G2 (―) 【ーーー】


日常編 (―) 【澳門於】―マカオニオイテ―



[01]

地上25階の部屋に入るなり、備え付けのデスクの上に荷物を置いた。
肩への負担がなくなったことで、因香はほっと溜息をつく。自分ではそこまで詰め込んだ覚えはないのだが、余計なものまで持ち込んでしまったかもしれない。
例えばヘアドライヤー。各部屋に用意されていることは知っていたが、実際に使えるか分からないため、変圧器とプラグも持参した。
石橋を叩いて渡る性格ではないと自負している。だが海外だからという理由で、いざという時のための保険をかけてしまうほどには慎重になっているようだ。
「えーと。マカオのホテルチップは手配ごとにMOP10ずつ渡せばよかったんだっけ」
財布を開け、紙幣を渡しやすいように整理しておく。その後は非常口の場所を確認し、モーニングコールの手配も済ませる。どんな時も備えあれ、だ。
ふと、やけに部屋が暗いことに気付き、窓へと歩み寄った。雨の音がする。カーテンを開けると、横殴りの雨が窓に叩き付けるように降っていた。
「早速スコールに見舞われたか。大歓迎されてるわね」
やれやれと首を竦めたものの、自分には関係ないことに思い至った。そもそも香港経由でマカオに訪れたのは、カジノで遊ぶことが目的である。
夏季ボーナスを使って豪遊よ、と恋人に告げたのはつい先日のこと。彼女は呆れたとばかりに「せいぜい気を付けることね」と因香を見送った。
そのカジノは雨に降られない場所にある。そう、宿泊するホテルに直接カジノ場が設けられているのだ。
因香は早速階下へ向かった。ドレスコードは不要で、ふらりと立ち寄ることが出来るのがマカオカジノの利点でもある。
「ベガスカジノでは換金したらとんとんだったからな~。不完全燃焼ではあったのよね。やっぱり勝つか負けるかはっきりさせないと」
仕事柄、戦略を立てるのは得意だ。引き際さえ見誤なければギャンブルは怖くない。
ただ、今回は使う金額が決まっているため、『引き際=すっからかんになった時』と言えないのがたまにきずだ。
「まぁ、やめどきに関しては、その時の気分で決めちゃうのもいいかもね」
物欲はさほどない。その容姿からブランドが好きそうだというレッテルを貼られがちな因香だが、意外にも堅実で、姉妹のお下がりを愛用することも多かった。
家族と同居なので居住費に関しては家に入れるお金だけで済むし、プチプラコスメで済んでしまう、大変ありがたい肌質だ。
ランニングが趣味のため健康に一役買っているし、自炊も得意だ。公共交通機関が発達した都市部在住のため、車を持っていなくても生活に困らない。
たまには自分の欲望を満たさないといけない。やっと仕事でも山を乗り越えたのだし、今回の旅行は御褒美も兼ねているのだ。
足取りも軽く、因香はドアを開ける。入口にガードマンはいない。日本で言うところのゲームセンターみたいなもので、わりかし緩い雰囲気だ。
とは言え、これは店の規模にもよる。監視の強弱は、賭場場の大小に比例するといっても過言ではない。
因香が利用しようとしているここ、サングラシアホテルは、こじんまりしたカジノ場。出入りは自由だし、プレイしている様子を眺めるだけでも構わない。
敢えてそういうラフに過ごせる場所を選んだのだ。
(さてさて、まずは台のチェック、と)
ドリンクを飲めるコーナーに立ち寄り、炭酸飲料を注いで貰う。チップを渡すと、若い女性店員がス……と人差し指である一角を示した。
「?」
「あそこには行かない方がいいわ」
「ほほぅ」
開口一番に否定形Don'tを聞かされて、興味を引かれないはずがない。
面白そうに口角を上げた因香はチップを上乗せする。すぐ退散するつもりだったが気が変わった。ここで飲みながら情報収集するのも悪くない。
倍のお小遣いを受け取った店員は笑みこそ浮かべなかったものの、気を良くしたのは確かで、因香に追加のネタを提供した。
「昨晩からブラックジャックのディーラーが熱を出して休んでてね。今日はピンチヒッターなんだけど、あの人には近付かない方がいい」
視線を辿った先のブラックジャックエリアはそれなりに賑わっていた。カードゲームはカジノの代名詞。一度は挑戦してみたいと思う人気ゲームなのだが……。
「あのドヤ顔男、相当強いの?」
「強い、の意味にもよるわ。とにかく相手にしないで。特にあなたみたいな美人は。近寄っちゃ駄目よ、絶対に」
さらにチップを弾む。眼前に現れたMOP10を見た店員の目がキラリと光るやいなや、近くに誰もいないことを確認すると、因香に耳を近付け囁いた。
「あいつ、とんでもないセクハラ野郎なの。底辺ディーラーのくせして、ギャンブルに縁がないドリンクガールにだけは威張れるからって、そりゃもう酷いのよ」
「あっ、そーゆー……」
(差別野郎ってわけか)
「辞めていった子なんて、片手の指じゃ数え切れなくなってる。でも上っ面はいいの。ピット・ボスにへこへこ媚び諂うから、彼のお気に入りみたいで」
"Pit Boss"? と疑問を抱いたが、直訳すればいいだけかと思い直す。要するにカジノ場において、権限を持った責任者のことを指しているのだろう。
カジノの支配人とは違うのかと新たな疑問が生じたが、そこは後から調べればいいことだ。
「教えてくれてありがとう。ブラックジャックで遊びたくなったら、別のディーラーのテーブルにするわ。でも、どこが穴場かな……」
その方がいいと相手は頷いた。そして、結局どれも同じよ、とも。
「ブラックジャック担当なのだから、相当腕っ節の強いディーラーが据えられると思うでしょ? あれはブラフよ。だからどの台に行っても大丈夫」
「へぇ、そうなの? 初めて聞いたわ。でもよく言うわよね? 『あいつは凄腕ディーラーだ!』とか……」
「そう勘違いしてるひとも多いけど、実は違うのよ。ルール上、彼らには限られた行動しか出来ない。だから必要以上に臆さなくてもいいの」
そのアドバイスのお陰で、取っ付きにくかったブラックジャックへのイメージが払拭された。
(そっか……。相手が無敵とは限らないのか。アウェーの空間だったから少しビビってたけど、ちゃんとプレイヤー側にも配慮されてるのね)
「ドリンクガール一同の願いはね、あいつを再起不能なまでに叩きのめしてくれる猛者が現れてくれることなの」
グラスを磨く手が止まった。自分は何を言ってしまったのだろうと後悔していることがありありと分かる間だった。
「ごめんなさい。私が言ったことは気にしないで。そもそも何で遊ぶかの選択はあなたが決めることなのにね。それもギャンブルの内なのだから」
因香は最後の一口を煽り、グラスを返した。受け取った店員の手が僅かに震えていることに気付く。
(あー……。なるほど。そういうことか)
毒牙は彼女にも向いている。今日辺り、誘いがあるのだろう。いや、既にあったのかも知れない。このまま夜を迎えるのが怖くて仕方ないのだろう。
(でもこれさー、もし私が勝っちゃったら? プライドずたずたにされて逆上したりしてさ? その鬱憤をこの子にぶつけるってこともあり得るんじゃない?)
諸刃だな、と思う。危険極まりない。
(さて、どうしたもんか……)
出来ない約束はしない方がいい。いくら底辺ディーラーと揶揄されていようが、雇われるからにはプレイヤー以上の力はあるのだろうから。
「……美味しかったわ。ご馳走さま」
取り敢えず様子見だ。力量を見定めてから決めてもいいだろう。
因香は敢えて店員に何も言わず、その場を離れることにした。


