サヨコの土壇場日記

オミズ的恋愛の壁

オミズ的恋愛の壁





 好きでもない男寝ることが出来るだろうか?

 《出来る》とは、好きでもない男と寝て、一体濡れるのだろうかという意味だ。身体の反応は起こるのかという思いに、美緒は疑問を感じていた。

 6階にあるショットバー『パスワード』のカウンターで、美緒はソルティドッグのグラスを気持ち左に回した。しょっぱさがグレープフルーツの味に絶妙に交ざる。さっきまで仕事でさんざん飲んでいたのに、口に酒がまだ入る。隣りには、美緒をアフターに誘った笹サンがいた。美緒には笹サンは客以上でも、以下でもない。むしろ大事なお客さんだ。だが、それ以上の感情が湧かない。所詮五十代のオヤジ。恋をするには、少し、お父さんっぽい。美緒は今年で三十一才だが、店では二十八と言うことになっている。

 笹サンは紳士だ。いつもオーダーメイドの仕立ての良いスーツを着ている。崩れたり、くたびれたというところがない。でも、時折のぞくお父さんっぽいところが苦手だ。

 「そんなに飲みすぎてはいけない」

 だの、

 「もう少し胸元の開き過ぎない服を着なさい」

 だの、うるさくてしょうがない。

 「そんなに言うなら、お洋服、買ってよ」

 うるさいからそう言ったのに、今度の日曜日に買いに行こうということになった。日曜日にまで客に会うのが、少しかったるい。《お仕事》の続きみたいで。

 「今度はザクロで作って」

 マスターが生ザクロで作るカクテが好き。十一月のほんの一時期にしか作れないカクテルなのだが。少し足のついた細いグラスの側面は白い水滴を身にまとって、中の薄い液体と不思議な混合を見せている。

 「きれい! わたし、こんな色のドレスが欲しい」

 何でも買ってあげるよと笹サンが笑う。

 やっぱり寝るのかな。美緒はカウンターに肩肘をついて、窓の向こうを見る。カウンターの内側の向こうは大きな窓になっていて、駅のホームが見えた。人影がない。おもちゃみたいな深夜のホーム。あそこでは、木枯らしが舞い始めただろうか。

 眺めながら、以前に客待ちの時間に絵美と話したことを思い出していた。

 「服の一枚や二枚で安売りすんなよ。寝たら終わりだかんね。出来るだけズーッと引っ張らないと」



※※※



 うんと年下たが、水商売は先輩の絵美だ。美緒は三年前に離婚して、去年、絵美の紹介でこの世界に入った。絵美は、同じワンルームマンションの住人である。彼氏がしょっちゅう変わっている。

 「ちよつと浮気したぐらいで殴るんだから、別れた」

 と言って、すぐ違う男と付き合い始める。美緒なんか、別れた夫しか男を知らない。今時、化石だと、絵美が笑う。笑われても、ある日唐突に愛する夫から、外に子供が出来たから別れてくれと言われたショックで、今更、男に胸にトキメキを覚えない。感情がなくなったような気がする。それなのに、孤閨の身体が男を求めることがある。誰でも良いから、抱かれたいような気分なる夜がある。

 好きな男としか、そういうことをしちゃいけないと、中学生の頃から呪いのように、祈りのように、耳元で母に言われ続けた。その母が、美緒が二十才のときに情死した。《そういうこと》はその四年後に、別れた夫に出会うまですることもなかった。

 「好きな男に出会えないじゃないのよ」

 淫乱なDNAだけ美緒に残して去った母が憎らしい。

 「・・・・・・ねっ」

 笹サンが何か念を押した。ぼうっと窓越しに誰もいないホームを見るともなく見ていた美緒は、聞いていなかったとも言えず、残酷なほど投げやりに、

 「ええ」

 と、返事をした。笹サンの顔に目を移すと、とても嬉しそうに目を細めて美緒を見ている。

 次の日曜日、六本木まで出て、ザクロが水滴をまとった色のドレスが見つからなかったので、代わりにレモンイエローのドレスを買って貰う。胸も背中も開いていないドレスを。

 ヒルズで食事をして、美緒だけがワインを飲んだ。車で来ていた笹サンは、残念そうに一口だけ口をつけた。まさか代行車でラブホに行けないもんなあ。ぼやきながら。

 マンションの自室にこの男を入れるのは嫌だった。合鍵くらい欲しい勢いでそう言われて、散らかってるし、絵美に出会ったら困るからと嘘をつく。絵美は明日の夕方まで実家に帰って留守だし、物の少ない部屋はモデルルームみたいできれいだ。

 好きでもない男を部屋だけには入れたくない。笹サンは嫌いじゃないけど好きでもないから。

 笹サンは手慣れていた。美緒は簡単に濡れた。柔らかく口を吸われ、唇を離そうとすると、

 「まだだ」

 と、顔ごと手で押さえられる。

 「舌を頂戴」



※※※



 キスをしたままで、笹サンは器用に言葉を使って美緒に命令する。唇を合わせたままでも喋れるんだと驚いた。十分以上も口を吸われていたような気がする。その時点ですでに身体は男を受け入れようとしていた。笹サンの唇が乳首を吸ったときには、もうイッていた。

 「こんなに濡れて・・・・・・」

 驚愕したような男の声が遠くに聞こえた。笹サンは美緒が自分をそこまで愛していたんだと勘違いしたようだ。

 「もう他の男に抱かれてはいけないよ」

 陳腐なセリフだ。

 へ~っ? 好きでもない男とだって寝て気持ち良いなんて思える女だったんだ、わたし。

 ひっ、と声が出る。

 するすると疑問が溶けるように、驚き共に見えて来た。母さんの情死は、他所に女を作った父さんへの当てつけだったに違いない。そうでしょう、母さん。母さんはあの男を好きでもなかったのによ。抱いてくれない父さんへの当てつけだったなんて・・・・・・

 あの後、父さんは急に老いた。ぼんやりと虚空をながめる父さんの背中は、破れかけた薄い紙切れのように痛々しかった。

 どこまでも気持ちの良い愛撫を繰り返す男に身を委ねながら、美緒は、笹サンに服を買ってもらうのはもうよそうと思った。もう二度と抱かれない。それなのにどうして。

 「きっとクセになるよ」

 と、笹サンは言うのだろう。

 「美緒は全身が性感帯なのだから」

 好きでもない男に抱かれても感じるんだということが、分っただけで、それで良いのに。






 源氏名は美緒、本名は澪。川や海で、船が安全に航行できる水路という意味があるらしい。船舶関係の仕事をしていた父さんがつけた。『渚』と、どちらにするか迷ったという。男の子が生まれたら『海』にするつもりだったとも。『渚』も『海』も、とうとう生まれてこなかった。










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