ママが、由紀のタクシー代を節約させてあげようという気づかいで言った。
小鹿野さんは、ママの古いなじみだが、由紀のことを気に入って、最近の来店回数が増えている。
送ってもらうのはよいが、住んでいる場所を、あからさまに知られるのもためらいがあり、由紀は少し手前の角でタクシーを降りた。晩秋の夜も更けると薄いコートでは肌寒い。由紀は思わず身震いをした。小鹿野さんはこの角の左手のマンションに、由紀が住んでいると勝手に思ったようだ。夜更けの闇の中から金木犀の匂いが届く。芳香ではあるが淫靡な香りだと由紀は思う。人間の営みの芯に隠れた部分から湧き出すような香り。
その香りが停滞するような小路の角を右に曲がると、いきなり聞こえてきた。
「おとうしゃ~ん、おかあしゃ~ん・・・・・・」
「えっ、えっ・・・・・・早くかえってきてぇ」
由紀は駆け出しながら腕を見る。時計は一時をまわったところ。十メートルも走ったらアパートが見える。二階の一番向こう端の部屋のベランダに、子供がふたり立って泣いている。結衣と健太だ。
由紀を見とめて、ふたりは、
「おかあしゃんだあ!」
と、飛び跳ねる。
「しっ! 静かに! すぐ行くから」
あわてて、アパートの横にむき出しで付いている鉄の階段を駆け上る。鍵をバックから出すのももどかしい。
ドアを開けると、煌々と電気のついた部屋の向こうに、ふたりが開け放ったベランダのガラス戸から四角い闇が見えた。
「おかあしゃん・・・・・・」
まとわりついてくるふたりを、由紀はしゃがんでしっかりと抱きかかえる。
「おとうさんは?」
「かえってこないよう」
べそべそと、おなかがすいたと泣く。
当然だ。晩ごはんは俺がホカ弁買って帰って子供たちに食べさせるからと、夕方に電話をくれたから、夫を信じて、先に仕事に出かけたのだ。それが、由紀が仕事を終えてもまだ帰って来ていない。
大急ぎでスパゲッティをゆでてレトルトのソースを暖めて子供たちに食べさせる。狭い部屋中に散らかった空の菓子袋を片付けて布団を敷き、安心と満腹で目がくっつきそうになったふたりをパジャマに着替えさせる。お風呂は、明日起きてからにしよう。
化粧だけ落として、子供の横に添い寝すると、
「おかあしゃん」
健太がしがみついてくる。眠りながら泣いている。ひどくかわいそうなことをしてしまった。どんなにか心細い夜だったことだろう。
深夜にベランダで泣いていて、ご近所に迷惑だったろうか?
まだ保護されていなかったところをみれば、そんなに長い時間ベランダに出ていたわけではなさそうだ。
それにしても夫はどうしたのだろう?
子育てと家事と夜の仕事とでくたくたの私に、
「たまには手を抜けよ。俺が晩ごはんを食べさせるから」
と、優しい電話をくれたのに。
いつもなら、由紀と入れ違いに帰って来るはずだったのに。
由紀は先々月から、バー『美月』に勤め始めた。
夫の帰りを待ってから家を出たのでは、しょっちゅう遅刻をしてしまう。雇い主の彩ママが、事情を知っていてくれて大目にみてくれてはいるが、
「由紀ちゃん、みんな事情をかかえて働いているんだからね」
と、言われてしまった。
それで、夫が仕事の遅番の時は、先に店に出ることにした。遅くても一時間くらいの空白で、夫は家に帰っていたはずだ。今までは。急に不安になる。帰ってこられない事情なんて……思いはどんどん悪い方に走っていく。何か事故でも……事件に巻き込まれたとか……。
子供たちに添い寝をしながら、夫の「もしも」を考えていると、ドキドキして眠れなくなり暗い天井をにらみつけていた。入り口のドアの鍵がカチャリとまわった。しがみついた健太の手をそっと外して起き上がる。六畳、四畳半の二部屋に小さなキッチンのついた狭いアパートだ。入り口はキッチンと一緒になっている。そのキッチンで由紀は夫と向き合った。時計は午前二時を回っている。
「どうしたの?こんなに遅くなるなんて」
「悪い、悪い。急な残業になっちゃってさ」
夫はジャンパーを脱ぎながら、そう言う。
「事故にでもあったんじゃないかと心配してたのよ。連絡がほしかったわ」
午後七時閉店のスーパーのパート社員に、いくらなんでもこんな深夜までの残業はありえないことだ。
