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Peterborough Vision
朗読「記念日のレストラン」
■■■
朗読「記念日のレストラン」 (第二稿)
■■■
★★★ 作・金澤理奈絵 ★★★
語り
森野(ウェイター)
橋村夫人(老女)
工藤(女性パティシエ)
食卓には、家族の幸せと喜びが表現される。
特にそれが、家族の記念日を祝うディナーともなると、その食卓自体が懐か
しいよき思い出の風景へと変わるのだ。
そんな食卓を、思い出深い記念日に演出するのが、ウェイターの役目である。
栄華ホテルの最上階に、そのレストランはある。都会の夜景を一望できる老
舗の高級フレンチレストラン「ラ・リベルテ」。料理もさることながら、その
景色と雰囲気で、訪れたお客様をもてなす一流のレストランである。
森野はこのレストランのウェイターであり、フロア全体を取り仕切るマネージャ
ーである。フランス料理店では通常、ウェイターやウェイトレスのことをギャル
ソンと呼ぶのだが、この店では昭和五年の開店当時の習慣で、いまだにウェイタ
ーという呼び名で通っている。
「いらっしゃいませ。ご予約の橋村様ですね。お待ちしておりました。お二人様でよろしいですね?」
夕方の営業時間の、5時5分前、日曜ディナータイムの最初のお客が現れた。森野は、入り口受け付けに置かれた予約リストに目を落として確認する。
「ラ・リベルテ」では、マネージャーの森野だけでなく、すべてのスタッフが開店前に、その日の予約客を把握する習慣になっているから、わざわざ名簿を確認するまでもないはずだった。それでも慎重な森野は、その日最初のお客については、丁寧に名簿を確認するのがクセになっている。
“橋村様、二名。十二番テーブル”と記入された以外に、特に情報は書き込まれていない。予約名簿には通常、人数のほかに、メンバーの間柄や会食の目的、苦手な食材がないかまで、できる限り詳細に記入される。これが森野のこだわりで、予約を受ける際には、お客様を不愉快にさせない範囲で出来る限りの情報を聞き出すことにしている。「お客様を知る」、それこそが、満足いただけるおもてなしの第一歩だと信じている。
「はい・・・二人でお願いします」
淡い紫色のワンピースに、クリーム色のショールをかけた老夫人がかすれた声で、まるで、二人であることが申し訳ないとでもいうように答えた。
森野は、手馴れた受け答えで接客してしまった自分の態度に反省した。落ち度のない接客だからいいのではない、お客様が満足することこそが森野の仕事の意義である。それなのに、目の前の老夫婦は、森野の言葉で居心地悪そうにしている。
レストランにとっては毎日訪れる客の一組でも、訪れるお客にとっては初めての店であったり、たまに訪れる贅沢な時間であったりするのだ。そんなことを、森野はふと思い出させられていた。
わざわざ人数を確認するまでもなく、老夫婦が二人で来店しているのは傍目にも明らかで、予約数に間違いはなかった。それでも敢えて森野が数を確認したには訳がある。名簿の備考欄に「四人席で」と補足してあったからだ。ひょっとすると急遽人数が増える可能性があるのではないかと思っていた。しかし、老夫婦の様子から見ると、それは森野の取り越し苦労のようだった。森野は、夫婦の沈んだ雰囲気をなんとかしようと、軽く笑顔を作った。
「お二人のために、景色のいいお席をご用意させていただいております。今日は、お祝い事ですか?」
必要以上に詮索をしない。これもサービス業の鉄則。
だというのに、森野はある種、ムキになり始めていた。
老紳士の手にした色鮮やかな花束から推測して、会話の糸口を掴むつもりだった。実際、このレストランを訪れる家族連れは、何かの祝い事や記念日の食事を楽しみにくることが多かった。
「ええ」
