大東亜戦争は聖戦ではない

大東亜戦争は聖戦ではない

2005.10.26
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テーマ: 戦争反対(1190)
カテゴリ: 戦争と平和
2.東アジアの共産化のための戦争
 盧溝橋事件当時は、近衛内閣でした、この時には、ブレーンとして「 尾崎秀実 」という人が中国問題の専門家として活動していました。

尾崎秀実(ほつみ) (朝日新聞社出身)
尾崎秀実 - Wikipedia

彼は、有名なゾルゲとともに スパイ として、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により有罪になり処刑されています。
その彼が、逮捕後次のように尋問に答えています。
「戦争に敗れあるいは疲弊した側からはじめて多くの社会主義国家を産む」(1942年2月14日尋問)(p34)
「中国共産党が完全なヘゲモニーを握って」いく(1942年3月5日尋問)
「1935年」頃に確信を持った。(1942年2月14日尋問)

(日本について)
「南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでありませうが、その後の持久戦においては日本の本来的経済の弱さと、支那事変による消耗がやがて致命的なものとなつて現はれてくるであらう」(1942年3月5日陳述)
「6ヶ月以後には却って日本にとっての不利なる諸情勢が発展し始める」(1942年4月14日訊問)
(終戦について)
「ソ連と提携し、之が援助を・・・必要とする」そのためにも「 社会主義国家としての日本を確固として築き上げること 」(1942年4月14日訊問)
引用元: 大東亜戦争と「開戦責任」
逮捕前にも次のような論文を発表しています。
「(日支事変について)日本に本質的な 根本的な改造 をもたらすこと」
「支那における統一は非資本主義(=共産主義)的は発展の方向と結びつく」
(『改造』1937年11月号)
引用元: 大東亜戦争と「開戦責任」
※「改造」とは治安維持法を逃れるための「共産革命」の当時の代用語です。

ちなみに、逮捕された1942年4月というのは、ミッドウェー海戦の2ヶ月前です。
1937年というのは、盧溝橋事件(日支事変)が発生した年です。
それ以前から彼は日本の敗戦を見越して
共産勢力のために活動していたのです。
どのように活動していたかというと、まず挙げられるのが、国民党政府(蒋介石)への誹謗中傷を行い、対決姿勢を強める活動です。

「(国民党政府は)反植民地主義的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョア政権」
「(国民党政府は)官僚(郷紳)階級、地主階級、および新興資本家階級、軍閥の代表者によつて構成されてゐる」
「国民政党は労働者農民の政党的勢力を根絶すべくあらゆる精根を傾け尽くした」
引用元: 大東亜戦争と「開戦責任」

このような論文を発表する活動などにより、国民党政府と全面対決の世論の雰囲気をつくり、近衛文麿の「国民政府を対手とせず」声明の下地を作ったわけです。これにより、日支間の和平の道をふさいでいきました。
これが、いわゆる「泥沼」の第一歩です。
そして、その拡大にも尽力しています。

 その上、近衛内閣のスパイは、尾崎秀実だけではありません。
尾崎秀実も所属していた朝飯会の西園寺公一、犬養健などもゾルゲ事件で逮捕されています。また昭和研究会の稲葉・勝間田・正木・和田らも企画院事件で逮捕されています。逮捕された以外にもたくさんの共産主義者が近衛内閣を固めていました。
共産主義者や共産スパイが開戦に大きく関与していたのです。

つづく


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Last updated  2006.08.24 00:50:41
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