「急に陳列を全面的に変えちゃおうって、店長が言い出してさ。レジの女の子も手伝ってて、俺だけ帰るって言えないだろ?」
「分かるけど、そしたら、結衣と健太がどういうことになるか考えなかったの?」
「だから悪いって言ってるだろう」
「もう、私に連絡することも出来なかったの?」
「こんなに時間がかかるって思わなかったんだよ」
夫が転々と職を変え、いつも最後のお給料はもらえないような辞め方をして食い詰めた為に、由紀は手っ取り早いからと、水商売で働き始めたのだ。
現状では、由紀の収入でやっと食べているような状態だった。なんだかんだと言い訳をして、夫はまともに給料を渡してくれなくなっていた。
「先月のお給料だってまともに貰っていないのに、残業を手伝うの?」
「だから先月分も取り返そうと思ってさ。子供たちの面倒をみるために、早く帰っていたから、ちゃんとお給料が出なかったんだよ。今月はばっちりだ」
「それより疲れたろう?風呂に入って早く寝ようぜ」
夫は由紀の腰を引き寄せて唇を重ねてくる。由紀は少しも気が付かなかった。夫の語る矛盾点に。それで何度も子供たちに犠牲を強いては繰り返されたのだった。それに懲りた由紀は、夫の帰りを確認してから家を出ることにした。おかげでしょっちゅう店には遅刻をする。
「由紀ちゃん、事情はわかるけど、そうですか、そうですかと許していたら、店はめちゃくちゃになってしまうの」
言い方は優しかったが、彩ママは、由紀の遅刻や欠勤の多い勤務態度をあらためるようにと諭しているのだ。
時には夫がとうとう帰ってこなかったために、一時間置きに店に電話して、
「夫が帰り次第、そちらに向かいますから」
と言っては
「もう、今日は来なくていいわ!」
と叱られたり、
「お店、混んでるんだから早く来てちょうだい」
と言われたにもかかわらず、結果的には突然休んだのと同じ状態で終わってしまう日も出来てしまった。
「あてにならない由紀ちゃん」と、ママは眉をひそめる。クビにならないのは、おーさんをはじめ、由紀のことをひいきにする客が数人いるからである。
託児所付のキャバレーにいた由紀は
「きどるんじゃあねえよっ、ねえちゃん」と、お客に叱られて、ひとり浮いていた。でも、こんな出勤を繰り返していては、やはり託児所付のキャバレーにもどるしかない。
天が突き抜けるような澄んだ青空を見せる午後、由紀は子供たちを連れてバスに乗り、夫の職場であるスーパーに出かけてみた。
夫がちゃんと働いているのか、急に不安を覚えたのだ。
夫はこの仕事で、何度目の転職だったろう。いまさら数えるのもいやになるくらい。
「黒川さん?さっき配達に行かせたんだけれど、行ったきり帰ってこないんで、困ってるんだよ。配達がたまってるからさ」
そこは元酒屋だったのをスーパーにしたので配達が多く、配達要員に夫を雇ったのだという。店主だというその人は、体格の良い五十がらみの男で、少し白髪の混じり始めた眉根を寄せて、珍しいものを見つけたとでもいうような感じで由紀たち母子を眺めた。
「へえ~、ヤツにこんな可愛い奥さんと子供がいたんだ」
「今日も残業でしょうか?」
由紀の問いに店主が驚いた。
「残業?そんなのないよ!陳列替え?こんな小さなスーパーじゃ、配置替えのやりようがないよ。気の毒だけど、マージャンとかじゃないの?こないだ前借りしてたし」
「昨日も池袋の本社に行かされて遅くなったって……」
「池袋にホンシャァ~?フランチャイズだけど、うちが本社だぜえ。黒川のヤツ、ッタク、そんな言い訳してんのか?マージャンだよ、マージャン!配達フケて、パチンコしてるのがバレタとき、もうやりませんって泣いてあやまるから、一度は許したが、奥さんには悪いが二度はないよ。この調子じゃヤバイなあ」
由紀はあわててお辞儀をして、スーパーを去った。
「ッタクしょうがないなあ……」
つぶやくような店主の声が耳の後ろに下がった。
由紀は子供たちの手をぎゅうと握りしめる。怒りとなさけなさに奥歯をかんだ。
ゆうべ、またも遅くに帰宅した夫は、由紀にこう言ったのだ。
「悪い、悪い。おそくなった。帰りに本社まで行ってくれって店長に言われてさ。池袋の本社まで行って、俺、うっかりタバコ買ったら帰りの電車代が足りなくなってさ。飯もくわずに歩いて帰ってきたんだ。池袋から三時間もかかって疲れちまったよ」