16話 【遂行者】


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16話 (芙) 【遂行者】



ひとは分岐点を迎えたとき、こころがざわめくことがあるという。
虫の知らせと言うそうだが、どうも私にはその類のアンテナとは無縁のようだ。
過去、岐路に立ったことは幾らでもあったが、そんな『ざわめき』にはついぞ出会ったことがない。
だから今日も何の予感も抱かないまま、一日が始まってしまった。
心の準備がまったく整っていない身としては、心臓に悪いので、こういう唐突な展開は勘弁して欲しいものだ。


***

早朝、黛から連絡があるのは特に変わったことではない。
彼女の文の構成はとても簡潔だ。メールが来ようものなら件名だけで用件が終わってしまう短さで、彼女らしいといえば彼女らしい。
今日も今日とて件名に内容を詰め込んでいた。相変わらずねと思いつつメールを開く。
『件名:メシアを見付けた』
文章はそれだけだった。
送信時間はam5:48――1時間ほど前だ。
メシアを見付けたとは一体なんのことだろう。
ここ数日のやり取りを回顧してみても思い当たる節はない。
あと3時間もすれば職場で会えるのだし、直接問うのが一番確実なのだろうが、如何せん意味深な内容ではある。
(気になる書き方ね……。電話に出るかしら?)
黛の連絡先を呼び出し、コールする。ありがたいことに、彼女はすぐに出てくれた。
「黛、おはよう」
「うん、おはよう」
抑揚に欠けた、どこまでも落ち着いた黛の声。いつものトーンだ。でも今は理解できない問題が横たわっている。
「朝早くにごめんなさいね。メールを見たけど意味が分からなくて。どういうこと?」
「そのままの意味よ。救世主を見付けたから、その報告」
そのままの意味と言われても。メシアが救世主と同義語であることは分かるのだが。
「救世主? 何の救世主?」
一拍の間ののち、黛は言った。「芙蓉を救うかもしれない子」と。
「私を救うって……」
「7年前からずっと傷付いてるあなたを救ってくれるひとが現れたの」
7という数字を聞き、私は息を飲む。
ひとにとってはラッキーナンバー足りうる幸運数かもしれない。でも私にとっては毎年積み重なる負層の増加という認識でしかない。
息を深く吸ったことに気付いたのだろう。黛は呼気を整えた私に追加情報を授けてくれた。
「不破君が『動きたい』んですって。まぁ彼の第一目的は潮さんのためであって、あなたを救うことは第二目的らしいけど」
「わんちゃんが……?」
驚きよりも、どうして彼が? という困惑の方が大きい。
「昨日不破君に訊かれたの。なぜ芙蓉は都築に向かって『あんたたち本部や上層部は、いつもそうやって女性社員を食い物に』なんて言ったのかって」
「どうしてわんちゃんがそのことを?」
「誰かが教えたからでしょう」
「だとしたら、潮かソマのどっちかだわ……。わんちゃんは何がしたいのかしら」
忌々しい過去を掘り起こされ穏やかさを失いつつある私に、黛はテンポよく回答をくれる。
それだけが救いだった。情報が豊富ならばそれだけ打つ手も増えるからだ。
「ユナイソンで何が起きているのか、本当のことが知りたいそうよ」
「ユナイソンの闇を暴こうっていうの? 彼が? 無茶よ、そんなの――」
「私も同意見。でも、馬渕が乗り気でね」
「あの子はもうっ……!」
頭痛の種は増える一方だ。
「不破君があなたのことを私たちに尋ねて来たものだから、『直接芙蓉に訊いて』って言ったわ。だから、あなたが決めて」
「決めるも何も明白でしょうに。そんな危険なことさせられないわ」
「そうね。私も不破君の無謀な挑戦には疑問を覚えるわ。でも、彼の勇気と意思は尊くて立派だとも思うの」
「それは……私だって頼もしく思うわよ? でも……駄目駄目! 彼まで巻き込むなんて……!」
「伊神君みたいになるから?」
その言葉に胸を抉られる。
「そうよ」と答える声は、自分でも低いなと思いながら。
「個人的な意見を言わせてもらうわね」
黛は一切感情を変えることなく、淡々と言葉を継いだ。
「不破君に一連の出来事を話して、どれだけ無謀なことに足を突っ込もうとしているのか教えるのもひとつの手だと思うの。
話を聞いた上で『やめる』と言えばそれまで。いつもの日常に戻れるわ。『それでもやる』と頑なだった場合――その時は、彼を信じてあなたも戦う」
黛のことばを口のなかで反芻する。戦う。……確かにその道を選べば、非日常的展開の幕開けだ。
「待ってよ。私も戦う? そんなことをしたら、また『彼』と会わなきゃならないかもしれない。またあんな目に遭うかもしれないわ」
「そうかもしれないし、そうならないかもしれない。不破君だけに盾になって貰うわけにはいかないわ」
「嫌よ……! だって……怖い……怖いの……」
「芙蓉。落ち着いて、芙蓉」
(黛は悪くない。厳しいことを言っているけど、黛は間違ってはいない。彼女はひとつの道を提示してくれているだけなのだから)
そう言い聞かせながら深呼吸をする。お陰で落ち着くことが出来た。
「……いいわ。わんちゃんと潮に伝える。彼らだって馬鹿じゃないわ。私の過去を聞いたら『やめます』と言って引き返してくれるはずよ」
「……そうね。不破君と潮さんだけでは難しいものね」
「後は私が引き受けるから大丈夫よ。連絡してくれてありがとう」
「朝から酷な話をして悪かったわ。じゃあまた、職場でね」
「えぇ」
電話を切るも、まだ心臓が高鳴りしている。
(あの2人……何を考えているの? どうして昔のことを蒸し返す気に……)
胸がざわめいて仕方なかった。一刻も早く2人に会わなければ。
彼らが何を企んでいるかは、この際どうでもいい。説得をして、行動自体を諦めて貰うしかない。それが第一だ。
私は電話帳で『さ行』の欄を開く。さ行でも最後の方だ。
「おはよう、ソマ」
「おはようさん。こんな朝早くに誰かと思えば」
ソマこと杣庄進は潮の同期で、岐阜店においては鮮魚を担当している。
誰よりも責任感が強く、潮にふりかかる火の粉を払う役目も担っていた。
「ごめんなさいね。あなたしか頼れないの。あなたの力が必要で――」
ソマは察しがいい。私から連絡を受け取ることがどういうことなのか、彼は既に承知しているのだろう。
案の定、電話越しに伝わってきたのは、真剣な「分かった。何をすればいい?」という快諾のことばだった。


