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09話 【依怙地】
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09話 (潮) 【依怙地】―イコジ―
昼休憩から戻り、POSルームのドアを開けると、ちょうど固定電話が鳴り始めた。
本日、部屋の住人は私しかいない。デスクまで小走りすると、受話器に向かって左腕を伸ばした。
ノック式ボールペンを右手に構え、常に机の上にスタンバイされているメモ用紙に、いつでも書き始められる準備を済ませる。
この内線にかかってくる内容のほとんどが値段変更依頼のため、名乗る前までにメモを取れる姿勢を整えておくのだ。
「はい、潮です。――分かりました、今日の20時ですね」
受話器を置く頃には背後の人の気配に気付いていた。振り向けば不破犬君が入室していて、探るような視線でこちらを窺っている。
「何?」と問えば、「誰からですか?」と逆に質問を投げかけられる。
「電話の相手? 来栖さんよ」
後ろめたいことなどないけれど、私用だと思われるのも癪なので正直に答える。
「鮮魚の?」
「そうだけど」
不破犬君は考える素振り。一体なんだって言うんだろう。
「……潮さんって、あーゆータイプが好みなんですか?」
「は?」
「20時からデートなんですか?」
(何を言い出すかと思えば……。どこからデートなどという発想が出てきたの)
返答に窮していると、脳裏に、つい今し方のやり取りが蘇ってきた。誤解をしたとしたら、電話がきっかけとしか考えられない。
(でもこれってひょっとして……嫉妬?)
「気になる?」
ストレートな問い掛けに、不破犬君は視線を外した。
「……いつでだって気にしてますよ」
そっぽを向いた不破犬君の顔はうっすらと赤く、世にも珍しい光景に、私は一瞬呆けてしまった。
それどころか、そんな素直な反応をされたら、かえって私の方が赤面してしまうではないか。
「私の言葉にいちいち一喜一憂しないでよ。調子狂うじゃない」
「しちゃいけませんか、一喜一憂。それだけ潮さんに惚れてるんですよ。こんなの……潮さんだけにです」
これで通算何度目の告白になるだろう?
未だに慣れないそれはもはや習慣のようなもので、どこまで本気のつもりなのか、頻繁に甘いセリフをぶつけてくる。
そしてここで押し黙ってしまうのも、私の常となりつつあった。それではいけないと、気力を奮い起こす。
「デートじゃないわ。20時に値段の変更を頼まれただけよ」
「……良かった」
心の底から安堵したような不破犬君の声。そして表情。
ちっとも隠そうともしない『好き』という態度に、こっちが面くらってしまう。
彼は、会話の回数を重ねていけば、私の心が動くと本気で信じているのだろうか。
そう思われていたら心外であり、不愉快だ。私はそんなに移り気の激しい女ではない。
(――はずだったのに……嘘でしょう? 嬉しいって思ってる……?)
不破犬君なんて気にならない存在だった。
年下のくせに不遜で、口を開けば上から目線で、かと思えばひとを憐憫の目で見てくるような後輩だった。
いまでもそういう接し方はしてくるけれど、好意を上乗せされると、どうしたって封印してきたはずの乙女センサーが反応してしまう。
何せ耐性がないのだ。近くに寄られたときや思わぬ場所ですれ違ったとき。きっかけが増えれば、意識する回数も比例するように増えた。
小さな変化、大きな戸惑い。日に日に自分が変わって行く。そんな自分を自覚するたび、自己嫌悪に陥り、叱責する羽目になる。
(呆れた。そんなことで一喜一憂しないでったら。しっかりしてよ。『あなたが好きなのは誰だった?』)
もう1人の自分が、本心を思い出させるように叱咤してくる。情けないことに、最近はその声で我に返るパターンが多くなってしまった。
「潮さん、そこのダンボール捨ててきましょうか」
明らかな点数稼ぎさえ、こそばゆくて嬉しいだなんて。勘弁して欲しい。
「……いい。後で捨ててくるから」
「点数稼がせて下さい。こうやって恩を売って、僕の虜にしていく作戦なんですから」
しかも彼は本音をストレートに伝えてくるから手に負えない。心に響く度合いが半端ないではないか。
『あなただけですよ』。そんな特別扱いは、どうしたって心地良く感じてしまう。
(でもね、でも……。私は罪を犯したから、罰を受けなければいけないの)
「呆れた。作戦名暴露したら台無しじゃない」
「口説かれてるって意識して下さいよ」
「そんな言葉じゃ動かされない」
嘘だ。実は動いてる。いつの間にか動かされてる。
でも応えるわけにはいかないから、今日もまた、返事はノー。
掻き乱される心と、なぜか追ってしまう視線を逸らすことなど、出来なくなってしまいかけている。
右手を首元にやる。私の鎖骨の上にある、ナットのネックレスを押さえながら、心の中、たった1人の男性の名前を呼んだ。
まるで呪文のように。良薬のように。伊神さんの名前を刻むことで、不破犬君の存在を押さえ込む儀式。
「じゃあ潮さん、今日仕事終わったらデートしましょうよ」
不破犬君は性懲りもなくサラリと告げた。
「何が『じゃあ』なのかよく分かんないけど、今日もしないし明日もしない。ねぇ、聞きたかったんだけど」
「なんですか?」
「私のこと、ほんとに好きなの?」
瞳同士で語るとか、そんなロマンチックなことではなく。
相手が嘘をついているかの確認をするために、私の瞳は彼のそれを、真正面から見据える。
「えぇ、好きですよ」
仕事やプライベートを通じて累計してみても、滅多に見せない満面の笑顔で不破犬君は答えた。
思わずきゅんとなりかけ、頭を振って雑念を追い出す。
「本当に?」「えぇ、本当です」「デートしたい?」「そりゃしたいですよ」「いちゃいちゃ」「したい」
「……私が好き?」
「……なんなんですか、一体?」
ここへ来て、わずかに寄せられる眉根。そう、私はこれを待っていた。この反応を。
「どうして?」
彼のポーカーフェイスが崩れた瞬間は見物だった。こんな間の抜けた不破犬君の顔を、私は知らない。
この隙は決して逃がさない。今日こそは絶対に。
「いつも『潮さんが好きです』『デートしたいです』『部屋に行きたいです』って言ってくるけどさ。
でも、どこが好きだとか、こういう理由だから好きなんだっていうことは一度も言ってくれないよね?
私、そんなに難しいこと訊いてる? 特別視してくれる理由を尋ねてるだけなんだけどな」
今やその顔からは何も読み取れない。もう平常心を取り戻してる。食えないヤツだ。
「言いたくありません」
今度はこっちが言葉を失う番だった。
「……なにそれ」
「言葉通りです。言うつもりはありません」
「え……。何でそんな簡単なコトが言えないの? そんなの納得出来るわけないじゃない。私じゃなくても良いってコト?」
「どうしてそうなるんですか? すぐ極論に走る……」
自分のことは完全に棚に上げて、不破犬君はこれ見よがしに溜息をついた。
「だってそうでしょ? 私じゃなきゃダメな理由があるの? ないの? 言えないなら、ないと思われても仕方ないじゃない?」
「潮さんは、わがままだなぁ」
侮蔑を含んだ、鋭い言葉を吐き捨てる。
なっ……。言うに事欠いて、こいつ……!
「わがまま!? これのどこが?」
わめく私を嘲笑う、その冷静さが、なおさら癪に障る。
「伊神さんのことで頭がいっぱいで。僕になびく気ゼロのくせに、独占欲がおありで?」
「!」
図星だった。痛いところを突かれたという自覚はある。
「どうやら伊神さんに負い目を感じてるっぽい潮さんは、『罪には罰を』とばかりに、二度と恋なんてしなさそうですね。
『伊神さん一筋』精神を貫いて僕を拒んでますけど、でもそれって僕からしたら傲慢で、随分と自分勝手な話ですよ。
あなたのマイルールってやつでフラれ続ける僕への思いやりが一欠けらもない。まぁ、あなたに惚れてしまった僕が悪いんでしょうけど」
言い返せないのは、不破犬君の言う通りだったから。
自分の身勝手さと、正論と、相手を傷付けていた事実を突き付けられて、首を横に振れるはずがない。
加えて、伊神さんとの過去のことを話せないでいる状態だから、彼がイラ立つのも無理はない。
「あなたを蔑ろにしてたことについては謝るよ。無神経だった。ごめんなさい」
殊勝に謝ったのがよほど予想外だったのだろう。鳩が豆鉄砲を食らったように呆けた不破犬君はすかさずフォローに転じた。
「僕も言い過ぎました。すみません」
「……最終確認するけど、あなたの好きなひとは、本当に私なのね?」
「そうです」
「さっきあなた、私のことを『傲慢で自分勝手』って評したけど、それでも?」
「いや、そこは不満ですよ?
でも、そんな感情を抱えている潮さんが、総じて好きなんです。男性に一途なところも含めて。あいにく、相手は僕じゃないけれど」
伊神さんのこととか、罪とか、罰とか、それら全てを解放しなければ、誰も幸せになれない。こうして他人を不幸にしてしまう。
「好いた女性に悲しげな顔をさせて悦に入るような趣味はありません。
潮さんには笑っていて欲しい、ただそれだけです。僕、潮さんの笑った顔が好きなんで」
「……」
(笑った顔?)
不破犬君の言葉を聞いて、心がもやもやしてくるのが分かった。つい咎める口調になってしまう。
「……おかしなことを言うのね」
「? 何がです?」
「私……あなたが居るこの職場で笑ったことなんて、ないはずよ。それなのに『笑った顔が好き』なんて。いい加減なこと言わないで」
お互い、既に『苦しそうな顔』はどこか遥か彼方の方へ行ってしまっている。今や眉根を寄せている男女が2人、相(あい)対してる構図だ。
「僕は適当なことなんて言いません。潮さんこそ、決め付けないでください」
「じゃあどうして私の笑った顔なんて知ってるのよ? いつ私があなたの前で笑ったりした?
ここ数年、何をするのも笑顔なんて作り物だった。それは私がよく、一番よく知ってる。あなたは私の何を見てきたの?」
「あなたの笑顔が作り物だろうがなんだろうが、笑顔は笑顔です。そこに嘘が込められていようとなんだろうと、僕は……」
「やーめーてーよーねー! はは、面白い」
けたけたと笑い飛ばす。彼のことばは青臭く、まるで恋に夢見る少女のようだ。
(そう、私とは真逆の――感受性。あの時に私が失くした、綺麗な。まだ『世界』を知らない時の、無垢な……。くだらない!)
そんな私を見て、やめてくださいと不破犬君は言う。自分をいじめないでください、自虐なんてそんな……、貶めないでくださいと。
こんな私でも、『いまならまだ戻ってこれる』と信じているかのような、手招きにも似た真剣な眼差しで。
だから打ちのめしてやりたかった。
私の暗部の何たるかも知らないくせに、理解不明な告白をのたまうことになってしまった、彼の愚かな勘違いを。
「……この際だからはっきり言うわ。迷惑よ。あなたの全てが迷惑。あなたの告白も、想いも」
「そんな……」
ここで、うろたえる不破犬君に手心を加えるわけにはいかなかった。恋心を粉々に砕いて、目を覚まさせなければ。
私なんかを好きになってはいけない。
(これはあなたのためでもあるのよ)
不破犬君は、何かを言おうと口を開きかけ、それでも何も出てこないようで、再び閉じる。
打ちのめされた彼にとどめをさすように、ドアから男が声を掛けた。
「透子から離れやがれ、糞餓鬼」
「杣庄!」
一体いつからそこにいたのだろう? ドアが開いたことなど、まったく気が付かなかった。
疲労困憊のていで、不破犬君は力なく自嘲した。杣庄に向かって。
「……ソマさんですか。やれやれ、いつまで潮さんの保護者気分? 伊神さんならともかく、ソマさん相手なら一歩も引く気ありませんから」
「痴話喧嘩か? いや、透子は丸っきり相手にしてねぇみてぇだ。痴話じゃねぇな。ただの喧嘩か。
喧嘩と名の付くモノなら俺が買うぜ? それが透子だっつーなら尚更な」
「その不敵な笑みとか、どこからくるのか教えて欲しいぐらい奇妙な自信とか……ほんっとウザイ」
「ははっ、言ってくれるじゃねぇか。そうこなくっちゃ」
「ソマさんってマゾですか? お呼びじゃないって、これだけ言ってるのに」
「お前こそ、そのドSっぷりを直さねぇと透子が怖がって相手にしてくれねぇぜ。これ以上嫌われたくないだろ?」
「杣庄、言い過ぎ」
「あのな透子。お前も悪いんだぜ。お前がきっぱり拒否しないから、言い包められちまうんだぞ」
がしがしと乱暴に頭を掻く杣庄は明らかに呆れていた。
「でも……、そこまで嫌えないよ……。あ……」
「――だとよ。これにて一件落着! ほら、早く持ち場に戻れ、お前」
「話があります、ソマさん」
「俺にはねぇよ。つーか戻らねぇなら俺が無理にでも引っ張ってくかんな。さ、行くぞ」
杣庄は不破犬君の肩を掴むと、力任せにPOSルームから連れ出そうとする。すると、まるで棒読みの杣庄の声。
「あれー? いたんだ、八女サン?」
「演技が下手ね、ソマは。ずっと一緒だったでしょ」
ドアから八女チーフも現れた。八女チーフは、厳しい視線を私に向ける。
「わんちゃんはソマに話があるみたいだから、私は潮の相手をするわ」
何かが始まるとしたら、今日からかもしれない。
逃げること、己を誤魔化し続ける嘘。自分の中のドロドロとした嫌な部分に別れを告げるのは今日からなのだと予感がした。
杣庄の逞しい腕力により、引きずられて行く不破犬君の姿が見えなくなると、八女チーフはPOSルームのドアを閉めた。
「やってくれたわね、潮。あなたの気持ちは分からないでもないわ。でも、わんちゃんに対して厳しすぎない?」
「……厳しい? そりゃそうですよ。彼には諦めて貰わないといけないんですから。冷酷にもなります」
「薄情とも言えるわね。さっきのやり取りは、女性から見ても、男性から見ても腹が立つわ」
「私が悪いんですか?」
下からチーフを睨(ね)め付けた。
「自覚ナシ?」
「えぇ、ありません」
きっぱりと告げた私に、八女チーフはその柳眉をピクリと動かした。
「潮が懐いてるのって、この世でたったひとり、伊神そのひとだけみたいね。伊神にだけいい顔をしてる。
“伊神さん大好き! 伊神さんの為だったら何でもする!”。
でも伊神以外となると、“興味ありません”。誰が見てもそう思っちゃう。そういう二極性は嫌われるわよ」
「もう嫌われてます。だから大丈夫です」
上辺だけの笑顔を作り、なんでもない調子で言う。
(そう、みんな私に見切りをつけた。私が伊神さんを見捨てた日から)
いまさら人からどう思われていようが気にならない。伊神さんが隣りにいないなら、どうだっていい。もう、どうだって。
「……あなたが伊神を好きでい続けていることは、私もソマも、それこそわんちゃんも知ってる。
でもね、恋を忘れさせてくれるのは恋だけよ。だから潮も新しい恋をしなさいな」
「嘘ばっかり!」
まるで自分の声ではないかのように。毒が、体内から、口から、吐き出される。
「私から恋を奪ったのは、伊神さんを奪ったのは、“もう1つの恋”じゃない!」
「!」
「奇麗事なんか聞きたくない! 誰も私の気持ちなんて分かってくれない。私は伊神さんがいい。伊神さんじゃなくちゃイヤ!」
「潮……」
塞き止めていたものが、渦を巻いて押し寄せてくる。激流という名の激昂。不満と欺瞞と報いを携えて、それは私を狂わせる。
どうしたって抑えられない願いと不平と憎しみは、今なお私を苛立たせ、私の良心と未来と精神を蝕むのだ。
それが、私から伊神さんを取り上げた「結果」。これが、私が伊神さんを失った「代償」。
「穴」や「溝」は、決して埋まらない。
2008.09.04 - 2008.09.24
2019.04.12
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