[02]

あんな話を聞かされてはどうにかしてあげたいと思うのが人情というものだろう。
仮にあのセクハラ云々が作り話だったとしても、因香が「儲けにきた」気持ちは正当なものだから、勝っても後ろめたくはないのだ。
本当は自分のペースで遊べるスロット台に向かうつもりでいたが、予定変更、ブラックジャック台へと足を向けた。
さて、問題の台に到着すると、3人のプレイヤーがいた。どの人物も寡黙で表情が乏しく、お世辞にも楽しんでいる気配はない。
ただの時間潰しとも取れる一方、真剣勝負においてわざと表情を消している可能性もある。
初心者は避けた方がいいとされるサードスペース(左端)には誰もいない。そんな中、一番目を引いたのは右端に座った黒髪の女性だった。
背中までのゆるふわヘアで、丸眼鏡をかけている。服装はジーンズに黒のTシャツ。野暮ったく、ありふれた格好なのに、何故か惹き付けられてしまう。
年齢は不詳だ。外国人の年を当てるのは難しい。国籍はインド人だろうか。或いはバングラデシュ人か。綺麗な顔立ちをしている。
ふと視線を感じ、気配を追うと、ディーラーと目が合った。ボディラインが際立つものを好んで着る因香のことを、上から下へと眺めているではないか。
(こいつ……ドリンクガール以外にプレイヤーまで食っちゃうのかしら。どの部屋に泊まっているのか調べられたら不味いわね)
視線には気付かなかった振りをして、因香は傍観者のていを装って流れを観察することにした。
ボソボソと単語だけで喋る者もいるが、ジェスチャーで進行していくプレイヤーもいる。
(あ、負けたみたい)
右端の女性が大損をしたようだ。それでもマキシマムベットに拘っているようで、賭け金は変えてこない。
(ブラックジャックは還元率が高いし、むきになって取り戻そうという気持ちは分かる。よく分かる)
それでもやっぱり、
(負けてるし)
居ても立ってもいられず、因香は「スプリット」と女性にだけ伝わるように小声で囁いた。
一瞬びくりと固まった女性は、少し逡巡したのち、因香の助言通りスプリットを選ぶ。
その後も因香は何度か口を挟み、女性は勝つことが出来た。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ミズ。あなたも遊びませんか?」
ディーラーに声を掛けられ、因香は女性の隣りに着席した。
彼女は負けた分を取り戻したい一心なのか、全額をベットしてきた。その度胸に大丈夫かしらとハラハラせずにいられない。
蓋を開けてみれば因香の圧勝だった。ディーラーは悔しそうな顔を一瞬だけ覗かせたが、「おめでとうございます」と形ばかりの賛辞を送られ、悪い気はしない。
(ほら! 一矢報いてやったわよ!)
因香のような初心者に『再起不能に叩きのめしてあげる』ことは出来なかったが、当初の目的より稼げたのだから、これでよしとしよう。
一方、隣りの女性は利益を得て納得したのか、席を離れようとしていた。慌てて因香も席を離れ、女性を追った。
「あの」
「……え?」
声を掛けられたことが意外だったのか、女性は振り返るなり足を止めた。きょとんとした顔で因香を見ている。
「えー……と。もしよろしければ、一緒にカフェでもどうかなー……なんて」
「……ごめんなさい。この後、約束があるの」
ナンパは見事に失敗した。因香としては、「ソウデスカ」と頭をかきながら退散するしかない。
「では、失礼します」
頭を下げ、女性はカジノ場を後にした。
「あ、名前を聞くのすら忘れた……」
意気消沈したものの、恋人女性のマークが頭に浮かび、頭をふるふると振る。
「いかんいかん、私にはマークがいるんだってば。でも……不思議なひとだったわね」
今はもう見えない姿なのに、因香の視線は入り口のドアから離れようとはしなかった。


