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20話 【惑い出づ】
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20話 (歴) 【惑い出づ】―マドイイズ―
三段ケースの下段、未処理と書かれた引き出しを開けて書類を取り出した。入力内容を確認しながらPC画面を切り替える。
(これは来月の月間奉仕品リストね。完成させるには20分……ううん、30分は必要かしら)
腕時計をちらりと見、ちょうど昼休憩前には終われそうだと予想をつける。
「千早さん!」
「き、やぁっあっ!?」
首元にヒヤリとしたものが押し付けられ、思わず素っ頓狂な声をあげながら反射的に椅子から飛び上がった。
振り返ると、そこには(株)日の出まほろば飲料の男性営業マン、サプライズ好きの世良さんが立っていた。
悪いひとではないのだけど、いつも心臓によくない登場の仕方をしては、こうして私を驚かせる。
「せ、世良さん……」
困惑顔の私に、世良さんはふふっと笑った。
「驚かせてしまってすみません。差し入れです」
そう言って目の前に突き出されたのは、初めて目にするボルドー色パッケージのペットボトル飲料だった。
「来月うちから出る新製品です。当社でも評判がよいのですが、千早さんの意見も伺いたくて」
「ありがとうございます。一緒に飲みましょう、世良さん。綺麗な色ですね」
「ロゼです。微炭酸ですけど、あ、炭酸は大丈夫でしたか?」
「平気です。美味しそうですね。いまコップ出しますから」
机の引き出しを開ける。そこには試飲用の透明プラスチックコップが入っていたりするのだった。
その他にもお菓子やらハンドクリームなどが保管されており、この引き出しにあるものは全て試供品シールが貼られていた。
「わ、見たことがない商品ばかりだ。すごい種類ですね」
「ありがたいことに、営業の方から頂く機会が多くて」
入力という仕事柄、試供品ですからどうぞ、と声を掛けてくださる方も多く、ご厚意に甘えさせてもらっている。
コップを二つ取り出すと、世良さんがロゼジュースを注いでくれた。独特な赤色をしたそれは、照明の光を受けて反射する。
「では、千早さんに乾杯」
「乾杯! って、私の何に対してですか?」
「ははは。細かいことは気にしないでください。んー、やっぱり冷やしておいて正解でしたね」
「これ、美味しいです。きっと売れますよ。入荷したら買いますね」
「ありがとうございます! さてと。今からドライのチーフと商談ですので、そろそろ行きますね」
「はい。ごちそうさまでした」
残りは千早さんが飲んでくださいというので、ありがたくいただくことにした。
世良さんを見送ってから椅子に座りなおすと、入れ替わりに日本いろは本舗の仙道さんが顔を覗かせた。
「千早さん、ほい!」
放物線を描いて私の手の平に落ちてきたのは、これまた見たことのないパッケージの飴玉1つ。
「俺の会社から新製品出たんだ。それ、あげるよ」
渡すものだけ渡し、言うことだけ言うと、仙道さんは引き留める隙すら与えずそのまま行ってしまう。
(お礼を言いそびれてしまったわ。今度見掛けたら、忘れないように言わなくちゃ)
私はその飴を、パソコンのすぐ横に置いてある透明な瓶の中に入れた。
(飴がだいぶ溜まって、今にも溢れそう。……っていけない、仕事しなくちゃ。えぇと、どこまで入力したかしら?)
「ちぃ」
ドアの方から声を掛けられ、キーボードの手を止めた。
ちぃって私のことだろうか。この部屋に私以外誰もいない点を考慮すると、そうに違いなかった。
声の主は麻生さん。ガラガラと車輪の音もする。何かと思えば、電化製品を載せた荷台を引っ張っていた。
「これ登録してくれ。34,000円のブルーレイレコーダーだ」
「分かりました」
麻生さんはダンボールの中から商品を取り出すと、私の方にバーコードを向けてくれた。
バーコードリーダーと呼ばれる代物でそれを読み取ると、PC画面に13桁のJANコードが自動的に入力される。
今回は新商品の登録作業となるため、商品名、売り場の群番、品種、値段等の個別情報を入力する必要があった。
私がその作業をしている間、麻生さんは疲れたと言って、隣りの空席から椅子を引き寄せ腰掛けた。
「……ん? 何だこれ?」
「え?」
どうやら飴の瓶に気付いたようで、麻生さんの手がそれを鷲掴んだ。中身をしげしげと眺めている麻生さんに、
「新作の飴をいただいては、その中に入れてるんです。なので全部種類が違うんですよ。よかったら、麻生さんもどうぞ」
「いいのか?」
「勿論です。私、舐めるの遅いから、増えていく一方なんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。柚子貰っていいか?」
「はい」
「さんきゅ。じゃあ代わりに、ほい」
「何ですか?」
「今朝コンビニで買ったのど飴だ」
「……それじゃあ交換になっちゃうじゃないですか」
「補充だ補充。1個減ったから1個補充」
「麻生さん、さっきの私の話、ちゃんと聞いてましたか?」
「舐めるの遅いから増えていく一方っていうのは聞いたけど」
「だったら」
「でも、増えて困ってる、とは聞いてないしな~」
「……そういうの、屁理屈って言うんですよ? 麻生さんの意地悪」
「そう怒るなって。可愛い顔が台なしだぞ」
「からかわないで下さいっ。はい、入力終わりましたっ」
「おー、どうも。んじゃな」
立ち上がると同時に私の頭に手を置くと、わしゃわしゃと掻き乱した。
「~~~麻生さんっ!」
どこ吹く風で、麻生さんはそのまま荷台を引っ張って部屋から出て行った。
その姿が完全に消えるまで、私はその背中を見送っていた。
作業を再開してからふと思う。『ちぃ』って何だったんだろう?
***
ドアをコンコンと叩く音がして、私は音のした方を振り返った。
「柾さん!」
「これを売価変更してくれないか?」
「は、はい!」
思わず上擦ってしまう声。どうしよう、柾さんはその理由に気付いてしまっているだろうか?
そんな心配をよそに、柾さんは入って来た。机の上に、口紅がずらりと並ぶ。
「明日から2割引にしたいんだ。予約をしてくれ」
「分かりました」
途端、ぎこちなくなる私の手。そして動作。失敗したくない。この人の前では。
緊張しながら作業をしていると、背後に立っていた柾さんの手が伸びて来た。
「!!??」
「……これは何だ?」
肩越しに伸びた手が、またしても件の飴の瓶を鷲掴む。
バクバクと脈打つ鼓動が聞こえたりしませんようにと願いながら、私はさきほど麻生さんにした説明を繰り返した。
「一つ頂いても?」
「は、はい。勿論!」
「ありがとう」
瓶の蓋を開け、掴んだそれは……。
「あっ、それは」
(麻生さんから貰った飴――)
「え?」
「あ……っ、い、いえ!」
「これは駄目だったかな? じゃあ、こっちは? ライチの飴」
「も、もちろん大丈夫です!」
「じゃあ、これをお礼に」
そう言うと、柾さんは飴をスーツの中から取り出した。まさか……。
「のどが痛かったから、今朝コンビニで買ったんだ」
(ふふっ。柾さんもかぁ。なんだかんだ言ってる2人だけど、いつも麻生さんと生活がリンクしてるような気がするわ)
微笑ましくて笑みを零しそうになり、慌てて抑える。
「いただきます。……はい、入力終わりました」
「あぁ、ありがとう。それじゃ」
(ひょっとして、立ち上がる時も一緒なのかしら。頭をくしゃくしゃって――)
思った通り、柾さんの手が私の頭に触れ、私はひとりこっそり赤面する。
髪を掻き乱した麻生さんに対し、柾さんは撫でる方だった。その違いはあれど、同じ行動ではある。
(柾さんと麻生さんは、似てる)
正反対のところもあるのに、なぜだかそう思ってしまう。
そういえば、さっき柾さんが掴んだ飴。
柾さんを相手に、とっさに静止の声が出てしまったのはなぜだろう?
麻生さんがくれた飴は、この瓶の中に入っている新商品とは違って、いつでもどこでも手に入るものなのに。
もし――柾さんが好きなら、なんの躊躇いもなく、麻生さんから貰った飴を渡せたはずだ。
もし――麻生さんが好きなら、柾さんに髪を撫でられても、なんとも思わなかったはずだ。
(どうなっているの??? 私の本心は、一体どこにあるの?)
麻生さんから貰った飴と、柾さんから貰った飴を、それぞれの手の平に乗せてみる。
零れるため息。飴を握り締める私の手。その2つを、私はスカートのポケットに忍ばせた。
瓶には戻さなかった。
なぜなら。
(……これは、私が貰ったんだもの……。私の物だもの……)
どちらの飴も、他人の手に渡って欲しくなかったから。
***
またしても新しいブルーレイレコーダーの登録依頼をするため、麻生さんがPOSルームを訪れた。
ずっと『ちぃ』という呼称が気になっていたから、ちょうどよいタイミングだった。尋ねるなら今しかない。
「ちぃって何だったんですか?」と尋ねれば、
「ちぃは千早のちだ」と、まるで『ドはドーナツのドだ』とでも言うような断言口調で麻生さんは言った。
「これから私は『ちぃ』ですか?」
「楽だからな」と、面倒臭がり屋の常套句みたいなことを言う麻生さん。
「慣れなかったら、そのまま千早さんだろうな」
「でも、面倒だからこその『ちぃ』なんですよね?」
「慣れを馬鹿にするなよ?」
「別に、馬鹿になんてしてません」
苦笑した私に、正にその反応こそが馬鹿にしてるのだ、とは彼の弁だった。違うのに。
「でもその法則でいくなら、麻生さんは“あぁ”ですね」
「ださい」
「えぇっ。一蹴ですか」
「環でいいんじゃねーか?」
「!?」
「言ってみ?」
ニヤリと笑う麻生さんに、どきりと心臓が跳ね上がるのはなぜなのか。
なまじ整った顔だけに、上目遣いで茶目っ気たっぷりの反応をされると胸が高鳴ってしまう。
「……」
「何? 聞こえない」
「……た……き……」
「聞こえないなー」
わざと棒読みに言う麻生さんは、完全に面白がっている。私はこんなに頑張ってるのに。
「た……、たま……き……さ……ん」
「なに、歴?」
「……! は……反則です!!」
「何が?」
「だって、名前! ちぃって言うんじゃ……」
その先が続けられない。
いやじゃない自分が怖かった。
それどころか、そう呼ばれて嬉しかったなんて……。口が裂けても言えない。
「……二度と言いません」
(環さん、なんて)
心がぶれる。心がざわめく。
違う。違う。嘘よ。絶対、嘘。
(私が好きなのは、麻生さんじゃなくて、柾さんだもの)
目の前に柾さんが居れば、きっと私の心は高鳴るはず。そちらへ向かって、物凄く速い心音を奏でるはず。
(……なおちか)
確認するように呟く。呪文を唱えるように、こっそりと。
マサキ・ナオチカ。私の好きな人。私の心を縛る人。
でも、どんな言い訳をしたところで、麻生さんに名前を呼ばれて喜んだ事実は覆らない。
心は、なまもの。いつも同じとは限らない。そんなこと、誰だって知ってる。私だって知っていたはず。
でも認めようとしなかった。認めてしまえば、何かが壊れそうな気がしたから……。
2007.07.04(WED)
2018.04.05(THU)
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