33話 【Clearly Perceive!】


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33話 (―) 【Clearly Perceive!】



【歴side】

「歴さん」と呼ばれて振り返れば、不破さんが優しい目を私に向けていた。本来なら透子先輩に向けているであろう、愛しい者を見守るかのような表情で。
これが演技だと見抜く観客数はいかほど? 不破さんのエスコートは自然で、板に付いている。少なくとも私は――愚かにも――錯覚してしまいそうだ。
……そろそろ噂話は透子先輩の耳に入った頃だろうか。透子先輩だけではなく、麻生さんや、柾さんにも。
紳士協定が結成されて間もなく、私は不破さんと付き合うことになった。噂話はどのぐらいの時間を掛け、どこまで広まったのだろう?
この仮面が外れるとしたら、私がヘマをした時だろう。不破さんの演技は今のところ完璧なのだから。


【透子side】

伊神さんから、それとなく別れを仄めかす発言を聞いてしまった。
あの優しい伊神さんが、オブラートに包むことなくやんわりと、私との未来のビジョンを描けないでいると。
足を竦ませている原因はそれだけじゃない。私自身の心が揺らいでしまっている。
杣庄と一廼穂チーフは、私が本心から好いている相手が不破犬君だと指摘した。まさかそんな。でも「そんな」と一笑に付すことのできない自分が確かにいる。
その不破犬君とは、2ヶ月前の社内旅行から距離を置きっぱなしだ。彼を怒らせたのは他ならぬ私自身。
なぜ私は、大切にしなければならなかった人たちをことごとく傷付け、遠ざけるような仕打ちばかりしてしまったのだろう。
後悔しても遅い。打ちひしがれても後のまつり。自業自得なのだから落ち込む権利などないのだと、その事実にも打ちのめされる。
会えない。伊神さんに、会わせる顔がない――。


【芙蓉side】

2人1組による持ち回りの女子更衣室掃除のさなか、ネオナゴヤ店における女傑四人衆がひとり、黛八千代は掃除機の電源をオフにするなり言った。
「ねぇ、芙蓉。最近社内のムード暗くない?」
やれやれ、ついに始まったかと私は首を竦めた。
女子更衣室と言えば、噂の温床であり宝庫でもある。2人きりなので、話すには絶好のタイミングだと黛は思ったのだろう。
手にしていた消毒液を元の位置に戻し終えた私は、室内をささっと素早く見回り、誰もいないことを確認した。
「大丈夫よ。この部屋には芙蓉と私だけだから」
その点は、黛も用心していたのだろう。
私たちはドアを注視しながら――もし誰かが入室してきたら速やかに会話をストップする心積もりだ――声を落とし、ひそひそと密談を始めた。
「なぜ社内が暗いのかって? 当然あなただって知ってるはずでしょう。耳聡いんだから」
「千早歴の孤立化は見てて寒々しいものを覚えるわ。女の嫉妬って醜いったらない」
「わんちゃんがあの子に話し掛けたり休憩を共にしたり、そうやって守れば守るほど、周囲は白けムードになってしまってるのよね」
こめかみを抑える。千早を救ってあげたいけれど、何せ勤務時間がそれを許してくれないのだ。
「芙蓉がどこまで知ってるのか分からないけど、伝えておいた方がいいかもね。柾さんや麻生さんが、千早さんに話し掛けてるのを見たの。
でも彼女、どことなく2人を避けてるような感じだった。余所余所しくて、引きつった愛想笑い。まるで他人行儀のようだった。
そういうのって相手に伝わってしまうからね。さすがに落ち込んでたわ、柾さんたち」
「2人とも正式に告白したらしいから、そういう態度で接せられてしまうと、告白の答えはノーだろうかと思っちゃうわよね」
「なにバカなこと言ってるのよ、芙蓉。不破と付き合い始めた時点で断わってるに決まってるじゃない」
私はそこで引っ掛かるものを感じた。何だろう、見過ごしてはならない、大事な点だと思う。
会話のキャッチボールをスムーズに続けてきたのに、私が急に黙ってしまったからだろう。黛は「どうしたの、芙蓉」と訊ねてきた。
私は捕らえた違和感がなんなのか、必死に言葉に変換しようとした。結局うまくまとまらなかったので、漠然とした疑問をぶつけることになってしまったが。
「ちょっと待って。……ねぇ、千早って柾チーフたちに断ったの?」
「そりゃそうでしょう」
「いつ?」
「いつって、知らないわよ、詳しい日付までは。でも常識的に考えてそうでしょう? あなたが千早さんの立場だったらどうするワケ?」
「そりゃあ勿論、相手に申し訳ないから『ごめんなさい』するわよ」
私の答えに、「でしょう?」と黛は器用に眉を上下に動かしてみせる。
「ねぇ黛。これでも私の耳には情報が入ってくるようになってるのよ。でも私、千早が2人に対してごめんなさいと言ったという話は一切聞いてないわ」
私の発言を反芻しているのか、黛は一拍ほど置いてから、にやりと不敵に笑った。
「……奇遇ね。私もそんな話は聞いてない。つまり……」
「つまり千早は告白の返事を保留にしてる。義理堅いあの子がいまだに断っていないということは、わんちゃんとの件はダミー!」
「……面白くなってきたじゃない、芙蓉。一体裏で何が起きてるのかしらね?」
ぺろりと舌舐めずりをしながら目を細める黛を見て、私は自分の予想が正しいと確信した。そう、この話にはきっと裏があるに違いないのだ。
やんごとなき事情とやらを誰にも語らなかったせいで、千早は自分の首を絞めることになってしまった。
結果、柾さんたちすら欺かねばならず、孤立してしまったのだ。
千早の決意は固いと思って間違いないだろう。『あなたの評判スゴいわよ』との指摘に『覚悟の上です』と言い切ってしまうほどには。
でもね、千早。わんちゃんと恋がしたくて付き合っているのなら、その覚悟を認めてあげる。
でもそうじゃないのなら。愛や本心を捻じ曲げているのなら、私は――。
「動きたくて仕方ないって顔をしてるわね、芙蓉」
黛が笑って尋ねる。私もその笑みに応えた。
「当然でしょ。私は恋する女の味方、千早を幸せにできる女だもの!」


