サヨコの土壇場日記

「初夏、そして風……」





 電車が赤羽駅に滑り込む。シューッと扉が

開いて、車内に人がどうっと増えた。祐介がその人混みに乗じて、より強く身体

を彩(あや)に押し付けて来た。電車が走り出す。

「同伴してくれるの?」

「いや、送って行くだけ……」

 祐介の手が彩の着物の袖口に滑り込んだ。

「えっ!」

「黙って!誰も見ちゃいないから」

 混雑の中で、祐介は彩を抱き込むような姿勢で立っている。

 上野で乗る際に祐介は、席が空いていないのが面白くなくて、新幹線にしよ

うよと文句を言った。在来線と五分しか所要時間が違わないのだから乗っちゃ

おうと彩が言うと、「じゃグリーン席……」、言っている間に発車のベルが鳴

る。急いで手近かな車両に乗り込んだ。

「立ってんのかあ……」

 祐介は不服そうに、開閉する扉とは反対の乗降口に場所を選んだ。

「混んで来たね」

 彩の耳元に祐介の息がふっとかかる。

 お客が身八つ口から手を入れることもあるから、入りにくいように工夫して

着物を着るのが彩の常であったが、袖口の方から侵入した祐介の手は、難なく

スルリと彩の乳房の側面に触れた。ゆっくりとなぞりながら乳首を捕らえる。

「痴漢ごっこ?」

 こんなところでまさかと思いながら、祐介の大胆な行動に抗えない。乳首は

ツンとしているに違いない。

 エリートサラリーマンの祐介がいきなりこんな行動に出るなんて、思っても

いないことだった。いつの間にか彩の心に棲みだした祐介とは、会えるのは半

年に一度あるかないかだが、メールはひんぱんに交わしていた。日記のよう

に。

 宇都宮まで行く在来線の停車間隔は、首都圏に近い辺りでは、結構長い。赤

羽を過ぎると、目的の駅まで二駅しか止まらない。その間を祐介にいたずらさ

れて、彩は立っていられない衝動を覚え、あわてて手近の握り柄に手をおいた。

「他の人に触られちゃ駄目だよ。まったく無防備なんだから」

 他の人だったらひっぱたくだろうし、何を言ってんのよと思うが声が出ない。

彩の動揺を意にも介さずに祐介はズボンのベルトの内側に、彩の手を誘い込

む。もっと驚きながら彩は、さっきから屹立して腰に押し付けられていたも

のに、ワイシャツの上から触れることになる。電車の中にいながら、だから

こそ予期しない祐介の行動に、彩は逆上してやっとのことで立っていた。

「腰砕けよ……」

「ここか?」

 祐介の手は乳房から腰へと移り、絶妙な触りを繰り返すのだ。

「酔ってるの?」

「ああ、さっきの焼酎が効いている」

 上野の蕎麦割烹で食事の時に口にした焼酎は、口当たりが良かったが、そ

の分余計に飲んでしまった。穴子の白焼き。海老の酢の物。季節の筍と鴨の

陶板焼き。空豆の塩茹で。そして焼酎の蕎麦湯割り。みんな彩の好きなもの

だ。

「くいしんぼさん!」

 祐介がからかうように言って笑った。楽しそうに笑った。祐介のいたずらっ

子のような笑顔が好きだ。いったい、会社じゃ、部下にどんな顔を見せて仕

事をしているのだろう。

 彩の身体の芯に火がおきて、ゆっくりと下半身に滲んでゆく。

 電車の中なのに……祐介ののど元にほほを預けてやっとのことで立ってい

るのだ。

「もうすぐ着くわ……」

 かろうじて理性が車内アナウンスを聞き取ってささやいた。

祐介がわずかに身を離したので、彩の手が宙を泳いだ。祐介の感触を手に残

したままで。

 ぼんやりと目の前にあるネクタイを見る。

「藤色だったんだ……」

 さっき食事をした割烹の店内ではグレーに見えた。

「感じてたろ?」

 彩の手を握りながら、祐介が聞く。意地悪! と言いたいが声がでないで

目線が流れる。

 電車が駅に滑り込んだので、祐介と後先になって下りた。ホームには人が

溢れ、乗ろうとする人を避けながらエレベーターの方へと歩く。電車はここ

から先がもっと混む。彩は残念なような変な気分にさせられた。

 人がエレベーターへとなだれ込み、その一列の二点になっても、彩には切

り取られたように祐介しか見えない。よく電車の中でいちゃついている若い

バカップルに呆れていたが、他人ごとではなくなってしまった。中年の男と

女が。

「じゃ、いってらっしゃい」

 改札の手前で足をとめた祐介が笑顔で言う。

「同伴してくれないんだ?」

 経営者ではなく若いホステスの頃なら、お店に罰金を取られるからと泣き

ついて同情も引けたろうが。

「近いうちに行くから、今日は行かない」

 と、強い意志で祐介が言う。

「一緒に飲みたいと思わないの?」

「うん、今日はね」

 数日前のメールで、その日は店を休めないか、と言ってきたので、

「ダメ。店は絶対休めない。けど、出勤前にお食事なら出来る」

 と返信したのだ。それで、祐介の会社に近い上野で会った。

 改札を一人で出て、数歩、歩いて振り返ると祐介がしっかりと見届けて

いた。

そして笑って手をふる。

 頭が朦朧とした気分で、身体の芯は燠火になってくすぶっている。奴は

このまま、彩に店を休ませたかったに違いない。

「プロはね、どんなに好きでも、男ごときで仕事を休まないの!」

 自らに言い聞かせるように独り言を言う。

 彩は自分の店へと急ぐために駅の階段を降りてネオンの街へ踏み込んだ。

つと、初夏の夜風が震えたようだ。喧騒の中を歩きながら、早く『ママの

顔』を取り戻さねばと、強いてわが身を鼓舞するのだった。


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: