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24話 【禁断の匣】
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24話 (―) 【禁断の匣】―キンダンノハコ―
__女子更衣室内
「柾さんでしょ」
その一言に、歴のブラウスボタンを留める手が止まった。
誰の声かは分からないが、ロッカーを隔てた室内のどこかで繰り広げられているのは柾の話題のようだ。
なんの話ー? と、別の位置から参加者の声がする。歴も興味が湧き、つい耳をそばだててしまった。
途中参加者にも聞こえるような声量で話してくれているのが救いだった。
「この店で、誰が最高の夜を演出してくれるかの話」
「ちょっとー」
「朝からどんな話題よ~? やめなさいよねー」
などといった呆れ声、たしなめる者がいる一方で、
「衣料の五十嵐さんに一票」
「私は麻生さーん!」
とノリ良く加わる者もいる。
柾の名前がよくあがるが、負けず劣らず麻生の名前もあがり、二分するほどの人気の高さに驚いた。
(確かに『麻生さんと食事をし隊』という会は存在してるけれど、これほどまでに人気があったなんて)
なまじ女性を苦手としているだけに、浮いた話は一切聞かない麻生である。
本人も「ここ10年ほどは彼女がいない」と明言しているし、その言葉を疑ったことはない。
女性の影が見受けられないだけに、下世話にも『最高の夜を演出』することなど出来るのだろうかと、
(いぶかしむなんて、私ったら失礼にもほどがあるわ。でも、麻生さんが本気を出したらどうなるのか……)
それ以上は考えてはいけないような気がして、歴は慌てて雑念を振り払う。
他にも知った名前がちらほら列挙され、しばらくは、やんややんやと盛り上がっていた。
やがて他店の男性社員の名前まであがるようになり、これでは埒があかないという理由で投票は打ち切られた。
「案の定、柾票が多かったわね。今でこそ彼の周囲も落ち着いたけど、噂の数なら彼に軍配があがるものね」
「どうしたってその差は大きいよね。そういえば柾さんと同じ香水買ったの。これがまた良い匂いなのよ」
「『ヒストリア』だっけ。最近その香水使ってるひと増えたよね」
話題にのぼった香水は、歴が柾の誕生日にプレゼントしたものだった。
もともと歴が、自分の名前を彷彿させるからと愛用していたものだ。
柾が同じものを所望したため、『お揃い』の最中である。嬉しい反面、次はどうなることやら。
(私は『ヒストリア』をリピートするつもりだけど、柾さんはどうかしら。きっと違うものを選ぶわよね)
少しだけ寂しい気持ちになりつつ、歴はハンガーに私服を掛けた。
女子更衣室。
そこでは恥じらいも芳しい香りもまやかしだ。その匣の中では日々、赤裸々な告白が横行する。
歴は自身のロッカーに鍵を掛けた。そして、秘密にしておきたい会話にも鍵を。心の内に、カチリと施錠。
「今日も頑張ろう」
小さく拳を作り、ドアを開ける。
女子更衣室の秘め事は、門外不出につき、取り扱い注意。
__男子更衣室内
土足厳禁と書かれた紙が貼られたドア。恐らく過去に土足であがる不届き者がいたのだろう。
凌ぎ合い、駆け引きし、騙し合う。
そんな権力のシーソーゲームを楽しむ、多くの女性にとっては未知の世界。男子更衣室。
従業員出入口の自動販売機でミネラルウォーターを買った柾は、自身のロッカーに着くなりキャップを開けた。