[03]

アムヤがサングラシアホテルのカジノ場を選んだのには理由がある。
それはここから徒歩1分の場所に世界的に有名なマカオカジノがあり、サングラシアの方が客数として少ないからだった。
ドレスコードも必要なく、自分のペースで遊べるため、アムヤはいつもここを選んでは毎回率先して負け続けていた。
加えて、もう1分歩けば駅に着くのも強みだった。駅にはカフェが数軒あり、待ち合わせの場所に事欠かない。
慌てて約束の店に入ると、早速甘い匂いが鼻孔をくすぐった。エッグタルトだ。
大好物に目がくらみ、慌ててショーケースから視線を剥がす。奥では既に待ち合わせの人物が紅茶を嗜んでいた。
「トオゴ! お待たせ!」
男性に近付くなり、その両頬にキスを落とす。相手もそれに倣った。
「そんなに慌てなくても良かったのに」
息を切らしたアムヤを見て、相手はくすりと笑った。ふんわりとした髪質や色は、アムヤのそれと似ていた。
「だって……早く会いたかったし……」
「久し振りだね」
「ほんと! 1年半よ。長かったわ。でもどうしたの? 急にマカオで落ち合おうだなんて」
「アムヤに伝えたいことがあったんだ。オレ、日本に帰国することになった。だからその前に逢いたくて連絡したんだ」
「えっ、帰国するの? いつ?」
「実はそんなに日がないんだ。明日の便で発つことになってる。父さんがセントレア国際空港まで迎えに来てくれるんだ」
「トオゴとまた離れちゃうのね」
「ごめんよ。急な異動だったんだ。アムヤは? いつインドに戻るの?」
「決めてないけど、今週中には帰るつもり」
「そうか。またしばらく会えなくなるね。いくらSNSが普及したからと言っても、こうして直接顔を見れないのはつらいよ」
男性の手がアムヤの頬に伸び、優しく撫でる。アムヤはその手の上から自分の手を重ねた。
「トオゴの声、聴いてて落ち着くから私もすっごく残念。でもまた会えるわ。だって家族じゃない」
寂しさをむりやり捩じ伏せ、気丈に微笑んでみせる健気な実妹の姿に、兄は自分も見習わなければと反省する。
「その家族は、今や世界中に散り散りになってしまっているけどね」
「ほんとね! 会う場所が毎回違う国だから大変よ。面白いからいいけど」
「そう言えば、いま弟はどこにいるんだい? オレが連絡しても繋がらないんだ。アムヤは知ってる?」
「知ってるけど、言えないのよ。ごめんなさい。『兄貴離れしたいから、兄貴から尋ねられても絶対に教えないでくれ』って念を押されてるの」
「なんだい、それ……。1年3ヶ月前まで中東にいたことは確かなんだ。お願いだアムヤ、せめてどの大陸かだけでも……この通り」
両手を合わせて拝む兄を見て、すっかり日本がホームベースになってしまってるんだなぁと痛感した。
こうしてヒンディー語で話していても、仕草は日本寄りなのだから驚いてしまう。
「渡航中止勧告が出たから、もう中東にはいないわ。南アメリカ大陸よ」
「今度は南アメリカか……。やれやれ」
「幸い言語学には不自由していないから無茶が可能なのよね。どこの国に行ってもしぶとく生きていけるもの」
「だからこそ心配なんだ」
分かるだろう? と優しい兄は目で訴える。兄離れしていない弟――アムヤにとってはそちらも兄だが――のことを棚に置いて、よく言ったものだ。
自分の方こそ弟離れ出来ていないではないか。最も、誰が相手であろうとトオゴは心を寄せて思い遣ることに長けているのだが。
「ところでアムヤ、今日はもうツキを手放してきたのかい?」
トオゴに尋ねられ、ハッと顔を上げたアムヤは、「失敗しちゃったのよ!」と今にも泣きそうな顔で報告した。
彼女のルーティンワークが崩れるなんて珍しいことで、トオゴとしては仰天のできごとである。
「どういうこと?」
「それがね」
カジノ場ではクールに振る舞っていたアムヤは一転、急にそわそわと落ち着かなくなってしまったように自分の二の腕を摩る。
「オリエンタルな風貌の美人な女性が近付いてきて、私に進言してきたの」
「進言って……アドバイス? なんでまた……」
「彼女、私がわざと負けているなんて思いもよらなかったんだわ。ことを荒立てて、印象に残りたくなかったから、アドバイスを受け入れるしかなくて」
「それで勝ってしまったのか……」
「あまり勝ちたくなかったから、ほんの少しプラスになった時点で早々に降りたわ。あぁどうしよう。もう一度負けてこなくっちゃ……」
「そうだね、その方がいい」
真剣な顔つきでトオゴは頷いた。このままでは大切な妹が悲運に見舞われてしまう。高確率で。
元々アムヤは運が強かった。どの国の、どの占い師も、『伊神アムヤは強運の星の下に産まれた』という占い結果を弾き出していた。
だが運はバランスだということを、インド人の血を引く彼女はよく理解していた。強運が凶運に化けることだって在り得るし、ふたつは紙一重でもある。
ツキを手放すためにわざとカジノで負けていた。その恒例儀式を、因香が関わってしまったことで、計画が狂ってしまった……。
「だからと言って、彼女を責めるのはお門違いだわ。だって、わざと負けようとする物好きなんて、世界中を見回したってそうそういないでしょうしね」
「そうだね。優しいこころの持ち主だったんだろうな」
「きっともう彼女もいないだろうから、もう一度サングラシアに寄って、今度こそ負けてくるわ」
「分かった。じゃあ早速ホテルまで送るよ」
「そんな、大丈夫よ。ホテルまでは目と鼻の先だし、それに……ほら、雨も上がったわ」
窓越しに外を見やれば、本日2度目のスコールはやんでいたようで、日が落ちた空には星が輝いていた。
「トオゴも香港に戻らなくちゃ。でしょ?」
カフェで過ごしてから一度も時計を見ていなかったことに気付き、自分の左腕を見やったトオゴは珍しく「うわ」と狼狽した。
「もうこんな時間だったのか……!」
「え? そこまで差し迫ってたの? 大丈夫?」
「走れば何とか……」
「行って、トオゴ! ここのお勘定は私がしておくから」
「ごめん、アムヤ。送ってあげられなくて」
「ううん。またね、トオゴ」
「うん、また。愛してる」
「私もよ」
来たときと同じように妹の両頬にキスを落とすと、トオゴは店から出て行った。そして外に出るなり、小走りで駅へと向かう。
見えなくなるかならないかギリギリのところで、トオゴが振り返った。さすがに手は振らず、挙げただけだったが、アムヤとしては気が気ではない。
「もう……っ。何してるのよ、早く行きなさいったら……!」
どこまでも優しい兄の姿が完全に見えなくなるまで、アムヤも右手を挙げ続けた。


[04]

