最初の一滴


雫、と呼ばれるのは皮肉なこと、と思いながら、栓をひねる。
一滴、また一滴。

気だるさが消える。
凝っていた血が抜け出たような、そんな錯覚。
大事なことも忘れたような気がする。
忘却の名で呼ばれる雫。

接敵から逃れうる技を覚えていたような気がする。
荷を効率的に背負うことも、荷重のある今はもう構わない。

私が覚えていなければならないのは、招雷、光の嵐、転移、魔力の盾の呪文。
魔力を貯めるための修行の成果。呪文を効率的に唱えるコツ。
盾と杖も巧みに扱える必要がある。

指折り数え、一つひとつ成果を確かめ。
あることで、私は暫く、迷いのために指を曲げるのを止めた。

二つの、契約。
私はそれを結んだはずである。
しかし、今は異世界の存在は気配を消し、囁きも視線も感じない。
暫くの間、その沈黙の心地よさを感じていた。

「マ=ドゥラヴァス行かないか?」

ギルドメンバーに対しての囁きが聞こえる。
囁きというより、熱血少年の叫びに近いが。
そうなると、やはり、一つの契約は活きてくる。

忘れたはずの記憶を辿る。
白く、細い指を思い描きつつ、声を出す。

「妹よ、まだ覚えているだろうか、約束を?」

空中に、思い浮かべたのとほぼ変わらぬ手が現れた。
ただし、長い爪が伸びている。
爪で、私の頬を引っ掻くように叩いて、手はかき消えた。

「……脅かさないでちょうだい」

怯えとも怒りともつかない抑揚がついている、と思ったのは錯覚だろうか?

もう一つの契約は、今すぐ必要なものではない。
いま少し、日延べすることにし、私は仲間に参加の意思を囁いた。

そして、今朝。

静まり返ったウーノスの城砦。
そこから曙光に照らされた丘を眺めつつ、虚空に呟きを送る。

「小さな友よ、まだ私を見捨ててはいないか?」

不意に、二の腕辺りに鋭い痛みが生じた。
傷はない。ただ、骨を刃で刻まれているような、激痛。
うめき声が食いしばった歯から漏れる前に、たちまち消える。

「このままかと思ったにゃ!」

子供の描く太陽にも似た魔物は、それだけ言うと引っ込んだ。
私に残されたのは、額の冷汗のみだ。

(まったく、ろくでもにゃい)
(まだ持っているつもり?)

不満げな視線と気配が、再び私の世界に現れた。
人を介在してしかこの世に顕現できない存在には、呪わしい雫。
しかしそれは、人である私には、初心に戻るための祝福の一滴だ。

山の奥から一滴の水が滴り落ちる。
それは人の喉を潤す量ではないが、流れ下って川となり、大海に続く。

右も左も分からず冒険を始めた頃。
ベテランの域を狙えるようになっても、あの時を思い出すことが出来る。
最初の水の雫が、己を地に染み込ませて死ぬことで、いつか生命を潤すように。

時には武器も防具も外して、クロノス城に戻るのもいいのかも知れない。
そんなことを考えながらも、丘にうごめく影を見つけた途端、私は杖を構え、そこへと身を躍らせていた。


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