26話 【夜半の嵐】


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26話 (―) 【夜半の嵐】―ヨワノアラシ―



___麻生環side

目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。上体を起こすなり怖気が走り、くしゃみを連発してしまう。
古来の迷信に則れば、くしゃみ三回は惚れられているんだったか。
(――はっ。そんなわけあるか。誰から想われてるんだって話だ)
苦笑し、布団を見やる。
まだ寝足りないのか頭がぼんやりするし、二度寝するため布団にもぐり直す。と、耳元でメールの着信音がした。
(誰だ、こんな朝っぱらから……)
『名前:邑 用件:忘れるな!』
(邑? 忘れるなって……何を?)
不思議に思い『邑』の項目を選んで電話を掛けるも、『電源が入っていないため、かかりません』と告げられてしまう。
メールを送るだけ送っておいて即電源を落とすとは、いかにもあいつらしい。俺に対しての立腹アピールのつもりなのだろう。
「……何の用だったんだ?」
いぶかしむ暇もなく、今度は無神経にもドアを叩く音がした。
(おいおい、ちょっと待て……! 両隣りに筒抜けちまうんだよ、このドアは……!)
隣人から苦情が来ないことを願いながら、この騒音を止めるため、慌てて玄関へ向かう。
ドアの小窓から覗くと、『邑』本人が立っていた。
(うわ、想定内とは言え、めっちゃ怒ってる)
まるで俺が小窓から覗いていることを知っているかのように、その猫のような釣り目は、小さな覗き穴を凝視していた。
(やれやれ……)
俺は、長い1日が始まることを覚悟しつつ、観念してドアを開けた。


___千早歴side

非番の今日は、可燃ゴミの収集日でもあった。
社宅マンションなので、いつ誰に会うとも分からない。身なりを整え、集積所までゴミ袋を運びに行く。
(これでよし)
来た道を戻る途中、見覚えのない女性が階段を下りてくる場面に出くわした。
ステップを踏むごとに、肩まで緩く巻かれた茶髪と両耳のピアスが、跳ねるように揺れる。
走るにはロングスカートの裾が邪魔なのか、せっかくの白くておしゃれな召し物を厄介者扱いしているように見えた。
陸上競技に劣らない本格走行に、見ている私の方がはらはらする。
悪い予感は的中してしまい、彼女はステップから足を踏み外してしまった。
反射的に目を閉じるも、嫌な音が響き、彼女が落ちたのだと知る。
そろりと目を開け、恐る恐る現場の方を見やる。足首を抑えているところを見るに、打撲か、或いは捻ったのかもしれない。
慌てて駆け寄ると、女性は苦痛に顔を歪ませていた。
「いったああ……。もうやだ、ほんっと最悪……」
「あの! 大丈夫ですか!? 立てますか?」
「え……? あ、はい。大丈夫。……です」
(前にもこうして階段から落ちた人を介抱したっけ……)
そんなことを思いつつ、その腕を取り、立たせようとした。
彼女は恐々と立ち上がったものの、膝から出血したようで、白いスカートにべったりと付着してしまっていた。
「大変! 手当した方がいいですよ。うちに来て下さい。あ、私、ここのマンションの者です」
「あ、いいよいいよ。これしき平気だから」
女性からは、辞退する気配が窺えた。でも、私にはどうしても見過ごすことが出来ない。
「駄目ですよ、患部から黴菌が入っちゃいます。それに、その姿で街を歩いたら何事かと思われてしまいますよ? だって……」
だって、階段から落ちる以前から、泣いていたし……。
その言葉を、私は呑み込んだ。傷の理由はともかく、泣いていた理由に踏み込んでしまってはいけないような気がして。
「消毒させてくれませんか? 私の部屋、2階なんです。少しだけ我慢して貰えれば、すぐですから。ね?」
下から覗き込むように言うと、女性はこくりと頷いた。
彼女のペースに合わせ、ゆっくり部屋へと戻る。
ソファーに座って貰い、救急箱を用意した。
消毒を終え、ガーゼを患部に当てるまで、私も女性も無言のままだった。
最後に「ありがとう」と、小さく、だけどはっきりした声で彼女は言った。
「どう致しまして。……そうだ、そのスカート……」
本来なら、すぐ水洗いすれば少しは落ちただろう血染み。けれど患部の消毒の方が先だったため、後回しになってしまった。
すっかり染み付いてしまった血を洗い流すには、プロに任せるしかないかもしれない。
「あぁ……うん、クリーニングに出すよ。心配してくれてありがとうね」
「よかったら、私の服を着ませんか? ウエストサイズ61ですけど……」
「あ、一緒だ。……ごめんね、お願い出来るかな……」
「勿論! 待ってて下さいね、すぐ持って来ます」
タンスからジーンズを引っ張り出してくると、彼女に手渡した。
幸いカジュアルなトップスだったため、ジーンズでも何ら違和感はない。
「うん、丁度いい。何から何までありがとう。あなたがいてくれて良かった。あ、私は邑(ゆう)っていうの。よろしく」
「千早歴です。よろしく。えっと……邑さんは、ユナイソンの社員でしたっけ?」
「ううん、違う。今日は兄に会いに来ただけなんだ」
(お兄さんに会いに来て……泣いていたの?)
そんな質問、しちゃいけないんだろう。とはいえ、気にはなる。
「遊びに行く約束してたんだけど、電話しても繋がらないから直接迎えに来たの。でも、今日のこと忘れてたみたい」
「そんな……」
「あ、そんな顔しないで。これが彼氏だったら修羅場だったろうけどさ、相手は単なる兄貴なんだし。
向こうから『行くぞ』って誘ってきたのに、約束の時間になってもちっとも待ち合わせ場所に現れなくて。
仕方ないから直接迎えに来たんだけど、『今日だったか?』だの『まだ準備出来てない』だの言うから腹立っちゃった。
もういい! って怒鳴りつけて帰ろうとしたら、このざま。迷惑かけて本当にごめんね。服さ、洗って返すから」
