13話 【蒲公英】


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13話 (潮) 【蒲公英】―タンポポ―



一連の出来事を語り終えると、自分が鼻声になりかけていたことに気付いた。
ヤバいと思い、のどの渇きを潤すフリをして紅茶を煽った。すっかり冷めていたのに依然美味しく感じられたのは嬉しい誤算だった。
不破犬君がよほど上手に淹れてくれたおかげだろうか。
(そうだ、不破犬君といえば)
私は視線を彷徨わせ、彼の姿を探した。
一方的に話していたときには気付かなかったが、背中をリビングの壁に預け、両足を抱える姿勢で聞いてくれていたようだ。
目が合う。たったひとりの観客は、ふぅーと息を吐いた。矢庭に頭(こうべ)を垂れたかと思うと、がしがしと髪を掻き――。
「……」
「……」
お互い無言のまま数分。
「……それは災難でしたね」
労いのことばを掛けられるとは思わなかったので、小さく「うん」とだけ答えた。
「伊神さんと連絡は取っていないんですか?」
「取ってない。取りたかったけど。……取れるわけないよ」
「いつから音信不通状態なんですか?」
「伊神さんが日本を発ってから。着信あったけど取れなかった。怖くて」
「怖い? その時点ではまだ、成り行きの交際は続いていたんでしょう? 都築の蛮行で遠距離恋愛になったとはいえ」
「私の所為で伊神さんは外国に飛ばされたの! だから伊神さんが私をどう思っているのか……知るのが怖かった」
「そんな。どうして……。潮さんは愚かです。伊神さんをみすみす手放すなんて。あ、僕にとっては良かったのか」
隠そうともしない辛辣なことば。それが不破犬君の本音か。清々しさすら感じる一方で、愚かという烙印はかなり効いた。
「そうね。伊神さんを手放した私は愚かよ。でも人事部相手にどう抵抗すればよかったって言うの? 逆らえばクビが飛んでたわ」
「僕なら迷わず愛を選びます。好きなら辞める覚悟で反抗すべきだったのでは? お二人の愛はその程度のものだったんですよ」
不破犬君のことばがナイフのように私の胸に突き刺さった。鋭い指摘にじくじくと痛む。
(辞める覚悟、か……)
世は就職氷河期の真っ只中。就職難という厳しい荒波時代において、辞表という選択肢は用意していなかった。
ユナイソンは基本給こそ高くないものの、労働組合は力を持っていた。福利厚生が手厚かっただけに離職したくなかったのだ。
仕事と恋を天秤にはかり、結局仕事を選んでしまった。その負い目もあって、私は伊神さんに合わせる顔がなかった。
だからこそ、不破犬君のまっすぐな意見が耳に痛いのだろう。
「聞きたくなかった言葉を平気でくれるのね、あなたは……」
皮肉を言うと、満面の笑みで返された。
「傷をえぐり尽くしてあげますよ。塩だって、悲鳴をあげるまで塗り込んでやる。僕にとってこれはチャンスですから」
「……本性を現したわね」
ドSだと思った。でも彼の言っていることは正論だ、とも思う。
『怖いから』という一方的な理由で伊神さんとの接触を拒み、現実逃避をし続けてきた自分は、やはり間違っていたのだ。
「伊神さんには夢があったの。その夢の為にも、ユナイソンを辞めて欲しくなかった」
「潮さんは……まだ伊神さんを好きで居続ける気なんですか? 記憶の中で相当美化されてません? 
僕には、伊神さんは何もしてないような気がして仕方ないんですけど」
「なっ……」
ここで反論をしておかないと、一事が万事、彼の言葉に丸め込まれてしまいそうだった。
伊神さんへの想いを鈍らせるわけにはいかない。決意の固さを再認識する意味も込めて、私はキッパリと言い放つ。
「『何もしてない』ことない! 伊神さんは、突然の理不尽な異動を承諾するという形で私を守ってくれたの!」
「じゃあ何故そこまでしてくれた伊神さんを信じて電話に出てあげなかったんですか」
「それは……だから……さっきも言ったじゃない。いくら伊神さんが優しいといっても、限度があるでしょ……」
俄かには信じがたいという目で見られていることは分かっていた。……最悪だ。ここを追及されるとは、思ってもみなかった。
「……なんか腑に落ちないんですよね。ひょっとして潮さん、都築に弱みでも握られました? 伊神さんに連絡出来ないような」
「……!!」
「そう……なんですね? 何されたんです? まさか都築に……」
ぶんぶんと首を振る。
言いたくない。
答えたくない。
聞かないで。
しかし、無情にも願いは聞き届けられなかった。
「どこまでですか」
今まで一度も聞いたことのないような低い声で尋ねられる。絶対に答えて貰うという気概が籠っていた。
『何をされた?』ではなく『どこまでだ?』という問い掛けで私は悟った。彼は恐らく気付きかけている。
「どこって……。場所を訊かれても、何のことだかさっぱり……」
「惚けないでください。僕の『どこまで』が場所ではなく段階を指していることぐらい、あなたが一番よくご存知でしょう」
「……っ」
話さなくていい。
教えなくていい。
そんな義理はないのだから。
再び首を横に振り、発言を拒む。
私の反応を、不破犬君は面白くないとばかりに睨んでいたけれど、口を割らないと気付いたのか呼気を整えるようにハァと溜息を吐いた。
「すみません。ついカッとなってしまいました。これじゃあセカンドレイプですね……。やめます」
堪えようと思っていたのに、その気遣いが私の涙腺を決壊させた。
「……ふっ……」
(あぁ、やだ。泣きたくなんかないのに。これ以上不破犬君に知られたくないのに)
私のことを。
目の前の人物は、ぎくりと顔を強張らせた。