黙ったままの老紳士に代わって、夫人が遠慮がちに無理に微笑んで頷いた。着ているものだけでなく、彼女の薄いグレーの髪の色が、よけいに全身を淡い色で統一してみせている。どことなく疲れた様子の夫人を見ていると、華やかなパステルカラーというより、全体に色褪せた陰の薄い印象を与えている。それでも、老紳士のシャツと、夫人のショールが同じ色で合わせられているのを見て、森野は微笑ましい気持ちになった。
「お荷物をクロークでお預かりできますが、いかがなさいますか?」
小柄な老夫人は、大切そうにピンクのブランケットで包んだ何かを抱えていた。その腕の中のピンクだけは、光があっているように色がはっきりしていて、色あせた老夫婦とは不釣合いに感じさせる。
「いいえ、結構です」
それまで自信がなさそうに受け答えていた夫人は、驚くほどはっきりとした拒絶を示して、まるで取られないようにとでも言うかのように、そのピンクのブランケットをギュっと抱きしめて答えた。森野は、その反応に驚きながらも、優しく微笑んで小さく頷いた。
「では、お席の方へご案内します」
予約通りに、四人掛けのテーブルに案内すると、二人とも窓の外に向かうようにして、横に並んで腰掛けた。不思議には思ったが、夜景を二人で眺めるつもりなんだと、森野は自分を納得させた。
「ラ・リベルテ」は、平日はランチとディナーのコースメニューで営業をしている。訪れる客の大半が、ホテルに宿泊している外国人客や、近隣の会社の役員といった顔ぶれである。商談や接待といった、仕事を兼ねた客が多いのが平日の特徴だ。しかし、土日になると客層は一変する。気軽に家族連れや団体で楽しめるようにと、ビュッフェスタイルを取り入れているからだ。
気心の知れた友達グループや、小さな子供連れなどでにぎわう週末の店内。森野は、この時間が一番好きだ。
週末の開店前のひととき、これから店内で繰り広げられるであろう、それぞれのお客様の晩餐を思いながら、夕日が傾く店内を見渡す瞬間に、この上ない喜びを感じるのだ。コンソメとブラウンソースの香りが漂い、厨房では味の最終チェックが行われ、食器やナイフの音が静かに響くひととき。テーブルセッティングをするウェイター達は、一点の曇りもないスプーンの内側に、自分の顔が逆さに映り込むのを眺めて至福のときを迎える。
いつもより贅沢に過ごす家族の記念日。このレストランでのひとときが、お客様にとって特別な時間になっているということに喜びを感じながら、自分がその演出に一役かっていることの責任の重さと満足感とが交錯する。
そもそも、この週末のビュッフェは、単にお客様へのサービスのためだけに行っているわけではない。平日は敷居の高いフランス料理店として、重厚なサービスと期待通りの料理でお客様をもてなしている「ラ・リベルテ」は、週末になると若いスタッフがメインのシフトとなる。若手シェフが腕をふるい、ベテランシェフは新たな創作料理に着手する。レストランの格式を守るのも大事だが、新しいことに挑戦できない環境はスタッフのやる気をなくしてしまうのではないかと、森野がこの店にビュッフェサービスを取り入れた。お手頃価格でサービスするかわりに、スタッフの勉強の場にしようと考えたのだ。
テーブルまで料理を運ぶ必要のない土日は、30あるテーブルを、四人のウェイターと、そのアシスタントを務めるバスボーイ六人で切り盛りすることになる。ビュッフェテーブルの料理を管理するチーフ以外は、割り当てられたテーブルの状況を把握するのが主な仕事となる。空いた皿を下げて、新しい皿を出すタイミングを計る。
森野が、この週末の営業で若いウェイター達に求めているのは、より広い視野で店内を観察する能力を身に付けることだ。ウェイターに必要なのは、サービス精神ではない。相手が必要としていることを推察する能力であると思っている。サービスの押し付けではいけないし、過剰でもいけない。そんなことを分っているはずの森野が、老夫婦に対しては冷静でなくなっていた。
「結婚記念日ですか?」
森野は両手を体の前で軽く重ねて、「慎み深い」という言葉を体言するような得意の表情を見せながら質問した。なんとしてでも、この二人に満足してもらいたいという焦りもあったが、それよりも二人に対して興味があった。仕事柄、人を見る目は養っているつもりだが、この老夫婦は「ラ・リベルテ」を訪れるようなタイプではなかった。年齢も、態度も、服装も、この店にはもっともなじまない。それが、森野にとっては珍しかったのかもしれない。
「ここからの夜景はきれいなんでしょうねぇ」
夫人は、森野の言葉には答えず、遠くを見た。
5時になったばかりの外の景色は、一向に闇に向かう気配はない。黄色い夕日が店内に充満したままで、この店の自慢の夜景はまだ窓の外に描かれずにいた。
「もう少し暗くなりますと、ネオンが鮮やかに浮かんできます。夜景も綺麗ですが、私はこれから日が落ちるまでの景色の方が気に入っています。空の色が黄色からオレンジに変わって、赤みがかったかと思うと、紫色に変わって・・・、空気が澄んでいると、あの先に富士山が見えることもあるんです」
「そうですか」
老夫婦は、初めて森野の言葉に関心を示した様子で、森野が指し示した方向に目をやった。
「当店では、土日はビュッフェになっておりまして、あちらのテーブルから好きな料理をお取りになって、召し上がりください。何かお困りのことがあれば、私に何なりとお申し付けいただければ・・・。森野と申します」
「森野さんですね。ご親切に」
老紳士の方は相変わらず黙ったまま、料理にも興味がないようで、窓の外を見つめたままでいる。夫人の方も、ビュッフェテーブルには見向きもせずに、申し訳程度に森野に愛想笑いで会釈して見せると、自分の抱えているものに視線を移した。老紳士が持っていた花束は、テーブルの上に置かれていたが、夫人は席についてからも、大事そうにピンクのブランケットを、まるで生き物のように抱いていた。
「お言葉に甘えて・・・・」
夫人は、ブランケットの包みに視線を落としたままで言った。
「何でしょうか」
「ケーキありますか? ・・・イチゴの載った、丸いケーキ」
「ショートケーキでしたら、デザートのコーナーにあります。ただ、切り分けてありますので、丸くはないのですが。誕生日ケーキみたいなものをご希望ですか?」
「小さくていいんです。丸いケーキ。用意できませんかね」
頼りなさげに話す夫人は、苦労を重ねてきた人生なのだろうか。亭主の方は一言も話さない。頑固には見えないが、人を敬遠しているように感じる。
「分りました。厨房へ確認してまいりますので、お先に飲み物と料理をお楽しみください。ワインか何かお持ちしますか?」
夫人が不安気に老紳士を見やると、それに応えて彼は小さく頷いた。長年連れ添って、会話しなくてもわかるのだろう。
「じゃあ、おビールと・・・ジュースを」
「かしこまりました」
夫人の注文を聞いて、森野はテーブルを離れた。
今月になって二週目の日曜、七割ほどの予約だった。
十人で予約されている若いグループ客は、比較的料理テーブルに近い、五番から七番テーブルをつなげてセッティングしてある。女性グループや若い人達は、落ち着いて座れる席よりも、料理に近い方を喜ぶのだ。
逆に、家族連れやカップルなどの小人数は、料理から多少離れても、静かな落ち着ける席を用意するというのが森野流の席決めである。
結婚記念日のカップルが二組。結婚三年目と二十年目。今年で結婚二十年目の夫婦は、その息子さん達からのプレゼントで予約されていた。
おばあちゃんの誕生祝いだという家族グループの予約も入っている。大人五人と小学生三人に未就学児童が一人。
5時を回った店内は、若い女性グループでにぎやかになりはじめていた。森野は、十番から十九番テーブルを担当しているウェイターを呼び寄せると、十二番テーブルは自分が担当することを告げ、厨房に向かった。
祝い事や誕生日で訪れるお客様には、ささやかなプレゼントとして小さなケーキを用意している。ビュッフェテーブルに並ぶケーキと同じ材料で作っているが、グループで楽しんでキャンドルを立てられるようにと、通常よりも小さい直径八センチほどのホールで焼かれている。森野は、そのお祝い用ケーキの追加をパティシエに告げた。
店によっては、厨房とフロア、デザートと料理スタッフの連携がうまく行かないところもあるらしいが、「ラ・リベルテ」では誰もがライバルであり、誰もが仲間だという意識が強く、そういったトラブルはほとんどないに等しい。ライバルといっても、その戦いの基準はあくまでも、いかにお客様を満足させられるかだ。急な注文やお客様の要望に応える上では、スタッフ全員が同志である。
この店始まって以来、初の女性パティシエである工藤は、森野の依頼を聞くと無言で厨房を出て行き、店内の様子を眺めにいった。十二番テーブルで、隣同士に座る老夫婦の姿を見据えながら、それがいつものクセで首をグルグルと回す。女性パティシエといっても、工藤は店の誰よりも、立ち居振舞いが男っぽかった。
他のスタッフよりも小柄で華奢なおかげで、さすがに男と間違われることはなかったが、そういった振る舞いが定着しているせいで、厨房でもフロアでも、妙な女性扱いをされずにいる。森野は、工藤が意図的にそれを望んで、男のような態度をとっていると認識していた。
「シンプルなショートケーキがいいんですよね」
戻ってきた工藤は、質問なのか独り言なのかわからない無感情な声で言った。
「イチゴが載った、丸いケーキをご希望でね」
老夫人が口にした言葉通りに森野は伝える。そこに自分の考えるイメージもなければ、補足もしない。
「少し懐かしい味を目指してみますか」
工藤は、誰に言うでもなく呟くと、握りこぶしで自分の左手をたたきながら厨房の奥へ引っ込んでいった。
森野が入り口の受け付けに戻ると、すでに予約客の半数は入店していた。日曜日はたいてい5時から6時ですべての予約客が来店する。楽しい休日を過ごしてきて、翌日は仕事なのでみんな夕食は早い時間に済ませるようだ。日曜日は、午後8時以降からの予約が入ることは滅多にない。
ビュッフェテーブルには多くのお客が集まり、チーフウェイターが忙しく料理を補充している。料理の一番人気はシェフが取り分けるローストビーフと、ローストチキンである。若手のシェフが自慢気に切り分ける。子供達の嬉しそうな声が店内に響き、幸せが包み込むようだ。
ふと森野が十二番テーブルに目をやると、老夫婦は相変わらず二人で並んで座ったままで、さきほど若いウェイターが持っていった飲み物も手付かずでいる。二人並んだまま、窓の外を惚けたように見つめていた。
夫人は相変わらずピンクの塊を両腕で大事そうに抱えて、それを優しくゆすりながら、あやしている。そう、森野には夫人が何かをあやしているように見えた。それは単なる荷物ではなく、生き物を抱えているようだった。ペットか何か、連れ込んでいるのだろうかという思いが、森野の頭をかすめた。どちらにしろ、料理を取りにいこうとしない二人が気になって仕方なく、二人について色々推測し始めていた。寂しい老夫婦がペットをつれてその誕生日祝いに訪れた違いないと思い始めていた。店に動物を入れることは、例えお客であろうとお断りしなくてはならない。だいたいが、来店のときから様子がおかしかった。いくら行きなれないフランス料理の店だからといって、あれほど緊張した様子を見せるのは普通ではない。
「お料理、お持ちいたしましょうか?」
本当は、「その大事そうに抱いているものの中身は何ですか?」と、聞いてしまいたい衝動を抑えながら、森野は二人に声をかけた。ビュッフェはセルフサービスが基本だが、状況によってはウェイターが料理を運ぶのを手伝っている。しばらく間近で二人を観察するチャンスを狙おうと、森野は考えていた。
「好き嫌いはございませんか? よろしければ、私が持ってまいりますので、ご要望はございませんか?」
「あの・・・グラスを」
夫人の言葉で、森野は反射的に、ジュースが注がれたグラスを持ち上げて、明かりに透かした。
「汚れていましたでしょうか? 失礼しました、すぐに取り替えます」
しかし、夫人はとても言いづらそうに口篭もり、
「いえ、・・・あの、グラスをあと三ついただけないでしょうか」
と、小さな声で続けた。
「三つ・・・ですか?」
森野が不審そうに老夫人の顔を見つめると、彼女は自分の注文に自信をなくして目を伏せた。
「わかりました。すぐにお持ちします」
森野はひときわ自然に明るく言うと、同じグラスを三つ手に戻ってきた。何に使うのか疑問はあったが、それが邪推であることは分っている。
「ケーキは、食後にお持ちいたしますね」
そういって、ごく自然にグラスをテーブルに置くと、夫人はそれまでの緊張が解けたのか、柔らかく微笑んでグラスを自分の方へ引き寄せ、二つのグラスにビール、一つにはジュースを注ぎ始めた。その間も、彼女はピンクの塊を抱えたままだった。
森野はその様子を黙ってみつめながら、視線を夫人の抱いているものの観察に向け、びくりとたじろいだ。
ちょうど赤ん坊ほどの大きさのそれは、すっぽりとピンクの布で覆われているように見えていたが、いまは赤ん坊の顔がのぞいている。生まれたばかりなのか、目も開かないほどの小さな顔だ。
夫人が抱いていたのは、人間の赤ん坊だった。孫なのだろうか、そんな疑問が森野に浮かんだ。息子夫婦のデートの間、赤ん坊の面倒を見ているとでもいうのだろうか。
しかし、そんな思いもすぐに消えた。森野が赤ん坊だと思ったのは一瞬で、すぐにそれが人形であると気づいた。
若い母親が赤ん坊の扱いを勉強するときに使うような、よくできたゴム製の人形だった。森野は一瞬言葉を失い、目は宙を泳いだ。
一言も喋らなかった老紳士が、夫人の抱えている赤ん坊の人形に声をかけ二人で笑いあっている。老夫婦は、窓の外を眺めながら、時折、赤ん坊の人形に話し掛けていた。
「お料理をお持ちいたしますね」
ようやくそれだけ言うと、森野はテーブルを離れた。
二人暮らしの悲しいなれの果てかもしれない、そんな思いが森野の頭をよぎっていた。赤ん坊そっくりの人形を手にした老女と、花束を手にしたその主人。他に家族はいないのだろうか。仲良く二人並んで座る席を遠目から振り返り、森野は複雑な心境に陥った。
「今日で一歳になるんですよ」
料理を運んでいった森野に夫人は言った。その目は、腕の中で眠る人形に注がれたままだ。老紳士は窓の外を見つめていて、夫人も顔を上げると窓の外を見つめてから「ね?」と老紳士を振り返った。そのとき、森野は自分が大きな勘違いをしていたことに気づいた。
二人は窓の外を見つめていたのではない。向かいの空いた席を見つめていたのだ。ビールの入ったグラスが二つ、それぞれの席に置かれていた。そう、そこにまるで誰かがいるようだった。森野の背中に冷たいものが走る。
「嫌ね、ごめんなさいね。私たち、今日はここにお祝いに来たの。孫が今日で、一歳になるのよ。今日はお祝いの日。今日だけは楽しく過ごしましょうって、主人と約束してね・・・」
「そうですか」
「どう見える?」
「はい?」
「私たち、どう見えます?」
「お幸せそうなご夫婦でいらっしゃいますね」
「幸せそうにみえますか? あなた、よかったわね。私たち幸せそうなおじいちゃんとおばあちゃんに見えるって」
老紳士は、無言で、その瞳には涙が浮かんでいた。森野は一礼すると、その場を離れた。
人には誰しも触れられたくない傷がある。彼らには家族がいて、一歳になる孫もいる。生きているのか、死んでいるのかわからないが、なにか事情があって会うことができないのだ。会いたくても会うことのできない家族と過ごす記念日。
森野は、温かい明かりに包まれたにぎやかな店内と、その中に照らし出された老夫婦の席を見比べて、いいようもない感傷的な気分に襲われた。
老夫婦はそれからしばらく、静かに十二番テーブルで無言の会話を交わしていた。
森野は、その空間を邪魔しないようにと、それでも精一杯の演出のために焼きたてのケーキに花火を一本立てて運び、お祝いの言葉を添えた。
二人はなんだか幸せそうに微笑みあい、手に抱いた赤ん坊と、向かいの席の息子夫婦と喜びを分かち合っていた。森野の願望かもしれないが、彼にはそんな風景が見えるような気がした。
「来年もまた来ます」という言葉を残して、老夫婦は店を出て行った。二人の仲良く立ち去る後姿を見送りながら、森野は「また来年、お待ちしております」と小さく呟いて深く頭を下げて見送った。
終わり
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