「ほらよ」と渡すお金を受け取る。
さっきの客が、最後の最後に、支払う段になってからまけてくれと、料金を値切りだした。こわもての支配人を呼んで話をつけてもらったところだ。
そりゃ、キャバ嬢のときは、「ご予算のお客様」といって、始めに交渉されると、料金を安くするかわりに極端な時間制限をして客を入れることがあった。「ご予算」だと、中に何が入っているのか分からないサービスボトルが出る。女の子たちはドリンクを切らないようにして、要するに余計な飲み物をおねだりしないようにして、客の携帯の電話番号やアドレスを聞き出して帰す。「ご予算」だと、当然つまみもろくなものが出ない。次回に営業電話をかけて、「ご予算」でなく来店していただくために、女の子だって遊んでいるよりはましだから、店が考え出した営業システム。
だから普通に入店して、帰り際に料金を値切りだすとルール違反で、
「それはないでしょう?」
と、黒服が現れてきっちりと取る。
しかも今の私の仕事はソープ嬢。サービスをきっちり受けてから値切られては困る。と、いうよりひどい! そりゃあ、事前に値切られたら、暇なときには遊んでいるよりも良いから受けてあげることもある。中味は手抜き。時間だって短縮。
交渉ごとは事前にしなきゃ無理。
「価格破壊だ」とか、「損して得取れ」とか、最近はわけのわからないことを言い出す客が増えた。サービス業には薄利多売はないのだから。遊び方を知らない客、モテたかったら金をだせってお商売だよ。
私が、客のためにサービスに用意しておくタバコだって、自前で用意しておくのに、ここぞとばかりごっそりと数箱持ち帰るタコ。タバコの代金分、サービスに手抜きをされているとも知らないで。
後三ヶ月、三ヶ月で昔で言うところの「年期」が明ける。
古い言い方だなあと、絵美は笑う。
とりあえず一年だけ勤めれば、なにもかもチャラになる、そう信じて今の仕事をしている。
月に一度か二度くらい、思い出した時に、繋がらなくなった携帯電話の番号をコールしてみる。絵美がソープに勤める原因になった男の携帯電話の番号を。
惚れた男の借金の保証人になったばかりに、男がトンズラしたために背負った借金だ。
男の携帯は一年以上前から繋がらない。いや、繋がりはするのだが、即効、留守電になる。メッセージを入れても決して答えは返ってこない。そういう意味で繋がらなくなった携帯電話の番号だ。
かける度に、「現在使われておりません」でなければ、ほっとする。絵美はかろうじてヤツと繋がっている気がするのだ。
返事が返ってこない留守電を承知で、今日も仕事の待ち時間にコールしてみる。
呼び出し音が鳴る。即効の留守電が解除されていて、コール音がする。絵美はドキドキした。彼が出る! と、思ったら、女の声で「はい?」と応答した。誰? と思ったが、ヤツの名前を言い、電話の持ち主はどうしてるいのかと聞いた。女は、
「今、シャワーを浴びているから、代わりに電話に出た」
と言う。
「電話に出してちょうだい」
絵美の気色ばんだ声に、女は少しあわて、後からかけさせると言って電話を切った。
その後は何度かけても、電源が切られたままだった。
翌日、もう一度かけてみると、聞きなれない男の声で、
「この電話ね、前の持ち主からずいぶん前に買い取ったんだわ」
と言う。
「買い取った?」
どういう意味だと聞き返したつもりだ。
「オタクも知っているだろう?電話で仕事してたのよ。だから前の持ち主から仕事ごと譲り受けたというわけ。そういうことだから、この電話はその人とはもう関係ないから」
「ちょっと待って。その電話を売った人の居場所を知りませんか?」
「さあ、電話と仕事を譲り受けただけだから、今の居場所は知らないな」
そう言って切れた携帯は二度と繋がらなくなった。つまり、ゲンザイツカワレテナイ状態になってしまった。
呆然として仕事をしていたら、常連のチョウさんが、
「どうしたの?心ここにあらずって顔をして」
と聞く。この世界に入って初めての客で、月いちで来るチョウさん。三回目の来店から、なんとなくお互いの身の上を語るようになった。
「ん、実はさあ……」
チョウさんは興信所に頼んで探してみたらと言う。ヤバイ奴らから逃げているような男を興信所では捜せないだろうとせせら笑うと、チョウさんはそうでもないと言う。知り合いに、相場より少し高いがとても有能な探偵がいるらしい。
「頼んでみないか?はっきりすればキャシィもすっきりするだろ?」
「キャシィ」とは絵美の陳腐な源氏名だ。チョウさんも本名とは縁もゆかりもない遊び場の呼び名。
「おきて破りかも知れないが、キャシィの携帯の番号を教えてくれたら、後で連絡して紹介するよ」
と言う。
チョウさんが紹介してくれた、相場より少し高い興信所の探偵サンはたった一週間でヤツの居場所をつきとめた。
ヤツは吉原の女のヒモみたいな暮らしをしていた。あの電話に出た女?
吉原かあ。オミズなら銀座、ソープなら吉原。一流はそこと決まっている。キャシィなんて怪しい名前をつけられた所は、吉原からすれば場末なのだ。ヤツが逃げた借金を背負って受けた仕事場。複雑な感情が絵美を支配する。
「今年の暮れまでには、借金が終わるよね」
支配人に言うと、社長が来ているからそっちへ聞けと言う。
社長室を訪ねると、
「一年で返せるといったけど、それはキャシィが稼ぎの全額を納めた場合のことで、生活費がいるというから月に30くらいは渡しているじゃないか。後もう一年は勤めてもらわないと無理だよ」
と、にべもない返事だった。
「後、もう一年……」
詐欺みたいだ。一年の辛抱だと思ったから耐えられたこともあったのに。
男に裏切られたという感情が爆発して、絵美は興信所から返答された書類をたたきつけた。
「ヤツの居場所はわかったから、ヤツからとって頂戴よっ!」
その言葉は絵美の悲鳴のようだった。感情がおしあがる。
興信所の書類をじっと見ていた社長はタバコを灰皿に押し付けながら言う。
「吉原の女のマンションだろ?女が食わせてやっているのなら、ヤツは一文無しだ。持ってないヤツからは取れないね。おまえはそのための保証人じゃないか。女からだって取れないぜ」
「そんな……」
吉原の女のマンションに訪ねてみれば、女は、そんな男は知らないととぼける。
興信所が送ってくれた写真に間違いなく写っているヤツは、このマンションからこの女と一緒に出て来るところだ。この出入り口に一日中、張っていればヤツに会えるのか?
夏の終わりの午後、都会は絶叫する。コンクリートの暑さに。
何のために、この炎天の下に突っ立っていなければならないのだ?
激しく溢れ出る汗をハンカチで拭いながら、絵美は急に馬鹿馬鹿しくなってきた。そんなことをしている自分にも、そんなヤツに惚れていた自分にも。
「疲れたな・・・・・・」
足を引きずり引きずり、自分の街に帰ってくると居酒屋のカウンターにひとり腰をおろす。たった今、のれんを出したばかりの小さな居酒屋には、まだ他の客の姿はない。ギンギンに冷えた生ビールと二三品の肴を頼んで、これからの絶望をどう対処するべきなのか、分からないままに憮然としていた。
「絵美ちゃん、いい加減に足を洗いなさい」
おせっかいババアの説教がまた始まった。このババアはしたり顔をしてすぐ説教を始める。何にも知らないくせに。いつもは聞き流すのだが、今日は癇にきた。カウンター越しに女将の顔にグラスの中身をあびせてやった。
私は一体何をしているんだろう? 祖母くらいの年齢のババア相手に。そう思うと自己嫌悪がどこまでも膨らんでいく。
女将はいっそううるさく説教を始める。カウンターに諭吉を一枚たたきつけて外に出た。居酒屋の軒先につるされた風鈴がうるさい。
急に生きているのがいやになった。
言われなくったって、こんな生活、後一年以上も続けられるもんか!
自分の部屋に帰って、あるだけの酒をあおる。飲んでも飲んでも酔いが回らない。酔えないのに、気が付いたら、トイレでゲェゲェ吐いていた。