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G3 (―) 【Sunny Tower!】
日常編 (―) 【Sunny Tower!】
時針が11を、分針が30を示したのを自らの腕時計で確認した柾は、顔をすいと上げた。
眼前では部下であるコスメ&ビューティ部門のメンバーたちが、スタッフミーティングが始まるのを待っていた。
前もって告知してあった時刻を迎えた。遅刻は認めない。柾は一番左に立つ者から順に、人数を数えていった。
「一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)」
「1人足りませんね」
ネオナゴヤ店における柾の懐刀、三原江が、赤縁眼鏡のフレームをくい、と上げながら眉根を寄せる。
「……ま、抜けた穴の正体は一目瞭然だがな。あいつには後で罰則を与えておく」
そんな台詞を捨て置いてから、柾は「ミーティングを始める!」と宣言し、全員に向き直る。
「制汗剤の売り上げが伸びて来ている。先月比102.4%。『コトポップ』次第で更に売り上げが見込めそうだ。今日明日中に着手するように。
次、薬局関連。『スイッチOTC薬』新規入荷に伴い、在庫を気にしておくように。今年は昨年の異常気象によって、虫関連の……」
「わあああん、柾さあああん」
突然、粛々と進行していたミーティングをぶち壊す、なんとも間の抜けた声がバックヤードに木霊した。
まるで子供がべそをかくような、思わず脱力を誘う大人のそれ。
「どうしたー由利ちゃん」
『由利』こそスタッフミーティングに遅刻した不届き者であり、後で柾によってお灸を据えられる事が決定している人物である。
可愛らしい名前だが、『由利』というのは先祖代々、脈々と受け継がれてきた苗字であり、由利主税(ゆりちから)は、歴とした男だった。
由利は言う。
「お客様から『陽だまりの匂いとはどんな感じなのか』と尋ねられた由利は、上手く答える事が出来ませんでしたあああ」
嘆きと共に、塔を模したオレンジの瓶が柾に差し出される。『Sunny Tower』とラベルに記載されているそれは、発売して間もない新作の香水だった。
「由利主税、一生の不覚。つーか知るかよ陽だまりの匂いなんてさ。『それでも社員なの?』って、何で僕が馬鹿にされないといけないのさ。
大体僕はコスメ担当の社員じゃなく、薬局勤務の薬剤師だし! 畑が違うんだよー。この白衣が見えないっての?」
「売り場が近いから、その手の質問が多いのは分かるが――」
ユナイソン規則。“尋ねられた質問には懇切丁寧に笑顔にて対応すべし”。
だが由利の言う通り、陽だまりの匂いを言葉にするのはなかなか難しい。
「テスターはなかったのか?」
「そんなのなかったよー。あれば速攻渡したってー。メーカーもさ、箱に『陽だまりの匂い』なんて書くなよなー。表現が曖昧なんだよ全く」
やれやれ、これではミーティングどころではないな。
柾は逡巡したのち、解散を告げ、社員達を持ち場へ帰らせた。
「由利、他にも曖昧な表記の香水はなかったか?」
「5種類ぐらいあったかな。柾さん、できれば全部テスター作ってよ。僕もうあんな思いするのイヤだよ」
由利は口こそ悪いものの、医学知識が豊富なので、自分を頼ってくれる患者の質問には『須く正当に答えるべし』をモットーにしている。
そんな由利だからこそ、答えに窮するなど以ての外。主義に反するのだ。
かくして同僚のSOSを聞き届けた柾の次の仕事が決まった。午後は香水のテスター作りに取り掛かる。
調べた結果、テスターのない香水は10種類にも満たなかったが、中には匂いが断たれてしまったものもあったため、1から作り直すことにした。
部下と手分けしてコットンに香水を滲み込ませていく。テスターが完成するたびに、由利は満足そうに頷くのだった。
「『月の雫』。……そうかなぁ? まぁでも、そう言い切られちゃ仕方ないか。『星舞(ほしまい)』。……うへ、あんまり好きじゃないな」
「由利、手が空いてるならテスターを並べて来てくれ」
「はいはーい。……おっと」
時刻は15時過ぎ。店内には小学生低学年の子供を連れた主婦の姿がちらほら目立ち始めていた。
由利にぶつかったのは正にその小学生の1人で、後ろ歩きだった所を由利に気付かず(由利自身も視界に入っていなかった)つんのめってしまったようだ。
「大丈夫かい?」
少し目を丸くした由利は、2~3年生ぐらいの男子児童に尋ねる。
「あ……ごめんなさい」
男子はバツの悪そうな顔をし、隣りにいた母親も「何やってるの、だから危ないって言ったでしょ」と子供に叱りつつ、由利に頭を下げた。
客とのトラブルには発展しなかったが、子供とぶつかった拍子に、由利の肘が柾の腕に当たったらしく、香水の瓶が手元を離れ、床に転げ落ちてしまった。
テスター作りの最中だった為、蓋をしていなかったそれは、とっくとっくと小さな音を立てながら床に池を作っていく……。
「わー! ごめんよ柾さん!」
「いや、こんなのは別に、拭けばいいだけのことで……」
気を利かせた三原が雑巾で床を拭き始めるが、不幸とは重なるもので、7センチのヒールがつるんと滑った。
三原は尻餅をつき、その足が作業台にぶつかる。可動式の作業台は呆気なく揺れ、上に乗っていた香水が1つ、また1つと落下した。
それは三原同様、床を拭き始めていた柾の背中に降り注ぐ。
「あーあ……」
痛ましいものを見るかのように、由利の顔が歪む。
今度は柾の背中の上で香水が混じり合い、ぽたぽたと雫を垂らして行った。
2つの香水を浴びてしまった柾は、仕事にならないので早退届を提出した。
一時帰宅が望ましかったが、浴びた量は半端ない。例え風呂に入ったとしても、そう易々と匂いは落ちてなどくれないだろう。
夕方4時。社宅マンションには人気がない。
いつもの癖でエレベータの▲を押したが、今の状態で狭い箱になど入ろうものなら、匂いが染み付いてしまい、迷惑千万だと気付く。
仕方なく階段を利用しようとした時だった。エレベータが1階に到着したらしく、中から麻生が出て来た。そう言えば、今日は休みだったか……。
「柾。お前、今日は遅番だったよな? 何やってンだ?」
最悪なタイミングに、思わず溜息が出てしまう。
「うわ、くさっ!」
案の定、近付いた麻生に嫌な顔をされてしまった。
「なんなんだこれ? 何やらかしたんだよ、お前!」
腕で鼻全体を覆う麻生に、柾は「仕事中に香水の瓶が割れた」と短く説明する。
「金木犀テイストの『女神の微笑み』と、鈴蘭テイストの『堕天使の温情』だそうだ」
「どんな綺麗な言葉を並べたって、ヘドロと一緒だ」
割れた3本の香水。被害総額は15,120円。それなのに、言うに事欠いてヘドロとは。
「どんな語彙も、お前には形無しだな、麻生」
聞いたか? ヘドロだとさ。明日の朝になっても匂いが落ちてなかったら、由利のヤツ、覚えてろよ。
「ミーティングに遅れた罰と併せて、とっちめてやる」
2011.04.22
2020.02.20 改稿
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