03月22日 ■ 麻生環


03月22日 ■ 麻生環



出勤時刻が近付き、忘れ物はないだろうかと手荷物を確認する。
戸締りにも注意して、最終確認のために玄関のドアに鍵をかけていると「お兄ちゃん」と呼ばれた。
「おっはー。誕生日おめっとー。遠路遥々ケーキのデリバリー」
デニムのダメージジーンズに、プーマのスポーティーな運動靴。
色違いのタンクトップを重ね着し、その上からフード付きのパーカーを着た妹が近付いて来る。
背中にこれまたスポーティーなバッグパックを背負い、両手に大きな紙袋。その中にケーキが入っているのだろう。
がさつな性格に似合わず邑は料理が得意で、お菓子作りは小学生の頃からハマっていた。
以来、イベントごとに欠かさず手作りのスイーツを作っては、こうして届けてくれる。
「おー、やった! わざわざありがとな」
「今回はそれだけのためだけじゃなくて」
と言って、俺に手渡した方とは別の箱を指し示した。それは? と尋ねれば、歴ちゃんにね、と返って来た。
「お兄ちゃんにはアップルパイと野菜たっぷりのスフレね。歴ちゃんには桃のケーキを作ったんだ」
「さんきゅ」
せっかくのケーキが痛まないよう、早々に冷蔵庫へ入れておかねばなるまい。
「俺、今から仕事なんだが。ち……」
ちぃ、と言い掛けた言葉が止まる。そう呼んでいることが急に気恥かしくなった。妹には知られたくない。
「千早さんはどうだったかな。仕事かもしれないし、休みかもしれない」
「あ、サプライズで作ったから、歴ちゃんには何の連絡もしてないんだ。
歴ちゃんのケーキ、預かっててよ。でもナマモノだから今日中に渡してね。今から名古屋で友達と落ち合って遊ぶ予定でさ。もう行くね」
「お前さ、俺が仕事終わってから予定入れてたらどうするつもりだったんだ?」
「どうせ予定なんてないんでしょ? あったらシフト自体、休みにしてただろうし」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる邑に、俺はどう切り返すべきか考えていると、じゃあね~と言って回れ右。駆け足で去って行った。
全く、逃げ足の速いやつ。


*

ちぃと職場で会えればよかったんだが、今日はPOSルームに用事もなかったし、店内を移動しても彼女の姿を見ることはなかった。
だが事務所に設置されている回転板は出勤になっていたので、間違いなく出社しているのだろう。
持ち場所である家電売り場のレジに立っていると、潮透子嬢が前を横切った。すかさず俺は「潮さん」と呼び止める。
反射的に「はい?」と答えた彼女は俺を見て、仕事を頼まれると思ったのだろう、制服のスカートポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「あぁ、悪い。仕事の依頼じゃないんだ。今日の千早さんのシフトはどうなってる?」
「千早さんは早番ですよ。今日は16時半上がり」
「そう。ありがとう」
「いえ。失礼します」
目礼をして再び歩き出した潮さんを見送り、腕時計に視線を落とす。時刻は15時半。上手い具合に接触を計れればいいのだが。


