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G2 (―) 【青写真】
日常編 (―) 【青写真】―アオジャシン―
「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、なんだそのへなちょこな切り方は! てめぇに切らせる魚なんざ、もうねぇよっ。出てけー!」
怒号によって新入社員の杣庄を鮮魚の作業所から追い出したのは来栖勝喜(くるすしょうき)。38歳、鮮魚チーフである。
今にも出刃包丁で襲いかからんとする鬼の形相を目の当たりにして、杣庄は口元をひくつかせ、命辛々逃げ出した。
「くっそ、これで何回目だよ!」
後ろ手に引き戸を閉め、息を整えながら扉にもたれかかる。
「なんだァ、ソマ。まーたショウキの野郎を怒らせたのかよ。飽きもせず、毎度毎度よくやるなァ」
その姿を見て呵呵大笑したのは青果売り場のチーフ、壬生恒彦(みぶつねひこ)、44歳。売り場が隣りなので接触率はどうしたって高い。
壬生の隣りには、ユナイソン岐阜店きっての高嶺の花と揶揄される八女芙蓉がいた。杣庄を見つめたまま、今のやり取りを見て唖然としている。
連日鮮魚売り場で繰り広げられる『来栖・杣庄の戦い』を知らないのだろう。無理もない。彼女が受け持つPOSルームからこの戦場は離れている。
杣庄は、心の中でチッと舌を打った。片想いの相手の前で、なんとも情けない姿を曝け出してしまったものだ。
「別に、怒らせたいわけじゃ……ないッス……」
杣庄が顔をぷいと背け、もごもごと言い訳をしていると、壬生はボールペンの蓋を口に咥え、紙にさらさらと書き付けながら
「ま、アイツが勝手に怒ってンだから仕方ねぇわな」
と、慰めになっているようで、なっていないことを言う。
「ほら。出来たぞ、フヨウ」
「ありがとうございます」
杣庄は芙蓉を盗み見た。壬生から受け取った紙をバインダに挟むと、小脇に抱え、青果の作業場から出て行くところだった。
己の手から漂う血生臭い魚の臭いとは違って、その残り香は、夏の草原を彷彿とさせる。あまりにも住む世界が違いすぎて、気が滅入った。
このまま片想いを続けても、この恋は実らないだろう。そう思うと落胆せざるを得ない。なにせたった今、仕事が出来ない場面をバッチリ見られたばかりだ。
ユナイソンに入社して鮮魚に配属されたものの、料理学校を出たわけでもなく、畑違いの商学部出身。
私生活では幼い頃から家事をしてきたつもりだったが、いざ仕事となると、これがちっとも使えない。
メジャーどころはともかく、マイナーな魚の名前は覚えづらく、見分けもつきにくい。さらに季節や出世魚など、知識も蓄えなければならない。
魚のさばき方も三枚おろしと刺身を造るのがやっとだったのに、その上迅速さと丁寧さが求められ、挙句「切り方がなってない」と部屋から追い出される始末。
そもそも魚によってさばき方は違うのだから、次から次へと魚を寄越されても、切り方に関する記憶を引き出す時間くらいは与えて欲しいものだ。
「いつまでしみったれた顔してやがる。とっとと中入ってショウキに詫び入れて来い、詫び」
来栖といい、壬生といい、どうにも自分の周りには体育会系思考回路の持ち主が多くて困る。血気盛ん過ぎるのも考えものだ。
やれやれと思いつつ、壬生の言うことは理にかなっていたので、杣庄は壬生に目礼をしてから大きく深呼吸をし、再び作業場へと戻って行った。
*
「お兄ちゃん……またなの……?」
泣きべそに近い悲鳴は、唄の口から出た。
食卓に並べられた大量のまぐろの切り落としを見て眉尻を下げた唄は、床にへたり込みかねない雰囲気でもある。
「唄、滅多なことを言うもんじゃねぇよ。立派な高級魚だ。そんなこと言ってるとバチが当たるぞ」
唄のあとから入って来た長女の茨が、いつものぞんざいな口調で妹を窘めた。
茨の髪はシャワーを浴びたばかりで濡れている。犯人を確保した際、泥の中で格闘した彼女は帰宅早々湯船に浸かった。
空腹と疲労で体力は限界寸前。肉だろうが魚だろうが、血・肉・骨になってくれるものは何であろうと大歓迎だ。
「でもでも。これで18日間ぶっ通しでまぐろだよ? たまにぶりだったりマスだったり。でも結局は魚でしょ? さすがにお肉食べたいよ。栄養偏るよぉ」