*

「他人の恋愛には首を突っ込まないスタンスじゃなかったっけ」
ソマはしれっとしながらも釘をさしてきた。余計なお節介はするな。先の言葉には、そんな思いが込められていた。
「それは潮の時だけ適用してるの」
「……どういう意味だ?」
社宅マンション、私の一室。テーブルの上に広げられた書類から顔をあげたソマは、理解しかねるといった風情だった。
逆に、私はソマが取り掛かっていた書類に目を落とす。鮮魚売り場に属する社員やパート、アルバイトが提出した、来月の勤務計画予定表だ。
この日は休みが欲しい、この日は遅番にして欲しい。この日は働ける。
ソマは、そんな個々の我儘が詰まった20枚にものぼる用紙を1枚にまとめ、勤務計画を組み上げている最中だった。
「駄目じゃない、ソマ。この週、パートの遠藤さんの休みが1日しかないわよ?」
私の指摘に、ソマは消しゴムで問題の箇所を訂正した。「また組み直しかよ……」とボヤきながら。
「で、さっきの続きだけど、透子だけってどういう意味なんだ?」
聞き捨てならないとばかりに尋ねてくるけれど、それはこちらのセリフでもある。
いまさらだし、もう何十回と繰り返してきたけれど、ソマは潮を可愛がりすぎる節がある。今がまさにそう。
私は潮への嫉妬が混ざらないよう、配慮しながら発言した。
「私は単に、納まるべきところに納まればいい、そう思ってるだけ」
「八女サンはずっと、透子の相手は伊神さんじゃないって思ってたのか……?」
「……」
いつからそう感じていただろう?
都築が問題を起こすまでは、あの子の伊神への恋が成就すればいいと思っていた。ソマが潮のナイト役を買って出たときも、まだ。
不破犬君。……そう。彼が一途に潮を想い続ける姿を見ているうちに、私は、自らの考えを改めていったのだと思う。
潮はまんざらでもない反応だった。邪魔だの鬱陶しい存在だの言いながらも、素の自分を曝け出していたのはわんちゃんに対してだけだった。
どんな弱音も吐き、邪険にして、たくさん傷付けた相手。黒い部分を見せ続けた相手。
潮は気付いているのだろうか。不破犬君という男を、知らず知らずのうちに、どれだけ頼りにしてきたか。
「私の予想ではね、潮はわんちゃんに惹かれてるんだと思うわ」
最近伊神に元気がない。別れを匂わす発言も耳にした。伊神は気付いてる。潮の本心に。
「潮から何か聞いてるでしょう、ソマ。話して」
溜息を吐き出すと、テーブルの上にペンを置いた。
静かな動作だったけれど怒りを含んでいたことに私は気付いていたし、その態度が如実にイエスと語っていた。ソマは潮から本心を聞いている。
「八女サンがそう言うなら、もう間違いないな。ソレは正しい。
何でだろうな。俺はこの期に及んでもまだ、透子は伊神さんと好き合っていて欲しいって思うんだ」
「伊神から託された言葉を、あなたは律儀に守っているからだわ」
「はん……。例の『香港にいる間』ってヤツか? 冗談じゃねぇ、俺だってそんなのはとっくの昔に消化しきったと思ってるよ」
「わんちゃんを認めたくないのね」
「な……に?」
ふいを突かれたのか、目が点になっていた。
「俺はそんな度量の狭い人間じゃねぇつもりだ」
「じゃあ何が不満なの? どうして伊神はよくて、わんちゃんは駄目なの?」
「それは……」
「あなただって潮がわんちゃんに惹かれていたことを肌で感じ取ってたでしょう?」
「……さぁな。そうかもしれねぇし、そうじゃねぇかも。……よく分かんねぇよ。
八女サン、透子の心は確かに不破に傾いてるみたいだった。けど、俺だ。最終的には俺が誘導したようなもんだ。俺が透子に言わせたんだよ」
「ソマ……」
「不破が憎かったんじゃない。俺は……伊神さんに幸せになって欲しかった」
ぽとりと落ちた雫はソマの涙だった。
「……ッ……!」
くそ、と小さな声で呟いたソマが誰に対して罵っているのか、私には何となく分かる気がした。ままならない運命への反発なのだろう。
「そうね。ソマ……そうね」
ソマの頭を手繰り寄せ、両手で包み込むことしかできない私である。
私は恋する女の味方。だから潮を幸せにする手伝いはしてあげられる。
でも、潮を応援すれば伊神は……。
でも、伊神はきっとこう言う。
「俺のことは気にしないで」、って。


2014.06.20
2020.01.29 改稿


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