のどを盛大に鳴らしながら、そのまま一気に煽る。早くも既に半分近くが体内へと流し込まれていった。
「おーおー。うまそうに飲むねぇ」
「さすがに一気に飲みすぎじゃないスか?」
各々感想を述べたのは、柾と同じ通路にロッカーがある麻生と平塚だ。
更衣室とはいえ、上着を脱ぐだけでことが済んでしまう彼らは、室内にいるときはほぼ自由に過ごしていた。
現にいま麻生は商品説明の糧になるならばと≪必読! 最新デジカメはここが違う!≫と書かれた雑誌を読んでいる。
一方で、平塚はピコピコとアナログな音を出しながら昭和のレトロゲームアプリの記録更新に勤しんでいた。
柾はキャップを閉じると溜息をついてから弁解した。
「軽い二日酔いだ。安い酒をしこたま飲んでな」
「安酒? 昨日は一人で飲んだのか。珍しいな」
「えーそんなー。一声掛けてくれたら、俺も一緒に飲んだのにー」
残念がる平塚に「また今度な」と応じると、胸やけが治まらないのか再び水を煽る。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
今まさに到着したての声の主は五十嵐資である。彼もまた、同じ列のロッカー使用者だった。
低く落ち着いた声音からは品性がうかがえ、同性が聞いても心地よい。
日々の運動を欠かさない、がっしりとした体躯は、ほどよく日に焼けている。
そんな体つきとは不釣合いな気もする五十嵐の優しい顔は、彫りの深さと垂れ目がインパクトを与える。
茶雑じりの黒髪は珍しいほど綺麗で、日本人離れした彫り深い顔によく似合っていた。
穏やかな性格と気配りの細かさから、女性からは目下『紳士』と囁かれている好人物だった。
「おはよう、嵐。ちょっと下手な呑み方をしただけだ。大丈夫だよ」
「ならいいけど、無理はするなよ」
「あぁ、ありがとう」
「五十嵐さん! おはようございます」
「おはよう。今日も元気だな、平塚」
「お陰様で!」
会話がひと段落したところで平塚は五十嵐に挨拶をする。
平塚が皆から好かれている理由は、こうした分け隔てなく平等に声を掛ける姿勢にあるのかもしれない。
五十嵐にとっても、この入社3年目のやんちゃ坊主が可愛い存在であるらしく、何かと気に掛けては面倒を見ている。
「嵐、おはようさん」
「おはよう、麻生。朗報だぞ。従業員特権で、今日から月末まで≪セブンス≫のコーヒーが無料なんだそうだ」
うきうきと報告する五十嵐を見た麻生は、本気で驚いたようだった。
「……驚いたな。嵐がコーヒーの無料サービスで喜ぶなんて……」
どちらかといえば五十嵐は、サービスを提供することで喜びを見い出すタイプだ。
クーポンをかざして割引を受けたり、『今なら半額!』といった、受け取る方には無頓着だったはずだが……。
その視線に気付いたのだろう、五十嵐は照れくさそうに苦笑いをした。片頬を指先で掻きながら言う。
「実は、妻が入院してしまったんだ。少しでも出費を抑えようと思ってね」
二重に驚いたのは麻生だ。
「は? 殺しても死にそうにないキャロルが??? 入院???」
「ははは、驚くとこはそこなの? キャロルが聞いたらSIGで撃たれちゃうよ、麻生」
苦笑する時でさえ、五十嵐の所作は上品だ。握った拳を口元に近付けるだけでも優雅にみえる。
「あんたの嫁はまた新しい銃を手に入れたのか。これ以上権力付けてどうするんだ?」
「麻薬取締局なんて、麻薬を持っていなければち~っとも怖くないよ」
「そりゃそうだが……」
