G3 (潮) 【I Gotcha!】


日常編 (潮) 【I Gotcha!】



「愛してるよ、ヴェロニカ」
「私もよ、ファウスト。あぁ……ならばいっそ、この国から出てしまいたい……!」
「故郷を捨てるというのかい?」
「ここで追っ手に捕まって息絶えるよりも、生き延びてあなたと過ごす道を、私は選ぶわ」
「君の決意は固いんだね。分かった、今すぐにでも荷造りをしよう」
「彼らが来ない内に」
「スペインを出よう」

手を取り合う、スクリーンの中の美男美女。私はその画面を、単に風景の一部として眺めていた。
咀嚼によって、ばりん、とおにぎりせんべいが割れる。香ばしい醤油の匂いがたまらない。
しゅわしゅわという蒸気の音が聴こえてくる。そろそろ薬缶が沸騰する頃合いだ。緑茶を淹れるため、私は立ち上がった。
「……駄作だわ。不破犬君に文句を言ってやらなくちゃ」
休日の暇潰しにDVD観賞がしたい。そう漏らした言葉を、彼はちゃんと聞いていた。
翌日手渡されたのは4年前に公開された、『西へ』という欧州映画。
殺人現場を目撃してしまったヒロインのヴェロニカが、幼馴染のファウストと愛の逃避行を計る、そんな物語だ。以上、50字あらすじ終了。
彼はなぜこんな陳腐なDVDをセレクトしたのだろう。まだ前回借りた極道物の方が、スカッとした気分になれた分、評価に値するというものだ。
とは言え『ティファニーで朝食を』や『ローマの休日』『ロッキー』など、映画史を代表するタイトルを好む不破犬君のこと。
「それ以外の映画にして」というオーダーを出した私が間違っていたのだろう――多分。
「あぁ……ファウスト……そんな……ファウスト! 嘘よ、あなたが死んでしまうなんて。これは夢だわ。そう、悪夢なのよ」
……ほらー。目を離した隙に死んじゃったじゃん、ファウスト。

緑茶を淹れ終え、リビングに戻る。
エンドクレジットに差し掛かり、DVDレコーダーに手を伸ばしかけたところで、ざぁぁという音が外から聴こえて来た。雨だ。
慌ててDVDとTVの電源を切り、湯呑みをテーブルに置くと、南の窓へ一目散に走った。カーテンを開ける。
午前にも関わらず、いつの間にか空はどんよりと分厚い層の雲が覆っていた。気象庁は予報を外した。
スリッパを履き替え、社宅マンションに備え付けられている、お粗末ながらも重宝しているベランダへ出る。
干してから3時間しか経っていない洗濯物。こんな天気では乾こうはずもない。
ハンガーごと外していると、視界に、私と同じように急な雨に降られ、洗濯物を避難させている人影が飛び込んできた。斜め下の階だ。
その人物も私の存在に気が付いたようだった。私の姿を認めた彼は、困った顔で笑い、「やぁ」と話しかけてくる。
「参っちまうよな、潮さん」
「本当ですね、麻生さん」


*

まさか、後輩の想い人(その1? それとも、その2?)と、休日にこんな会話を交わすことになろうとは。
「許してね、千早さん」
リビングに戻るなり、十字を切る私。
それにしても雨だなんて。今日は買い物に行くつもりだったのに。そうでなければ明日の朝食の食卓が危うい。何せパンすらないのだから。
コンビニに行くより、ユナイソンの方が近いので、やはり買い物は外せない。
「でもその前に……明日の朝より今日の昼が問題よね……。はは、見事にないわ」
冷蔵庫の中はすっからかん。それと言うのも、妹の那漣が昨晩遊びに来ていたので。あれは予想外の来訪だった。
結局、ユナイソンのテナントで昼食を摂り、その後ゆっくりと買い物をするコースに決める。
荷物のことを考えると自転車で行くのが好ましかったが、傘差し運転は禁止されているので、徒歩で行くことにした。


*

準備を整え、エレベーターで降下する。マンションの出入り口で、またもや麻生さんと鉢合わせた。
シンプルな白の六分袖カットソーに黒の美脚ジーンズという出で立ち。さりげないお洒落加減に、つい魅入ってしまう。
いけないいけない。慌てて視線を引き剥がす。
「出掛けるのか?」
傘を持った私を見て、麻生さんは私に訊ねて来た。
「はい。ネオナゴヤで食事を済ませてから買い物をするつもりです」
出入り口にいるというのに、麻生さんは傘を持っていなかった。
ポストに用があったわけではないだろう。このマンションへの配達は常に夕方なのだから。
「店に行くのか」
「えぇ。それじゃあ行って来ます。徒歩なんで、小雨の内に行っておかないと」
踵を返すと、背後から「待った」と声が掛けられた。振り向くと、麻生さんは車のキーを見せながら言い添える。
「俺もネオナゴヤで食事と買い物をするつもりだったんだ。よければ一緒に行かないか?」


*

麻生さんの運転する車に乗り込む私。聞けばこの新車、妹以外に女性を乗せたことがないのだとか――。
(千早さん、ほんとにゴメン)
本日2回目の懺悔。しかも、「帰りは荷物があるから大変だろう」と言うことで、車で送ってくれると言う。
昼食と買い物、どちらもお互いに必要なため、面倒だから一緒に行動しよう、ということになった。
「じゃあ、今日は麻生さんとデートですね」
「そうなるな」
「宜しくお願いします」
「こちらこそ」
うーん、麻生さんか。
はっきり言って、どんな人物なのかよく知らない。浮いた話は聞かないが、彼を狙っている女性社員は少なくはないようだ。
有能社員が集められたという噂が実しやかに囁かれているネオナゴヤでこそ人気は分散化してしまっているが、麻生さんだって負けてはいない。
というより、寧ろ麻生さんは勝ち組か……?
ちらりと横顔を盗み見る。あー、納得。確かにイケメンだ、この人。
チーフ職に就いているから優秀なのだろうし、フェミニストな節も見受けられる。駄目出しのしようがない。
車はネオナゴヤの駐車場へと滑りこむ。バック駐車を一発で決める麻生さんの格好よさを、認めないわけにはいかない。
「どうして麻生さんに恋人がいないんでしょう」
「藪から棒に何を言い出すんだ、潮さん」
「いえ、本当に不思議なんです」
「そう言われても困るんだが」
「ですよね。すみません」
「なんか潮さんって、不破に似てるな」
「……はぁ!? どこがですか!? 似てませんよ」
声を荒げて反論すると、麻生さんは笑いながら詫びる。
「ごめんごめん。淡々と話すところが似てるなーと思って。一緒に働いていると、どこか似てきたりするもんなのかな」
「だから似てませんって。じゃあ、麻生さんは千早さんに似て来たと思います?」
「は? 俺がち――千早さんに?」
「えぇ」
「いや、似てない似てない。似るはずがない」
麻生さんは真っ先に否定する。でも、私は知っている。千早さんが男の人に慣れてきているのと同様、麻生さんも女の人に慣れてきていることを。
そんなことは口が裂けても言えないから、私は別の方向から切り返すことにした。
私だって千早さんと同じ職場にいるのだ。彼女の口調を真似ることなんて造作もない。
なるべく彼女の声音・話すスピードに似せながら、私は言葉の矢を放った。
「麻生さん」
「ん?」
潮透子一世一代の晴れ舞台、開幕だ。
「『この後私は麻生さんと一緒に過ごすので……夜になった時にはもう、私は麻生さん色に染まっちゃうかも、ですよ?』」
麻生さんは一瞬の間ののち、降参の白旗を揚げた。
「マジか! 似てる! 雰囲気激似だぜ、すげぇよ潮さん! それに男も真っ青の殺し文句だな。参った、俺の負けだよ」
してやったり。満足した私は思わず笑顔になる。そんな私を見て、麻生さんは笑った。よかった、今日は楽しい1日になりそうだ。


2010.10.15
2020.02.19 改稿


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: