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2019.03.27
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ニュートンに消された男 ロバート・フック

ニュートンに消された男 ロバート・フック

 フックがセントヘレン教会のどこに眠っているのか、今では誰も知らない。(306ページ)
著者・編者 中島 秀人=著
出版情報 KADOKAWA
出版年月 2018年12月発行

1996 年に発行された朝日選書版の文庫化。著者は、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授で、科学技術史を専門とする中島秀人さんだ。

本書で紹介されるイギリスの物理学者ロバート・フック(1635~1703)は、高校物理で習う「フックの法則」のフック、その人である。生物好きの方は、コルクの細胞構造をスケッチした人といえば思い出すだろうか。
フックは、アイザック・ニュートンより 7 最年長で、「体が弱く、工作好きであったというフックの少年時代は、未熟児で生まれ、機械工作を好んだニュートンの少年時代と、驚くほど似通っている」(40 ページ)にもかかわらず、その伝記がほとんどない。肖像画すら残っていないという。ニュートンが王立協会に入ってくると、光学や反射望遠鏡、『プリンキピア』をめぐって両者の激しい対立が起きる。
フックが没すると、王立協会会長のニュートンは、フックが生涯の住処としたグレシャム・カレッジを引き払い、フックが製作した実験器具や肖像画を廃棄してしまったとみられている。それほどニュートンはフックを恨んでいたということだろう。

フックの人生を通じて、ピューリタン革命から王政復古、名誉革命を経てハノーバー朝が始まり、首都ロンドンはペストの流行や大火をくぐり抜け、大英帝国へ突き進むイギリスの歴史が見えてくる。社会が変革期にある時には、すぐ実学に結びつくフックのような実験科学者が重用されるが、王政復古を経て安定期に入ると、ニュートンのような理論科学者が提示する哲学が大事になってくるのが、歴史の流れなのかもしれない。ニュートン個人の恨みより、歴史の大きな潮流が、1 人の偉大な実験科学者を消し去ってしまったのである。

フックの伝記を書こうとイギリスに渡った中島さんは、生地ワイト島を何度か訪れ、フックの父がフックに宛てた遺書を入手する。そこからフックの生涯を紐解く作業が始まる。父と祖母から 50 ポンドを相続したフックは、ロンドンで画家ピーター・リリー(1618~80)に弟子入りする。が、学問の才能を見いだされ、ウェストミンスター・スクールに入学。1653 年ごろ、オクスフォード大学のクライスト・チャーチに進んだ。クロムウェルが議会を解散して、護国卿となった時期である。

フックは、「ボイルの法則」でお馴染みロバート・ボイルの実験助手となり、オクスフォード・グループに参加する。オックスフォード・グループは、「悪貨は良貨を駆逐する」という有名な言葉を遺したトーマス・グレシャムが設立した社会人学校グレシャム・カレッジを会合の場とし、これが後に王立協会に発展する。グレシャム・カレッジの教授として着任する直前、フックは協会からカレッジ内に住むことを許された。そして彼は、死ぬまでグレシャム・カレッジの一角を住居とした。

王政復古によって、イギリスの政治的な混乱は収束した。だが、1665 年から 66 年にかけて、ロンドンはペストの流行と大火に見舞われる。建築家としてのフックは、鎮火後間もなく、ロンドンの再建プランを王立協会に提出した。このプランは採用されなかったが、測量技師として、ロンドンの再建に貢献した。

1662 年、「ボイルの法則」が示されるが、ボイルとともに実験を行っていたフックはそれよりも早くこの法則に気づいていたようである。だが、これについてフックは先行発見の主張はしていない。
フックは、グレシャム・カレッジでの『復元力についての講義』を行いながら、「フックの法則」をまとめていく。フックは、「知覚できる世界は、物体と運動から構成されている」と主張していた。彼は、アリストテレス主義やヘルメス主義の神秘主義的な「隠れた質」の議論を拒否し、世界を機械論の立場から説明しようとした。(154 ページ)
「フックの法則」は、1678 年に発表された。

