でいらっしゃいますが、ご本人は華道の家元という立場においででテレビにも出演なさるほどの人物でした。
 それゆえでしょうか。どうしてもお子様たちのお世話はわれわれ使用人に任せきりになってしまいがちでありました。


 あの頃、悟様は毎晩のように夜遊びに出かけておいででした。元々、お母様に厳しく躾けられたとおっしゃる将様とは違い、後妻の絹代様と先代との間にお生まれになった悟様と美優様は、お付の者がそれぞれお世話をさせていただくものの失礼ながら親御様の愛情ある躾をお受けになった様子はございませんでした。自分以外の人間の意見に耳を傾けるということをなさらない。お付の者が声をおかけしても、お二人とも聞き入れてくださることはなかったようです。

悟様は成人されてからも、いろいろと揉め事を起こされておりました。大学を卒業したあと、どちらにも就職なさらない悟様を見かねた絹代様が、将様に仕事を与えてやってくれと懇願なさっていたこともありました。

将様にとって悟様や美優様は、先代と二人で築きあげてきた本能寺グループの資産をただ自分達の堕落した生活のために容赦なく食いつぶしていくように見えたのではないでしょうか。しかしながら、幼い頃より人の道について厳しく諭されていた将様はむやみに彼らを追い払う事などせず、絹代様の出方をみていらっしゃったのでしょう。

いつも高飛車な絹代様がしおらしく頭を下げていらしたときには、将様は心底困ったお顔をなさっておいででした。将様には社長としての責任がございます。兄弟だからという理由だけで簡単に重要なポストに悟様を座らせるわけにはいきません。悟様は副社長や取締役につけろとご立腹でしたが、将様は総務で扱う品物の在庫管理を一任する形で課長のポストを与える事になさいました。

しかし、それから1年もしないうちに事件が起こってしまいました。会社の受付嬢にすっかり入れ込んだ悟様は、女性が退社する時間を見計らって待ち伏せし、無理やり車に乗せて遊びまわっておいでになったのです。周りの者がどんなにお止めしても聞き入れてもらえず、何度かいざこざがあった末に、とうとう女性を妊娠させてしまうという騒ぎになりました。

これは警察沙汰になってもおかしくない状況でありました。相手の女性のご両親が騒ぎ立てずに悟様の真意を聞きたいとおいでになった時は、その胸の内を思うだけでこちらまで辛くなる思いでありました。将様は大変心を痛めておいででした。

しかし絹代様は逆上なさり、相手の女性のご両親には決してお会いになろうとはなさいません。当のご本人はしてやったりと浮かれていらっしゃるし、その場を納める方法は見つからないのではと我々もことの成り行きを息を呑んで見守っておりました。

 結局のところ、将様がお相手のご両親とお話し合いになられて、なんとかご結婚にこぎつけた次第でした。
 しかし、従来より財産の有無に重きを置かれる絹代様は、お相手が財産目当てに息子を騙したのだとご立腹で、無事にお嬢様がお生まれになった時も、決してその愛らしいお姿をご覧になろうとはなさいませんでした。

 悟様の下に嫁がれた良恵さんは、経済的にはごく一般的な家庭でお育ちになった方でありましたが、よく気の付くよいお嫁さんでいらっしゃいました。本家にお訪ねになることは絹代様の許しが下りませんでしたが、われわれが用事で悟様宅にお伺いした折には、何かと心を砕いてくださいました。


 念願かなってお幸せそうな悟様は、しばらくは真面目にお仕事に精を出しておられました。しかし、それも永くは続きません。
 人間には性分というものがあり、それはほんの少し生活が変ったぐらいでは拭い去る事は出来ないものなのでしょう。
 悟様の欲しがり癖は、幸せな生活に慣れ始めると同時にじわじわと頭をもたげ始めてきたのです。

「お母さん、お帰りなさい。相変わらず忙しそうだね」
「あら、悟さん。こっちに来てたの?」
「ああ、ちょっとね。持ち合わせがなくなっちゃって・・・。お母さんに会えてうれしいよ」
「まあ、困った子ねぇ。いい加減くだらないままごとはやめて、こっちに帰ってきなさいよ。」

 悟様は絹代様のお帰りになる時間を聞きだして、それにあわせて本家においでになっていらしたのでございます。絹代様はそれでも悟様に甘えられるとつい財布のひもを緩めてしまわれるのでございます。

「ん~、そうしたいけど、真澄も大きくなってきたしなぁ。身動き取れないんだよ」
「そんなことはお金で解決できるでしょ? 若い女の子なら私のお華の教室にもたくさんいるわよ。今度のお免状授与式にでも顔を出しなさい。いい子を紹介してあげるから」
「そんなことしたら良恵が怒るよ。それにあんなに美人で従順な子、そうはいないでしょ?」

 絹代様はそれには答えずきっと鋭い視線を送ると、疲れたとおっしゃってご自分のお部屋に入られたのでございます。

「お~、こえぇ~」

 悟様は笑いながらおっしゃると、手に入れたお金をズボンのポケットにねじ込んで、さっさとお帰りになるのでございました。

 その頃、絹代様がお疲れになっておられるのには理由がございました。お嬢様の美優様がなかなかご自宅にお帰りにならなかったのでございます。

 絹代様は、華道の家元としてはテレビにも出演なさるほどの知名度の高いお方でございます。そして、仕事と子育てを両立しているということで、本を出版なさったのでございます。
 ところが、その頃から美優様の外泊が目立ち始め、どうやらご友人宅を点々となさっているということが分かってきたのでございます。身なりも随分と変ってしまわれて、とても本能寺家のご令嬢とは思えない様子でございました。

 絹代様はいつもいらだっておいででした。美優様はいつも品行方正で、可憐でなければならないというのが絹代様のお申し付けでございましたので、お付の者はいろいろと心を砕いておりましたが、お嬢様は聞き入れてはくださらず、お付の者はいつも絹代様からお叱りをうけていたのでございます。

しかしながら、絹代様ご自身がお嬢様の口座に高額なお小遣いを振り込んでいらっしゃるため、美優様は自由にご自分のお好みの服装をお楽しみになるので、私どもには力の及ばない次元の問題ということになってしまうのでございます。


 頭の回転の速い美優様は、高校3年の秋口からご自宅に戻られ、人が変ったように勉強に打ち込まれました。お付の者が混乱するほどの変化でありましたが絹代様は大変な浮かれようで、テレビ番組に美優様を連れ出されるほどの持ち上げようでありました。

 大学に入学された美優様は、絹代様の組まれた予定の番組を一通りこなされると、またふらりとお出かけになったまま、お戻りにならなくなってしまったのでございます。


夏休みも半ばになった頃、美優様が一人でマンションにお住まいになっているということがわかってきたのでございました。

「沖さん、美優の居所はまだわからないの? あんまりうかつな事されると、私の仕事にも響いてしまうのよ。そこのところ、よろしくお願いしますね」

 絹代様にはまだお伝えしておりませんでしたが、その時すでに美優様のマンションは判明していたのでございます。
 美優様のお付の者が一人、掃除や洗濯をお手伝いに上がっていたようでございました。

「沖さま。申し訳ありませんが、お嬢様の住所を奥様におっしゃるのは今しばらくお待ちいただけないでしょうか。」

 お付の者を問いただした折、そのような言葉が返ってきたのでございます。

「私は、もう長いことお嬢様のそばに仕えておりますが、最近お嬢様の様子が変ってきたように思うのです。お掃除やお洗濯などまかせっきりだったあのお嬢様が、ご自分でなさろうと努力されているのです。」

 美優様についているのは絹代様と同世代の女性で、彼女には子どもがなく、まさに美優様を娘のように見守ってきた人物でございました。美優さまが高校生のころは、よく反抗されて自分を責めていたものですが、このときの表情は正に娘を育て上げた母のような幸せそうな顔をしていたのでございます。

 絹代様を差し置いてという考えもありましたが、一般的な大人から見ても美優様のこれまでの暮らしぶりはひどいものでございました。それから考えると、彼女が喜ぶのも無理はないかという共感もございました。そこでしばらく絹代様にはお伝えしないでいようということになったのでございます。

 しかし、そんな美優様の努力は長くは続かず、ある日掃除をしようと美優様のマンションを訪ねたお付の者が見たのは、空っぽになった美優様のお部屋でございました。

 事の次第をお聞きになった絹代様は激怒なさり、お付の者は解雇されることになりました。それからしばらくの間、美優様の居所はさっぱりわからなかったのでございます。


美優様がまだマンションにお住まいになっておられた頃、将様の会社では大きな出来事が動き出していたのでございます。
その日、将様は血の気の失せた顔で会社からお戻りになりました。そして、すぐさま悟様を呼ぶようにおっしゃったのでございました。

「すぐにここに来るように言ってくれ!」

 秘書の田中は真面目な男でございます。私から見れば、息子ほどに歳は離れておりますが、ご自宅での様子を申し伝えると、それを基にして将様のスケジュールを微調整するのでございます。もちろん、私どもにもいろいろ情報を流してくれるのでございます。そんな田中がすぐさま電話に飛びついて、悟様を呼び出したのでございます。

 田中の口ぶりから、悟様がこちらに来ることを渋っていらっしゃるのが分かりました。なにやら不都合が起きたご様子でございます。そうこうしている間にも、何件かの電話が入り、将様はそれを全部不在の名の下に蹴散らし、じっと葉巻の煙の行方を見つめておいででした。


 しばらくして、正門の前に車が入った音が聞こえました。外に出てみると、悟様の奥様でいらっしゃる良恵様が悟様を車で送っておいでになったのでございます。

「沖さん。お義母様はご不在ですか?」

 開口一番にお聞きになるのは当然でありました。絹代様は良恵様が本邸に来ることをいまだに許していらっしゃらないからでございます。

「奥様はイギリスにいらっしゃいます。お帰りは明日、ご安心を。」
「ああ、良かった。では、主人を連れて参りましたので、お義兄様としっかりお話し合いなさるように勧めてください。
 貴方、お電話くださればすぐに迎えに参りますから」
「うるさい!余計な真似をするな!」

 悟様は不本意なご様子でございました。

「良恵さん、ありがとう。帰りは沖に頼んで送らせるから、自宅でくつろいでいてくれたまえ」

 振り向くと将様がおでましでございました。驚いている間に、将様はさっさと悟様の腕をつかんで引き入れてしまわれたのでございます。

 良恵様は、心配そうに何度も振り返りながらアプローチを貫けて、そのまま帰っていかれたのでございます。なにか、嫌な予感でもあったのでしょうか。その表情には疲れが見えておりました。

 将様と悟様の話し合いは深夜まで続きました。田中が時々連絡をくれるので、お茶や軽食をお運びすることができましたが、夕食も食べずに対峙なさるお二人のご様子はどうにも深刻で、私どもはただ静かに見守ることしか出来なかったのでございます。

「サンドウィッチをお持ちしました。ただ今、紅茶を…」
「ああ。悪いな、沖。もう、休んでくれ。後のことは明日にでも田中から引き継いでくれ。」

 将様はどんなにお疲れでも、私どもを気遣ってくださるお方でございます。朝が早い私どものことを思って、そのようなお言葉をくださったのでございます。
 悟様は随分と機嫌を損ねていらっしゃるようではありましたが、いつも味方におつきになる絹代様がご不在となれば、逃げようもないご様子でございました。

 翌日、田中から聞いた話では、悟様が将様の会社の株を勝手に売り飛ばしてしまわれたのだということでございました。長い歴史に見合う信用を築いてこられた先代と将様にとって、会社の持ち株を売り飛ばすなどということは今までになかったことでございました。
ほんの少し売り出したとしても、その金額が大きいので関連会社はすぐに気が付き、騒ぎ出してしまったというのでございます。
将様の采配ですぐさま株は買い戻されたのでございますが、事の重要性にまったく気付いていらっしゃらない悟様に対して、将様は苦渋の決断を迫られておいででした。

救いであったのは、副社長を初めとする会社幹部がこのたびの出来事をコンピュータの操作ミスと勘違いなさったことでありました。それゆえ、悟様は社内では問題なく過ごせると安心なさっておいででした。
しかし、あまりにも不謹慎ななさりように将様は解雇を視野に入れた処分を検討なさるということになったのでございます。

「なんとでも言ってりゃいい。お袋が帰ってきたらそんな問題はあっさりもみ消されるに決まっているんだ」

 将様の心情もお気づきならずに、悟様はお送りする車の中でもずっと憤慨なさっておいででございました。


 翌日。絹代様がご帰宅になると、すぐさま悟様から連絡が入りました。絹代様はお疲れの上に大きな問題を抱えてしまわれることになってしまったのでございます。

「沖さん、少し休みます。 将さんが帰ってきたら知らせてちょうだいね」

 いつもは勝気な絹代様も、この時ばかりは困り果てた表情でおっしゃったのでございます。

 夜遅くになって、将様がご帰宅になられました。どうやらギリギリのところで、悟様の行いは闇に葬り去ることが出来たようでございます。お疲れの体を引きずるようにして、将様はご自身のお部屋に向かわれました。そんな時、さらりと衣擦れの音がしたのでございます。

 見上げた先には絹代様がおいででございました。絹代様は旅のお疲れも見せずにすばやく将様の足元にしゃがみこまれ、そっと手をついて頭を下げられたのでございます。

「将さん、この度は悟が大変なことをしでかして、申し訳ありません。ですが、どうか解雇だけは見逃してやってください。あの子にはあの会社しか行き場所がないのです。頭のいいあなたには分かってもらえないかもしれませんが、あの子はあれ以外にやりようがないのです。」
「お母さん、そんな風に頭を下げるのはやめてください。」

 将様はこの世で一番おぞましいものでもご覧になるかのように、目を背けておっしゃいました。

「悟のしたことは、絶対に許せないことです。もちろん、兄弟として救ってやりたい気持ちもありますが、それでは会社内の幹部連中が黙っていないでしょう」
「そこを!そこをなんとかして欲しいとお願いしているのです!」

 絹代様も必死であったのでございましょう。将様の足にしがみつくようにして、訴えていらしたのでございます。
 その姿は、哀れを通り越して不気味にすら映っておりました。そして、とうとう将様は折れてしまわれたのでございます。

 翌日から1週間ばかりは悟様は急病ということにして、将様はとくとくと悟様の考え方を改めさせようと考えていらっしゃいました。ところが、それどころか悟様は前日将様と言い合いになって帰宅した後、良恵様ともいざこざを起こして、ご自宅を飛び出していかれたのでございます。

「沖さん。申し訳ありません。ですが、主人が娘のことをあまりにも真剣に考えてくれないので、つい言い合いになってしまって…」

 良恵様と電話がつながったのは、悟様のお子さん真澄様のご容態がよろしくないというので、良恵様が真澄様をお連れになって電車をお待ちになっているときでございました。
 真澄様には喘息の症状が出ており、強いストレスによっては症状の重い喘息の発作が起きてしまうのでございます。
 良恵様のお話では、前夜もそのような辛い思いをなさったということで、病院に向かわれている途中だということでございました。

 しかしそれきり、良恵様や真澄様とは連絡が取れなくなってしまったのでございます。


 絹代様の捨て身の計らいにより悟様は3日後、何食わぬ顔で会社に出社なさったそうでございます。しかし、その頃すでに副社長の佐上様はこのたびの株の動きを不審に思われてあれこれ調べていらっしゃったのでございます。

 それはまだ、悟様が姿をお見せになる前日の夜のことでございます。将様を訪ねて佐上様がいらっしゃいました。

「沖さん、悪いが社長とじっくり話しがしたいんだ。ちょっと込み入った話になるので、周りの方には退席願いたい。」

 佐上様は固い表情でそうおっしゃると、応接室の上座にどっしりとお座りになりました。その姿を見た瞬間から、私には嫌な予感がしていたのでございます。副社長が社長宅の応接室で上座に座るなど、今までになかったことでございます。

 話し合いはあっけなく終り、佐上様は大変機嫌を損ねたご様子でお帰りになったのでございました。佐上様の車が見えなくなるまで見送りまして、応接室に後片付けに向かいますと、肩を落とした将様のお姿がありました。

「沖、私は間違った事をしているのだろうか。いや、間違っているのはわかっているのだ。それは身内を甘やかす事に他ならない。しかし、お義母さんの依頼にはこたえてくれと父から言われているだけに、どうすることも出来ないのだ。
 佐上には、そんな甘ったれた考え方では会社がつぶれるのも時間の問題だと責められたよ」

 もしも、絹代様が先代の妻という立場でなければ、将様は間違いなく悟様を解雇なさったでしょう。いえ、それ以前に雇用することすらなかっただろうということは明らかでございました。
 先代の言いつけには絶対忠実の将様でなければ、このような苦労はなさらなかったであろうにと、そんな風にさえ思えてしまうのでございました。

 翌日、当の悟様は何食わぬ顔で出社なさったそうでございます。そして、そのまま本家にいらっしゃったのでございます。

「良恵から何か連絡はなかったのか?」
「いいえ、ございません。」
「ちぇっ、どこに行きやがった!」

 良恵様と連絡が取れないのは悟様も同じでございました。しかし、私が良恵様の居所を知らないと分かると、こちらで夕食とシャワーをお使いになり、悟様はさっさとどちらかにお出かけになったのでございます。

違和感を覚えた私は良恵様のご実家にお電話差し上げて、想像を絶するような事実を知らされたのでございます。

「沖さん。なにもご存知ないのですか? 本能寺家といえば、あれほどの有名な資産家。それなのに、ご自分の孫が亡くなってしまったことも、ご存じないのですか」

 お答えのしようもございませんでした。その頃、確かに避暑地に向かう高原の列車が事故を起こしたということは存じておりました。しかし、まさかその列車に良恵様と真澄様が乗車なさっていたとは、想像だにしなかったのでございます。

 私は大変動揺してしまいました。すぐさま将様に連絡をいれ、指示を仰ごうとしたのでございます。悟様はどちらにお出かけになったのかわかるはずもございませんでしたし、ご自身の携帯電話も、めったにお出になることはございません。
 しかし、どういうわけか将様の電話は呼び出し音を繰り返すのみでございました。


「沖さん、早く車を回してくださらない?」

 将様の奥様美和様が、秀人様のお稽古事に向かわれる準備をなさっておいででございました。

「若奥様、大変でございます…」
「ええ、ほんとに大変ですのよ。今日は秀人がデビューするコンサートの最終打ち合わせですのに、こんな時間まで何をなさっていたの?」
「申し訳ございません。しかし、良恵様と真澄様が事故に遭われたと連絡が入りまして…」

 美和様は良家のお嬢様としてあまり世の中のことに関心をお持ちにならないまま嫁いでおいでになったからでございましょうか、このようなお話にはこちらが驚いてしまうほど関心をお持ちにならないお方でございました。

「まあ、大変ですこと。では、なにかお見舞いを送っておいてくださいね。それより早く車を。」
「お母さん、おばあさまを差し置いてあまり余計なことをなさらない方がいいですよ。良恵さんと言えばまだ本能寺家の人間としておばあさまには認められていらっしゃらない人ですよ。そっとしておいた方が身のためではないですか。
 沖さん、他人のことなどどうでもいいから、早く車を!」

 秀人様は将様の一人息子で、本能寺家を継ぐ大切な後継者でいらっしゃいます。幼い頃から多種多様なお稽古事をこなされる聡明なお子さんでございました。秀人様もまた、ご自身の目指すべき先に目を向けるのに一生懸命で、親戚縁者のことについては関心をお持ちにならないのでございました。

 ただ、それは無理もないことかもしれません。どんなに大きなグループ会社を経営していても、ちょっとした油断であっという間に買収されてしまうような時代でございます。多くを学び、勝ち抜いてゆくことこそが、秀人様の使命でもあるのでございますから。

 おっしゃるままにお車を回し、某音楽大学に秀人様をお連れしたのでございます。秀人様はそのまままっすぐに前を向いて先をお急ぎでございました。

私はそのまま車内でも将様への連絡を試みていたのでございます。しかし、おかしなことにその日、将様はなかなかお電話に出てくださらなかったのでございます。

その間にも、美和様がご友人と歓談なさる茶話会の準備や秀人様のコンサートの演出をなさる大学の教授へのお礼の品の手配など、あれこれとお急ぎの用をこなさなければならないのでございます。何度目かのコールでやっと将様にお電話がつながりました時には秀人様はすでにご帰宅で、美和様とご夕食を済まされた時でございました。

「沖さん。私は先に休みますので、明日の茶話会の準備はお願いしますね。秀人ももう少し睡眠時間を取らないと体に障るわよ」
「お母さん、どうぞお休みになってください。僕にはそんな惰眠を取るような趣味はありませんので、お気になさらずに。」
「まあ、失礼だわ。沖さん、何か言ってやってちょうだい。困った子。ほほほ」

 奥様のおっとりとした笑い声がお部屋へと消えていく頃、躊躇いがちにお電話に出られたらしい将様の息遣いがしていたのでございます。
 お電話から聞こえてくる将様の声で何かが起こってしまったことは察しが付きましたが、現実は、私の想像を超えるものでございました。


「すまない。とんでもない事をしでかしてしまった。私はじきに警察に連行されるだろう。沖、残された家族のことを頼む。父に連絡を取ってもらいたい」

「あの。何があったのでございましょうか」
「佐上を、殺めてしまった。悟が出社したのを嗅ぎつけて事実を聞き出した。そこまでなら私も頭を下げたものを、あの男は悟をうまく言いくるめて会社を乗っ取ろうと計画していたのだ。父が苦労して立ち上げたこの本能寺グループの中心的存在であるこの会社を…!あの時の恩を忘れたというのか。」

 将様は相当に興奮なさっておいででした。私はすぐさま専任弁護士の山村様に連絡をつけたのでございます。
 将様がおっしゃるあの時の恩。それは私にとっても衝撃的な出来事でありました。まだ将様が10歳になられたばかりの頃のことでございます。先代の立ち上げられた会社がやっと起動に乗ってきたばかりだというのに、奥様が急な病であっけなくお亡くなりになってしまって先代にとっても将様にとっても命の重みを一番敏感に感じ取っていらした頃でございました。
 お墓参りをなさって海のそばにある墓地から出てこられたご一行の目の前で、一台の車が勢いよく海に飛び込んだのでございます。
 あまりの衝撃に何も出来ずに立ち尽くす我々をしり目に、先代と将様はすぐさま海に飛び込んでいかれたのでございます。

 そのとき、車内にいらっしゃったのがまだ幼い佐上様と佐上様のご両親でございます。佐上様のご両親は残念ながら意識を取り戻すことなくお亡くなりになってしまいましたが、佐上様だけは奇跡的に意識を取り戻すことが出来たのでございます。

 その後、ご親戚の元に身を寄せていらした佐上様は立派に成人され、先代の会社に就職なさったのでございます。
 佐上様と将様は競うようにして切磋琢磨なさいました。ライバルでもあり、親友でもある、そんな関係を築いていらっしゃったようにお見受けいたします。
 だからこそ、そのお電話の内容はいかにも衝撃的ですぐには受け入れがたいものでございました。

 その日を境に、本能寺家の様子は一変してしまったのでございます。弁護士の山村様は大変頼りになるお方でございます。将様のことはお任せできるだろうと思いました。しかし、美和様や秀人様には到底受け入れがたい事であろうと推測はしておりました。

 案の定、テレビ局のスタッフがたくさんの機材を従えて本能寺の邸宅の周りを取り囲んでしまいました。連日絶え間なくインターフォンは鳴り続け、邸宅の敷地内の宿舎に暮らす我々ですら、ストレスで具合が悪くなる者も現れたぐらいでございます。
 翌日、たまりかねた美和様は記者会見に応じることになさいました。たくさんの記者から矢継ぎ早に質問を浴びせられ、涙ながらに夫の無実を信じるとおっしゃった姿は我々の涙を誘いました。そして、その横には母を心配そうに見つめる秀人様のお姿がございました。

 一方絹代様は、出張先でこの事件をお知りになると、こちらの邸宅にはお戻りにならず主だったマスコミに家族のしでかしたことを詫びる文面としばらく表立ったところで活動する事を自粛するという旨を書いたファックスを送られ、どちらかの別荘に避難なさったのでございました。

 世の中というものは、常に流れているのだと思いました。いつまで続くのかと思われた取材合戦も、主だった人々の謝罪なり会見が行われると、その様相も様変わりしていったのでございます。
 そして、4日後に起きた都心の銀行強盗立てこもり事件が注目を集めると、本能寺の邸宅にはいつもの静けさが戻ってきたのでございます。


「私、やっぱり殺人犯の妻なんて耐えられないわ。秀人さん、早々にお引越しの準備をなさってくださいね。新しいお家が見つかるまで、実家においていただきましょう。」

 それは、あの記者会見で泣き崩れたお方の口から吐き出された言葉でございました。我々がいるのも一向にお気になさらないご様子で、さらりとおっしゃったのでございます。

「お母さんがどうしてもとおっしゃるなら止めませんが、そうなるとこの本能寺家の財産はどなたのものになるのでしょうね」

 秀人様は世間話でもなさるようにそうおっしゃると、にっこりと微笑んでおいででございました。 その言葉に美和様の表情がキッと引き締まったのがわかりました。美和様や秀人様がこの邸宅を出られたならば、その財産は間違いなく絹代様とそのお子様方に流れるということなのでしょう。美和様は決心したようにおっしゃったのでございます。

「そうね。私としたことが、どうかしていましたわ。ここでしっかりと主人の帰りを待つことにいたしましょう。」

 そのまましばらくの間は、不思議な空気が邸宅内に満ち溢れておりました。将様は裁判に掛けられるというのに、奥様は今までどおり何事もなかったようにお買い物や小旅行にお出かけになりました。秀人様もコンサートこそ悲劇のアーティストなどといわれておりましたが、しっかりとそれを成功させて今は何事もなかったかのようにご勉学に集中なさっておいでです。

 気がかりなことはございましたが、本当にこのまま将様がお帰りになるまでお待ちになるのだと、我々もほっと胸を撫で下ろしていたのでございます。

 絹代様はというと、長い間働きづめでいらしたので少し別荘でゆっくりするとおっしゃり、そのままになっておりました。そちらで働いております知人から、絹代様がお元気でいらっしゃるという話だけが伝わってくるのみでございました。

 このまま何事もなかったように暮らしていてよいのだろうか、私は自問自答する日々でございました。御主人である将様から後のことを任せると仰せつかっているのでありますが、さて、美和様のなさりようを咎めることが許されることなのでございましょうか。

 時折お越しになる山村様からは、将様の憔悴なさっている様子など伺うことができましたが、それを聞きながらも微笑んでいらっしゃる美和様の心持は、私には理解できないものでございました。
 いや、それとも美和様は、気丈にも夫の危機に家族を心配させまいとなさっているのかもしれないと、揺れ動く思考の中にいたのでございます。

 美和様のお考えがはっきりと見て取れたのは、見慣れぬ男がこの邸宅を訪ねてきたあの日でございました。

 美和様はその男を応接室に通し、所払いをなさってなにやらご相談なさっているようでございました。いかにも素性のはっきりしない印象のその男は邸宅に一歩足を踏み入れるや、ひゅうっと口笛を吹いてにやにやと不快な笑みを浮かべておりました。

 どうやら探偵か何かのようでございます。くたくたのスーツ、土ぼこりに汚れた革靴はいかにもそんな印象でございました。

「美和様。失礼ですが、あのような怪しげな人物をこの邸宅に招かれるのはいかがなものかと。。。」
「いいのよ。こんなときなのに、悟さんも美優さんもこちらに顔も出してくださらないから、なにかあったのではないかと心配になっただけなの。」

 美和様は微笑んでおっしゃいましたが、私には到底そのような素振りには見えなかったのでございます。


 数日の後、再び訪れた男は、なにやら書類のようなものを抱えてやってきました。その折は秀人様も一緒に話し合いを持たれたのでございます。

 しばらくの後、満足げな美和様、秀人様とは対照的に男は少し引き締まった顔つきで邸宅を出ますと、門の外に止めてあった車に荷物を載せ、とても驚いた様子で両肩をあげて首を左右に振って帰っていきました。

 どうにも気になって、私はすぐさま部下に後を追うように指示いたしました。男はやはり探偵でありました。再開発に取り残されたような古い駅の高架下の一室に事務所を構えておりました。
 私は、どうにもいやな予感を拭いきれず、その事務所を訪ねることにいたしました。

 事務所の呼び鈴を押すと、疲れた声が答えました。のどが痛くなるような安物のタバコの煙が充満した部屋に案内されて、困ったように切り出したのでございます。

「先代の奥様から、美和様のなさる事をきちんと報告するように言われているのです。そちらには一切の責任をおかけしませんので、依頼内容を教えてはいただけないでしょうか?」
「おいおい。そんなことをはいそうですかってバラすようじゃ、探偵は務まらないんだよ。何か、こっちにもメリットがないと困るんだが」

 男は伸ばし放題のひげをなでながら、値踏みするように答えたのでございます。

「もちろんタダとは申しません。では、美和様がお支払いになった額と同額ではいかがでしょう」
「ええっ!内容を言うだけで100万もくれるのか?!」
「もちろん、内容次第では充分に可能です。ところで、悟様と美優様の居所はわかったのでございますか?」

 男はいっぱいにあげていた眉をぐっと引き寄せてつぶやきました。

「それがよぉ。悟ってやつは毎晩三本林のスナックにやってくるってことがすぐにわかったんだが、美優って娘は行方不明だったんだ。他にも娘の居所をさぐっている同業者がいるらしいって話だから、こっちは本当に行方不明なんだろうなぁ。」

 探偵や弁護士という職業にも優劣はあるものでございます。事務所の様子から、決して優秀であるとは思いませんでしたが、ここまでぺらぺらとしゃべっているようでは、あまり当てにならない人物なのでございましょう。

 三本林といえば場末のスナックが数件あるだけでございます。これはもう答えを漏らしたに等しいことでございます。
 私は納得して立ち上がると、男がにやりと笑って思わせぶりな事を申しました。

「ほほう、それでこっちの持ち札は全部見抜いたということかい?」
「いえいえ、あまり長居してもご迷惑かと思いまして。。。必要ならば、次回は現金を持参してうかがいます。では」

 私は何の未練もない素振りでさっさと玄関を出ました。すると、男は慌てて駆け寄ってきて耳打ちするのでございます。

「アンタ、あの家の下働きなのか?よくやるよなぁ。あんな風に家族を切り捨ててまで自分の財産を守るなんてね。恐ろしい世界だよ。アンタだって、ここに来ていることを嗅ぎつけられたらヤバイんじゃないの?」
「あははは。そうですね。きっと手痛いお叱りをいただくことになるのでしょう。お互いにナイショと言う事で」

 いやはやこれには驚きました。驚いた様子を男に気づかれないように微笑んでいるのがやっとでございました。
 それでも、聞きたい事は充分に聞き出せたと自負しております。こちらがあまりに動じないので、男も諦めたのか両肩を上げて事務所内に戻って行ったのでございます。


 それにしても、家族を切り捨てるというあの男の言葉が気にかかりました。その家族とは誰のことか、それは誰にも明白でございましょう。
 良恵さんが一人娘の真澄さまを亡くされて悲しんでいらっしゃるという時、ご自宅にも戻らず遊びふけっていらっしゃったそのお方は、ご自分のお子さんのご葬儀にもおいでにならないままでいらしたのございます。やっとお戻りになった時は、すべてが終わってしまった後でございました。

 たとえ我慢強い良恵さんが文句を言わずに受け入れていらっしゃったとしても、プライドが高い割りに脆弱な悟様がそのままそこでのうのうと生活なさるなど到底考えられないことでございます。拗ねたように飛び出していかれたきり連絡が付かないという状況に陥ってしまわれるのは、火を見るより明らかでございました。

 将様の奥様ともあろうお方がと思うと、遣る瀬無い気持ちでいっぱいになりますが、今は先代と連絡が取れるまで、なんとかご家族と連絡が取れるようにしておかなければなりますまい。どのように手を打つべきか、私は犬馬の労を執る覚悟でございました。

 半日だけということで、お暇を頂いていた身の上の私は、夜には戻らねばなりませんでした。自分の車を久しぶりに運転しながら、疲労を感じた私はなじみのパティシエが営業している店に立ち寄ったのでございます。

 美優様がご自宅にいらしたころは、よくここのケーキをねだられたものでございました。懐かしくなって男の癖にちょっとタルトなど注文してみました。もちろん、抵抗がないわけではございません。新聞を広げてその愛らしいデザインがやぼったい男の前に置かれていることをさりげなく隠しながらいただいたのでございます。