***

こんなにも『職場に行きたい』と思ったのは社会人になって初めてかもしれない。
始業時間の15分前に社員食堂でソマと相談すること約束をしたものの、急くあまり、30分も前倒しで到着してしまった。
食堂には誰もおらず、取り敢えず胸を撫でおろした。このまま無人のままだと助かるのだけど。
手持無沙汰もなんだしと思い、自動販売機で紅茶を買って飲むことにした。
紙コップに口をつけると、ポケットでスマホが鳴動した。手早く操作すると、ソマから「今どこだ?」とのメッセージ。
社員食堂と返信すると、ドアの向こうにいたのだろうかと疑りたくなる早さで当人が入って来る。
「え? ソマどこにいたの?」
「更衣室」
それで合点がいった。男子更衣室は目と鼻の先なのだ。
「30分も早いわよ」
「そういう八女サンだって。それで? 相談ってなんだ?」
「わんちゃんが1人で動こうとしてるの。だから早く止めなきゃと思って」
「待った」
鋭く制止したソマに気圧され、私は口を噤む。
やたら真剣な眼差しのソマは改めて周囲を見回すと、確実にひとがいないことを確認してから言った。
「俺は賛成だ」
「賛成って……わんちゃんの味方でもするつもり?」
信じられない思いで問う私に、ソマは目をじっと見つめながら大きく頷いた。
「俺は俺で、独自のコミュニティを使って情報収集してる。それは知ってるよな?」
「えぇ」
「気付いてたか八女サン。ここ数日、本部の人間がうちに出入りしてる」
「えっ……」
全く気付かなかったし、知らなかった。私は首を横に振る。
伊神が島流れの如く香港に左遷されてしまって以来、ソマはずっと一人でユナイソンの内部事情を探っていた。
進展を尋ねるたびに『危険だから知らない方がいい』と濁され、結局何も教えてはくれなかったのだ。
そのため最近では訊くこともしなかったのだが、まさか本当にスパイ活動が成果を上げているとは夢にも思わなかった。
凄い子ねと感心しながらまじまじ見ていると、ソマは私の視線を鬱陶しく感じたのか、ふいと視線を逸らした。
「見慣れない男が、こそこそと店内をうろついてる」
「その人はユナイソンの関係者なの?」
「店長が何度も頭を下げた相手の胸にはユナイソン社員が身に付けなきゃいけないネームプレートがあった」
ゆえにこそこそと店内を嗅ぎ回っているのは本部の、それも上層部の人間ではないか――ソマはそう推察した。
本部による隠密訪問とは穏やかではない。随分ときな臭くなってきたではないか……。
「きっと裏があるはずだ」
「でも……それとわんちゃんの味方になるのと、どう関係してくるの? まさかタッグを組むなんて言い出すんじゃないでしょうね」
「そのまさかだ。味方は多い方がいいだろう? 俺はもう、それなりにネタも掴んでるし」
「だからこの際一気にユナイソンの闇を暴いてしまおうって? やめて、怖いわそんなの」
わんちゃんも、潮も、馬渕も。そしてソマも。直接何か危害を加えられたわけではないのだから、大人しくしていればよいではないか。
どうして真っ先に反乱分子になろうとしているのか理解に苦しむ。
でも彼らは口を揃えて『私を救うため』だと言う。だから動きたいのだと。
そんなことは頼んでない。ありがたいのは山々だし、感謝もするけれど、でもなぜ今なのだ。なぜ……。
「あなたに何かあったら、潮が悲しむわ。お願いだから無茶しないで」
「それは分かってるさ。だがもう黙ってるなんて俺には無理だ」
「……つまり、それだけ悲惨なネタが出て来たのね?」
ソマは頷いた。
(なんてこと……!)
どうやら既に引き返せないところまで来てしまっているようだ。
ぬくぬくと平常通りの業務をこなしている場合ではないほどの事件が、水面下で起きているのだ……。
「これ以上は見過ごせない。俺の方は、刺し違える覚悟が出来てる」
「ソマ……」
潮とわんちゃんを説得するつもりだったのに、どうやら先に丸め込まれてしまったのは私の方らしい。
私は時期が来たことを悟った。これ以上は抗えない。
現状、怖い怖いと震えあがっているだけでは済まなくなってしまっているのだから、私も腹を括らなければ。
「あなたが岐阜店に居てくれて本当によかったわ、ソマ。とても助かってる」
「……頼もしいだろう? なんせ俺は『透子のナイト』だからな」
寂しげに笑うソマは、何かを諦めたようでいて、その一方で決して信念は曲げないと心に誓っているようにも見えた。
「――始業時間だ。八女サンも行くだろ?」
「えぇ」
不安を心の奥底へと追いやると、私は潮が待つPOSルームへと急いだ。