*

結論から言うと、ちぃとは会えなかったし連絡も取れなかった。
家電製品について尋ねられ、客対応をしている内に時間はあっという間に過ぎていった。
結局俺の業務が終わったのが19時で、この時間からケーキを持参したところで果たして受け取って貰えるだろうか。
一抹の不安を抱え、急いで帰宅する。ちぃ用の箱を冷蔵庫から取り出すと、彼女の部屋へと向かった。
ドアチャイムを鳴らす。ややしてから、ちぃがドアを開けた。
ロングワンピースの上に、長袖のニットを羽織っている。珍しいことに、長い髪を左右で分けるような、両結びの束ね方だ。
「麻生さん?」
「アポなし突撃、すまんね。今朝邑が来てさ。ちぃの分のケーキを作ったからって。これなんだけど」
「えっ、私に?」
「どうもホールらしくてさ。食べ切れなさそうなら誰かと分けた方がいいかもな。でもナマモノだから早めに」
「明日、兄にもお裾分けします。丁度明日来る予定になってるんです」
「そりゃ丁度いいや。そういうきっかけって大切だよな。そうじゃないと疎遠になりがちだからな。俺たちみたいに」
俺としては、何気なしに言った言葉だった。だからちぃが豆鉄砲を食らったような顔になったのが解せなかった。
まるで理解不能のような、戸惑っているような表情だ。困惑した顔を俺に向け、
「どういう意味ですか? 仲が悪い? でも、仲いいですよね……?」
「よくないって。今も絶交状態だぜ?」
「ぜ……。……え?」
「……?」
話が噛み合わなくて、俺達2人は眉根を寄せる。やがて1つの結論に辿り着いた。あぁそっか。
「……悪い。言ってなかったかも。うち、兄がいるんだ」
その言葉の意味を咀嚼しているらしい。ちぃはマジマジと俺を見つめると、
「え……えぇー!?」
彼女らしからぬ大声で叫び、慌てて口を両手で押さえた。そしてきょろきょろと渡り廊下の反応を窺う。
「ごっ、ごめんなさい。夜なのに騒いだりして。……あの、立ち話もなんですから……」
そう言って、ちぃは身体の位置を僅かにずらした。
「もしお時間があるなら、上がって下さい。部屋、汚いですけど……」


*

社宅なんだから間取りは全く一緒なのだが、インテリアは丸っきり違った。
俺とは到底似付くわけもなく、ましてや妹の邑とも遠くかけ離れた、いわゆる『女性』の部屋だった。
白を基調にした、淡いブルーとピンクが混じる部屋。所々にさり気ないレースが施してある物を選ぶ趣味らしい。
ちぃの部屋に上がるのはこれで4度目になるが、付き添いもなく1人で入ったのはこれが初めて。
ある程度家具の位置は把握しているので、ベッドの方向は視界に入れないようにした。
……いや、別に俺はそんなやましい目的で来たわけじゃなくて、そもそもこうなる展開すら予想にしていなくてだな……。
「麻生さん」
「! あぁ、何?」
「どこでもお好きなところに座ってくれて構いませんから」
リビングに2人掛けのソファーがある。テーブルを隔てた正面にはテレビが置いてあって、まぁ普通はそこに座るだろうな。
そこに腰を落ち着けると、ぽつんと置いてあった、リボンが縫い込んであるクッションを抱きかかえた。意外に心地いい。
「夕食はもうお済みですか、麻生さん」
「いや、19時に終わって速攻でここに来た」
「じゃあ、まだなんですね。あの……えっと」
「どした?」
「……今から食事を摂ろうと思ってたところで……。私の手料理なんかでよければ、その……食べて行かれます?」
おいおいおいおい、なんなんだ、この展開は?
お宅訪問がお部屋訪問で夕飯一緒にだと? このままだとお風呂まで一緒になんて展開に……なるわけねーだろ。俺の馬鹿野郎。
「あー……、すっげ嬉しいんだけどさ、図々しくも食べたりして大丈夫か?」
「大丈夫です。さっきも言いましたけど、明日兄が来る予定だから多めにお米を炊いたんです。
寧ろ今日平らげて貰えた方が、兄としては炊き直した新鮮なお米にありつける分、幸せかも」
そう言って、くすっと笑う。
「ちなみに今日は洋風です。おろしハンバーグに、ポトフ、サラダ……。
私はこれでお腹がいっぱいになってしまうんですけど、麻生さんはもう1品2品欲しいですよね?」
「いや、問題ないよ。それどころかバランスの取れた料理にあり付けて嬉しいぜ。あぁ、そう言えば部屋に邑の手土産もあるしな」
「そうでした。私もすっかり忘れちゃって。……わぁ、美味しそうな桃のタルト!」
箱を開けたちぃは、うっとりした目でタルトを取り出した。
「でも、その前にまずは夕食ですよね」
てきぱきと準備をこなし、リビングのテーブルの上いっぱいに2人分の食器が並んだ。
ちぃは2人掛けのソファーには座らず、俺とL字になるような位置で正座した。
俺も何となくその方がいいような気がして、ソファーから立ち上がり、カーペットの上で胡坐をかいた。
「麻生さん?」
「いや、俺だけソファーって何か申し訳なくて」
「お客様ですもの。気にしないで下さい」
「でもいいんだ。こっちのが慣れてるし。おぉ、すげぇ。どれも美味そうだ」
「はい、召し上がれ」
照れ臭そうに笑うちぃ。 
「いただきます」
真っ先に食欲をくすぐるハンバーグを頬張る。大根おろしと肉汁が絶妙で病み付きになりそうだった。
「デミグラスも好きだけど、おろしも最高だな。ちぃ天才」
「そんな……」
はにかむちぃを余所に、俺の箸は止まることを知らず、あれもこれもと平らげてしまった。
「やっぱり男性は食べ終わるのが早いですね。兄も早くて」
片付けをしながら、ちぃはしみじみと言った。
「そう言えば……。さっきのお話」
「あぁ、それを言わないと、部屋に上げた貰っただけでなく、食事までご馳走になっちまった意味がなくなっちまうな」
ちぃはコーヒーと桃のタルトを切り分けた皿をテーブルの上に置いてくれた。
「さんきゅ。んーと、どこから話すべきかな……。それじゃあ、思い付いたままな」
「はい」
「俺は次男なんだ。兄貴がいる。と言っても兄貴は既婚者だから、戸籍は抜いてるんだ」
「何もかも初耳です……」
「まぁなぁ……」
敢えて話題にしなかった。それは成り行きの結果でもあるのだが、こうして打ち明けることもまた、成り行きなのだろう。


*

「麻生摂(セツ)。俺の4個上で、融通の利かない長男坊だ。
成績優秀で、俺はよく「環もお兄ちゃんを見習いなさい」って口を酸っぱくして言われたもんだ。
今は美容師をしてて、雑誌が言うには『時代のカリスマ』なんだと。笑っちまうよな」
「そんなに腕のよい方なんですか?」
「さぁねぇ……。俺に言わせれば、腕のいい美容師より、経営のプロ、いや……鬼だな」
「鬼?」
「こんなエピソードがあるんだ。うちが床屋を営んでるのは知ってるよな?」
「はい」
「跡取り息子の長男がうちの店を継ぐ・継がないって話が当然昔からあってさ。兄貴も当初、独立なんて考えてなかった。
とにかくまずは自分の腕を磨くのが先で、敢えてそういう問題を考えないようにしてたのもあったと思う。
ある時親父が入院することになって、両親共々休業せざるを得なくなった。
代わりに店で本格的に修行を積むようになった床屋歴3年の兄貴が店を開けたんだ。
床屋だからさ、来るのは馴染み客ばかりだろ? 兄貴が普通に振る舞っていれば、それで済むはずだった」
「何があったんです?」
「兄貴は客単価が高くなるよう、巧妙な手口で運営するようになった。頭皮ケアも必要ですなんて、言葉巧みにその気にさせて。
それは親とは正反対の営業だからさ、次第に馴染み客は離れていく。
客層がずれていったんだ。両親が復帰した頃には若い子たちの名前で予約リストが埋まってた。
両親はカンカン。そんなに自分の経営がしたいなら自分の店を持てと言って兄貴を勘当したんだ。
俺は美容師になろうとは思ってなかったから、目の前で起こってた変化もスルーしてて……親に負い目と罪悪感があってさ。
様変わりしちまった店を見て、両親は打ちひしがれてさ。そんな姿を見たら兄貴が許せなくなった」
「お兄さんはよかれと思ってた部分もあるんじゃないですか?」
「まぁそうなんだろうな。兄貴は兄貴なりに家のことを考えてたんだと思う。
『美容室の数は、全国に存在する信号機の数より多く、毎日5件は潰れる激戦職。
両親のように甘っちょろいオモテナシでは火の車になって当然だ。俺は違う。客単価アップを図っている』って。
両親と兄貴とでは、ただ目指すものが違ったんだ」
「それで、お兄さんは……?」
「今では何店舗か構える経営者。最近ではエステ業界にも進出したって噂だ。ま、元気にやってんだろ」
「そうだったんですか……」
「兄貴ってのは、先へ行く生き物だよな。追い付いたと思っても追い越せない。常に先を行きやがる。陰でこそこそ何してるんだか」
「本当にそうですよね……。分かります、私も。いつかまた一緒に笑える日が来るといいですね。ご自慢のお兄さん、なんでしょう?」
「ははっ。ちぃにはお見通しか。確かに俺には出来過ぎた兄貴で、でも自慢の兄貴だったよ。何回か連絡も取ろうとしたしな。勇気出なくて頓挫したけど」
「焦らなくても大丈夫です。絶対に。いつか時が解決してくれます」
「……最近は、見かねた邑が、俺と兄貴の仲を取り持とうと必死なんだ。と言うより家族愛に目覚めたっつーか。
今日もこうしてわざわざ誕生日に託けて名古屋まで来てくれたし。あいつも結構寂しがりなところがあるから、こういう機会を利用して……」
「誕生日?」
「え? あ、いや……」
「誕生日って仰いましたよね? 麻生さんのお誕生日なんですか?」
「いや、だからその……」
「麻生さん!」
「……実は」
「そんな! どうして仰って下さらなかったんです!? 私ったら、こんな御持て成ししか出来なくて……」
「いや、十分だから。十分過ぎるくらい十分だから」
ちぃには頑固な部分もある。こっちが折れるまで押し切ってしまう、意外な一面が備わっているのだ。
始めは面食らったもんだが、付き合いも長くなると、次第に『ここで折れておくべきなんだろうな』というタイミングも分かるようになってきた。
「ほんと、美味かったよ。女性の手料理って最高だな」
「麻生さん……」
「さてと、そろそろ帰るわ。長居しても申し訳ないしな。何せ社宅だし。あらぬ噂を立てられたら、マジであんたが不憫だ」
「私は……」
「こら。間違っても『構わない』なんて言うなよ? 帰宅する気でいる男を引き留めたりしたら、痛い目見るぞ」
「……」
「じゃあな。ご馳走様。近年にない、最高の誕生日だったよ」
腰を上げ、玄関へ移動する。するとちぃは俺を押しのけるように靴を履いて、玄関からひょっこり外の気配を窺った。
「……今なら誰もいません」
「さんきゅ」
ちぃの頭をぽんぽんと叩き、渡り廊下へ出た。
「お休み」
「お休みなさい。邑さんに、ご馳走様でしたって伝えて貰えますか?」
「あぁ、伝えとく」
「あと、」
「ん?」
「誕生日、おめでとうございます。麻生さん」
「……。さんきゅ」
もうここで帰らなければ。
去らなければ、いつまで経ってもここから動けなくなるような気がした。
1歩2歩と歩いて、5歩6歩と歩みを強める。
曲がり角で振り返ると、ちぃはドアの前にまだ立っていて、笑いながら手を振った。俺も手を挙げる。
角を曲がり、俺の姿が見えなくなったのを目途に、ドアを閉める音がした。
「参ったな……。ちぃに言った言葉、全部が全部本音だわ……」
俺も随分素直になったもんだ。こんなに自分を曝け出したのは、随分久しい気がする。
それがいいことなのか悪いことなのか分からない。思い返せば恥ずかしいことも口走ったと思う。だが、不思議と悪い気はしなかった。
スマホを取り出す。邑にケーキの御礼メールを送り、次に兄貴の携帯番号を表示させた。
今まで何度もかけるのを躊躇い、結局はやめた。
でも今日は指が通話ボタンを押していた。コール音を3回4回と重ね、電話口に兄貴が出た。
「……環か?」
訝しげな声。そして懐かしい声。何も変わっていない。兄貴の声がした。
「そう、俺」
やべぇ。この先何も考えてなかった。何を話すだとか、そんなの、ちっとも。
――『大丈夫です。絶対に』
ちぃの言葉が蘇る。
大丈夫。だって相手は兄貴だから。
「元気か、兄貴?」
「あぁ、元気だが……。お前はどうなんだ?」
「俺? 俺も元気だよ」


2012.05.12
2020.02.22 改稿


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