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2021.02.14
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カテゴリ: 書籍
現場の判断、経営の決断 宇宙開発に見るリスク対応

現場の判断、経営の決断 宇宙開発に見るリスク対応

 危機管理の鉄則は、ポイントを的確に押さえた正確な情報を、タイムリーに提供することである。(150ページ)
著者・編者 山浦雄一=著
出版情報 日経BP 日本経済新聞出版本部
出版年月 2020年12月発行

2020 年 12 月、小惑星探査機「はやぶさ 2」が地球へ帰ってきた。宇宙開発はハイリスクなプロジェクトだが、将来の民生利用まで考えると、リターンは計り知れない。かつて、JAXA の奥村直樹理事長が「宇宙開発の意義は、その多様性にある。これほとど多様な価値を生み出す事業分野は他にない」と言ったそうである。ビジネスマンとして、『現場の判断、経営の決断』というタイトルに惹かれ、本書を手にした。

著者の山浦雄一さんは、私より一回り上。高校の時にアポロの月着陸を見て、宇宙開発を志したそうだ。1978 年 4 月から 2017 年 3 月まで 39 年にわたり、宇宙開発事業団(NASDA)と後継の宇宙航空研究開発機構(JAXA)に在籍し、わが国の宇宙開発に貢献してきた。
毛利衛宇宙飛行士からはじまるスペースシャトルへの宇宙飛行士の搭乗、ISS の開発といった国際協力による有人宇宙飛行計画。一方、N-I から H-II シリーズに至る国産宇宙ロケットの開発と、ISS補給機「こうのとり」の開発と運用。危機管理全体を統括する経営企画部長として望んだ小惑星探査機「はやぶさ」の運用。
常にリスクと闘いながら、地道に対策を講じ、情報をオープンにすることで周囲の協力を得るという姿勢は、私たちのビジネスマンも参考になる。

1981 年 4 月、スペースシャトルが初めて打ち上げられる様子を見た山浦さんは、「ホントに上がっちゃったよ。1 回目から人を乗せて」と叫んだという。それまでの有人ロケットは、まず人を乗せずに試験打上げをしたからだ。しかし、スペースシャトルは無人で打ち上げることができなかった。私は小学生の時に『UFO と宇宙』というオカルト雑誌でスペースシャトル計画を知り、中学生になって、ボイーイング 747 の背に乗って大気圏内試験飛行するスペースシャトル・エンタープライズのプラモデルを作ったものである。

1984 年、目的も分からぬまま米ハンツビル駐在となった山浦さんは、アメリカの宇宙開発の父フォン・ブラウンの同僚や直系技術者と交流し、スペースシャトルに日本人宇宙飛行士を送り込むための実務をこなしていた。「国際プロジェクトでは夜に懇親の場を持って理解し合うことが不可欠であり、国際間共通」(31 ページ)というのは、当時も今も変わらない。

1985 年 8 月、NASDA は最初の宇宙飛行士候補、毛利衛さん、内藤千秋さん、土井隆雄さんの 3 人を選出する。
しかし、1986 年 1 月、スペースシャトル・チャレンジャー号事故が起きた。打ち上げの白煙の中から、チャレンジャー号の破片が飛び散る様は、いまでも鮮明に覚えている。
SRB ・オーリングがチャレンジャー号事故の象徴のように扱われるが、それは直接原因にすぎない。事故究明委員会は、宇宙開発史上初めて公開の場で、NASA のマネージャ達がシャトルは実運用段階にあることを示そうと、年間飛行回数を厳守し、過密スケジュールを緩めることへの拒否するプレッシャーを明らかにした。これは、後に日米で起きた事故原因究明に影響を与えたという。

ドイツからアメリカに渡りロケット開発に生涯を捧げたフォン・ブラウンは、技術力はもとより、人と組織を動かす力にあったという。彼が所長を務めた MSFC(マーシャル宇宙飛行センター)には、「マトリクス組織」という、「技術(工学)と科学(理学)の専門領域部門」と「プロジェクトのマネージメント部門」を明確に分けた組織体制がある。サポートコントラクターと呼ばれる契約企業がマトリクス組織を支えている。

1992 年 9 月、毛利衛宇宙飛行したスペーシャトルに搭乗し、FMPT(ふわっと'92)第一次材料実験が成功裏に実施された。チャレンジャー事故のために 4 年半遅れた。山浦さんは、「どこから見ても 100 点満点のフルサクセス」(75 ページ)と評価する。

ISS(国際宇宙ステーション)計画は、米日欧加が進めた宇宙基地計画と、ロシア(旧ソ連)のミール 2計画を連結したものだった。NASA のゴールディン長官は、ロシアのプライドを傷つけないよう、またコプチェフ長官がロシア国内で ISS計画を推進しやすくするよう、常に気配りをしていたという。旧ソ連時代から続くミール宇宙ステーションはプライドの象徴であり、ロシアの宇宙関係者は、「ロシア人が宇宙にいない日などあってはならない」と話すのを何回も聞いたことがあるほどだ。
ISS の最初のモジュール FGB(ザーリャ)は、1998 年 11 月 20 日、バイコヌール宇宙基地からロシア・ソユーズロケットによって打ち上げられた。
サービスモジュールの成功とロシア人の ISS長期滞在開始を見届けた後の 2000 年末、ロシア政府は 15 年間運用したミールを、2001 年に大気圏再突入させることを最終決定した。ミールが枚障して制御不能となって、落下地点が予測不能となるという最悪の事態を回避したのである。

ISS 建設途上で、再びスペースシャトルの事故が起きる。2003 年 2 月 1 日、コロンビア号が大気圏に再突入した際、空中分解を起こし、7 名の宇宙飛行士が犠牲になった。
山浦さんは、「事故時にまず重要なことは、初動対応」「記者会見では、迅速さと説明の透明性と分かりやすさがカギを握る」(115 ページ)と言う。
2003 年 8 月、事故調査委員会の報告書が公表され、?トラブルへの慣れ、?マネージメント文化、?組織方針のプレッシャーを指摘している。
「マネージメント文化」というのは聞き慣れないが、プロジェクトマネージャが「何故安全なのか」の理由を問わずに「何故危険なのか」の理由を、定量的な根拠を求め説明させたことを問題視している。これは、私たちの日々の業務リスク管理でも必要な視点だ。また、経営層が現場にスケジュール厳守を迫った事によるプレッシャーは、チャレンジャー号事故の時と同じだ。
打ち上げ再開した 2005 年 7 月 26 日、野口聡一宇宙飛行士がディスカバリー号に乗って ISS へ向かった。
山浦さんによれば、日本人飛行士への国際パートナーからの評価は高く、とくに 2014 年 3 月、日本人として初めて ISS船長に抜擢された若田光一宇宙飛行士の活躍は大変な偉業という。
NASDA(日本)は、1970 年代から実験棟「きぼう」の研究開発を進め、1994 年から宇宙ステーション補給システム(HETV)「こうのとり」の研究を開始した。いずれも実現した。

日本の液体ロケット開発は、N-I、N-II、H-I、H-II と続くシリーズの中で、打ち上げ能力を増やし国産化率を高め、順調に続いてきた。しかし、1999 年 11 月、H-II ロケット 8 号機の打ち上げが失敗し、2 回連続の失敗となった。失敗に対するメディアの批判は厳しかった。そのような湖囲が続く中で、科学技術庁と NASDA は記者説明の場を大事にした。
NASDA は、失敗した LE-7 エンジンを海底から回収し、国の各機関およびメーカーが連携して原因究明にあたり、H-IIA ロケット開発の改善項目としてインプットされた。
山浦さんはこの時のことを、「国内協働により基礎データと能力基盤を組織と人に蓄積・継承すべしという宇宙開発関係者への警鐘と教調であり、国産自主開発の本質の再認識」(195 ページ)と語る。
2000 年 4 月、NASDA サーバがサイバー攻撃を受け、迷惑メールの踏み台にされた。
2001 年 8 月 29 日、H-IIA ロケット試験機 1 号機の打ち上げに成功した。
2003 年 10 月 1 日、日本の宇宙 3 機関が統合して宇宙航空研究開発機構(JAXA)が設立された。
2009 年 9 月 11 日、H-IIB ロケット試験機(1 号機)が宇宙ステーション補給機「こうのとり」技術実証機を搭載して打上げに成功した。

ISS は、高度約 400 キロメートルの円軌道を約 90 分で 1 周する。軌道上での速度は時速約 2 万 8000km。「こうのとり」(総重量最大 16.5 トン、積載荷物最大 6 トン)は、H-IIB ロケットにより高度約 200 キロ~300 キロメートルの軌道に投入され、そこから自力で徐々に高度を上げて ISS に接近する。
ISS に積み荷を届け、廃棄物を積み込んだ「こうのとり」は、最終的には大気圏再突入して、荷物の ISS 不用品とともに融解する。仮に融解しない落下物があっても、安全な海域に落ちるようにコントロールされる。
1990 年代に NASDA が、ISS のロボットアームを使って結合すると提案した「こうのとり」の方式は、NASA にとって「ありえない方法だったという。
NASDA は、「こうのとり」の運用訓練にあたり、1 つに統合したいコンピュータープログラムを複数のコンピューターに分散して、ネットワーク接続して連係動作きせる分散シミュレーション技術を導入した。「こうのとり」技術実証機(初号機)の打上げまでに実施した訓練は、日米合同 53 回、国内 65 回、合計118 回であった。また、訓練を経て完成させた手順書は合計約 2000 件で、うち約 1900 件がトラブル対応時のものであった。
こうした訓練の積み重ねによって、NASA の信頼を勝ち得てゆく。
「こうのとり 6 号」(2016 年 12 月)~「こうのとり 9 号」(2020 年 5 月)により、ISS の 24 台すべてのバッテリーが GS ユアサ製リチウムイオン電池に置き換えられた。
「こうのとり」は、 2009 年 9 月~2020 年 8 月の年間に 9 回のミッションを全て成功さた。シャトル退役後の ISS運用を支えた「こうのとり」の唯一無二の能力と完璧な信頼性は、傑出していた。

「こうのとり」の ISS結合方式は、その後、小惑星探査機「はやぶさ」のタッチダウン運用に活用される。
日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げ(1970 年)から僅か 5 年、ISAS は、日本初の宇宙探査機によりハレー彗星観測を行うミッションを立ち上げた。
2009 年 4 月、山浦さんは JAXA の危機管理全体を統括する経営企画部長になった。このとき、小惑星探査機「はやぶさ」がトラブルに見舞われる。「はやぶさ」は擬人化されて「はやぶさ君」と呼ばれるようになり、社会の注目が日々高まっており、山浦さんは、「自分の部長任期中に大変なリスク管理、危機管理があろうことは肝に銘じていた」(285 ページ)という。
「はやぶさ」で誤情報を流したら影響範囲が広い。だから危機管理では、情報の真偽確認と正確でタイムリーな情報伝達に特に留意した。全ての情報が特定の 1 人に入り、そこから発信されるよう担当者を決めた。やがて彼の頭には全てが収まり、危機管理部隊の「はやぶさ君」と呼ばれた。
トラブルの発表、報道対応は、危機管理の重要部分だが、的川泰宜 SAS 教授と川口淳一郎プロジェクトマネージャが説明責任を果たしており、山浦さんは何の心配もなかったという。
こうして、「はやぶさ」は何とか地球への帰還を果たした。

次の「はやぶさ 2」は、出だしから難航したという。政府の事業仕分けにより予算が削減され、2010 年秋の第3 弾で、ようやく満額の 30 億円で開発着手が認められた。政府の事業仕分けは、第3 弾をもって終了した。
2011 年 3 月 10 日夕方、JAXA で BCP が完成した。その翌日、東日本大震災に見舞われる。
山浦さんは、2011 年 8 月、私は JAXA 執行役(理事補佐)となり、経営側で仕事をする立場になった。
ISAS理学委員長の常田佐久国立天文台教授から相談を受け、「はやぶさ 2」の科学目標を「太陽系の誕生と進化を解明する」と明確にした。
探査機や有人システムでは、「まず運用への要求事項を理解して運用計画を練り、そこから設計にフィードバックさきせる」(324 ページ)ことが基本だという。だから、打ち上げ前の運用シミュレーションが大切だ。
難産だった「はやぶさ 2」は、しかし、目標を次々とこなし、2020 年 12 月、小惑星「リュウグウ」のサンプルをもたらす。






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最終更新日  2021.02.14 12:23:28
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