 ほのかにほろ苦いグレープフルーツのタルトは、やはり絶品でございました。ほっと気持ちが緩んだその時、私は目を疑うような光景をこの目に焼き付けたのでございます。

 その店の中央には螺旋階段が設えられ、見晴らしのいいVIPルームへと繋がっているのでございます。私も美優様のお供で何度か伺ったことがございました。
 そしてその螺旋階段を一人の女性がしゃれたスーツに身を包んだ男性にエスコートされて降りてきたのでございます。サングラスをかけていらっしゃっても、それが絹代様であることはすぐに分かりました。耳たぶが下がるほどのサファイアの大粒のイヤリングは先代からのプレゼントだと伺ったことがありました。

 しかしその相手の男性にも私は覚えがあるように思えてなりませんでした。ワックスで髪をゆるやかに後ろに流してはいるものの、整えられた髭と鋭い眼光。

 そうです!あれは絹代様や美優様のかかりつけ医の黒川さん。

 私はその時やっと思い出したのでございます。その方は間違いなく黒川医師でございました。絹代様の腰を抱くようにしていらっしゃる姿は、大変にさまになってはおりましたが、その裏で何かが起こっているということも同時に感じさせるものでございました。


 私はいったいどうしてしまったのでございましょうか。なんだかおかしくなってしまって二人を見送った後に一人で笑ってしまったのでございます。

 長らくお仕えしていた本能寺家ではありましたが、先代がいらっしゃらないとこんなにもバラバラになってしまうものなのでしょうか。

 将様はどうなさっているのでしょう。いつも先代のことを思い家族の事を考えてこられた将様は、残されたご家族がこのように奔放に振舞っていらっしゃることをお知りになったらどう思われるのでございましょうか。

 そして何より、先代はいったいどちらにいらっしゃるのでしょう。お孫さまが亡くなったことを、一番信頼なさっていらした将様がこのような状況に陥ってしまわれたことを、ご存知ないとは思えないのでございますが。


 私はそのまま邸宅に戻り、すぐさまお暇をいただくよう願い出たのでございます。絹代様や美和様のなさりようはとても受け入れがたいものでございました。将様への面会も自由に行かせてはもらえませんでしたし、先代からの言いつけなどはどなたも聞く耳をお持ちでないご様子でございました。
 そのことを先代に気付いていただくには、この方法が一番ではないかと思われたのでございます。

 あれからすでに半年が経とうとしております。美優様が電車の事故でお亡くなりになっていたと知らされたときは、すぐにでも飛んでいきたい気持ちになったものでございます。テレビでも連日のように泣き崩れる絹代様のお姿が映し出されておりました。
 しかし、それさえも空々しい絵空事のように思えてしまうのでございます。テレビはそのあと、遠く中東で邦人旅行者の監禁事件が起こっていたと分かると、すぐさまそちらに集中して、美優様の一件も世間は早々に忘れてしまったのでございます。

 こうして離れてみると、私にはなんとなく美優様のお気持ちがわかるような気がするのでございます。どんなに笑顔を振りまいても、先代はお忙しく構ってもらえることなど数えるほどでございましたでしょう。
 お母様でいらっしゃる絹代様に至っては疎ましくさえ思っていらっしゃるご様子で、美優様の寂しさはいかばかりかとお察し申し上げます。

 若気の至りと申しましょうか。悪いご友人と夜中に遊び歩いていらっしゃった時期もありました。それでも絹代様の気持ちは美優様に傾くことはなかったのでございます。
お付のものが申しておりましたように、何かのきっかけで変わろうとなさったのだとしたら、それはとてもすばらしい機会であったことでしょう。
 しかしながら、やはりどんなご令嬢であっても自分の過去に責任を取らなければならないときがあるものでございます。美優様の過去がご本人のご成長の足かせになってしまったのだとしたら、それは悲劇というよりほかないでしょう。

 今にして思えば、電車の事故のほんの数日前。私は美優様を街でお見かけしたのでございます。青年に手を引かれて嫌がっていらっしゃるようすもなく、とぼとぼと歩いていらっしゃる様子は、まるで抜け殻のようでございました。

 あの時お声をかけていたら、あの時無理にでも邸宅にお戻りいただいていたならば、せめて美優様だけは、全うな生活を送ってくださっていたのかもしれません。

 しかしそれも、今ではどうすることもできないたわごとでございます。

 美和様や絹代様からは、時折邸宅に戻ってくるようにと催促を頂いておりましたが、体調が悪いことを理由に、私は今日も土手に座り込んでぼんやりと考え事をするのでございます。

 そう、自分は何を待っているのだろうかと、そんなことを考えながら。

おしまい


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: