意図されたまどろみ


何年も前に書かれた、異なる世界の記録。

その世界を創っていた神々の住まう場所は閉鎖されてしまった。
私は、短い時間、己の筆を捧げたことがある。
異なる世界に、生まれでた冒険者たちの勲しを記すために。

もう、冒険者たちは私の名前を覚えてはいないだろう。
けれど、一つの喪失を思うと、やはり広げて見直してしまう。
物語を紡ぐことで、相手の感情を揺さぶる楽しさをあの世界で学んだ。
『私』の本質は、あそこで形作られたのだ。

この世界での自分の在り様に、不満や疑いを抱いたことはない。
自分の物語を紡ぐことも、楽しいことではある。

「見せて」

のびてきた白い手を払い、紙をまた束ねなおした。
これは思い出の品。容易くは人目には晒せない。

「……ただで、とは言わないわ」

急に目の前に、銀の杯が浮かんだ。
暑い国で好まれる飲み物によく似た、黒い液体。
毒?
いや、『彼女』が、契約を結んだ相手を害することはないだろう。
少なくとも、こんな形では。

「これはあなたに、霊感をもたらすもの」

白い手が、見事な浮き彫りのなされた杯を私の手に取らせる。

「ひととき、夜に語られる物語を見せてくれるわ」

夜はまどろむもの、眠るもの。
突き返そうとした私の手の甲を、指先がそっと撫でる。

「大丈夫よ、効果はほんの一時間ほど」

瞬かぬ目と同じ、黒い液体。
その水面が、誘うように揺れる。

思い切って、私は一息にそれを乾した。

---

床に倒れ伏した魔術師の横に、抗議するように赤い影が浮かび上がる。

「にゃにしたにゃ!」
「眠ってもらっただけよ」

すました声の主は、置かれたままの紙束を手に取った。
その目の前を、赤い影はびゅんびゅんと飛びまわる。

「もどすにゃ!勝手にゃことを……」

瞬かぬ目は細められ、召喚獣に長い爪を伸ばした指をつきつけた。

「そんなに心配なら、一緒にいってらっしゃいな」
「にゃああああっ?!」

ぽん、と音を立てて、赤い影は消える。
相変わらず目を眇めたまま、何処とも知れぬ場所を見ていたそれは笑った。

「名づけられたものと同じ意味をもつ名前。面白いものね」

さて、と、紙束の置いてあったテーブルに腰をかけ、足を組む。

「でも、魔物を封じた騎士なんて、堕ちるばかりかもしれないわね」

暗黒の騎士?
独り言の後、軽やかに笑った存在は、しかし紙をめくろうとする手を止めた。
誰かが、自分の主に呼びかけている。

「しょうがないわねぇ」

紙束を脇に置き、白い手の魔物は己が主の中へと滑り込む。
眠っていた魔術師は、起き上がった。
瞬かぬ目を除けば、いつもと変わらぬ様子で。

「少し、休んでいてもらうわ、兄さま」

少女の声が呟いてから、がらりと変わり、主の声でそちらに向かうと告げた。


仮初の夜の中、異なるものたちの冒険が始まる。


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