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寝かさないで、と言ったところで別に艶っぽいハナシでもなんでもない(笑) 喉から手が出るほど欲しいマスクは全然入って来ずとも、スパーク商品は予定通りバカスカ入ってくる。一時期の停滞はありゃ一体なんだったのか?とゆーよーな勢いである。なので、こっちものんびりと事を構えていちゃあ、すぐに渋滞しちゃうのは目に見えてるから、ノーマルモードからギアを入れ替えてちゃっちゃか消化しないとアカンとゆーわけ。スパーク1/43 BMW M1 Gr.5 ”1983年シャー・アラム 優勝” ブラック&ゴールドのJPSカラーってゆーと、ロータスとのコラボがあまりに強烈だから思わず「ロータス・エスプリ」と書いちゃいそうだが(リアル店舗では間違ってそう言っちゃったよ)BMWのM1である。ビーエムといっても、デザインはジウジアーロ、設計はダラーラ、生産はランボルギーニと限りなくイタリアンである。 もともとポルシェの独壇場だったグループ4/5レースに打って出るため、すでに様々なノウハウを持ってる会社と組んで、開発期間を短縮化、チャチャっとグループ4のホモロゲ(連続する24カ月で400台の生産)を取得するためのプロジェクトだったけど、組んだ相手がむらっ家たっぷりのイタリアンだったことが災いして、肝心かなめの生産が遅れに遅れて、24カ月で400台どころか1ヶ月でたった3台(笑) これじゃいつまでたっても打倒ポルシェどころかレースすら出来ないじゃ~ん、とゆーことで生産スピードを上げるため、ランボルギーニを切り捨てドイツ国内に製造ラインを移動。ホモロゲが獲れない間は、「プロカー・レース」とゆーワンメイクレースを立ち上げて、F1のサポートレースにしてM1のプロモートにあてた(それなりの盛り上がり) 様々な努力で、ようやく1980年末にホモロゲを取得し晴れて翌年からグループ4参戦が認められたが、もうその頃には状況が変わって82年からはグループアルファベット制への移行が決まっていて、活躍の時間はほとんど残されていなかったとゆードイツらしからぬお粗末。 で、今回の商品。スパークの商品名上は「1983年シャー・アラム優勝」だけで、なんのこっちゃかわからん。だからひたすらネットを掘る。まず「シャー・アラム(・サーキット)」は00年代初頭までマレーシアのセランゴール州の州都シャー・アラムに存在したサーキットで、最初フォーミュラで使われ最後はバイクレースに使われた。別名バトゥ・ティガ・スピードウェイ・サーキット(BTSC)閉鎖後は跡形もなく取り壊されて今は高級住宅地に変容した。つまり1983年にシャーアラムで開催された「何かのレース」でこのM1は優勝したわけね。 じゃ何のレース?ってことだが、これがまあ掘ってもなかなか浮き上がってこない。あれこれ探して(地元の新聞とか出てきたよ)、結果スパークの別注品を多く出してるドイツのレースランドのウェブサイトで決定稿を見っけた。曰く、 70年代から80年代、本場ヨーロッパのシーズンが終わると、レーシングドライバーは「お小遣い稼ぎ」のために例えば、まだやっていて多額の賞金が見込めるCan-Amシリーズにスポット参戦したりした。Can-Amが下火になるとマカオのギアレースがその役割を果たすわけになるんだが、更にお小遣いを稼ぐには、移動の途中にトランジットする街でやってるローカルレースにちょいと出れば、暇つぶしにもなるしカネにもなって一挙両得一石二鳥。なにせ相手にするのは地元のあんちゃんだし、チョロいもんだってな具合。そうしてハンス=ヨアヒム・シュトゥックが参戦したのが、1983年シャー・アラムで開催されたセランゴールGP(もしくはペナンGPとの説もあり)の前座の「スーパーサルーンレース」で地元のあんちゃん相手に大人げなく優勝した、と。ちなみにセランゴールGPのメインレースが何だったのかは知らん(国内フォーミュラか?) 当時の写真(この写真のキャプションには「グループ4車両」だって添えてあった)いかに急ごしらえで参戦したのかよくわかるわ。シュトゥックのレーシングスーツ、赤帯で誤魔化しちゃあいるけど、どーみてもマルボロだよなあ!(実際、この年のギアレースはマルボロカラーの635CSiに乗って優勝)SNS全盛の現代だったら「シュトゥック見ちゃった!」とかカメラ小僧がSNSにアップした途端にマルボロのお偉いさんの知るところになって「契約違反だ、ざけんなテメエ」と降板させられるだろ。まあ、何とものどかな時代よ。 「我らの時代」のタバコ四天王をエフワンじゃないもので集めてみるのも一興(笑)新型コロナのことも含め煙草は百害あって一利なしだが、ノスタルジーは大いに掻き立てられる。そいえば、中高時代、降って湧いたよーにマルボロやJPS、ラークのグッズ(ゴミ箱とかエプロンとかショッピングバックとか)が流行ったんだけど(学校の購買で平気で売ってたけど、今ならアウトだろ)あれは一体どーゆームーブメントだったんだ?
2020.04.28
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日本のミニカーといえば「トミカ」っちゅーのがミニカーに詳しくない世間一般の答えなんだろうが、これがコレクター筋だと好き嫌いに関わらず「エブロ」ってのが大半を占めるだろう。そのエブロ、レース模型ファンにとって衝撃のエポックだった名作641/2の生みの親でクロヒス(大日本印刷)にも顔出ししてたタミヤの設計技師が「ここ(タミヤ)じゃ、やりたいことも出来やしねえ」と興した会社だ。心血注いだ(幻の)1/12スケールポルシェ956がお蔵入りして、泣く泣く1/24スケール用に線を減らす(パーツ数を減らす)仕事をやらされた不満なんかが澱のように積もり積もったんだろーと勝手に憶測してるんだが、エブロで後年ポルシェ956を出したとき、エブロにしてはまったく珍しいエンジン再現で出してきたところから見てもかなりの執念が伺えるんで、さほど外れてねーんじゃね?と確信してる。 ま、そこら辺のハナシはともかくも、やりたいもんをやるんだよって創設理念は、隣りの芝生を眺めているときの憧れで、いざ経営者となればやりたいもんだけでメシが喰えるほど甘くはないわけで、これがやりたいもんかよ?的なアイテムも多々ある。エブロ(スパーク)1/43 ポルシェ917K “富士GCマスターズ250km”#05 生沢徹 突如シリーズ展開が発表された「テツ・イクサワコレクション」の第一弾、1971年の富士グランチャンシリーズ最終戦マスターズ250kmに生沢徹が引っ張ってきたポルシェ917Kで、予選3位からウェットレースをうまく走って2位表彰台(ちなみに、勝ったのはこれがGC初優勝の風戸裕だ)のマシンを、何の前触れもなく唐突に、別に生沢○○周年とかなんの絡みもなくシリーズ展開、しかも自社開発じゃなくてスパークのOEM生産委託っつーんじゃ、ホントどこまでコレをやりたかったんかよーわからんね。ただ、ドイツのポルシェがレース業界的にも一般社会的にも今よりホントに手中に出来ない遠い時代に、日本のスポンサーステッカー満載のポルシェっつーのはなかなかレアだっつーんで、イクサワコレクションの由来云々はどーでもいーとして、やっぱ買っちゃうんだよねぇ(^^ゞ
2011.09.10
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クルマにロマンスもへったくれもあったもんじゃあないが、浪漫は確かにそこにある。今を去ること四半世紀も前、熱狂の嵐を巻き起こした3台のクルマに3人のドライバー。3人のうちの2人は日産レーシングチームの監督となり、2人の息子たちは父親のDNAを継ぎレーシングドライバーに。その2人は今年、同じチームに所属し、父と覇を競った監督のもとサーキットを疾走する。これを浪漫とせずになんとするか。。。なんてな。エブロ1/43 ブルーバードターボ スーパーシルエットGr.5#20 柳田春人 1983年富士スーパーシルエットシリーズチャンピオンのブルーバードターボ。パイプフレームにアルミ板リベット留めのシャシーにエンジンはフロントミッドシップマウント。2リッター直4DOHCターボは570psを発生するも、中低速トルクが圧倒的に不足した所謂ドッカンターボで、これが1トンそこそこのボディを動かす典型的なじゃじゃ馬(笑)もちろん風洞なんざ姿かたちどころかそんな概念すらない時代ゆえ、ヤンキー丸出しの出っ歯フロントエアダムも申し訳程度のリアウィングも、正直どこまで効果があったものやら。。。そんなダザボロマシンだが、行きつけのショップで当時このマシンの面倒をみてた方が持参した富士パドック裏でのこのマシンの写真の数々を眺めてたら、無性に手にしたくなって速攻予約していたわけよ。(82年の赤コカコーラが出るんだったら、そっちのほうが良かったかなぁ)この衝動は、なんなのかねぇ(^^ゞスーパーシルエット日産ターボ軍団勢揃いの図(年は違うけど)星野シルビア(KS110)柳田ブルーバード(KY910)長谷見スカイライン(KDR30)