「邑さんさえ良ければ貰ってやって下さい。私、ジーンズよりスカート派なんです。そのジーンズ、穿く機会がなくて」
「本当に? 綺麗な青色だから、一目見て気に入ったんだよね。じゃあお言葉に甘えちゃう。ありがとう」
「どう致しまして」
「それじゃそろそろ、おいとまするね」
「あ、はい。下まで送らせて下さい」
邑さんの歩幅に合わせて階下まで降りる。若干傷口をかばっているのか、その足はたどたどしい。
「大丈夫ですか? タクシー呼びましょうか」
「そんなオーバーな。これくらい平気だって。駅だって近いし、地元着いたら親呼ぶし」
「そうですか? それならいいんですけど……。本当に気を付けて下さいね。また遊びに来てください」
「うん。ありがと。お言葉に甘えて、また来るから。それじゃあね」
邑さんが手を振った時だった。『邑!』と彼女の名前を呼ぶ声が、頭上から降ってきた。
馴染み深いその声に、心臓がどきりと高跳びしてしまう。
「待て、邑!」
(この声、麻生さん?)
「げ、お兄ちゃんっ」
(お兄ちゃん? 麻生さんが!?)
「そこから絶対動くなよ!? 今そっちに行くからな!」
邑さんはその言葉を聞くなり、天の邪鬼よろしく駆け出した。
その突飛な行動も予想済みだったのか、麻生さんは舌打ちしつつもすぐに三段飛ばしで階段を降りてくる。
私も邑さんの後を追ったけれど、角を曲がった瞬間に見失ってしまった。
普段はのんびりしているとか大人しいなどと言われている私だけど、走りには自信があっただけに、虚を突かれてしまった。
その場で呆然としていると、追い付いた麻生さんから、「さっき一緒にいたやつ、どっちに行った?」と尋ねられた。
私は挨拶と質問の答えを全て端折り、単刀直入に訴えた。
「実はね麻生さん。邑さん、そこの階段から落ちて、膝から出血を……足を怪我してるんです」
「そうなのか? だとしても、ちぃが気に病むことなんてないからな。あいつは昔からそそっかしいんだ。それより自転車あるか?」
「折り畳み式のが部屋に」
「走った方が早いな」
「自宅に帰るようなことを言ってましたし、駅に向かったんじゃないかしら」
「サンキュ」
麻生さんは再び走り出し、邑さんを探しに行った。
私がこの場に留まっていても仕方がない。とはいえ、あんな場面を見てしまっては、部屋でのんびり寛ぐ気にはなれなかった。
しばらくマンションの出入り口で待っていようと思い、エントランスに設置された数人掛けのベンチに腰を下ろすことにした。
これなら麻生さんが戻って来てもすぐに気付けるからだ。
10分も経たないうちに、麻生さんが戻って来た。驚くことに、邑さんも一緒だ。
「ちぃ……千早さん、どうしたんだ?」
麻生さんが私の呼び方を替えたのは、邑さんの目があったからに違いない。
「あー……いえ、特に理由はないです」
私がここで待っていたのは、言わば個人的理由からだ。単に私が待ちたかったから。それだけ。
『麻生さんと邑さんが心配だったから』。そんな本心は、相手からしたら重いような気がして、言えなかった。
「気分的にその……紅茶が飲みたくて」
私が指し示した方向には自動販売機がある。もちろん紅茶がラインナップされていることは把握済みだ。
ただし今日は買っていない。そこだけが嘘だった。
「こいつ、隣りの公園にいたよ。おい、邑。千早さんに迷惑をかけたこと、ちゃんと謝りな」
厳しい声で麻生さんは言った。邑さんの心中を思うと、それはちょっと酷なような気がして、
「麻生さん、私は全然……」
気にしてません――。そう固辞する私に、麻生さんは首を振る。
まるで、『こういうことこそ、きちんとしないと』とでも言うように。
「ごめんなさい、歴さん」
「色々と迷惑を掛けてすまなかった。それに邑も。でも元はと言えば、俺が約束を忘れていたのが原因だったんだよな。ごめん」
「……もういいよ。そんな素直に謝られたら、許さないわけにはいかないじゃん」
いまや邑さんの顔は、出会ったときの悲しげな表情とは違っていた。
(麻生さんの言葉ひとつで、ここまで一喜一憂出来るなんて。本当に仲のいい兄妹なんだな)
麻生さんは邑さんの足を気遣いながら、ゆっくりとエレベータに乗り込んだ。手を振りながら、私はふたりを見送った。


***

夕方になり、麻生さんから私のスマホにメッセージが届いた。
足の怪我のせいで遊園地へ行けなくなった邑さんは、麻生さんの部屋でケーキや料理を作って過ごしたのだそうだ。
その報告の最後に、『ちぃ、今から俺の部屋に来れるか?』と問い掛けがあった。『はい』とだけ送る。
すると今度はメッセージではなく、電話がかかってきた。
「邑が張り切って、結構な量作っちまってさ。一緒に食べてくれると助かるんだが」
「私でよければ、喜んで伺います」
「助かる。それと、悪いがもうひとつ頼みをきいてくれないか? 柾を連れて来て欲しいんだ」
「柾さんを? 分かりました」
「一緒に来てくれると助かる。ほんとに凄い量なんだ。もう仕事終わってるはずだから、家にいると思うんだ」
「じゃあ、柾さんに声を掛けてから伺いますね」
時計を見ると19時少し前。早番か中番なら、帰って来ているはずの時間だった。
自分の玄関を施錠し、目的地に向かう。すると柾さんの部屋のドア前で、驚くような光景が目に飛び込んで来た。
柾さんと、見知らぬ美女の組み合わせだ。柾さんは女性の首に両手を回していた。その状態で、ふたりが見つめ合っている。
「やだ、こら、直っ! くすぐったいって言ってるでしょ?」
「恭子が暴れるからだろう。まったく、自分からせがんだくせに……」
溜息をつきつつも、彼の両手はなお女性の首に絡んだままだ。
(嘘……。こんなところで……キスシーン……!?)
見付かってはまずい。慌てて身を隠す。
逸る鼓動を押さえていると、柾さんが「これで満足か?」と確認している声が聴こえてきた。
「えぇ、上出来よ」
(な、何が満足で、何が上出来なの……!? キスがってこと!?)
刺激が強過ぎて、頭がどうにかなりそうだ。  
柾さんを連れて行きたいのは山々だけれど、のこのこ姿を現していい雰囲気じゃないことぐらい、私にだって分かる。
そもそも情けないことに足が震えてしまっている。こんな状態では麻生さんのオーダーに応えるなんて土台無理な話だ。
(一体、彼女は誰……?)
艶めかしくゴージャスで、身に着けている貴金属も、小振りなものながら高価なように見えた。
しかも名前を呼び合う仲なのだから、俄然気になって仕方がない。
(モヤモヤしてソワソワする。なんだか落ち着かないわ)
「ちぃ、こんなところにいたのか。遅いからどうしたかと思ったぞ」
背後から声を掛けられ、思わず飛び上がりそうになった。いつの間にか麻生さんが私の隣りに立っていた。
「え、あ、す、すみません……!」
私が遅かったから、わざわざ様子を見に来てくれたのだろう。そう思うと申し訳なくて、頭を下げた。
「いや、待て待て。謝らなくていいんだ。それよりどうした? そんなところに突っ立って。柾はいなかったのか?」
「あ、いえ。その……」
歯切れが悪いのを不審に思っただろう。麻生さんは「ほら、柾んとこに行くぞ」と私を促す。
(や、やだ……行きたくない……。見たくない……!)
私の思いなど知るよしもなく、麻生さんは曲がり角を進み、柾さんの部屋へと向かってしまう。
「なんだ、いるじゃないか」
そう言い掛けた麻生さんの言葉が止まった。と同時に、柾さんも私たちに気付いたようだ。
「麻生? 千早さん……?」
「あら、麻生君! お久し振り~。元気だった?」
(え……。このひと、麻生さんとも知り合いなの……?)
「……恭子さん……。御無沙汰してます。今日はどうしてここに?」
穏やかな笑みを浮かべ、麻生さんは尋ねる。
一度も見たことのない、ゆったりした麻生さんの挨拶の仕方にどきりした。おとなの男性の表情、仕草が拍車をかける。
私にはそんな顔も対応もしてくれたことがないのに。残念がった自分に気付き、一瞬焦った。
「今から友人の結婚式の二次会なんだけどね、会場がここから近いから、ついでに会いに来たのよ、直に。
お酒飲むから今夜は泊まらせてって頼んだら、断られちゃった。薄情よねぇ」
意味深な笑みで柾さんを見る美女は、あまりにも柾さんにお似合いだ。自分が場違いなように思え、惨めさを覚えてしまう。
「ねぇ直、そちらの可愛らしい女性はどなた?」
「紹介するよ。同じ職場の千早さんだ。千早、彼女は恭子。僕の……」
「えぇ!? 信じられないわ。本当に単なる同僚なの? 直の恋人じゃなくて?」
言うなり、恭子さんの顔が近付く。とても芳しい香りに恐れ戦いてしまう。
「かんわいぃ。こんな妹が欲しい」
「恭子。彼女に失礼だから」
「ふふふ、ごめんなさい。じゃあ、そろそろ行くわね。またね、麻生君。千早さんも」
「は、はい」
「恭子さん、また」
(『また』? 麻生さん、恭子さんに会うつもりなの……?)
言葉ひとつひとつに、心が掻き乱される。
(私……どうして……)
ざわめく心には蓋が必要だった。何かに気付いてしまう前に、早く閉じてしまわなければ。


***

「驚いたな。すごい種類だ」
「私の悪い癖なの。作り始めたら止まらなくて。柾さん、たくさん食べてくださいね」
楽しく料理を分け合う邑さんとは大違い。柾さんをまともに見ることが出来ない。
恭子さんの存在が、気になって仕方ない。締め付けられるように心が苦しい。
(柾さん、あの美女とはどういうご関係ですか? そんな風に訊ける勇気が私にあれば……)
「姉がすまなかったな」
柾さんがサラダを自分の皿に移しながら、ひとり落ち込んでいた私に言う。
「姉?」
「長女の恭子。僕の姉だ」
「おね……さん?」
反芻する私の声は、少し掠れていた。
私が見た、泣きぼくろが印象的な、日本人の体型とは思えない美女が、柾家長女の恭子さん。科学者なのだそうだ。
他にも姉がいるらしく、上から順に繋げると『きょうこ→こはる→るいな→なおちか』と、名前でしりとりが出来ると聞いて、更に驚いた。
柾家は少し特殊な環境にあるのかもしれない。
「少しは安心して貰えただろうか」
そう言って、静かに微笑む柾さん。
安心……には、まだ至らなかった。
「で、でも……! 柾さん、恭子さんの首に手を回していて……。『自分からせがんだくせに』『これで満足か?』って……。それって……」
「?」
柾さんから『何を言ってるんだ?』という目で見られる。
それでも、私のことばの意味を理解するべく、柾さんはしばらく考え込んでいた。
「……あぁ、そういうことか」
腑に落ちたのか、柾さんは相好を崩して私に言った。
「ネックレスを付けてあげてたんだ。あの小さな輪っかが苦手らしくてね。科学者のくせに細かい作業が苦手なんておかしな話だろう?
向こうから頼んできたくせに、やれ『金属部分が冷たくてひんやりする』だの、いちいち文句も多くて困る」
「ね、ネックレス」
言われてみれば、なんてことはない。すべてのつじつまが合ってしまう。
「ひょっとして、僕がキスしてると思った?」
「!」
ぼん、と顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「なるほど、そう解釈されてもおかしくない流れではあったかな。
しかしそれを指摘してくるということは、千早さん、あのとき僕を意識してくれてた?」
「あ、あの……そ、それは……」
微笑する柾さん相手に、私はたじたじだ。
「嬉しいよ」
「……っ」
とどめの一撃に、私は二の句が出せずにいた。
(どうせからかわれてるんだわ。いつもみたいに……)
柾さんの謎は解けた。けれど、まだ麻生さんの問題が残ってる。
恭子さんは麻生さんを知っていた。いつからの付き合いで、どれほどの仲なのだろうと勘ぐってしまう。
「……っくしょん!」
思考を遮断するかのように聴こえたのは、麻生さんのくしゃみだった。間もなくしてドンという鈍い音。
「お兄ちゃん!? しっかりして、お兄ちゃん! 柾さん、歴さん、お兄ちゃんが倒れちゃった……!」
「麻生さん!?」
「熱いな……。熱があるのか」
麻生さんの額に触れた柾さんが症状を確かめ、麻生さんを背負ってベッドまで運ぶ。
こうなってしまっては、夕食会どころではない。3人で手分けして、洗面器やタオル、パジャマなどをかき集め始めた。


___麻生環side

全身が燃えるように熱かった。特に顔が半端なく、首を伝い続ける何かが、とてつもなく気持ち悪かった。
それが何てことはない、自分の汗であることに、俺は思い至る。
気だるい肢体、火照る肉体、朦朧とする意識、三半規管の異常。ひどい耳鳴りがする。
重たい瞼をむりやりこじ開ければ、そこにあるのは一切の闇。
俺は一体どうしたんだ? 目が見えなくなったのか? 
……そうか、夜中か。だから何も見えないのか。
ホッとひと安堵するも、咽喉が渇いて仕方なく、唇を開ける。やばい、咽喉が痛い……。
水を飲みに立とうとして、違和感に気付いた。
どうやら自由が利かないほど熱があるようで、すぐにふらりとベッドに倒れ込んでしまった。
マジかよ……。そういえば、起きてすぐにくしゃみを連発していたっけ……。
諦めよう。水は諦める。今は眠りたい。けど、着ているものが汗を含んでいて気持ち悪い。着替えたい。
何を言ってるんだか。水すら飲みに行けない状態なのに、立てるはずがないんだ……。
そのとき、相変わらず続く耳鳴りとは別に、聞き馴染んだ男女の声が隣りの部屋から聴こえてきた。
「あとは僕が診ているから、キミはもう部屋に戻りなさい」
「私は休みですから大丈夫です。柾さんこそ、今日も出勤ですよね?」
「徹夜は慣れてるさ」
「でも終電を逃した邑さんを送るために遠路遥々関市まで送ってくださったばかりですし、お疲れのはずです」
「平気だよ」
「駄目です。お願いですから、少しは休んでください。私なら、隣りの部屋で仮眠させて貰ったお陰で大丈夫ですから」
「そうか? じゃあお言葉に甘えて、少しだけ部屋に戻って仮眠してくる。悪いな。後から交代しよう」
「はい。お休みなさい」
柾なのか……? 一体、誰と話してる? そもそも、どうしてここにいる……?
駄目だ、頭が重い。瞼も。
閉ざされる視界。そして、現の世界。