ひとりマカオの夕暮れを楽しんでいた因香は、夕方のドリンクガールがどうなったのかが気になり、部屋には戻らずカジノ場へと足を運んだ。
出会った場所には別のドリンクガールがいた。そもそも名前を訊いていなかったので、特徴を伝えた上で、彼女がいまどこにいるのか尋ねてみる。
すると意外なことばが返ってきた。
「それならルーシーね。あの子なら、さっき病院へ行ったわ」
思い掛けない場所を告げられ、因香は自分のヒアリングが正しかったのかいまいち自信が持てず、相手の単語を鸚鵡返すしかなかった。
「"the hospital"?」
「クソ男に暴力を振るわれたのよ! 可哀想に顔を殴られて、よろめいちゃったの。その時受け身を取ろうとしたけど、失敗して手首を捻ったみたいで」
暴力、と聞いて因香の背筋がぞわりと冷えた。それはあれか、例の底辺ディーラーの仕業なのか。
「それって、底辺ディーラーにやられたの?」
「そう! フランクよ! あいつ、絶対に許せないわ。ルーシーに付き添ってあげたかったけど、私、学校代を払うためにお金を稼がなきゃいけなくて……」
唇を噛み締めるドリンクガールは目に涙を浮かべていた。許せないと憤りつつも、身動きが取れない己のことも同じように憎んでいるようで、やるせなくなる。
「自分を責めちゃ駄目よ。ね? 学費を稼いでるあなたは立派で偉いと思う。本当よ。それに友人想いだわ。大丈夫、ルーシーも分かってくれてるわよ」
因香の真摯な目に説得力を見出したのか、ドリンクガールは少し躊躇ったのちに、こくんと頷く。
「フランクがルーシーを追って行ったという可能性はどう? あるかしら?」
「ううん。それはないわ。だって支配人がルーシーを病院に連れて行ってくれたもの。フランクは支配人が苦手なの。一緒に行くはずないわ!」
因香は確信した。ピット・ボスと支配人は別だ。ピット・ボスと底辺ディーラーのフランクは懇意の関係にあるが、支配人はそうではないらしい。
ならばルーシーは安全だ。今のところは、という条件つきではあるが。
「そのフランクはどこへ行ったの?」
「分からないのよ。ルーシーを殴って、そのままどこかへ行ってしまったから」
途方に暮れた2人は「はぁ」と同じタイミングで溜息をつくしかなかった。
「よぉカレン」
常連客の男性が因香の横に割って話しかけてきた。
「あら、いらっしゃい」
「なぁ、ここへ来る時に女性をナンパしてる男がいたんだけどさぁ」
「あのね、申し訳ないんだけど、いま取り込んでるの」
「待って。えぇと、カレンさん? ちょっと待って。どうもその話引っ掛かるわ。その男、どこでナンパしてたの?」
ドリンクガールより先に、見知らぬ女性客から質問されるとは思ってもみなかったのだろう。一瞬気圧されたものの、すぐに方角を提示した。
「ホテル入り口を右に曲がって、2ブロック行ったとこだよ」
「近いわね」
「男の顔、どっかで見たことあるなぁと思ってたんだけど、いま思い出したよ。あれ、ブラックジャックのディーラーじゃないかな」
反射的に因香はドリンクガールのカレンと顔を見合わせる。間違いない、フランクだ。
「ありがと!」
因香は礼を言って身を翻すとカジノ場から姿を消した。カレンも追いたかったが、仕事を放棄するわけにはいかない。改めて情報提供者を見つめ返す。
「ありがとう、助かったわ」
「あのディーラーを探してたのか?」
「うん。そんなとこ」
カレンの口から、それ以上語られることはなかった。男性客は想い人が心ここにあらずだと気付くとスツールから下り、スロットマシンの方へと向かって行った。
「……ルーシーも、さっきの女性も、フランクに目を付けらてしまった女性も……どうか無事でありますように」
敬虔なカトリックの信者らしく素早く十字を切ると、強く女性たちの身の安全を願う。どうか神の加護があらんことを、と。


[05]

「くそったれ!」
吐き出された粗暴なことばと共に、フランクは足元に転がっていたアルミ缶を力強く蹴り飛ばした。それは放物線を描いてどこかへと飛んでいく。
見えなくなった缶が、さきほど自分の前から逃げて行ったドリンクガールの姿と重なり、さらに苛立ち度が増す。あの女め、返す返すも憎らしい。
今日は仕事が終わったら待ってろよ。そう前もって言い含めておいたのに、こそこそと帰る支度をしていた。
おいと声を掛けるとノー! と睨みつけてきた。あまつさえ逃げようとした。だから分からせてやったのだ。逆えばどうなるかを。
女運もツイてなければ、勝負運の方もからっきしだった。オリエント美女の客の所為で、フランクの今日の売り上げはマイナスになってしまった。
「むかつくぜ。ったく」
どこかで女でも引っ掛けるか。
フランクが下卑た笑みを浮かべながら周囲を見回すと、暗闇の中、足早に近付いて来る軽やかな靴の音とシルエットが視界に入った。
顔は見えないが、細身で、髪をふわふわとなびかせている。足さばきから察するに、若い女に違いない。
「よぉ、ミズ」
女の行く手を阻むように、フランクは自身の身体を滑り込ませた。突然の障害物の登場に、女性は驚いて足を止めた。
だがそれが間違いだった。本来なら、押しのけるようにすり抜けなければならなかったのだ。
隙を見せてしまった女性はフランクの格好の的になり果ててしまい、ただでさえ不快な距離感がさらに狭まってしまう。
「な、なんですか……?」
返ってきたのは英語だった。やったぜ、とフランクはほくそ笑む。自分好みの声だったからだ。さぞかし艶めいた感嘆の声を紡いでくれることだろう。
「一緒に酒でも飲まないか? いい店知ってんだ」
馴れ馴れしく肩を抱き、歩かせようとする。
けれども女の方は逆らうように抵抗した。『てこでも動くものですか』とばかりに地面から足を上げようとしない。そう、動いてしまったら負けなのだ。
ただでさえカッカしていたフランクは、思い通りにならない女の態度に今度こそ激昂した。腰に腕を回すと、ほら行くぞと力任せの行動に出たのだ。
恐怖で声を上げることも出来ない女性を助けようとする通行人もいなかった。
「トオゴ……トオゴぉ……」
落胆した女が未知の言葉を呟いていたが、トーゴという単語に心当たりがないフランクは耳も貸さなかった。
一番近いホテルはどこだろうと、キョロキョロするのに忙しかったせいでもある。


