Nonsense Story

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きみのこと 6


「分かってしまったんですね、私のこと」
 千晶が帰った後の店内。さっきまで千晶のいた場所に、いつの間にかフジコちゃんが立っていた。ドアの鈴の音はしなかった。
「秘密にしておこうと思ったのにな」
 彼女はにっこり笑って言った。「千晶ちゃんのお姉さんの赤ちゃん、間違いなく、おにいさんの子供でしたよ。まだ誰も知らないけど、女の子です」


 智樹は走っていた。今日一日のバイト代をはたいて買ったバラの花束を持って。
 雨は止んでいたが、アスファルトには水溜りがそこここにできており、靴とジーンズの裾を湿らせた。その上、Tシャツは汗でベトベトだった。しかし、そんなことにかまってはいられない。
 高町家の前まで来て少し躊躇ったが、こんなバラを持って帰るわけにもいかないので、思い切ってインターホンを押した。バラの花束は、手ぶらでは格好がつかないからという理由の他に、自分を引き返せないように追い込む為の道具でもあったのだ。
「どなたですか?」
 意外にも、インターホンからは高町本人の声が返ってきた。
「お、俺だけど」
 声がうわずる。数ヶ月ぶりに聞く彼女の声に、口から心臓が飛び出しそうだった。
 扉の向こうで息を飲む気配がして、それきり沈黙が訪れた。
 智樹は構わなかった。いつまででも、彼女が出てきてくれるまで待とうと思っていた。