フックは天体観測にも力を入れた。土星の衛星や輪の間隙を発見したカッシーニは、1666 年に火星の自転が 24 時間強であることを発見した。フックも、ほぼ同時期に同じ発見をしている。
フックは、地動説の証拠となる恒星の年周視差を観測しようとし、グレシャム・カレッジの自室に焦点距離12 メートルの屈折望遠鏡を固定設置した。ここで観測されたのは年周視差ではなく光行差であった。
それでも、フックが高性能の長大望遠鏡を作製することができ、高度な観測を行うことができた科学者であることは確かである。長大望遠鏡で観測に取り組んだホイヘンスやレンは彼の先駆者であり、天体の精密観測を行ったフラムスチードやハリーは、フックの後継者となったのである。フックの役割は、この 2 つの世代をつないだことにあった。(184 ページ)

フックが日記を本格的につけ始めた 1672 年、アイザック・ニュートンが王立協会の会員に選ばれた。
この頃のニュートンは光学の研究をしており、独自のニュートン式反射望遠鏡を試作した。この評価を求められたフックは、実用レベルにないと判定した。当時の屈折望遠鏡には球面収差と色収差という欠陥があったが、これは焦点距離を延ばすことで改善された。反射望遠鏡にはこれらの収差はないものの、当時はガラスではなく金属鏡を使っていたため、反射率が悪いことや、すぐに曇ってしまうという欠点があった。
優れた観測かでもあったフックは、反射望遠鏡の必要性を感じていなかったのである。
また、ニュートンは光が粒子であるという説を展開していたが、フックは波動説を主張していた。
こうしてフックとニュートンの間に対立が発生するが、すでに王立協会で確固たる地位を築いているフックに対しニュートンが譲歩する形で、この対立は 1676 年にいったん収束する。

1684 年、エドモンド・ハリーがニュートンの数学の能力や、力学に対する洞察力に感銘を受け、後に『プリンキピア』として出版されることになる書籍の出版を進める。
プリンキピアの原稿は王立協会に持ち込まれ、それを読んだフックは、ニュートンに対して様々な圧力をかけた。だが、ハリーという知己を得たニュートンは、この圧力に屈しなかった。
フックは、ニュートンが言う引力を先行発見したと主張するが、フックのいう引力とは、天体相互の場合のように、似たもの同士が引き合う作用のことなのであった。しかも、それは一定の範囲の中でしか作用しない。これに対して、ニュートンの万有引力は、類似物の間だけではなく、すべての物体の間に働く力である。しかも、その作用は、どんなに離れていても及ぶものだ。(293 ページ)

名誉革命とともに、ニュートンの名声は高まり、それと反比例するかのようにフックの評判は落ちていった。1689 年、ニュートンは、革命収拾のための仮議会の議員に選出された。1705 年、アン女王からナイトに叙せられた。科学者としての業績で爵位を得たのは、ニュートンが最初だった。フックが没すると、王立協会会長のニュートンは、フックが生涯の住処としたグレシャム・カレッジを引き払い、フックが製作した実験器具や肖像画を廃棄してしまったとみられている。それほどニュートンはフックを恨んでいたということだろう。

中島さんは、こう記す――権威主義は、誰もが理解できる学問を基礎として成立することはできない。露悪的に書けば、難しいからこそ、尊重されるのである。ニュートンの高度な科学は、その意味で、新しい時代に即した学問だった。そして、ニュートンの理論的な科学の興隆は、フックの実験的な科学を没落させた。(322 ページ)ニュートンの墓は、そのウェストミンスター寺院の中でもひときわ目立つものだ。だが、フックがセントヘレン教会のどこに眠っているのか、今では誰も知らないという。(306 ページ)






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最終更新日  2019.03.27 12:41:38
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