[07]

――ツキを手放さなかったせいだ。
アムヤは半ばパニックになりながらも己を責め続けていた。
(あの時、彼女のアドバイスを断っておけば良かったんだわ。さっさと運を捨てておけば、こんなことにはならなかった――)
後悔してもし切れない。悪い出来事は現在進行形で振りかかっている。問題は、その悪運がどこまで及ぶのか、だ。
最悪のケースはホテルに連れ込まれてしまうことだ。腕力では勝てない。それをいま、身をもって痛感中だ。
自分に残された危機脱出方法はただひとつ。まだ塞がれていない口だ。誰かに届けと祈りながら、アムヤは助けを呼んだ。
結果は無残なものだった。数ヶ国語を駆使して助けを呼んでいるのに誰からの反応もない。ひとけはあるはずなのに。
「ヘルプ! バチャーオー! ジィウ・ミン・ア! ソコーホ! オ・スクール! イムダート……!」
「黙って歩けよ」
「ナジュダ……。ヒルフェ……。ヘルプ……ヘルプ・ミー。バチャーオー……バチャーオ、トオゴぉ……」
(でも彼は行ってしまった。日本に。もう助けて貰えない。彼はもう、日本に……)
「助けて……助けて……」
日本語で呼び掛けても来ないことは分かっていた。それでもあの笑顔に逢いたい。あの声に救われるから、もう一度逢いたいのに。
「待ってて。いま助けるからね」
聴き間違いかと思った。日本語で助けを求めて、日本語がすぐに返ってくるはずがないのだ。
脳が勝手に翻訳してしまったに違いないと思い直し、それでも藁に縋るように声のした方を見る。するとこちらに近付いて来る影があった。
(トオゴ?)
ではない、とすぐに分かった。靴の音はハイヒールだ。相手は女性だった。
「ねぇ、その子を離してくんない?」
彼女は確かに日本語を話していたはず。それなのに、解放しろと告げた文章は英語だった。そうか、フランクに向けて言っているのかとアムヤは気付く。
「お前は? あぁ、さっきカジノにいた女か。俺はいま猛烈にむしゃくしゃしてるんだよ。こいつを離せだ? 何言ってやがる。寧ろお前も一緒に来い」
沸々と苛立っているのが分かり、アムヤはぞっとする。いけない、これ以上彼を刺激しては。
そんなアムヤの胸中など露知らず、相対する因香は「あ、そう」とだけ呟いた。対話不可の判断を下したように見える。
ツカツカと近寄る因香は、一体何を考えているのか。策でもあるのか。相手は自分より大分図体が大きいというのに。
とうとうゼロ距離まで詰め寄ってきてしまった。因香は相手を上目に見やる。
「お願いです。どうかその子を離してください」
「やだね。断る」
「……私、お願いはしたわよ」
はぁ、と吐息をつくと、やおら右膝を上げ、フランクの靴を踏みつけた。
声にならない悲鳴がフランクから漏れる。何をそんなにもんどり打っているのかと身を捩って見たアムヤは唖然とした。
因香の履いていた靴はハイヒールと言えども凶器のような類で、踏まれれば相当痛そうな鋭利系ピンヒールだった。
太い釘が刺さったのと同じではないだろうか。よくこんな高いヒールを履いて歩けるものだと感心すらしてしまう。
「今よ!」
アムヤの腕を掴んだ因香は引っ張られるがまま足を動かす。
最初の数歩こそ因香に引き摺られていたものの、思考を切り替え、体勢を立て直している数秒を経ると、自らの意志で逃走することができた。
「灯台もと暗し。ホテルに戻りましょう。事情を説明すれば、匿って貰えるわ」
アムヤがそう言うと、因香もその答えに達していたようで、2人はサングラシアまで全速力で走り切った。


[08]

とにかく時間との勝負だった。サングラシアのホテルに入るなり因香とアムヤはフロント係に事情を説明し、自分たちが被害者であることを訴えた。
ありがたいことに、事の重大さがフロント係に伝わったようで、すぐさまホテルの支配人を呼んでくれた。
ホテル側も、カジノ従業員であるフランクの話は耳にしたことがあったのだろう。その証拠に因香たちが疑われることはなく、丁寧な詫びが告げられた。
詫びよりも、2人が欲しいのは安寧だった。支配人は姉妹店での滞在を提案し、2人は承諾した。姉妹店まではホテルの車で送ってくれるという。
結局姉妹店に到着するまで1時間が慌ただしく過ぎてしまったが、その甲斐あってかフランクもここまでは来れまいと確信できる。
くたくたの体に活を入れ、2人はホテル内の天津料理店で食事をすることにした。
「まずはお疲れさま」
「お疲れさま……」
お互い労り合うも、その言葉に覇気はない。疲労感が勝り、食べ物も胃の調子を優遇する粥と養命酒を選ぶ始末だった。
それでも味の方は抜群で、ぺろりと平らげてしまったが。
「不思議だわ。どうしてあなたがあそこに現れたのか」
アムヤは店員に我儘を言って淹れて貰った白湯を飲みながら因香に尋ねる。
「それはさっきホテルの支配人にも説明したじゃない。カジノのドリンクガールと話してる最中に、あの男の情報を掴んだからで……」
ノー、とはっきり遮る声には、少しばかり苛立ちが含まれているように思えた。
どうもアムヤは機嫌が悪いようだ。仕方ないか、と因香は思う。あれだけ散々な目に遭えば、気持ちが腐るのも頷けるというものだ。
「それは『流れ』でしょう。私が知りたいのは、『あなたが私を助けた理由』」
「あー……そこ」
つまり、こういうことか? 因香にとってアムヤは赤の他人だ。カジノ場で一度アドバイスをしたが、ただそれだけの関係である。
それなのに、自分の危険を顧みず、なぜ大男と対峙するに至ったのか――。そこを聞きたいのだろう。
「あなたが『助けて』って言ったから」
「……そうね」
言った。確かに言った。英語に始まりヒンドゥー語、フランス語、ドイツ語、……記憶が定かではないがトルコ語でも口走った気がする。
「あの時、あなたが日本語で『助けて』って言うものだから、心底驚いちゃった。日本語が話せるのね」
「日本に住んでこともあったから」
「へぇ。マルチリンガルなのね。凄い、初めて会ったわ。……あ、そうでもないか。日本にもいたっけ。でも彼の場合はトリリンガルだったのかな」
「あなたは日本人なの?」
アムヤからの質問に、因香はギョッと目を大きく見開いた。
「どっからどう見ても日本人の顔立ち、立ち居振る舞いでしょ? 見て分かんない? めっちゃ大和撫子じゃない!?」
本気で訴える因香の迫力に、アムヤは一拍置いて「ふふっ」と笑う。心の底から面白かった。
「大和撫子って、しおらしくて、はにかみ屋さんみたいな女性を言うんじゃなかったかしら? どう見てもあなたはグラディエーターだったわ」
「グラディエーターって……! せめてララ・クロフトとかさぁ……」
「ごめんごめん。何もラッセル・クロウ張りだって言ってるわけじゃないのよ。戦士のようだったと言いたかっただけで」
ちゃんとアンジーっぽかったわ、とフォローを入れてから、アムヤは続ける。
「オリエンタルな雰囲気を纏っていたし、正直に言うと日本人だとは思わなかったわ」
「それは良く言われる」
うん、と深く頷く因香である。
「ほんと言うとね、私、カジノ場でわざと負けていたのよ」
アムヤの告白に驚いた因香は、案の定何故かと問い掛けてきた。
「ツキを手放すための儀式だったの」
そう聞いても、いまいちピンとこない。ツキを手放したら勿体無いじゃないか、というのが因香の率直な感想だったからだ。
「陰と陽、とでも言えば分かりやすいかしら」
「あー、なんとなく分かるかも。要はあれでしょ。何事もバランスってやつ」
「正解。私は運が強過ぎるの。昔から、善いことだけが立て続けに起こるラッキーガールだった。でもそんなの不公平じゃない?」
「自分だけ無尽蔵に幸せが訪れるのは他の人からしたら申し訳ないことだ、って? だからわざとギャンブルで負けて悪い出来事を被ってた?」
「そう」
「でもそれってさ……。前提が違う気がする」
「前提が……違う?」
「自分からわざわざ不幸を取りに行くって、『遠慮しい』だなって思う」
「え……」
ズバズバと切り込む物の言い方に、アムヤは戸惑いを覚えた。ここまで本音で感想を述べられたのは初めてのことで、理解が追い付かない。
「善いことだけが起こる? いやいや、そんなわけないから。そこは個人の解釈の問題だよ。あなたがそう思い込んでるだけ」
「……」
「例えばあなたに悪いことが起きたとする。でもあなたの場合、そこから何かを得ようとしてるんじゃない? だから結果的に損した気分にならない」
「損した気分にならない?」
「うん。不運な出来事だったはずなのに、『良い経験をさせて貰った』とか『今後の為に活かそう』とか、最終的にそうやって前向きになってない?」
「あ……」
思い至る節があったのか、アムヤは口元に手を当てた。
「何かを学んだら、ひとって『勉強になったわー』とか思うわけよ。つまり成長よね。それをあなたは難なく繰り返してきた。それが『幸運スパイラル』」
「つまり私の強運の正体は……私の捉え方によるものだと言いたいのね?」
「そう。本人は一切気付いていないポジティブシンキングが、あなたの幸運体質の正体!」
「……」
「だからー、私が言いたいのはね? わざとギャンブルで負けなくてもいいってこと! 自ら不運を引き寄せに行かなくてもいいんだってことよ」
アムヤの鼻をちょんと人差し指でつついてウインクを寄越す因香だったが、アムヤとしてはそんな軽いジェスチャーを受け止められないのが現状だ。
「……私の負けギャンブルは無駄な行為だった?」
「いや、無駄にしてたのは行為っていうよりお金じゃない?」
「……そうね。お金……えぇ、そうね。無駄にしてたわね……」
湯呑みを煽るが、とっくに中身は空っぽだった。アムヤは早鐘のように脈打つ鼓動を静めようと深呼吸を何度も繰り返す。
「……ごめんなさい。あなたの言葉が衝撃的で……。でも、そうかもしれない。この世は陰陽で出来ているのだと思ってきたけど……」
「あ、すみませーん。チャイナドレスのおねーさーん、白湯をもう一杯くださーい」
「陽に溢れてても……陰を避けて通っても良かったの……?」
「あと、杏露酒くださーい。……ん? うん、そうそう、そんな感じ」
一瞬『ひとの話を聞いていないだろう』とも思ったが、よくよく考えれば白湯はアムヤの為に注文してくれたのだ。随分と世話焼きではないか。
「……前言撤回するわ。あなたは正真正銘、大和撫子だと思う」
「え? 急にどうしたの」
「別に。とにかく、新しい物の見方というか、物は考えようだなということを、あなたから教わったわ。ありがとう」
「それそれ。早速幸運スパイラル実演中。ギャンブルに負けてツキを手放せなかったーって悔しがってた割に、最後にはこうやって気付きを得ちゃってる」
「……参ったわ。降参よ。本当ね」
「もう二度とギャンブルで負けようとしないでよ? あと、自分から不幸になりに行くのも禁止だからね!」
「はいはい、分かりました」
肩を竦めて頷くと、丁度店員が白湯と杏露酒を持って来てくれた。2人は全く異なるコップ同士を合わせる。
「2人の出逢いに」
「乾杯」
かちん、と澄んだ音が鳴り響いた。


[09]

翌日、ふかふかの高級ベッドで目覚めた因香は、ベッドを椅子代わりにして腰掛けると大きな溜息を吐いた。
「しまった……」
不覚も不覚だった。『2人の出逢いに乾杯』までしたというのに、相手の名前や国籍を一切聞いていないことに気付いたのだ。
加えて自分も名乗らなかった。
世界は広い。二度と彼女と会うことはないだろう。だからこそ、聞いておかなかったことが悔やまれて仕方ない。
どの部屋を取ったかは知っている。だが因香は思うのだ。きっと彼女は既にチェックアウトした後だろうと。
例えいっとき意気投合したとしても、彼女からは風来坊のような気質を感じた。彼女は渡り鳥に似ている。世界中を渡り行く探求者だ。
「せめて名前だけでも聞いておけばよかった……」
そうすれば、彼女が幻だったかもしれないなんて思わなくて済むのに。
因香は部屋を見渡した。
昨日の出来事が本当にあったのだと証明できるものは、宛がわれたこの部屋――サングラシア姉妹店である、このスイートルームにいることだけだった。
決して忘れないように、因香は机上に置かれたホテルの刻印入り絵葉書を1枚だけ失敬すると、自分の手帳に挟み込んだ。
これがあれば、彼女を忘れることはないだろう。そうだ、決して忘れない。
そう思ったら、元気が出てきた。因香の口元が自然と弧を描く。
「……さーて! シャワーでも浴びますか!」
ぐんと腕を天上に向かって伸ばし、因香は浴室へと向かった。


[10]

惹かれなかったと言えば嘘になる。
誰に? 助けて貰った恩人にだ。
アムヤは明けて間もない時間から既にマカオを出国していた。向かうはインド、ニューデリー。
アムヤにしてみれば大きな――本当に大きな、転換点とも言える出来事に遭遇した。自分の根本を見直さなければならない事象に。
たった数分でマカオが完全に見えなくなる。それは少し寂しいような気もした。
(不思議だわ。今までは、次に行く国に想いを馳せてわくわくしていたのに……。今回だけは、後ろ髪を引かれてる)
それは彼女の存在が影響しているのだろうか。
(彼女、日本人だって言ってた。日本……日本か)
かつて住んでいた故郷。そして何の因果か、愛する兄が向かった国。
(私が向かう先は、本当にインドで良いの?)
たった1日で、日本に行きたい欲が生じてしまった。
いま南アメリカにいる、もうひとりの兄のように、自分も軽やかに行き先を決められたなら……。
(私がインドでしたいことって……?)
このまま戻ったところで特にない気がする。未来が見い出せない。渡航前と同じ毎日がまた始まり、繰り返されるだけだ。
(『言語学とパッションがあればどうにでもなる』が兄の持論だった。そうよね、そうかもしれない)
よく考えよう。幸いにもフライト時間は12時間。時間だけはたっぷりあるのだから。
そうは思いつつも、熟考よりも勘の方が、時には正しい判断が下せることを、アムヤはよく知っていた。


2019.10.05


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