「え!? 五十嵐さんの奥さんって外国人なんですか?」
目を輝かせた平塚が問う。スマホを持っていないところを見ると、ゲームアプリを停止させたようだ。
「あぁ、アメリカ人だよ。キャロラインっていうんだ」
にこにこと説明する五十嵐に、麻生は「どうして入院したんだ?」と怖いもの知りたさで訊ねる。
訊かれたからには、優しく説明するのが五十嵐だ。
「犯人と格闘した際、左腕を撃たれてしまってね。幸い、弾は綺麗に貫通したようだから、傷跡は残ら……」
「わー、俺が悪かった! それ以上はいい! やっぱお前の嫁、こえーよ。あとで見舞いの花束手配するから」
「ありがとう、きっと喜ぶよ。……やけに静かだと思ったら柾、どうした? やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
「平気だ、生きてる。僕も花を贈らせてもらうよ」
ロッカーに背を預け、もたれかかる柾は、とてもじゃないが『平気』そうには見えない。
一体、何がどうして、そんな変な呑み方をしたのやら。
「何かあった? そういえば、最近は浮いた話をとんと聞かないが……大丈夫か?」
「おい、柾。まさか禁欲生活の所為で夜な夜な安酒に溺れてるなんてこと言わねぇよな?」
「2人とも、どんな心配の仕方だ? そんな理由じゃないから安心しろ」
2度目の溜息は、同期に対する呆れによるものだった。そんな憂い顔を、平塚がまじまじと見つめながら、
「その顔と身体を使わないなんて、ほんと勿体ないな~。俺が柾さんだったら毎晩繰り出してますよ~」
「夜遊びはやめた。そんなに楽しいもんじゃないぞ」
「うわー、おとなの発言。一通り試しての結論だからか、説得力あるなぁ」
「平塚がハーレムを囲うのか? うーん、まったく想像できないな」
と五十嵐が言う。
王様気取りの平塚の姿を想像するのは難しい。平塚が女好きだとは思えないからだろう。
だが、平塚には野望があるのか、へへへと鼻の下を軽く掻きながら言った。
「俺だったら、まずは千早さんから声をかけるかな」
「「!?」」
その瞬間、柾と麻生の顔色が変わった。
彼女の名前が真っ先にあがる理由が分からない。平塚のタイプなのだろうか。
2人が心をざわつかせている隣りで、五十嵐だけが「はて?」と首を傾げていた。
「千早……?」
「POSオペレータの千早歴ですよ。最近めきめき綺麗になって高嶺の花になりつつあるんですけど、知りません?」
「あぁ、彼女か。確かに何度か耳にするようになったかな」
今のところ仕事のやりとりがないため、五十嵐と歴には接点がない。すれ違ったときに挨拶を交わす程度だった。
「そうなのか? どんな話を?」
麻生に尋ねられ、五十嵐は記憶を辿った。
「『合コンに誘ってみたいんだよね』って話なら聞いたことがある。
あとは、『部屋が近いのを口実に、実家から送ってもらった米を差し入れしたんだ』とか。
彼女、社宅に引っ越したんだってね。彼女会いたさに用を作って部屋まで行ったって話をいくつか耳にしたよ」
「……やれやれ。麻生があれほど釘を刺したというのにな。あれだけでは足りなかったか」
ぼそりと柾が呟く。
『知らない人がチャイムを鳴らしても気安く出るんじゃないぞ。夜中のチャイムは全て無視』――。
歴が引っ越す前、麻生が口を酸っぱくして言ったことばが蘇る。
あのとき柾は麻生に対し『過保護過ぎるんじゃないか?』とたしなめたものだが、今となっては麻生に同調せざるを得ない。
千早歴には危機感がなさ過ぎるのではないか?
