虚ならず、実ならず【前編】



心せよ、心せよ、心せよ!
汝が魂の平安を求むるならば引き返せ

其は魔なり、小さくとも侮るべからず
汝が力を喰らい、汝が心に潜む

ひとたび契約なされなば
ふたたび解除はあたわず

虚ならず、実ならず
汝、彼の魔を呼び出さんとするものよ
心せよ!


召喚の儀式の知識を理解できるということは、
魔術師として中堅と呼べる存在であることを意味する。
私はまだ、他者の呼び出す使い魔しか目にできず。

「可愛い~っ」
いつもは勇ましげな戦乙女たちが、鎌や弓を脇に置いて、
その小さな生き物に見入る。
お愛想のように彼女たちの周りをひとめぐりし、使い魔
は主の元へと戻り、照れたように背後に隠れてみせた。
「あ~ん、可愛い~~~っ」
「名前は?」
何だか、小鳥や子猫を前にしたような反応だ。
呪文書との落差に悩むところである。
あああっ、胸すれすれで飛んでも怒られてない。
羨まし……じゃ、なくて。
相手は魔物なんであるが。いいのか乙女たち。

考えても仕方ないので、取り合えず修行に向かうか。
ここのところ、呪文書を読みふけっていて寝不足だから
一休みしてからでも良いだろうな。

それにしても、あの一文は何を意味するのだろう。
『虚ならず、実ならず』
虚ろでない。形あるものでもない。
魔力も顕現するまでは形ではないけれど。それともまた
違う……よ……うな……

夢さえ見ぬまどろみに、誰かがこう囁くのを聞いた。

汝ガ半身ヲ得ル刻ハ近イ。
醒メヨ、翼広ゲヨ、異ナル場ヘ飛翔スル用意セヨ!

其れは笑った。どうせここは暗いのに、と。

起きてまず感じたのは、ぬるつく身体の汗だった。
妙な夢を見たものだ。風邪でも引くのだろうか。
そうした不調ではなさそうだ。
それなら、再び修行に取りかかるとしよう。
神殿の上階も慣れてきたし、そろそろ強い敵と戦って、
運が良ければ私の役に立つ杖でも手に入れたい。
あわよくばノモスなんか……無理かもしれないけど。

呪文書を一度、読み直す。
まだ意味を知りえない部分も、時が経つにつれて理解し、
必要となれば力を発揮することが叶うだろうから。

使い魔、プル=ラヴァス。
これはまだ無理な存在だが、それでも読んではおく。
私にとっては今は、確かに虚でも実でもない存在だから。

「神殿の上へ送ってもらいたい」
いつもどおりに虚空を通る瞬間、私はマエルの唇が僅か、
動くのを見たように思った。
「心なさい、お若いの」と。

(続く)


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