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Jul 13, 2008
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #84(舞台)

烏丸ストロークロック

7月5日 アトリエ劇研 マチネ


ニュータウン、殺人の根拠をめぐって


都市部に集中的に流入する人々による生産と消費の反復活動が支柱となって、右肩上がりの経済成長が推し進められた。彼らを日々激しい経済戦争へと駆り立てる、一時の安息の地として、またその活動により倍々ゲームのように増える人口を狭い土地に効率的に捌くため、ニュータウンは存在する。そこでは同じ形態のマンション、一戸建て住宅を等間隔で無機的に並べた光景が見られる。もちろん、パパが日曜日、子供とキャッチボールを楽しむ公園を街の中心部に作ることも怠らない。肝要なのは、あくまでも資本の論理に則った効率性の追求の下、恒久的に労働者を派遣し、両親と子供一人の核家族生活を満たす消費を促進させる限りの快適な住環境を提供することであった。だが現在行き詰まりを見せる資本主義に連動して、ニュータウンは都市型の暗部を抱え込む場所であると、数々の社会事件が示してきた。喧騒著しい都市部と、そこへの人材供給地である郊外の閑静・平穏さは従って対をなす。その静けさは、透視図法で描かれた絵画のように、どこまでも続くかのようでいながら、のっぺりと平面的な佇まいをイメージさせることで、ニュータウンの孕む不気味さへと変換されるのだ。


烏丸ストロークロックが、短い試作会を断続的に上演しながら数年をかけて取り組む『漂白の家』シリーズ第2話「六川の兄妹」。子供を事故で亡くし、妻とも別れた岡田ケンの孤独と闇を、南島の秘境、白波荘で営む他者との擬似家族体験で取り戻そうとする過程を描いたのが第1話。第2話は、そのケンの生まれ故郷の六川ニュータウンで発見された白骨遺体の一部が発端となる。失踪中のケンによる犯行であることが、街の住人達の証言によって次第に明らかにされてゆく。興信所の一団に見立てられた観客に対し、時に劇中劇を取り混ぜながら語られる。


この舞台に関して、アフタートークゲストの下鴨車窓主宰・田辺剛による「街を作る」「街全体の犯罪」という発言がその特性を掴んだものとしてあるだろう。そもそも、集合住宅地の群生であるニュータウンこそ人工物の代名詞である。因習と伝統の引き継ぎが共同体を維持するキー概念として存在する村社会に対し、ニュータウンにはそういった意味のものはない。あらゆる場所から流入し、集合名詞と化した遊行者を受け入れる無機的で人工的な場所なのだから。会社や学校へ人材を供給する基地である限りの効率性が追求される土地には、別段住む根拠、すなわち歴史性の欠如などは問題にならないのだ。


さて、ここで召喚しておきたいのは、宮沢章夫が昨年上演した『ニュータウン入り口』である。この舞台には、ゴッドハンドを持つ考古学者が登場する。石器や土器を埋め、発掘するという自作自演行為を繰り返して歴史的大発見を「捏造」した実際にあった事件がモデルであろう(事実、学校の歴史教科書までが後に修正されたのであるから大変な詐欺事件であった)。村社会に存在する共同体は、特有の因習・習慣と不可分の関係を成す。それらを醸成するものは、過去から流れまたこの先も続くと予想される時間軸が横へ進んでいるからだ。しかし、歴史性の欠如を前提としたニュータウンにあっては、横軸に流れる時間には伴っていた非効率的な要素などは排除され、即物的に土地生活に役立つもの、綺麗なものだけで表層が飾り立てられる。それはあたかも考古学者が行ったように、直截に土地へ手を下すという、即物的なまさに「捏造」によってしか何事かを創出できない。ニュータウンの、のっぺりとした平面が齎す不気味さとは、縦軸にしか作用しないことによる非-歴史性が作る無重力空間にも似た浮遊感のことなのだ。そうであるが故に、因習と習慣の支配が引き起こす村社会の居心地さとは異なった問題も発生するのだろう。何もない自然な土地には流れていた時間と歴史をあえて分断して作られた場所がニュータウンならば、そには効率性と引き換えに喪失してしまうものがある。それを取り戻す作業、即物的にでも根拠を与え、流れる時間軸を創出せねばならない逼迫した心情はどのようにして掬い取られるか。住民を留め置くための喪失の埋め合わせが、得てしてさらに立派な公園や文化施設の建設による「捏造」ならば、ニュータウンの人工性が強化されるばかりである。効率を追い求め、対処療法的な「捏造」が排除する混濁した歴史性、それを不合理なものと言ってもいいだろう。この無駄で不合理なものこそ、ニュータウンから喪失した歴史の醸成に必要なものとして確かに想定されてくる。