「そうなんですよ。なにげに彼女を狙ってるひと、いるみたいですよ。
でもガードがめっちゃ固いらしくて。『恋愛系の話題を振っても反応が薄いから、心が折れそう』って誰かが言ってました」
「そんな難攻不落な子を手始めに選んじゃ駄目だろう」
「ですねぇ。千早さん天然っぽいから余計難しそうだし、やっぱり考え直します。あ、柾さんは?」
「何が」
急に話題を振られ、わずかに身構える。
「千早さんと艶っぽい関係になれそうなのって、ユナイソンだと柾さんぐらいかなーと思って。
そうそう、更衣室のロッカーが隣りだっていう子が言ってました。千早さんって着痩せするタイプらしいですよ。
下着の色まで教えて貰っちゃいました。聞きたいですか?」
「「平塚」」
「な、なんですか、2人揃って……」
気迫に負けた平塚がぱちくりと目を開け、柾と麻生を交互に見つめる。麻生は空咳をして平塚をいさめた。
「阿呆。今のはセクハラだぞ」
「あ、ごめんなさい。そうですね」
失言を素直に謝る平塚に、五十嵐は若いっていいなぁと目を細める。一方、本日3回目の溜息をついたのは柾だ。
「下着の色まで知れ渡っているのか……。なんだか可哀想だな」
「想像するなよ、助平」
「するか」
そう言いながらも、どの下着が似合うだろうかという妄想はどうしたってしてしまう。
ただ、今はそのときではない。頭からむりやり雑念を振り払っていると、どこからともなくメロディが流れてきた。
すぐに五十嵐が反応し、スラックスからスマホを取り出しながら、通話の邪魔にならないようロッカーの端まで移動した。
「平塚。さっきどうして『千早さんから』、なんて言ったんだ?」
柾がさりげなく尋ねると、平塚は力なく笑った。
「いやー、その。見栄っていうか……」
「見栄?」
「実はですね、先日、岐阜店の同期が、書類と一緒にプリントシールを送って来たんですよ」
「それがどうしたんだ?」
麻生も聞き返さずにはいられない。
「一緒に写ってた女の人がめっちゃ可愛くて。俺も対抗して、千早さんと一緒に写ったものを送りたいんです」
「……なぁ、お前さ、確か彼女いたよな? その子はどうしたんだ?」
「ううう、最短でふられましたよ! それが何か!? ちっとも面白くない話っしょ!?」
「まぁ面白いかと聞かれれば、別にという感想しかないな。そんなことより千早さんとプリントシールなんて言語道断だ」
「面白いかと聞かれてもそもそもお前に興味がない。それより千早さんとプリントシールなんて論外に決まってるだろう」
「俺に対する扱いがひどすぎますよ。そもそも千早さんとプリントシールを撮るのに、2人の承諾なんていりませんよね?
この件は、俺が正式に千早さん本人に尋ねたいと思います。……あ、そうだ!」
「今度はなんだ」
「じゃあ、柾さんが俺と一緒に撮って下さい! 千早さんは諦めますから」
「待て。『じゃあ』の意味が分からない。それに千早さんの件は完全却下という判決が出たことを忘れたのか」
「そいつね、柾さん崇拝者なんですよ! 俺が柾さんと仲がいいのを知ったら、絶対悔しがるだろうな」
「くだらない」
「あー、ひどい!」
「何がひどいものか」
「自分を崇拝している後輩を『くだらない』なんて、ひどいですよ!」
「僕が言っているのはそこじゃない。対抗することがくだらないと言っている」
「それは俺に対してひどい!」
「なぁ平塚、それって本当に意図的に入れられたものなのか?
たまたま何かの拍子でそのプリントシールが書類に紛れ込んじまったとは考えられないか?」
「ええー? そんな馬鹿な。有り得ないですよ。そんな事故ってあります?」
「分かんねーぞ? もしかしたらお前の手に渡っていることすら気付いていないかもなぁ。
だって、いくらなんでも会社の書類にそんな個人的なもの、入れたりしないだろ」
確かにそうなのだ。そこまで大胆不敵なことを仕出かすような男ではないはずなのだ。
しかもプリントシールはワンシートのまま、丸ごと入っていた。
麻生の言葉に『もしかしたら』と思い始めた平塚は、己の短絡的思考を恥じ入ったようだった。
「そ、そうかも……? 俺、ダメですね……。麻生さんの言う通りだ」
「お前の猪突猛進なところは時に短所になり得るが、指摘した時点で反省する点は偉いと思うぞ」
麻生の大きな手が平塚の髪を豪快に掻き回し、やんちゃ坊主は照れ笑いする。
そこに柾が加わった。
「お前と、お前の同期に謝りたい。頭ごなしに否定して悪かった。麻生の発想は頭になかった」
「柾さぁん」
「や、やめろ……。男に抱きつかれて喜ぶ趣味はない」
「お前がライバル視しているその同期って、どんなやつなんだ?」
麻生の問いを通じてその人物を思い出したのか、平塚は苦虫を噛み潰すような顔をした。
「重箱の隅をネチネチつつくような男ですよ。女に対しても情け容赦ないサド野郎です」
「でも柾を崇拝してるってことは、上昇志向に溢れてんだろ?」
「『期待の星』やら『ホープ』やら、あいつのあだ名はそんなきらきら眩しいものばかりですよ」
どうやら平塚はそれが面白くないようだ。だから尚更見返してやりたいと思ったのだろう。
「麻生さんと柾さんを見ているとね、同期というライバルも必要なのかなって、たまに思うんです」
「麻生とライバルになった覚えはないが?」
「柾は黙ってろ」
「そいつ、本当に嫌味なヤツなんです。でも気になっちまうっていうか」
「ライバルだな」
「やっぱそうですかね? でも、俺がライバルなんて言うのも、おこがましい話なのかも。
この前俺、パンを千個発注したんですよ。結果は見事にハマっちまって、200個しか消化できなかったんです。
そしたらそいつ、『僕なら500個さばける。こっちに送れ』って豪語してマジで500個全部売っちまったんですよ。
3年目の段階でこうも水を開けられるとほんと、俺の存在意義ってなんだろって思っちゃいます」
困った顔で、平塚は笑う。複雑な心境なのだろう。
「残りの300個はどうしたんだ?」
「近隣の4店舗に事情を説明して、60個ずつ送らせて貰いました。うちは60個見切った形でなんとか売り切りましたよ。
プリクラの件は居酒屋にでも連れて行って吐かせようと思います。麻生さんが言うように、事故だったかもしれないし」
「あぁ、それで良いんじゃないか?」
「話したらなんだかスッキリしました。ありがとうございます。だから麻生さんって大好き。あ、柾さんも好きですよ」
「男に好かれても嬉しくない」
「あはは、そう言わずに。あ、俺15分からなんで、そろそろ行きますね」
賑やかな者が退場すると、こんなにロッカールームは静かなものなのかと、改めて気付かされる。
そんな中、麻生は小さく呟いた。
「ライバルねぇ」
「あながちライバルと言えなくもないな。ある女性を引き合いに出せば、僕たちはそんな関係になる。違うか?」
空気がピンと張りつめた。麻生の頬が若干引きつるのを、柾は目の端で捕らえていた。
「敢えてあやふやなままにしておいた境界線を、朝っぱらから壊しにかかるか。少しは空気読めよな」
「それは『認めた』と受け取っていいんだな」
「なぁ、いい加減、俺をつつくのはやめてくれ。俺はお前を応援する。それでいいじゃねぇか」
「誰もそんなことは頼んでない。ただ自分に素直になれと言っているだけだ。お前は滅多に本心を曝け出さないからな」
「……本心?」
「丁度いい。昨日の安酒の余韻も残ってるし、悪酔いの延長とでも思って聞いてくれ。