2010.10.08
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暫らくぶりの更新は、別にネタ切れっつーことではなくて、逆にネタは山のように残ってんだが単に時間的なもんで、PC開いてるヒマもねー。つっても仕事が立て込んでるなんて、アホ臭いもんじゃなくてな。アフター5(死語かね?)がね、ちっと。 ことの始まりは、アイドロンのフェラーリ330P4。焦がれ待ちに待った330P4商品化(過去、ブルムの名作があったにせよ、今じゃ絶滅状態)ゆえ問答無用に飛びついたわけだが、さすがに一台ン万円は財布に辛く、なんかで補てんせなアカン。補てんといやぁ補てん、補充、補完。。。補完といやあ言わずと知れた「人類補完計画」笑んじゃあ、久々にエヴァスロットでもやってみっか!ってことになって。 極初期機種である「(無印)エヴァ」とは目一杯相性が悪くて、それ以降の「まごころを君に」も「約束の時」もまったく敬遠してたんだが、NHKのMJアニソン特集で久々に「天使のテーゼ」を聞いたこともあって、ま、どんなもんかいなってなライト感覚で手を出してみたわけだが。。。これがまあ、私的に大ヒット。面白い。もちろん、あれこれ演出を楽しむためには、それなりに時間と金がいるはずなんだが、たまたま天井付近で投げ捨てられてた台があって、お、ラッキーじゃん!と早速飛びついたらねらい通りに即座に覚醒モードに移行して大当たり。以降、アスカ、レイ、シンジそれぞれの通常アタリ、更にミサトの鉄板予告アタリ、対ラミレス戦4号機バージョンを始めとする各種カヲル演出をほぼ経験。エヴァやパチスロ知らん輩にはなんのこっちゃかまったく判らんだろうハナシだが、要は、そんだけ演出見れるだけ大勝したってわけで、すっかりこの「魂の軌跡」にハマリこんで連日閉店まで打って連戦連勝。ホント、最小の資金投入で大勝すんだよ、私的には(^^)とっくのとうに、330P4代なんて回収して、今やもう2台ほど買えるだけ儲かってる。そりゃアンタ、時給5000円のバイトと思や、行かないわけないっしょ?もうとっくのとうに当初の目的である330P4代なんて回収し終わって、今やアイドロンをあと2台買えるくらい儲けてるわけだ。そんだもんで、かなり集中して打ってるんで、終わって帰るとさすがにどっと疲れてさぁ、PCどころの騒ぎじゃないのよm(__)m けど、さすがに休日の朝から開店前に並んでまでもやるほどジャンキーにはなってないんで久々の更新とあいなったわけなんだわ。 再生産からかなり時が経ってるが、それゆえに大幅に値崩れて、まさかの1980円叩き売り。エブロ1/43 日産シルビアターボ スーパーシルエット#23 星野一義 現役最盛期をブルーカラーの強烈なイメージで焼きつけた星野一義とカルソニックを結びつけた多分極初期の一台。富士グランチャンシリーズと併催されたグループ5車輌の「スーパーシルエット」シリーズ。その名前のとおり「スーパー」な「シルエット」は、量産KS110シルビアの意匠をキャビン部に残すのみの超改造車(笑)豪快に張り出されたフェンダーと空力的に役立ってるのか甚だ疑問なリアウィングのド迫力ボディが減速のたびにエキゾーストからバホバホとバックファイアを吐き出して走る様は、今の時代のレースカーとは確実に一線を画す別物。 そして、今何故スーパーシルエット?と問われれば。懇意にしてもらってるショップは、業界的にかなり力があって様々な人脈もありの店舗なんだがこないだ行った時、この時代に実際ワークスのメカをやってた人が訪ねてきてるのにカチ合った。曰く「当時、プロのカメラマンに撮ってもらったネガが出てきたから焼いて持ってきた」何枚かのスチールには、富士のバックヤードで出番を待ってるスーパーシルエット車輌や整備するメカが写ってて、中でも日産ワークス車揃い踏みの絵柄には強く感じるものがあって、あとでテンチョとスカイラインとシルビアは出てるけどブルは、まず無理だろねーなんて話してた。したらなんと出るじゃああ~りませんかブルーバードが!こりゃあ、買うしかないよねえブルもシルビアもってなわけでネットで漁ったら、ちょうど中古で売りに出てた、とゆー次第。 エブロにしては珍しく内装に力が入ってるこのシルビアはシルエットもかなり再現性が高く、どーして現スーパーGT車輌はこう出来ないのよ(特にNSX)と思うくらい出来がいーんだが唯一、ボディサイドのニチラカーエアコンの「カ」の字が欠けてる。いろんなショップやミニカーサイトの画像を眺めてみてもこれがデフォルトのはずもなくガンダムマーカーでチョイチョイっとリタッチしてみたが、どーだろか。
2010.08.08
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あまり倒産、倒産と言いたかないんだが。景気のいいハナシじゃないしな。ミスタークラフト(老舗ミニカーショップ)、トラスト(自動車パーツメーカ)に続いて、今度はアリタリア航空だそうだよ。。。いや、こっちのほうがトラストなんかより先だったみたい。アリタリアといえば、なんてったってストラトス!空ものにはまったく興味がないんで本家旅客機についてはオールスルーじゃ(笑)また、アリタリアカラーは131アバルトやベータモンテカルロもあるけどどー考えたって一番メジャーはストラトスでしょーよ。そのストラトスの決定版はhpiに間違いはないと思うんだけど、京商からおそろしくひねくれた変化球が出た。京商1/43 ランチアストラトスターボ#539 星野一義ランチアの親会社フィアットの方針で、ラリー選手権は自分とこの131をベースにした131アバルトで戦うことを決め、結果ストラトスはあれほどの実績がありながら石持て追われるが如くラリーフィールドから弾きだされちゃって、新天地としてサーキットレースを選ぶ。ほぼスクエアだったオリジナルストラトスに前後オバフェン、フロントウィング、リアウィングを取っ付けた姿はまさにシルエット・フォーミュラ。ル・マンを始め、グループ5レースなどあちこちに顔を出すが、マシンデビューの1976年の白眉はイタリア国内を走りまわるジーロ・デ・イタリアでの優勝。ジーロ・デ・イタリアはトリノをスタートしてローマまで南下、折り返してトリノゴールのイタリア縦断レース。途中途中のサーキットでレースをし、サーキット間の移動でもタイムを競うというとんでもレース(笑)そのジーロ・デ・イタリア優勝車がアリタリアカラーの539号車。ドライバーはストラトス使いのサンドロ・ムナーリ。ここまでが前段。どういう経緯か知らんが、このムナーリの優勝車輛539号車が、翌’77年に日本にやってくることに。8月7日のF2000「富士フォーミュラチャンピオンレース」の前座イベントに登場して、星野一義のドライブによって富士スピードウェイを疾走。まんま借り物レースなので、ボディのドライバー表記もデフォのムナーリのまま(笑)違いは、フロントウィンドウとリアフェンダーに貼られたVICIC(ビクトリーサーキットクラブ)のステッカーくらい。以前に京商からは、オリジナルの#539(ジーロ優勝車)が発売されてたからまるっきり史実と同じような経緯で現われたわけだね。このマシンの肝、アリタリアカラーは印刷でうまく再現されてていい感じなんだけどマシンのフォルム自体はどーなんだろか?ストラトスとしてはサイドウィンドウの高さが足りないような気がするけど、相手はなんでもありのグループ5だ。市販車を部分的にいじくったとはとうてい思えへんから、この若干上下に潰れたようなシルエットで正しいのかもしれない(実車や写真を見た事ないんで。。。)まあ、これはこれでかっちょいーんで、良しとするか。外ケースには当時の星野の写真とサイン(印刷)つきでちょっとお得感あり、だけど星野本人はこんなマシン運転したってことを、はたして憶えてるかねえ(笑)
2008.09.18
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