(馬鹿、私の馬鹿……こんなところで泣いたら、ひどいことされましたって白状したようなものじゃない……!)
「……まいったな……三度目だ。僕は本当……泣かしてばかりだな……」
そう呟いた彼の顔に張り付いていたのは、後悔。
「以前、潮さんを痴漢から助けたことありましたよね。あのとき、どうしてあれしきで泣くんだろうと不思議でした。でも……そうか……」
後悔に打ちのめされた、苦渋の顔だった。
「過去にひどい目に遭っていれば、男性への恐怖心は俄然増しますよね……。……ちくしょう……」
彼は聡い。というより、私が分かりやすいシグナルを送ってしまっているのか。ともかく、自分の推理力のみでどんどん暴いていってしまう。
こんなはずではなかった。全てが予想外の展開になりつつある。
「デリカシーに欠けた今までの行為に、心から謝罪させてください。
僕はあなたを苦しませたくない。寧ろその逆です。笑顔が見たいんです。前にも言いましたよね? 潮さんの笑顔が好きだって。
伊神さんと離れてから、心の底から笑えたことないって思ってるかもしれません。でも……本当に笑ってたんですよ? 潮さん」
不破犬君とは、もう何度も口喧嘩をしている。
『常に笑顔なんて作り物。それは私が一番よく知ってる。それなのに『笑った顔が好き』なんて。いい加減なこと言わないで』。
そう言って、彼に対して線引きをしたこともあった。あの時の話題を、また持ち出すというのか――。
「そんなの……もう済んだ話じゃない。本人が違うって言ってるんだから……」
「潮さんは頑なに否定しますけど、……これ、言っていいのかな……」
思わせぶりね、と言い掛けてやめた。勿体つけて逡巡しているわけではないことが、その顔から読みとれたからだ。
その真剣に悩んでいる様子は、『聞かない方がいいのかもしれない』と尻込みをさせ、唾を飲み込ませてしまう力を孕んでいた。
「潮さんがソマさんと八女さん、それに青柳チーフとそれぞれ1対1で話してる時、とても優しい表情になってる瞬間があるんですよ。
優しくて、たんぽぽの花が咲いてるような気持ちにさせる、穏やかな顔です。時折口元に手を当てて、唇に弧を描いて……。
声に出して笑っているんじゃない。けれど、そんな表情にならざるを得ない、温かい気持ちでいるのが十分伝わってくる。……そんな顔を」
してました、と不破犬君は締め括った。私は呆気にとられる。
「……たまに私が笑ってたって言うの……?」
「本当に気付いてなかったんですね」
彼は苦笑した。
「でも……今にして思えば、あれは伊神さんのことを話題にしていた瞬間だったのかな……。ね、潮さん」
そのことばに私は目を瞠った。突拍子もないデタラメ推理だったからではない。その指摘に心当たりがあったからだ。
その3人とだけ、私は伊神さんの話題を出すことが出来たから。
自分ではどんな顔で話していたかなんて気にも留めていなかった。恐らく素の反応をしていたのだろう。
不破犬君が言うように、そんな表情にならざるを得ない、自然な反応を。
「その時はただ単に、『3人には心を許していて、だから彼らには笑顔を見せるんだな』って遠目から見てて思ってたんですけど……。
そうじゃなかったんですね。本当は、『3人に、伊神さんのことを話せるから笑顔になってた』んですね」
「……」
「思い当たる節、あります?」
「私……そんな顔してたの? ちゃんと笑えてたの……?」
「えぇ。本当に綺麗でしたよ。……僕にとっては悔しいですけどね。伊神さんへの愛が強過ぎることが判明して」
あんな別れ方をしてから、何があっても心の底から笑えることなど二度とないと思っていた。
自分では、なんて仏頂面で愛想がない女になってしまったのかと落ち込んだりもした。
伊神さんがいなかったら楽しいことなんて何も起こらない、素直に喜べない。本気でそう思ったりもした。
未来に向けて歩き出せる可能性なんて、とっくの昔に諦めていたはずだった。
でも……違ったのか。
私を見ていてくれたひとが言うのだから、そうなのだろう。
(もう私の隣りに伊神さんはいない。それでも伊神さんの話題を通じて、心が穏やかになれる瞬間を味わうことが出来ていたんだ……!)
その事実に気付かせてくれる人がいたことが嬉しかった。
私の怒りと反発を食らいながらも、お構いなしに本心を探り続け、真実を引き出してくれた、その力強い忍耐に深く感謝した。
不破犬君に出会わなければ、今も尚思い返したくない都築さんとの出来事を何度も頭の中で再演し続け、悲しみに囚われたままだっただろう。
ちゃんと血が通った人間でいられたのだと分かって安堵したし、ずっと張り詰めていた余計な力が全身から抜け落ちていくような気さえした。
「……ごめん。でも……ありがとう……」
謝罪と礼の内容があまりに多過ぎて、1つ1つ列挙してたらキリがない。結局全てを端折った。端折った結果、ごめんとありがとうだけになってしまった。
「僕の方こそ、話を聴かせてくれてありがとうございました」
穏やかな声に加え、とても優しい顔つきだった。
ふと、伊神さんもそんな風だったなと懐かしさが込み上げる。
(……そんなことを言えば一転、不機嫌に逆戻りだろうけど。……でも、感謝してるんだよ、本当に)
頬を伝う涙が熱かった。この涙が出尽くせば、心ごと浄化されるような気がした。
その滴を、不破犬君の人差し指が拭い取る。
「……!」
心臓が高鳴った気がしたけれど、いまは単に、感情が昂っているからだと思うことにした。


2019.05.10
2023.02.17


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