通常、素面では言えない赤面モノだ。一度しか言わないから、よく噛み締めるように」
「既にその前振り自体が気持ち悪いんだが?」
肝臓や胃はおろか、脳機能にまで悪影響を与えてしまうような呑み方だったのだろうか。くわばらくわばら。
とはいえ、悪酔いの延長と前置きしたにもかかわらず、柾は至って真面目な表情だ。それだけ本気なのだろう。
「僕はお前を全面的に信用している。友人だと思っているからこそお前の手助けがしたい。出来る限り全部だ」
「へー。ふーん。じゃあ何だ、仮に俺が千早さんを好きだと言ったら、お前は彼女を諦めるのか?」
柾からの返答はない。麻生は「あのなぁ……!」と自分の髪を掻きむしった。
「出来ないことは言うな。したくないんだったら最初から提案してくるな。
そもそも、何でそうなる? それはちぃが選ぶことだろ? 身を引くだの、男側がごちゃごちゃ言うことじゃねぇよ」
「そう……なんだろうな。だが、こんな感情を持ったのは初めてのことで……。正直分からないんだ。
何せ恋愛は先手必勝だと思ってきたし、どんな障害が横たわっていようが、欲しいものは手に入れてきた僕だからな。
だがお前には……なぜかお前には、心を許せるようになったんだ。特別な存在で、この関係を壊したくない。
それは彼女に対してもだ。ここまで真剣に惚れた女はいない。生まれて初めて、こんな厄介な葛藤に苛まれてる」
柾にしてはいつになく饒舌で、どこまでも赤裸々な告白だった。麻生は両手で真っ赤に茹で上がった顔を覆った。
「そういう本音を素面のときに言って貰えるのは光栄だと思うべきなんだろうな。それだけ真剣ってことなんだから。
感服したよ。敬意を表して、俺も正直に言わせて貰おうか。本音を言えば『分からない』、だ。
言っておくが、逃げてるわけじゃないぞ。自己問答し続けているところだ。……これで満足か?」
真っすぐ向けられた柾の情熱に、少しでも報いろうと頑張った麻生だったが。何故だか柾は憐れみに満ちた顔をする。
「何を言ってる? お前が彼女を意識しているかもしれないことが分かったというのに、満足するわけないだろう」
「し、仕方ねぇだろ!? 俺の身にもなれ。少し前までは女が怖かったんだから。お前、俺の『設定』忘れてるだろ」
「確かにお前にしては物凄い進歩だ。よく頑張った。というか、彼女に目を付けたところは偉いと思うぞ」
「お前が言うか。……ん? ちょっと待て。結局――なんだ? 俺が彼女を好きでも『いい』ってことなのか?」
「いいも何も。言ったろう? 彼女はファム・ファタルだと。どんな男も惹き付ける。これは仕方のないことなんだ」
(こいつが小っ恥ずかしいことを言うのは全部昨日の安酒のせいということにしておくか……)
「それを聞いて少し安心した。仮に俺がちぃのことを異性として好きだったとして、お前のことも色々考えてたからさ。
『彼女のことは諦めろ』なんて言われたりして、とか。或いは、お前が俺から離れていくんじゃないか、なんてな」
「馬鹿な。そんなことは言わないさ。……麻生。まさか僕に遠慮して、彼女への想いに蓋をしていたのか?」
柾の問い掛けに、麻生は虚を突かれたように目を瞠った。
「……いや、さすがにそれは……。ないと思うが。……どうかな……? 分かんね」
結局、『分からない』という答えに終始してしまうのだった。
「僕のことは気にするな。フェアに行こう」
微かに笑う柾は、本音を口にしていた。
麻生だってそれが嘘じゃないことぐらい理解している。
いいやつだな、と思った。だからこそ、これからは自分も誠実であろうと誓い直す。
「分かった。柾も、俺に遠慮するなよ」
「あぁ」
(柾がライバルか。そんな風に考えたことは一度もなかったな)
ただの同期、或いは縁のある悪友としか思っていなかったが、なるほど、ライバルという関係が成り立つのだろう。
友にして好敵手。そんな関係が育まれていた事実に気付き、麻生の口元は自然とほころんだ。
