尾瀬の麓、片品村でのむらづくり記録

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2005年02月25日
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カテゴリ: 東田代村
13ーのろしー

 なぜ、真田家沼田藩の「代官」職にあった大塚与惣右衛門をこんな辺鄙(ぴ)な場所に送り込んだのか?

 それは真田藩の防衛線の強化だった。

 江戸から会津に至る道は他にもある。だが、抜け道として重宝がられたのが沼田や尾瀬を通って会津に達するこの街道。かつて源義経が東北に逃走するルートととしてこの街道を用いたとも言われる。

 この街道が戦略的価値を一層高めたのが関ヶ原の戦いだ。徳川家康側についた初代沼田藩主・真田信幸は、大阪方(石田光成)についた上杉謙信の会津からの動きをけん制するべく、“北の守り”にでた(ということは、敵陣に組した父・真田昌幸と弟・真田幸村と袂を分かった)。上杉側から考えれば、上州攻めの格好なルートだった。

 信幸は、尾瀬の南側上り口の戸倉に関所をもうけた。不穏な族(やから)を一人さえも通さないとの意気込みだった。

 この会津裏街道は、沼田城の正面入口が基点となって東に向かって大小の山を越えてゆく、いわゆる山岳道路である。途中、人物往来をチェックし易いようにと追貝宿に“関所のような”役割を果たすつり橋を激流の片品川に架けた。そう遠くないところに「吹割の滝」があるので位置関係が想像できるだろう。

 なお、大阪方を打ち負かしたのを機に、信幸は自らの名が不名誉な父・昌幸のそれとダブるとして、信之に改名した。家康公を意識し、気兼ねしての即断だった。

 以後、この一体は、上州と会津をむすぶ唯一の物流地図となって、隊商もしばしば往来した。経済交流面でも重要性を増していった。

 会津裏街道と日光裏街道が交わる合途原から3キロ弱の場所に東田代村がある。

 会津裏街道には二つのルートがある。一つが、足利や桐生に近い大間々から小麦峠を通って、数坂峠の北側に位置する大原に出てくるものと、もう一つが東田代村から大間々に抜ける道だ。沼田からみて、大原は追貝宿の手前にあり、追貝の向こうは戸倉宿そして難所の尾瀬となる。

 大間々からやって来て、とくに日光行きならば、両街道が交わる菅沼村の合途原まで出てこなくとも、東田代村から近道となる小川村に行けばいい。このような立地条件に与惣右衛門のような家臣が定住する必要があったのだ。

 伝達手段としての狼煙(のろし)を上げたいのなら東田代村はもって来いだった。発射台となる高台は、ひとつと言わずいくつも用意できる場所が近くにあった。会津国を凝視して藩内関所がある戸倉まではひとっ飛びで伝わる距離だし、沼田城までは、三の中継地点、つまり水行寺山(1327メートル)ー田代山(1351メートル)ー雨乞山(1068メートル)があれば数時間で“伝言”可能な距離だった。





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Last updated  2005年03月13日 11時11分45秒
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横坂です@ Re:「東田代村」を議員が視察(07/09) はじめまして。 片品出身の者です。 こち…
乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
もじゃもじゃ君@ 短小ち○こに興奮しすぎ(ワラ 優子ちゃんたら急に人気無い所で車を停め…
まさーしー@ なんぞコレなんぞぉ!! ぬオォォーーー!! w(゜д゜;w(゜д゜)w…

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