___千早歴side

「失礼します。入りますね、麻生さん」
返事はない。近くに寄ると、麻生さんはうなされていた。
怖い夢でも見ているのだろうか。それとも、高熱が彼を苦しめているのか。細かい汗が浮き出ては、つつと流れ落ちる。
見えるところはその都度拭いていた。見えない箇所も拭いてあげたいのだけど、何度も躊躇してしまう。 
(でも、麻生さんは苦しんでいる患者なのよ。汗まみれだし、気持ち悪い思いをしているに違いないわ)
「……麻生さん、失礼します。勝手にごめんなさい」
意を決して掛け布団を捲る。邑さんが羽織らせたパジャマは、既に汗によって湿っていた。
(歴、落ち着いて。彼は病人。これは看病よ。早く汗を拭いてあげないと)
自分に言い聞かせながら、震える手でパジャマのボタンを外してゆく。露わになった上半身は、華奢めいていたものの、雄雄しかった。
男性的なその身体を前に、心臓がどうにかなってしまいそうだ。私の頬が熱いのは、麻生さんの熱がうつったからだろうか。 
(恥ずかしがってる場合じゃないわ。早く終わらせなければ、悪化させてしまう)
意を決し、かたく絞った冷たいタオルでまずは肩を拭く。次は腕を。手首、胸板、脇腹も。
「寒……い……」
小さな声が聴こえた。
(そうだ、早く着替えさせなければ)
柾さんが置いてくれたのか、男物のTシャツがすぐ近くにあった。苦労しながらそれを着させ、布団をかぶせる。
「麻生さん、大丈夫ですか?」
返事なんて期待してない。
それでも。
夢と現を何度も何度も行ったり来たりする、そんな夜に。
(私の声は、届いてますか?)
「さっき――柾さんと恭子さんとの仲を疑ってしまったけれど、ふたりがご姉弟だと知って、心から安心しました。
でも、だったらどうして、麻生さんと恭子さんの仲がこんなに気になってしまうの……?
私は柾さんが好きだったはずなのに、いつから……? 私の心のなかに、麻生さん、貴方もいる……」
呟いてから我に返る。聞かれていないとはいえ、恐ろしい言葉だったことには変わりない。
これは本心。心にわだかまっていた、悩みの塊、そのもの。
柾さんだけじゃない。麻生さんもなのだ。いつの間にか麻生さんに吸い寄せられている自分がいる。
(私は卑劣な人間だわ。……ごめんなさい、麻生さん。弱音を吐いてしまいました)
言葉に出来なかった台詞。その上に被さってきた言葉は、
「……ちぃ、なのか?」
「……!」
「俺……あぁ、何だ、夢を見てるのか……。ちぃの手、冷たくて……気持ちいい……」
(今の言葉、聞かれてた――!? ううん、そんなハズは……そんなハズない)
「ちぃがいてくれるなら……安心して寝られるな。……役得だぜ。ざまーみろ、柾」
「麻生さん……」
「夢、でもいい。いや、夢……だからこそ言える。今だけは……傍にいて欲しい……。行くな……」
「――もちろんです。私はここにいます、麻生さん」
お願い。繋ぎ止めていて下さい、柾さん。柾さんを好きなままでいさせてください。私から、麻生さんを背かせて。
(でも、今日だけは……熱が下がるまでは。貴方の隣りにいるわ)
これは夢だから。朝が来れば、忘れるの。心が揺らいでしまった、今夜のことは。


___麻生環side

誰かの冷たい指先が、火照った頬を伝う。
もっとその感覚を味わっていたいのに、朦朧とする意識がそれを許さない。
余韻に浸り、理性を制御し、そして夢を見る。
夢の中で微笑む彼女は、なぜだかとても悲しそうだ。
見たくないから消えてしまえ。
そう願うのに、いやだ、行かないでくれと切願する自分がいる。
夢ならとっとと覚めてくれ。近くにいるのに遠く感じる悪夢など、さっさと終わってしまえ。
眠りたい。夢など見る暇などないほど深く、深く、深く眠ってしまいたい。
最後に見たのは涙を浮かべた彼女の顔。
あんたは夢の中でさえ泣くんだな。
やめろよ。俺なんかのために泣くんじゃない。
「おやすみなさい、麻生さん」
ポタリと落ちた涙の雫が、やけに温かいなんて。
あぁ、本当に。本当に、変な夢だ。
でも、幸せに思うんだ。


2007.10.26
2020.11.10


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