***

POSルームに入室したとたん、「すみませんでした」という潔い謝罪と、体を90度に曲げた潮の姿があった。
「え……? な、なに……?」
完全に出鼻を挫かれてしまったが、こうなったら潮の誠意を酌むことが先だ。彼女の話を聞かねばなるまい。
「一昨日の件に関して謝罪をさせてください。八女チーフ、すみませんでした」
つまり、あのあと彼女は反省をしたらしい。
(何かと思えば……。殊勝なことね)
「頭を上げて。あなたから謝られることなんて何もないんだから」
「でも……」
潮は頭を上げてくれたが、私のことばに関しては半信半疑のようだ。
「それだけ伊神が好きだってことでしょう? あなたの気持ちは分かったわ」
「……えと、……はい」
潮は視線を合わせてこない。素直に従えないことでもあるのだろうか。
(困ったわね。潮と話がしたかったのだけど、この様子じゃ無理かしら……?)
でも時間がない。
「あのね、潮。あなたに話が……」
「あの……八女チーフ、実はお話が」
同時にハモり、お互い目を丸くする。
「「……どうぞ」」と譲るタイミングも同時で、これではまるでコントではないか。
「先に言わせて貰うわね」
「どうぞ」
「ソマから聞いたんだけど――」
「おーーーい。仕事の依頼だ」
「……」
バンとドアが開いたかと思うとズカズカと足音が響き、台車の上でガッチャガチャと瓶同士がぶつかる騒音。
青柳によってPOSルームに次々と運びこまれる大量の外国産ワインを眺めながら首をひねったのは潮だった。
「青柳チーフ、どうしたんですか、この大量のワイン。フェアでも始まるんですか?」
「察しが良くて助かる。そうだ。今から売価修正や登録作業をして欲しい。もうメーカーが陳列を始めてるんだ」
「え、同時進行ですか? 分かりました。早速取り掛かります」
青柳の退室後、潮は作業がしやすいよう、パソコンモニタをカスタマイズし始めた。
「それにしても種類が多いですね。こんなに仕入れてしまって大丈夫なんでしょうか」
質問をしてても潮の手は止まらない。パソコンが得意だと自負しているだけのことはある。事実、彼女の入力ミスは少ない方だ。
「本部投入だもの、損しようが私の知ったこっちゃないわ。仮に大損扱いたとしても、目算を誤った本部のバイヤーの所為ね」
私のことばに、潮は少しばかりの間を置いた。
「……八女チーフって、本部に敵愾心剥き出してません?」
「別に? 無能なヤツには全員容赦ないでしょ、私って」
「そうですね、……えぇ、そうでした」
意味深な反応だ。黒に近いグレー。やはり潮は既に私の過去を知っているのかもしれない。
気にはなったものの、青柳から託された仕事を捌かねばならない。
潮とは昼休憩のときに話せばいいかと気を取り直し、私も作業に戻ることにしてワインの山から1本を掴んだ。
そのラベルを見た瞬間、どんよりと暗い気持ちになってしまう。
(これは……)
シンプルな塔の絵に、“Chateau Latour”の文字。
(……やれやれ。よりによって、このワインに当たっちゃったかぁ……)
このワインの味は、今でも覚えている。幸せな余韻に浸らせてくれる、甘美で優しい味だ。でもそれにまつわるエピソードは。
(ビター以外の何物でもなかったわね)
あの時は、このワインが入ったグラスを弄っていた。
そうでもしなければ、心を落ち着かせる事など出来なかったから……。
「……チーフ! 八女チーフ!」
その声にハッと我に返る。潮が不審そうに私を見ていた。
「ごめん。なに?」
「ですから。売価変更終わりましたよ」
過去の思い出に浸りかけていた所為で、曰くつきワイン1本しか値段変更出来なかった私である。潮には申し訳ないことをしてしまった。
「この中では、そのワインが一番高いみたいですね」
仕事量が歴然の差であることなど無関心のていで、潮はレシートで値段を確認すると、シャトー・ラトゥールの瓶を手に取った。
「あら、そうなの?」
「えぇ。ワインって、年によって値段が全然違うんですね。ビックリしました」
じゃあ私が7年前に飲んだ、加納さんお薦めのシャトー・ラトゥールは幾らだったんだろう? 安かっただろうか、高かっただろうか。
気にはなったものの、知らないままの方がいいと思い直す。
(あんなお酒よりも、そのあと伊神に作って貰ったベーコンやスクランブルエッグの方が、心がこもっていた分、断然美味しかったもの)
「ねぇ潮。今日飲みに行かない? いつものバーで19時半」
「いいですよ。ちょうど私も八女チーフとお話したいことがあるんです」
「さっきたくさん頑張ってくれたお礼に、伊神の話も聞かせてあげるわ」
「……やった!」
潮は小さく拳を握ると無邪気に笑った。


2019.05.29
2023.02.17


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