ちょうど、通話を終えた五十嵐が戻って来た。
「今、キャロルがセントレアに着いたそうだ。『業務に支障が出るようなら休め』との命令で」
「マジかよ、日本に来たのか!? 俺、見舞いの花だけ買ってお前に渡すから」
「麻生」
「俺苦手なんだよ、知ってるだろ!?」
「知っているが諦めてくれ。キャロルはお前が大好きなんだ」
「大好きって次元の話じゃねぇよな!? 明らかに俺をおもちゃ扱いしてるだろ」
「嵐、僕が代行しよう。全く……、彼女をエスコート出来るなんて役得だとは思わないのか、麻生」
「思わねぇよ。お前はキャロルに懐かれてるから他人事のように言えるんだ」
「懐かれ度なら、麻生の方が遥かに上だろう?」
「あれは懐かれ度とは言わない。下僕度だ。おい嵐、柾を見張ってろよ。こいつ絶対下心持ってるからな」
「失敬な。目の保養をするだけだ」
「嵐に魔法の呪文を教えてやる。『千早に告げ口するぞ』って言ってやれ。それでこいつは大人しくなるから」
「うーん、千早……千早ねぇ……。やっぱり最近どこかでそんな名前を聞いた気がするんだよなぁ」
「だからPOSオペレータの千早さんだろ? しっかりしてくれよ、嵐」
「違うんだ。俺が言ってるのは女性じゃなく、男性の『千早さん』なんだよ」
「男性の……千早?」
真剣に記憶を手繰り寄せている五十嵐に、麻生と柾は思わず顔を見合わせる。
自分の曖昧な記憶で2人を待たせては申し訳ないと思ったのか、五十嵐は「忘れてくれ」と言葉を添えた。
「そうか? ならいいけどさ」
麻生も柾も、五十嵐には一目も二目も置いている。
その五十嵐が伝えようとした話なのだ。とても重要なことではないのか?
とはいえ肝心の五十嵐が失念してしまっていては、それ以上の深追いはしかねた。
「麻生、やっぱり仕事が終わってから一緒に行かないか? 妻も会いたがってるに違いないし」
「う~、分かった、行くよ。柾、お前も行くだろ?」
「あぁ」
ロッカーを閉める無機質な音が、三方向から響き渡る。
聞こえてくるのは、そんな生活音だけではない。
五十嵐が思い出せなかった記憶こそ、ユナイソン名古屋店に近付く厄災の足音だったのだが――。
いま、それに気付く者は、誰もいなかった。
__更衣室前廊下
歴が女子更衣室を出たのと、柾と麻生が男子更衣室を出たのは同時だった。
「「「あ」」」
声が三重にハモる。
明らかに三人とも動揺し、無意識の内にお互いの全身を眺めている。
(最高の夜を演出してくれるであろう男性……)
(着痩せするタイプ、下着の色……)
「あ……。そろそろ行かないとな。遅刻だぜ、遅刻」
出鱈目についた嘘だった。赤面した麻生が踵を返す。ハッと我に返った歴が、その背中に声を掛ける。
「遅刻? 30分からですよね。まだ大丈夫ですよ?」
歴は自分の腕時計を確認してから、振り返った麻生にも見えるように差し出す。
「ひょっとして男子更衣室の時計、早いんじゃないですか?」
歴のその手首を、柾は素早く掴んだ。そして自分の鼻の天辺に近付ける。
首筋と手首。それが歴の香水をつける場所だ。当然、柾の鼻孔に、その香りが届く。
「この香水がなくなりそうでね。新しいのを、また買ったよ」
「!」
それだけ言うと、柾は先に歩き出す。麻生が歴の耳に、コソッと囁いた。
「良かったな。ちぃが贈った香水だろ? 柾、毎日つけてるぜ。最近は女性に誘われても飲みに行ってないみたいだ」
「麻生さん……」
「ちぃは、そのままでいろよ」
「? どういう意味です?」
「いつまでもガードを緩めるなってこと。ほら、行くぞ。本当に遅刻しちまう」
「はい」
ついさっき柾に掴まれた手首を、今度は麻生が掴む。そんな光景を、五十嵐が微笑ましく見ていた。
「若いっていいねぇ」
日なたのように温かい笑顔で。
2007.10.19 - 2008.08.07
2020.11.10
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