宮沢が提起した「ニュータウン=街ーノイズ=『不合理の排除』」という図式は、無駄な物を排除し、都市への物資・人材供給地としての外観の機能美を示す。その結果、澱のように抑圧された不合理性を今度は自ら求めるという帰結を生むのだろう。ニュータウンが及ぼす身体の問題がここで浮上するのだ。


垂直軸のベクトルが生むニュータウンの暗部が、そこに生きる住民へ作用した結果が、『漂白の家』第2話で行われる殺人である。腹違いの妹が恒常的に父親から性的虐待の被害を受けている事実を知ったケンが、当の父親を絞殺する。そのシーンが住民によって演じら、発見された白骨とケンがやはり関連があったことが示される。台風が襲来し、暴風雨に見舞われる中、遺棄に向かう場面がある。ここには実際、殺人に手を貸していない人物も含まれる。決して街ぐるみの犯罪ではない。首謀者はケンと、その場に居合わせた妹と花屋の娘の3人のはずである。だが、風雨の激しい中、ケン達3人を守るかのように懐中電灯で道を照らす者を先頭にして、傘を指す者等が取り囲んでゆっくりと歩く集団性が重要なのは、人工的に作られたニュータウンから排除された暗部=ノイズのようなものが押し留め切れず流れ出し、街と住人に巣食った結果起きた無意識的な無名性の共犯であるように思われたからである。それは、街と住人どちらが主導というものではなく、澱のようなものが双方を往還することで沸々と醸成されてくる全体的な意志と言える。無意識の発露だからこそ、この場面には一等の価値があるのだ。清潔すぎる中では人は居心地が悪くなる。人間ほど不合理なものはない。だからノイズを人知れず求めてしまう。ノイズによって何かを構築しようとするメンタリティーが殺人を生み出し、その結果(遺体)を埋めることで地盤は固められる。こうしてようやくニュータウン内に、住民が共有する独自の秘密、歴史のようなものが非常に倒錯した在り方ではあるが生み出される。効率性だけでは得ることのできなかったものを、良し悪しを抜きにして、他ならぬ排除したノイズが再度連帯への糸口になったということだ。


田辺の「街を作る」発言は、人間関係が駆動させる物語の他に、ニュータウンという空間そのものが描出される過程に重きを置いたからであろう。すなわち、観客を興信所員に見立てた証言という方策が、街の情報をすんなり滑り込ませることを可能にしたのだ。もっとも私は、この言葉に同意するもののその内実は異なっている。私にとっては、効率性の旗印の下、「あらかじめ」人工的に設えられた街のっぺりと平面さを抱かせる不可思議な場所を、血肉の通った息吹を与えるため即物的に「再度」手を加えて作らねばならないというニュータウンの特性の意味である。演劇的手法の意味で「街が作られてゆく」と言えば、なるほど六川ニュータウンという岡田ケンを生んだ場所がどういうものかは分かる。だが、それは作品世界を補完し分厚くする以上のものではないだろう。だから、この舞台では街が作られたのではなく、単に街が語られたと言った方が正確である。なぜニュータウンを巡る普遍性を獲得するには至らなかったのか。詰まるところケンの人間像や家族像にあまりにも焦点が当てられ、ともすれば悲劇的な物語に終わってしまうきらいがあるからに他ならない。言い換えればドラマ性にあまりにも寄り掛かりすぎていたのだ。そもそも、ケンの人生を通して見えるものを描出するシリーズのコンセプトがあるために仕方がないとは言え、全うな動機を持ち合わせた殺人は、ケン個人の人生譚にあまりに凝集してしまい、ニュータウンの特性が後景に追いやられてしまう。そのことは先の場面の後、殺人の共犯性を、ケンの孤独を癒そうとする8の方舟なる新興宗教によるセミナーの一環として、住民が協力して遺体を埋めたのだ、という紛れもない事実として処理した所に端的に現れている。共同体を支配する大きな支柱へ収斂させることで、物語を付与することにはなるが、ニュータウンと人間との関係が描く現代相から一気に村社会的な物語へと舵が切られたことで、この稿でこれまで述べてきたような、殺人シーンがニュータウンの特性として機能せずに終わったということである。しかし設定をニュータウンでなければならなかった必要性はやはり抜きにすることはできないだろう。ある人物の育った家庭環境や生い立ちに焦点を合わせるのではなく、それら一切を生み出す都市と連動したニュータウンの性質を描く手法を模索されなければならなかったように思う。ニュータウンの平面さをそのまま語ることよりも立体化させようとする手つきこそが「街を作る」過程の提示ではないか。その点に関して言えば、第1話に見られた、シンメトリーに均整の取れた隙のない舞台美術が醸し出す空間演出のようなデッサン力はこの作品こそ必要だったと考える。


一個の人間の身体が背負ってしまった人生の軌跡から社会を見通そうとするより、その人間が受けなければならなかった受苦を空間と身体を絶えず往還する様から見たい私との齟齬が強調された舞台であった。





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Last updated  Apr 30, 2009 10:48:16 PM


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