「彼女、一人で産む決心をしてるみたいです」
 智樹に高町の子供のことを伝えた後、フジコちゃんは言った。
「・・・・・・行ってあげてください」
 フジコちゃんの言葉に、少し考えて、智樹は言った。
「聞いてもいいかな」
「何ですか?」
「どうして、俺にそこまでしてくれるの?」
「どうしてって・・・。千晶ちゃんから聞いちゃったんでしょう? 私の気持ち」
 恥かしそうに、彼女は言った。言うつもりなかったんだけどな、と、ぼそっと付け加える。
「聞いてるからだよ。だって、きみ自身は全然幸せになれないじゃないか。こんなのって・・・・」
「なれます!」
 フジコちゃんの口調は強く、その瞳はまっすぐに智樹の目を捕らえていた。「私はおにいさんが好きだから。だから、おにいさんが幸せになれたら、それでいいんです」
「でも・・・・・・」
「私、幸せでしたよ。トラックとぶつかったのは事故です。誓って自殺じゃありません。たしかに学校やクラブは辛い場所で、何度もいなくなってしまいたいと思ったけど、千晶ちゃんもいたし、家族もみんな必死で私のこと考えてくれてた。それになにより、あなたに会いたかったから。会うたびに、また会いたいって思ってたから。だから自分で死のうなんて思わなかった」
「・・・・そんなの、辛すぎるよ」
 智樹はまともに彼女を見ていられなかった。下を向くと、目頭が熱くなってくるのを感じた。人を想って泣いたことはあるが、人の為に涙が出てくるのは初めてだった。
「そんなことないです。おにいさんは、私が不幸だったって思ってるかもしれないけど、私にだって、おにいさんの知らない楽しかったこと、たくさんあったんですよ。そりゃあ辛いこともいっぱいあったけど、生まれてきたことを後悔はしてません。この世の中は大嫌いだったけど、やっぱり愛しく感じるんです。だから、おにいさんの赤ちゃんにも生まれてきてほしいと思う。そして私のぶんまで幸せになってほしいと思う。私が知ることのできなかった幸せや、叶えられなかった夢を叶えてほしいと思う」
 それから彼女は、いたずらっぽくチロッと舌を出して付け足した。「勝手な願いですけどね」
 その子供が幸せになる為には、智樹の存在も必要だと彼女は言った。おとうさんがいる方がいいじゃないですか。
「・・・・夢ってなんだったの?」
 やっとのことで、智樹は訊いた。涙声にならないよう気をつけたが、その試みはあまり成功していないように思えた。
「恥かしいんですけど・・・・」
 彼女は本当に恥かしそうに首をすくめた。顔が襟の中に入ってしまえばいいのにというように。そしてその顔は、見る見る赤く染まっていった。「好きな人のそばにずっといたかったんです」
 消え入りそうな声だった。智樹の頬からショーケースに一粒の雫が落ちた。難しいことだけれど、なんてささやかな夢。
「えへへ。笑っちゃいますよね、笑っていいですよ」
 フジコちゃんが照れたように笑う。智樹はたまらなくなって、大声を出した。
「嘘なんだろ? 全部冗談なんだろ? きみの人生はこれからも続いてくんだろ? だってこんなことあるわけない」
 千晶と共謀してかつがれていたとしてもいい。その方がいい。
「そんなに信じられませんか?」
「普通、信じないだろう」
「じゃあ、正面を見てみてください。入り口のドアのところ。ショーウインドウでもいいですけど」
 彼女は静かに言って、ドアを指差した。
 智樹は顔を上げた。外は本格的に雨が降り始め、すっかり暗くなっていた。そのせいで、ドアとショーウインドウのガラスに店内の様子が映し出されている。
 そこには、レジの傍にたたずむ智樹が映っていた。智樹だけが。他に人間はいなかった。レジの前にも。ピアノの陰にも。
 フジコちゃんは死んでいた。トラックと事故に遭った時に。だから制服が冬物だったのだ。五月に事故に遭った時のままの姿だから。
 即死だったらしいと、千晶が言っていた。
「本当にきみはもういないの?」
 フジコちゃんはこっくり頷いた。
「おにいさん以外の人には見えていないはずです」
 フジコちゃんは静かに言った。
 そういえば、菅田は店の入り口で誰も見なかったと言っていた。
「高町には?」
「安心してください。姿は見せていません」
 姿を現さず、どうやって子供の父親を確かめたのかは訊かなかった。なんとなく、彼女の言うことなら信じられる気がした。この世の人であろうとなかろうと。
 しかし、ひとつおかしなことを思い出した。
「あれ? じゃあ、なんで千晶ちゃん達が来た時には隠れたの?」
 彼女は、同じクラブの人間が入ってきた時、ピアノの陰に隠れたのだ。智樹の他に見える人間がいないなら、隠れる必要もない筈だ。もっとも、智樹に自分の立場を気付かれまいとしての行動だったのかもしれないが。
「あれは・・・・・・条件反射です」
 そう言って、フジコちゃんは視線を落とした。まるで自分を恥じているようだった。その言葉と態度は、彼女がいかにチヅコ達を畏怖していたかを表しているように見えた。
「辛かったね」
 智樹の言葉に、彼女は一瞬泣きそうな表情をした。でも、すぐ涙を振り切るように笑顔になって、顔をあげた。
「私ね、お盆だったから、昨日まで実家に帰ってたんです」
 ごく普通の近況を伝えるように、彼女は言った。県外で一人暮らしをしている娘が、帰省していたとでもいうように。
「今日はおまけの一日だったんです。私、どうしてもおにいさんに会いたくて。だけど、自分が生前に行ったことのある場所にしか行けないから、今日おにいさんがここにいてくれて良かった」
 本当に嬉しそうに、彼女は微笑った。
 フジコちゃんの笑顔に、智樹の涙腺が決壊した。右手で顔を覆い、左手をショーケースについて体を支える。
 まだ十七歳なのに。本当の恋愛も知らないのに。
 理不尽な目に遭っても、家族の愛情と綱渡りのような友情で、この子はこの世を愛していた。なのに・・・・・・。
 自分の気持ちを言うつもりはなかったというのも、嘘だと思った。本当はそれを伝える為に、彼女は現れたのだろう。でも、智樹の気持ちを知り、何も言わずに去ろうとしただけでなく、応援までしてくれる。死してなお、自分の感情を押し殺してまで、自分を幸せにしようと努めてくれるこの子に、自分は何ができるだろう。
「泣かないでください。泣かせるつもりじゃなかったんです。ごめんなさい」
 フジコちゃんは困惑しきっている。
「きみ、名前は? 俺、まだ聞いてない」
 智樹の問いに、彼女は不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「ミキです。トコノミキ。日常の常に、野原の野、未来の未に、希望の希って書いて、常野未希」
「分かった。覚えとく。俺の名前は智樹。広沢智樹。きみも覚えといて」
「私が?」
 フジコちゃん改め未希は、もういなくなるのに、という表情をしたが、智樹は力強く頷いた。必ず覚えておいて。
「・・・・俺、未希ちゃんの気持ちには答えられないけど、一つだけ約束する」
 智樹は泣きながら、自分の中に新たな感情が芽生えるのを感じた。そしてその感情は、一つの決心を固まらせた。


-つづく-



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