鹿島槍ヶ岳からのお便り

鹿島槍ヶ岳からのお便り

学習会-和田登さん(

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22名の参加で行われた学習会です。
内容の概略

 6月28日、きぼうの家で第3回マツシロ学習会が行われました。参加者は22名。
 講師の児童文学者、和田登さんが「旧満州開拓団の戦後~山本慈昭さんの生き方と大日向開拓団の戦後史~」をテーマに、たっぷり2時間半。間に設定した交流の時間に活発な意見交換がなされ、和田さんのお話も一部次の機会に持ち越されるという、熱気に満ちた学習会でもありました。

【学習会要旨】
1 大日向開拓団
 イ 分村の概要
 満州開拓を考えるときに、大前提として農村の貧困を忘れてはならない。さらに大恐慌を受けて、昭和13年から14年にかけ分村という形で満州へ出て行った。南佐久郡大日向村も、14年4月に吉林省舒蘭県四家房へ189戸、766人分村(当初の計画は村400戸)。開拓と言っても実際は現地人が耕していた土地や家屋を買いたたいて入った。このことが敗戦後、現地人に襲われる原因になる。実動は現地人(朝鮮人や中国人)に任せ、日本人は荒野開拓とは程遠い比較的裕福な生活をしていた。団長の堀川清躬は「現地人をなぐったり殺してはならない」と訓示しているが、逆にそういう事があったということにもなる。敗戦後の九月、現地人に襲われ追い詰められて自決を決めるが、団長の「いつでも死ねる」の言葉で思いとどまる。このような状況の中でも、毎日皇居を遥拝していた。結局、日本に帰った者378人、死亡者385人、未帰還者3。
 ロ 戦後の再出発
 日本を出る際に家や田畑を売り払って行った人がほとんどで何も持ってもらず、一時母村に身を寄せたが、昭和22年4月、浅間山麓追分原に70戸、163人が入植。開拓団は「融和・団結・苦難に耐えよ」を方針とし、バラックの共同生活を始めた(後に個人ごとに)。9月、天皇巡幸に際し涙して迎える。満州での悲劇と天皇を結び付けて考えられない。コンラード神父により、昭和28年、保育園開園。この後教会を建設し、洗礼を受ける人も多く、教会中心に心がまとまっていく。浅間山麓演習地問題に対しても一致団結して米軍を阻止することができた。
 ハ 経済変動(昭和34年)
 高度経済成長の波を受けて、開墾地を西武に売却。70円で買った土地が72万円で売れ、土地は金になることを知り、人々の意識が変化する。その後、不動産会社も設立され、農業から商業への転業が続出し、教会を疎んずる人々、トラブルも続出して、人々の心の荒廃を嘆いた神父はこの地を去ってしまう。
 ニ ゴルフ場問題(昭和59年)
 国土計画によるゴルフ場開発計画をめぐって村は二分。唯一の専業農家になっていた坂本幸平・レエ子夫妻は白眼視されたが、国土の虚偽申請が発覚して開発計画は断念して今に至っている。
 ホ 坂本夫妻を取材して
 現在も農業を続けている坂本幸平さんは「再入植した時いっしょにがんばろうとした仲間はどこかへ行ってしまった」、レエ子さんは「戦中や戦後味わった苦しみを忘れてしまったのね。なぜと思ってしまう」と語り、さらに「歴史を見つめる大切さ」(幸平さん)「自然の摂理に添うことの大切さ」(レエ子さん)を話してくれた。歴史は全く「最高の大学」だと思う。今は難しい時代だが、感覚や思いつきでものを言ってはならない。調査・研究の中から立ち上げた論理で行うことが大切だと思う。
2 山本慈昭の生涯・概略
 ○阿智郷開拓団として満州に入植した山本慈昭は、シベリア抑留を経て帰国。中国に残した教え子の消息を調べる中で、平岡ダムで死亡した強制連行による中国人の死亡を知り、先に平岡の慰霊の方が先だと考え実行したことが、立派な点だと思う。
 ○昭和40年に孤児からの手紙を見て、本格的な救済活動に立ち上がる。

【交流会】(抜粋)
○長野県の開拓団は全国で断トツにトップ。先取りというと進歩的と思われるが、悪い方へ先取りした。歴史を見極めることをしなかったということだ。阿智郷に至っては、20年5月に出て行っている。
○奈良県は長野県以上に耕地が少なく、分開拓団の宣伝は大きかったが、それに乗った人は少なかった。
○奈良県庁には「戦争文庫」が設置されている。
○長野県の先生は勧め方がうまい。満州へ行けばたくさん食べられるし、学校にも行けると言われて行った。引き上げの際に女性や子どもの姿を見ている。戦争は何が何でも絶対反対だ。
○長野県下でも分村を中止した村が複数あった。きちんと判断できる人もいた。犠牲を多く出した所では、戦後自殺者を出したり、今だに歴史として残せない所もある。
○前線で闘う敵だけでなく、情報操作して満州に行かせた国内の敵もいた。
○「いやしのナショナリズム」という外国に対してしたことを知りたくないという風潮の中で、「昭和天皇記念館」のようなものも目論まれている。
○そういう考えもあってもいい。自由なんだから。しかし、きちんと見つめて判断する必要はある。
○有事法制がほとんどの賛成で通ったり、イラクへの派遣法を国会を延期してまで通そうとしている。戦後守ってきた日本国憲法はどうなるのか、今、強い危機感がある。
○原稿の内容にもクレームがつき差し換えるという事態もある。
○1945年8月15日で全て終ったのではなく、残留孤児、再入植の問題など、新たに戦後の戦争がスタートした日だと改めて思う。


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