「ファーストフードでハンバーガー食べりゃ良いじゃねぇか」
「駄目よ、お姉ちゃん。栄養過多だからそれは避けたい乙女心なの」
唄の言い分は『食事の有無』からすれば食にあり付けるだけ贅沢であり我儘なのだが、『献立の観点』からすれば杣庄自身、申し訳ないと思わずにはいられない。
「ウタから見たら綺麗に切れてるよ? これでもまだ汚い切り口なの? 駄目出ししてくる来栖さんって人の刺身とお兄ちゃんのとでは、どこがどう違うの?」
一番始めに切った魚に比べれば、杣庄の腕はかなり上がった方だ。それでも20年の職人歴を誇るチーフとでは、比べるべくもない。
そもそも杣庄が毎日切り続けているのは、客から「切り方が下手だから」と、返品を食らった手痛い出来事がきっかけだ。
あの現実にはさすがに深く傷付き、帰宅途中に涙を零した。その時に誓ったのだ。毎日出来る限り、家でも練習しようと。
弊害がなかったわけではない。
唄が言うように連日魚料理になってしまっているし、さばき方の練習をするには1尾丸ごと買って自腹を切るしかない。今月は出費がかさむが、これも勉強代だ。
「悪ィな、唄。付き合わせちまって」
「……んーん。ウタこそ、ひどいこと言っちゃった。ごめんなさい、お兄ちゃん」
贅沢のできない環境下なのに我儘を漏らしてしまった己の発言を恥じて、唄は素直に謝った。茨は唄の頭をポンポンと軽く叩き、フッと笑う。
「……ほら、唄。いただきます。な?」
「はぁーい。いただきますっ」
協力を惜しまない姉と妹に心の中で感謝をして、杣庄も箸を取り、「いただきます」と手を合わせた。
*
近道などない。結局は実践の積み重ね、経験でしか能力は培われない。
そのことに気付いた杣庄は信念を貫くかのように魚をさばき続け、杣庄家の食卓に魚が登場しなくなったのは、ひと月半が経った頃だった。
上司である来栖からは相変わらず激しい叱責が飛ぶ。
それでもこの頃になると、新入社員の分際では全部が全部、即応えられない難題であることも、杣庄は勘付いていた。
応えられる範囲で全力を尽くし、無理だと思った部分は力不足と把握した上で切り捨てる。
出来なかったオーダーに関しては、「課せられた宿題」としてメモ書きしておく。そうしておけば、後から復習することが可能だからだ。
自ら取捨選択をするようになってからは、もともと備わっていた勘の鋭さも相まって、めきめきと上達し、吸収していった。
更なる知識を求め、競りや市場への買い付け、寿司巡りなどへ赴く頻度が増えると、来栖の怒鳴り声は反比例するかのように激減した。
それでも稀に大きなミスをしてしまい……、
「ソマぁぁぁぁ、てめぇぇぇ」
「す、すんません」
「馬鹿タレ、1時間戻って来ンなぁ!」
11時の段階で放逐され、昼食には早いが社員食堂へと避難する。さっき間違えたのはなぜだろう、どこの時点で誤ってしまったのだろう。
トレーを脇にやり、メモ帳に思い付く限りの問題点を論(あげつら)っていると、「杣庄君」と自分を呼ぶ声があり、スッと紙コップが目の前に置かれた。
並々と注がれているのはホットのコーヒーで、食堂内に設置されている自動販売機のそれに違いなかった。
視線を上げればそこには思わぬ人物が立っていた。杣庄の想い人。心臓は早鐘を打ち始め、「え、あの、これは?」と問い返すだけで精一杯。
芙蓉は杣庄が腰かけているテーブルの後ろに、彼とは背中合わせの形で着席する。自分の分も買い求めていたらしく、ことん、と紙コップを置く音が響いた。
「もうお昼ご飯食べてるんだ? 早いのね」
早いのは部屋を追い出されたからだ。来栖の命令には“頭を冷やして来い”、という意味合いもあった。だから仕方なく食べていただけ――。
1時間の休憩が終わったら、気持ちを切り替えて仕事に臨む所存だ。
けれどもそんな恥ずかしい姿、そう何度も晒せるはずもない。
曖昧に言葉を濁すと、芙蓉は杣庄の心の内を読んだかのようにふふっと笑った。
「さてはミスでもしちゃったのかしら、ルーキー君。来栖チーフは例えそれが褒め言葉だとしても叱ってるような言い方に聞こえちゃうから、余計大変よね」
「あぁ、いや、でも俺の場合はミスの所為だから……」
結局本当のことを告げる羽目になってしまった。
きっと、背中合わせだからなのだ。目を見なくて済んでいる分、素直に吐き出せたのだろう。これが対面だったら、絶対本当のことなど言えなかった。
「ミス……ミスかぁ。でも杣庄君は頑張ってるじゃない。毎日お魚買って、お家でさばいてるんでしょ? 偉いわね」
なぜ芙蓉がそれを知っているのか、杣庄には分からない。
同期の潮透子にも話していないし、芙蓉と仲が良く、杣庄自身とも仲の良い伊神十御にだって教えていない情報だ。
杣庄が首を傾げていると、芙蓉はあっさりネタバレをした。
「レジの子が教えてくれたの。杣庄君が毎日終業後に一尾まるごと買ってる……って」
それでか、と腑に落ちた。じつは、従業員が通って良いレジは決まっている。何度も利用している内に、レジの子とも懇意になった。
その子にだけは教えていた。自分でさばく為に購入しているのだと。
「偉くなんかないッス。ただ、早く上手になりたいんで。それだけです」
「立派な理由じゃない。充分偉いわよ。
私は職務を全う出来なかったの。だからね、杣庄君を見てると、つい、「頑張って!」って、応援に力が入っちゃう」
芙蓉の言葉には驚くことだらけだ。
いち新入社員の自分に目を掛けてくれている。そうと知っただけで舞い踊りたくなる。その一方で、尋ねたくなる点もいくつかあった。
「ありがとうございます。でもあの……職務を全う出来なかったって、どういう意味ですか?」
「あー……」
その「あー……」を言い換えると、こうだ。『ルーキー君、そこ、訊いちゃう?』。
訊いたら嫌われる? でも知りたい。好きな人の過去。見たことのない一面。どうしたって知りたいし、どうしたって聴いてみたい。
杣庄は「やっぱり聞くの、やめます」とは言わなかった。質問を取り下げなかった。
芙蓉にしたって、『内緒』と言ってはぐらかすことも出来たのに、そうはしなかった。杣庄に真摯であろうとした。
「私は、もともとサービスカウンターだったの」
八女さんの制服姿を見てみたかった、と杣庄は思った。
サービスカウンターは制服が可愛いことで有名だ。容姿端麗で成績が優秀な人物でないと就けない。
憧れの女性が花形ポストに居たとは、思わぬ収穫だ。
「異動したんですか」
「したんじゃない。させられたの」
芙蓉にしては珍しく、ムッとした口調で言い返した。
「ここで働いていれば、いつか噂話で耳にすると思う。私のコト。
けど、他人からの伝聞なんて尾ひれが付く。だったら自分から正しく説明した方がマシよね。だから話すんだけど……」
聞きたかったのに、急に口を噤んでしまった。
「……八女さん?」
「ルーキー君は入社半年よね。こんなこと、言っても良いのかしらと思って」
「いまさら何を……」
「そうよね、ごめんなさい。実は、枕営業を拒んだからなの」
「枕……。え?」
頭が働いてくれない。処理しきれない。そりゃ確かに八女さんは綺麗なひとだ。だからそういう誘いもあるだろう。でも……。
「うちの会社が、ですか? そういう手段を持ち掛けた?」
「ルーキー君、先輩からの有り難い助言、ちゃんと聞いておきなさい。いつ何時役に立つか分からないから。大切なのは、鑑識眼を磨くこと」
芙蓉と茨がダブる。鑑識眼を養えとは、刑事である姉自身も口を酸っぱくして何度も言っていた。
世の中を渡る上で、五感が頼りになるのだと。そして第六感も働かすようにと。
そうすれば、何が正しくて何が間違っているのか分かるから。自分がどのように動けば良いか、瞬間的に閃くから。
「昼間から変なこと言ってごめんなさいね。
私が言いたかったのは、私は序盤から挫けてしまったけど、一所懸命頑張ってる杣庄君には、その努力が認められるといいなってこと」
芙蓉的には杣庄を励ましたつもりだろうが、彼女に惚れている立場からすれば、枕営業を指示した者を懲らしめてやりたいと誓うきっかけになったに過ぎない。
訊けば芙蓉は教えてくれるだろうか? 『仇を取りたいので、八女さんにそんな馬鹿げた命令を下したヤツの名前を今ここで教えて下さい』と。
そんな衝動に駆られつつ、しかしルーキー君と呼ばれているようではまだまだだな、とも思う。
それこそ鑑識眼を磨いて、自分で突き止めてみせればいいのではないか?
メモに加えよう。コミュニティの強化、と。岐阜店だけではなく、他店にも、本部にも顔が利くようにしておく。そうすれば自ずと情報は入ってくるだろう。
そして、芙蓉は自身の失脚について“失敗”という言葉で一括りにしたが、それには異論を唱える杣庄だった。
「あの、俺、頑張ります。でも八女さん。八女さんだって、今与えられた職務で頑張ってみえるじゃないですか。
挫けてなんかいないですよ。そりゃ確かに枝は一度折れてしまったかもしれないけど、そこからまだ芽吹きます。きっと」
そこで再び無言の芙蓉。かなりくさい発言だっただろうかと後悔し始める杣庄に、芙蓉の笑い声が重なった。
「ふふっ……。ちょっと待って。ね、これ、始めは何の話しだったっけ?」
「え、始めですか? 始めは俺が慰められてて……」
「よね? なのに、何で今は形勢逆転してるの!? あっはは、おっかしい……!」
「あ……」
それは、俺が元気付けたかったからです。八女さんのことを。そんな本音など言えるはずもなく、もどかしく飲み込む。
「あなたの未来が楽しみだわ。何か、しでかしてくれそうだもの」
俺が積極的に何かを仕掛ける――?
「……八女さん。実は俺、今ちょうど目標が出来たところです」
「へぇ……!? どんな?」
「今は言えないっす。ごめんなさい」
「いいわ。見てるから」
芙蓉には何気ない言葉だったに違いない。それでも杣庄には力強いエールになった。単なる後輩という位置付け。それでも想い人は将来に期待してくれている。
「あの、八女さんって彼氏いるんですか?」
「いないわよ」
「いないんですか……。意外です」
情報ゲット。しかも嬉しい答えだ。
「そういうルーキー君こそ。彼女はいるの? あ、潮とか?」
「透子? ありえないっす」
「あら、どうして? ツンデレは苦手?」
「確かにガミガミ系は苦手かも。姉貴がそういうタイプなんで」
「じゃあ、ふんわりお嬢様系とか」
「それも身内にいるんで、別に……」
「ん……? あとはどんなタイプが残ってるっけ?」
あなたです、とも言えず。
「八女さん。アドバイス、ありがとうございます」
心を込めて礼を述べるだけに留めておく。今は。
「あと、コーヒーご馳走様っす」
「どういたしまして」
芙蓉がくれたコーヒーだ。しっかり味わおう。腕時計に目をやれば、休憩時間が終わろうとしていた。杣庄は席を立つ。
「じゃあ、俺はこれで」
「行ってらっしゃい」
その時だけは、芙蓉の顔を見た。綺麗だよな、と思う。つくづく思い知らされる。高嶺の花だってこと。
それでもいつか振り向かしたい。それはさっき掲げた目標のひとつ。あとは、八女芙蓉に枕営業を指示した人間を見付けだし、お灸を据える。
そうそう、鮮魚のチーフになり、ゆくゆくは本部のバイヤーになることだって夢だ。そのためにはまず、来栖をぎゃふんと言わせないといけない。
「道のりは長いな」
やれやれと首を竦めつつも、階段を駆け下りる杣庄の足取りはどことなく軽やかだった。
2014.01.17
2020.02.15 改稿
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